いつか光がさすように 真田が怒鳴っていた。なにか言っているのはわかるのに、はっきりと聞き取ることができない。
「聞こえないよ!」
俺も負けじと声を張ったが、それも伝わったのかどうか。
夕立は勢いを増すばかりで、バラバラと大きな雨粒が容赦なくアスファルトに叩きつけ跳ね返る。会話をしようとするとどうしても叫ばなければならなかった。意思の疎通が成功しているとはとても言えないけど。
開けた海岸沿いの遊歩道に、雨宿りできそうな建物や葉の茂った樹木は見当たらず、ただひたすらにバシャバシャと水を蹴散らして駅へと走っていた。
道を渡れば目的地はすぐそこなのに、ちょうど赤に変わった信号に足止めされ、こんなときに限って車は絶え間なくやってくる。点字ブロックのくすんだ黄色をじっと見つめていたら、雨をかいくぐっていらいらとした舌打ちがちっ、と耳に飛び込んできた。そっと真田をうかがう。真田はそうすれば信号が赤から青へと変わると信じているみたいに睨みをきかせている。責められているような気がするのは実際すまないと思っているからだろうか。
二人きりで話がしたいから遠回りしないかい、なんて言い出したことを今は後悔していた。二年生に進級して体力がついてきたとは言え、立海テニス部の夏休みの練習はハードで、態度には出さないけど真田もくたくたなはずだった。なのに寄り道させて極めつけがこれなんて。
ようやく駅舎に転がり込んだときには半袖のワイシャツは絞れそうなほどびしょ濡れ、撥水素材のラケットバッグも心なしか重たくなっていた。帰ったらすぐ中の道具を拭かないと。
「ごめん」
スポーツタオルでがしがしと顔まわりの水を拭っていた真田が怪訝な顔をした。
「なんだ、なにか謝るような悪いことをしたのか?」
「俺が回り道しようなんて言わなきゃこんなことにならなかっただろ」
「お前は天気を左右できるのか? 違うだろう。どうしようもないことで謝るな。どの道雨には降られたはずだ」
雑な手つきで肩をぽんぽんと叩かれる。真田なりに元気づけようとしてくれているのだ。
「はあ、濡れた靴で走るのは二度とごめんだ」
「言えてる」
靴もそうだけど、スラックスがじっとりとまとわりつく感覚も嫌だ。
冷えてずきずきと痛む膝をさすってやりながら、俺は囁くように話を切り出した。
「……相談したかったんだ、お前に。本当、大したことじゃないんだけど」
「お前と俺の仲だ。なんでも話せ、聞いてやるから」
「うん」
時刻表より少しだけ遅れて電車がやって来たが俺たちは見送った。次も、その次のも。ひと気のないホームに立って、灰色の雲から降りしきる雨が海を荒立てるのを眺めながら、俺がぽつりぽつりと話し——成長痛でからだが痛いこと、誰にも言い出せないこと、今日のラリー練習でいつもなら返せる球を取り損ねて悔しくてたまらなかったこと——その間、真田は腕組みしてじっと聞いていた。
「ほら、お前は経験者だから、どうしてたのかなって」
真田は一年の終わり頃から今もずっと背が伸び続けている。でもそれだけじゃなくて、こんな悩みを打ち明けられる相手はこの幼馴染の他、思いつかなかった。
「俺は」
水平線から俺へと目を移し、真田はきっぱりと言った。
「気合いで乗り切った」
気合い。気合い、か……。うん。拍子抜けしてしまったけど、でも、まあ、真田ならそうだよな。まったく俺はどんな答えをもらえると期待していたんだか。
「だが痛いものは痛い。もうだいぶ落ち着いたが、夜中布団に入ってからみしみし軋むのはつらかった」
思い出したのか身震いしている真田が、克己心が強く見栄っ張りのこいつが、ここまで素直にさらけ出してくれている。不器用な寄り添い方が嬉しかった。
「わかるよ、それ。痛いのも嫌だけど眠っている間に勝手にからだの中身が組み変わるみたいでこわい。でも起きるとほとんど変わってなくてもやもやするんだよね」
ようやく真田が笑った。ただしにやりとした、からかうような意地の悪い表情だった。
「まあ待て。じきにわかるぞ、どう変わったか」
「おどかすなよ」
俺が眉を下げてみせると満足したのか真田がふっと真面目な顔をする。
「リーチが伸びるのはテニスをやる分には好都合だと耐えていたが、問題はそれに慣れるまでだ」
「そんなにひどいの?」
「ずいぶん苦労した。新しい間合いに慣れるまでしょっちゅう階段でつまずきそうになった」
うっかり転けそうになる真田弦一郎なんて想像できない。いつもしゃんと背を伸ばして油断のないきっとした目つきのこいつが。
「気は晴れたか」
「うん、ありがとう。話していたら楽になった」
「ならば濡れ鼠になった甲斐もあるというものだ」
「だからごめんって」
間もなく鎌倉行きの電車がやって来るというアナウンスが響く。反対方向へ帰る俺にはまだ少し余裕があるが、真田は黄色い線の方へぐっと踏み出した。お別れの時間だ。
「それにしても真田がつまずいてるところ、ちょっと見てみたかったな」
「ほう? 自分がそうなっても同じことが言えるか見ものだ」
「俺は大丈夫だよ」
電車がホームに乗り入れる音に負けないように俺は声を張った。
「転びそうになったら真田が引き止めてくれるってちゃんとわかってるから」
真田が鼻を鳴らす。不機嫌なときの癖だが、このときばかりはやれやれと言いたげなあたたかさがあった。
またねと真田に手を振ってから間もなく俺の電車もやってきた。
濡れた靴の中ではまだ靴下がぐずついていたし、関節の痛みも引かない。それでも、窓の向こうに見える景色、千切れた暗い雲の隙間から現れた太陽があたりを赤橙に染め、降り注いだ光のすじが波をきらめかせる様子を見ているうちに、この先どんな激しい嵐に見舞われようと俺が最後にたどり着く場所はきっと明るいと、そんな予感を抱くようになっていた。