秘密 中間テストの対策に少し不安が残っていたので、テスト前日、学校が終わるとそのまま真田の家へ寄って課題で理解できなかった箇所の説明をしてもらうことにした。
日頃から苦手な科目などないと豪語するだけあって真田はまんべんなく成績がよく、その中でも特に文系科目はクラスどころか学年上位なのである。何度か自慢げに突きつけられた成績表を見たことがあったが、生徒数の多いうちの学校においてこれは並の努力でとれる数字ではないなと感心したものだ。
家にあげてもらってすぐに挨拶をしたが、いつものような声が返ってこない。どうやら、と真田が靴入れの上から書き付けを見つけてひらりと取り上げる。
「左助くんの遠足のしたくのために港北まで出かけたらしい」
夕飯までには帰ってくる、とある。あと一時間ほどだろうか? もともと遅くまでお邪魔するつもりもなかったのでちょうどいい。
キッチンと続きのダイニングに通され、うながされるまま椅子にかける。真田邸は木造の立派な家で、庭には玉砂利が敷かれ定期的に刈り込まれた生垣と木の佇まいの美しい古き良き日本家屋だが、真田のお兄さんが結婚する前後に水回りを中心にリノベーションをしたらしく、和洋が渾然一体となったなんとも形容しがたい、「真田の家」としか言いようのない独特の空気が漂っていて俺は好きだった。
「うちだけでなく古い家はどこもそんなものだろう」
当の住人は取りすましてそんな風に言うけれど。
冷蔵庫のあたりで動き回っていた真田が、作業に満足がいったのか、戻ってきたときには両手に淡い蜜色の飲み物と氷の入ったグラスを持っていた。差し出された方を受け取る。
「ありがとう。これは?」
「今年の梅を母が漬けたシロップだ」
真田は俺の向いの椅子を引いて座るとこちらをじっと見つめる。その瞳がかすかにきらっとした。彼はよっぽどこれを気に入っているらしく、それで、俺と分かち合おうとしているといったところか。言葉に表さなくても根が素直なやつだから(それでなくとも十年来の付き合いなので)わかった。
底に溜まった濃いシロップがとろりとした質感で美しい。コップのふちに口をつけて喉に流し込むと、残暑の季節にありがたい涼やかな甘みが喉をすべっていった。
「うまいだろう!」
ついに我慢がきかなくなったのかやや身を乗り出すように聞いてきた真田に笑みを返す。
「うん。普段あまりジュースを飲まないけど、これなら何杯でもいけそうだ」
俺の答えに満足したのか真田は深い笑みを浮かべた。
「まだあるからおかわりが欲しくなったら遠慮せずに言え」
「本当? それは嬉しいな」
おばさん特製梅ジュースのおかげもあってか勉強は捗った。出題範囲の中でも特に苦手だった古典の文法について教えてもらいながらワークを解き直すと、自力で取り組んだ一周目よりもずっと理解が深まった。時間に余裕あったのでその後は真田の希望で、出題されると噂の数学の応用問題を二人で確認する。
区切りのいいところまでワークを進めたら解散しようという話になったところで真田が眉間にしわを寄せてこちらの顔を覗きこんでいることに気がついた。怒っているのかと思ったけれど、表情の細やかな部分から(たとえば眉尻の角度や気遣わしげな色をした黒目だとか)心配されているらしいとわかる。しかし心当たりもないので俺も困ったような顔をするしかない。
「すまん」
そう言うと真田がすっと手をこちらへ伸ばす。突然のことにびっくりして避ける間もなく、額にてのひらが押し当てられる。ひんやりしていた。存外に心地よくてら思わずもうしばらくそのままでいてくれとお願いしてしまいそうになる。
「幸村お前風邪でも引いているのか」
「それなら自分でわかるはずだよ、自分のからだのことだもん」
引き下がるべきか逡巡してから、それでも体温計を持ってくると真田は主張する。どうしてかただこれだけのことについむきになってしまい、俺は引き止めようと立ち上がり、瞬間、こめかみの両側からくらっとめまいが押し寄せた。それが契機になったのか、ふわふわと柔らかな布が幾層か隔てられたように全てのことがいつもより鈍く感じられた。病気の時に味わった、見知らぬ誰かによって急に肉体のスイッチを切られるようなガクンと力の抜ける感じとは違うのだが、その差異を他者に説明するのはひどく難しい。
「幸村? ……おい、大丈夫か」
「ごめん、どこかで横にならせてもらえないかな」
「っ、ああ! もちろんだ、そんなのいくらでも」
真田は布団を敷くと言って引かなかったがそんなのなくたって構わなかった。今は早く真田の部屋の畳に頬をくっつけてしまいたい。いぐさはしっとりと冷えて気持ち良いから。香りも素敵だし。
目を覚ますとすっかり部屋の中が暗くなっていた。うたた寝でもしてしまったのだろうか。
「すまん!」
寝起きに大声はなかなかくるものがある。音源は真田弦一郎だった。正座をして、こちらへ向かって頭を垂れている姿勢が詫びの意を表すことはさきの言葉とあわせてすぐにわかったのだが、なぜ真田が俺に謝罪しているのかがぴんとこない。
「とりあえず頭を上げて」
がばっと身を起こすと真田は暗闇の中でも鋭い色の瞳で真っ直ぐ俺を見、かと思うと一気にまくしたてた。
「俺が悪い。全ての責任は俺にある。幸村、制裁として殴ってくれ。何発でも気が済むまでぶて!」
「殴るとかどうとかっていうのはやめようって話になったじゃないか。それよりもまず、どういうことなのかちゃんと説明してくれよ」
真田は制服を着たままだった。俺が目覚めるまでずっとこうしてそばについていたのだろうか。
「……俺が」
奥歯をぎりぎりとすり減らすような音を立てて食いしばっていた真田はようやく恥いるような声音で切り出した。
「間違えてしまったのだ、梅のシロップと梅酒とを」
「梅酒」
立ちくらみの納得がいったので俺としてはほっとする以外にない。なるほどそういうことか。
「許されることではないが償いの機会をくれ」
たとえるならば物語でよく書かれる砂糖と塩を誤って料理に使う、というようなあまりにも古典的で仕方のないミスなので呆れはしても咎める気はなかった。しかし幼馴染は昔から言い出したらきかない性質だ。どんな罰をくれてやろうか。しばらく考え込む。
「じゃあ膝枕でもしてもらおうかな」
「膝より枕の方が寝心地はいいと思うが……」
戸惑っていた真田だが、俺が畳をぽんぽんと叩くと膝頭をつけたままさっとこちらへ寄ってきた。よくしつけられた犬みたいな従順で素早い仕草だった。
俺はもぞとぞとからだを動かしてベストポジションを探るが、男どうしで膝枕というのはかなり難しいというのがわかっただけだった。
「かたいね」
しかも高さもあるので首が痛い。真田が言ったことかと思っているのは明らかだったが、罪の意識からかよく回る口をしっかりと閉ざしているようだ。そのかわりに、指先が寝ているうちに乱れた俺の髪の毛を整えようと忙しなくいったききたりしている。時折爪の先が耳にかすめてくすぐったい。俺が思わずくく、と笑いをこぼすと、緊張を解いてよいと判断した真田の吐息が降った。
「兄が車を出すと言っていたから、お前のことはきちんと家まで送る」
「うん」
「俺もついていってご両親に直接謝る」
うん、とううん、の中間みたいな相槌を俺は打つ。黙っていたっていいのだ。俺とお前の間にあるいくつもの秘密に新たに何か加わるだけなのに。それでも、まあ、お前がそうやってけじめをつけたいというならそうすればいい。
「もうちょっとこうしていたいな」
真田が頷いた気配が伝わってきた。俺は目を閉じ、そうやって、髪を撫でる手と夜がひたひたと迫る気配を感じていた。