待ちわびた朝に 夜明け前の空気は冷たくて、頬にちくりと痛みが走る。誰もが眠りに更ける時間だ。しんと静かに音をなくした世界は、いきものの寝息すら聞こえてこない。静かで、心細くなるような暗闇はオーエンにどこか落ち着きをもたらすが、余りにも静かすぎるとここにひとりぼっちにされたような気分になる。
箒に腰かけて、冷たい風を浴びながら魔法舎を目指し飛び続けていると、ようやくその姿が目に入る。
オーエンは時折、魔法舎で夜を明かさない。なんたって隣にはあの忌々しいオズや厄介な双子が自室を構えているのだ。〈大いなる厄災〉の傷により、夜間は魔力が制限されるとはいえ、彼らも同じ北の魔法使いだ。おちおちと、安心して眠れるはずがない。
今日も何処か別の場所でひっそりと眠りにつこうか、それとも夢の森で夕暮れを前に急ぐ行商人の足を引き止め、夜通し追いかけっこに興じるのはどうだろう。そんな期待を胸に日が沈み始める頃合いを見計い、こっそりと出かけてはみた――はいいものの、時間をかけたわりにはたいした獲物も見つからずに、退屈を持て余して魔法舎に戻ってきた。つまりは消化不良で帰って来たのだ。ぱっちりと覚めたままのこの瞳は、何かまだ胸踊るようなできごとを探している。
夜が終わりを見せ、太陽はじきに昇りはじめる。遠い山の背から差しこむ明るい光に比べて、魔法舎の白い壁はまだ灰を蒔いたようにぼんやりと鈍い色を浮かべていた。
「朝を告げる鳥の代わりに、花火でも打ち上げてやったら……ふふ、みんなどんな顔するだろうね」
この前見た、あの儚く燃える花火よりも盛大に。それも、ミスラよりも大きなやつを上げてやれば、彼はどんなに悔しがるだろうか。それほどまでに目に焼き付いて離れないあの強烈な七色の光は、そのあとあっけなく消えてしまっても、オーエンの乱れた心に溜まったもやを吹き飛ばすには充分すぎるほどに美しかった。
空いっぱいに轟くあの爆音に一斉に飛び起きてくるだろう魔法使いたちを想像すると、くすくすと笑い声が止まらない。けれど、それを実行するには今日は少し具合が悪いことに気が付いた。しばらくすれば、キッチンからは朝食のいい匂いが漂ってくるはずだ。オーエンは昨日ネロに甘いものをふんだんに使った朝食をおねだりしたことを思い出した。悪戯したところでどうせ誰かに邪魔をされるのは分かっている。ならばわざわざご馳走を食べ損ねるほど、無駄なことにかまけている場合ではないだろう。
ふわりと中庭へ降り立ち、すっと箒をしまう。それならば、早いところ自室へ戻るとするかと浮いた軍帽を引き寄せた。
「オーエンじゃないですか」
暗闇から声が聞こえ、ピタ、と足を止める。聴き慣れたその声に、今から起こることを想像すれば気分はうんざりとするしかなかった。かけられたその声に応じるのか、それとも無視して逃げてしまおうか、結末がどうなるのかはこいつの気分次第でもあるからわからない。けれども機嫌が良ければ策を講じる隙もできやすいし、急に飽きてどこかに消え去ることもある。それに、せっかくここまで帰ってきたのたのにまた飛び立つのも面倒くさい。思考を巡らせていると、オーエンが気づいていないと思ったのか、自分の名前をうるさいほどに何度も呼ぶ声がする。
「どこ見てるんですか、ここですよ、ここ」
仕方なく声のする方へ顔を向けると、薄明かりの中で花壇に男が一人、色鮮やかな草花に埋もれてこちらを見ていた。そこだけを視界に入れると、夜露に濡れた草花や、そこから溢れる雫が月明かりに煌めき、まるで一枚の絵画をそこに飾ったようにも見えなくもない。しかし、いくら賢者曰く美しい男だとかあるいは顔は好きとは言えたとしても、こんな時間に泥にまみれて寝転がっているなんて、やはり変な奴としか思えない。
「ミスラ……きみ、そんなところで何してるの?」
「空を眺めてました」
「わざわざそこで?」
「ええ。ここなら空が広くてよく見えるでしょう。もし何かが通っても、すぐ気づけますからね」
「でも花壇じゃなくてよくない?」
「ああ、それは土が冷たくて寝そべってると気持ちいいかなって思って……ほら、眠る前は体温を下げると寝付きがいいと言うじゃないですか。ところであなたこそ、どこへ行ってたんです? 何度か寝台を訪問しましたが、寝台が空でしたね」
「真夜中に訪問してくるなよ」
「またあの中央の騎士と修行場の森でほうほう言いながらうろついてるんじゃないかって、わざわざそこへも探しに行ったんですよ。でも、あなたの魔力の気配すらなくって……もう魔法舎にもいないようでしたから、俺は仕方なくここで寝てるんです」
「知らないよ。僕はこんな時間にまできみに会いたくなんかない。それに、おまえといても楽しくないからね」
「眠れないと暇だな……あ、鳥でもしますか? 今なら丁度いいので、してやってもいいですよ。もうすぐ鶏も鳴く頃合いですし。ほら、おいで」
「ねえ、僕の話聞いてる? それに僕はそんなことしないし、もう部屋に帰るんだから。じゃあね、ミスラ」
相変わらずミスラは何を考えているのかよく分からない。やはり要らないことに巻き込まれる前に、さっさと退散したほうがいい。その方が賢明だと花壇に埋もれるミスラに背を向けると背後から《アルシム》と声が響いた。咄嗟に交わすこともできず、瞬きを一つする間に指一本すら動かなくなった体はその場に立ちすくす。
はっと気づけばミスラの腕に抱かれていた。冷たく湿り気のある土の感触が、外套越しにでも伝わってくる。
「ちょっと、服が汚れるんだけど」
「でもひんやりしてよくないですか?」
「よくないよ」
何を言ってもペースを乱さないミスラと真っ向勝負をするとこちらの方が疲れてしまう。ミスラの扱い方は付き合いが長い分、それなりに分かってはいるのだ。おねだりすれば大抵機嫌がよくなるし、たまにお茶にだって誘ってくれる。けれども気まぐれな思いつきに状況はすぐに一変するから、そう都合よくはいかなかった。それでも目の前ですぐ降参するよりマシだと思った。上手く誘導してやれば、こんな所から抜け出してすぐに温かい布団に潜り込めるし、わざわざ痛い思いをすることもない。オーエンは気を取り直すと、そっとミスラへ顔を近づけた。
「ここ、思ったより寒くない? ねえミスラ、僕……もっと、温かくてふかふかしたものに包まれたい」
猫撫で声でぎゅっとミスラに抱き着きつくと、すりと頬を擦り付ける。案外、オーエンが下手にでてみれば、ミスラは大げさな事を言いながらも世話を焼こうとする素直さもあるのだ。利用する価値はある。
「ああ、気が付かなくてすみません。これでいいですか」
ミスラはオーエンに向き合うと腕を回して抱き込んだ。体を密着してみると確かに温かさが体をほわっと包んでいく。だけど、今欲しいのはそれじゃない。
「違うってば……ちょっとミスラ、それだと暑苦しいんだけど」
「文句言うなら自分で魔法ぐらい使ったらどうなんです。わがままばっかり言って俺を困らせないでくださいよ」
呆れる声に、お前が言うなよと言ってやりたい気持ちをオーエンはぐっと我慢する。
「だから……ここじゃなくて……ベッド。寝るならベッドがいい。連れてってよ、きみのアルシムでさ……ねえ、いいでしょ?」
「でも、せっかくいい場所を見つけたんで、もうしばらくここでいましょうよ。あ、ほら、今ちょっと眠れそうな気がしてきました。やっぱりここにして正解だな……」
「くそ……」
諦めかけて、ぽす、とミスラの懐に頭を埋める。とっくに太陽は朝を告げ、ミスラの顔がしっかりと分かるほどに明るくなってきた。そろそろ早起きの連中がこの辺りを走ったり散歩したり、何かと騒がしくし始める時間だ。とにかくここじゃ人目につく。別に見られて困るわけではないのだが、かといってミスラにおもちゃにされた姿を見世物にされるのも癪に障る。このまま他の魔法使いたちに馬鹿にされるなんてもっての外だ。
意を決したオーエンは、首を伸ばすとミスラの唇に軽いキスを落とした。ちゅっと音を立ててみせれば、視線はしっかりとオーエンへ注がれている。
「……ねえ、僕が誘ってるって、わかんないの?」
眠たげな瞳を覗きながら小声で囁く。指先で、いじらしくミスラの腕を揺すって、瞳を潤ませて、甘い微笑みを浮かべて。これならすぐに乗ってくるはずだと期待して待っていると、ミスラはうーんと眉を顰めてみせた。
「すみませんが……俺はちょっとそんな気分じゃありませんね」
「はあ?」
ならば、とミスラの腹の上に乗り上げて、黒いシャツへと指を忍ばせた。しっかりと鍛えられた胸板をなぞり上げ、そこへ舌を這わせば、今度こそ。
「何ですか、発情でもしてるんですか?」
「なら、きみのこの手は一体何なのさ」
どさくさに紛れて尻を揉んでる手をペチンと叩く。それでも引っ込めない手は無視してミスラのシャツのボタンを開けていった。体を屈め、そこに唇を寄せると赤い痕を残していく。
そのまま首元を舐め上げると、ぴく、とかすかにミスラの体が動いた。舌先で縫合痕のひきつれをくすぐると、喉仏がうごめく様子にオーエンの気分までも良くなってくる。
ねえ、ミスラ、と繰り返し囁きながら、耳たぶをかぷりと咥える。口から零れたアメジストのピアスが揺れてころんと音を立てた。
ついにオーエン、と呼ぶ声がして、わざと気づかないふりをしてやれば、ミスラは気を引くように袖をぐいと掴むとオーエンをすぐそばに引き寄せた。意味ありげなその仕草に、仕方ないやつ、と唇へ啄むようにキスをしてやると、しっかりとミスラもそれに応えて唇を動かす。何度もそれを繰り返し満足気に顔を離すと、ミスラと視線が交じり合う。平坦な表情を浮かべておきながら明らかにその瞳はもう欲に濡れていて、思わずふふ、と唇の両端が持ち上がる。もう一度、唇を含んでみせた。
再開した口づけはそのままに、体を後ろへずらしていく。腰を重ねてそこへやわく刺激を与えるように擦りよせて。それと同時に舌を差しだしその熱い咥内へと滑り込ませると、大きな手のひらに頭をぐっとつかまれる。次第に深まる口づけに、目的も忘れてつい夢中になる。
――近づいてきた、小さな足音にも気がつかないぐらいに。
「わあ!」と驚くその声に、咄嗟にミスラの口から舌を引き抜いた。つかさず「た、大変です!」と大きな叫び声が上がると、今度はとんでもないことを魔法舎へ向けて響き渡らせる。
「ミスラが、オーエンに、おそ、襲われてます……!」
「は?」
その声に顔を上げると、慌てて去っていく後ろ姿だけが目に入る。あれは賢者の背中だろうか。ミスラとオーエン、それも北の魔法使いの中でも特別取り扱いの難しいその二人の名前に、何だなんだと魔法使いたちが中庭に集まりだした。そこには双子に無理やり連れられたオズの姿まで見える。最悪だ。
「これ! オーエンちゃん朝からいやらしい!」
「ところでどうして花壇なんじゃ? それにしても公開プレイとは感心しないのう」
確かに今、はたから見れば、シャツを開けられたミスラの上に乗り上げて襲っているのはオーエンだが、しかしこれには理由がある。
「違うんだけど。これはミスラが……」
「オーエン、どう見てもミスラはただ寝転がってるだけじゃない」
「それは本当か? ミスラちゃん」
後から大きな欠伸をしながらやってきたフィガロが、片目をつぶりながら眠たげな顔をみせるが、この男が状況を見誤るはずがない。面倒そうな顔を微塵にも隠さないフィガロをぎろりと睨みつけると、「ん?」とおどけて返ってきた。ムカつく、そう苛立ちが募ったところに今度はミスラが追い打ちをかける。
「はい、そうですよ。俺はただ眠れなくてここで寝転がってただけなのに、そのうちオーエンがやって来て……」
「は? お前……!」
オーエンを裏切るような行為に、一気に殺意が膨れ上がる。とっさに呪文を唱えようとするが、不幸にも双子にすぐに腕を捉えられ、「オーエン!」と強く窘められるとしぶしぶ口を閉ざした。
両腕をそれぞれスノウとホワイトに引っ張られたオーエンは跨っていたミスラの体から立ち上がる。「離せよ」と腕を振り払うが、再び「これ!」とお仕置きをちらつかされると苛立ちはそのままに黙り込んだ。
「さて、少し早いがもうすぐ朝食の時間じゃ。ミスラもオーエンも、いったん食堂へ向かったらどうじゃ?」
「美味しいごはんを食べたら、そのうち機嫌だって良くなるじゃろう」
これで一件落着と解散していく憎き魔法使いたちの背中を目で追った。仕返しに、今日の朝食をどうやって邪魔してやろうかと策を練っていると、それを遮るようにぐい、と後ろへ腕を引っ張られる。
「何? 僕も今から食堂に行くんだから邪魔するなよな。あと、嘘ついただろお前」
「俺は嘘は言ってませんよ。ちょっとかいつまんで言っただけです。それに、さっきの続きがまだ終わってませんけど」
「は? もう終わったことだろ。お前、僕のこと裏切っておいて……おい、この腕、さっさと離せよ! 《クアーレ・モリト》」
「《アルシム》」
ミスラを殺すための魔法は簡単に打ち消されて、さらにオーエンの体から力が抜ける。「くそ……ムカつく」と声は発することができた。それを許している辺り、まだミスラの気分は悪くないのだろう。くたりと地面に沈み込む体を、ミスラは隣で見下ろしている。
「お前、さっきそんな気分じゃないって散々言ってただろ」
「さっきはそうだったんですけど、今はそんな気分なんですよね」
「僕は嫌だ。ミスラより、朝ごはんがいい」
「はあ? 一食ぐらい抜いても問題ありませんよ。ほら、あなたの希望通りベットに連れていってやりますから」
「何それ、だからそれが嫌なんだって……わっ!」
「ほら、行きますよ。よいしょ」
荷物を肩に乗せるように抱きかかえられるが、それに抵抗すらできないことがとても歯がゆくて腹が立つ。仕方なく唯一自由がきく口を動かして喚き散らしていると、その声に紛れてミスラが欠伸を交えながらぽつりと呟いた。
「ふあ……いい加減、待ちくたびれましたよ」
待ちくたびれた? ――というのは、いったい何をだろうか。
空間に現れた扉に向かってミスラが歩けば、オーエンの体はゆさゆさと揺らされる。背中に頬をぶつけながら、ミスラが言った言葉の意味を考えていた。それって何のこと、そう聞こうとしたが、途中でオーエンははたと気づく。
「ねえ……きみ……もしかして、ずっと待ってたのって、僕のこと?」
「…………」
無言を貫くミスラを問い詰めるように、「ねえってば」と土に汚れた白衣へ声をかける。わざわざオーエンの寝所にも来て、修行場の森へ行き、魔法舎にもいないことまで確認したというぐらいだ。そのあと空を通る何かを探していたというのだから間違いない。
ミスラは、ずっと待っていたのだ。出かけたオーエンが戻ってくるのを、こんなところでひりぼっちで。思いがけない答えを見つけて、オーエンは目をしばたたかせると自然と頬が緩みだす。
「へえ……じゃあさ、僕の姿が見えたとき、ミスラは嬉しかった?」
「さあ、何のことですか」
「ねえ、答えろよ。わかってるんだから」
「そんな昔のことなんて、もう忘れましたよ」
「ついさっきあったことだろ。ふうん、誤魔化すんだ」
一人で暗い空を眺めていたミスラが、何を思いながらあそこでじっとしていたのだろうか。ミスラの後頭部を見上げても、どんな顔をしているかは分からない。
くぐり抜けた扉の先で、ベッドにぽいっと転がされる。そのまま覆いかぶさってきたミスラの顔を仰ぎ見た。相変わらずすっきりしないし、目の下の隈はひどいことになっているし――でも、なんだか今日は、それも悪くない。
「ふふ、いっぱいついてる」
ミスラの少し癖のあるその髪に、散らばるのは花壇でひっかけてきたらしい小さな花びらだ。その欠片を摘まんでいるうちに、オーエンは不思議な気持ちでいっぱいになっていく。ミスラには散々な目に合わされているというのに、こうして意味もない時間を過ごすひとときが、どうも嫌いにはなれなかった。
「まあ大変、お花が! ミスラさーん! あとで一緒に直しましょうね!」
外からルチルの声が聞こえてくる。その場にいた魔法使いに呼ばれて花壇を見に来たのだろうか。どこかに身を潜めているはずのミスラを探す声が、魔法舎に響き渡る。
どうするの? と視線を送って伺うと、決まってるでしょうと自ら服を緩めたミスラがオーエンの頬へ軽く口づける。
「あなたこそ、朝ごはんはもういいんですか?」
「うん。いい。後でいっぱい食べる。だから」
誰にも邪魔されないように、魔法をかけて。これ以上、待つことなんてできないと、肩に手をまわして手繰り寄せた。