素直になれない「――ってことがあってさ。本当、ありえないだろ。僕がせっかく映画に誘ってやったのにだよ。なのにあいつ、すっかり忘れて突然仕事があるって断ってきたんだ。本当、最悪」
指先で捩じり続けていたストローの紙袋を、オーエンはぽいと放り投げた。机の上には捩りに捩れ、細いこよりに形を変えられてしまった大小の紙屑がいくつも転がっている。
久しぶりに登校したオーエンを学校帰りに偶然見つけたカインから、これも何かの縁かもな! と強引に誘われるまま店に入ってはや数時間。夕暮れどきのファーストフード店は、学校帰りの学生で溢れかえり、あちらこちらから談笑が聞こえてくる。
「待ってた時間が無駄だった。こんなことなら一人で見に行けばよかったんだ。あいつ、僕となんか行きたくなかったんだよ。ねえ、騎士様もそう思わない?」
「ま、そういうときもあるよな。大丈夫、きっと次は上手くいくさ!」
「は? 何それ。そんなことじゃ済まされないからムカついてるんだよ」
「うーん……まあ、そりゃそうか。殴り合いまでしたんだもんな」と苦笑混じりに答えるカインは次の瞬間には「お、これ美味そうだな……注文してみるか」と備え付けのメニューの写真に目移りしていた。
「おい、僕の話聞く気ないだろ」
「聞いてる聞いてる。けどおまえ、案外可愛いところもあるんじゃないか。そんなに楽しみにしてたんだな! ミスラが好きだって言ってた映画、一緒に見にいくの」
メニューから顔を上げたカインへ向け、ぎろりと視線を向けるが「おまえも何か追加で頼むか?」とあっけらかんとした様子で返された。こちらに向けられたメニューをパシリと手で払いのける。
「は? どうしたらそんな思考になるんだよ。ちょっと面白そうだと思ったから、付き合ってやろうとしただけ。ミスラと一緒に見たかったとか、つまらない冗談は止めろよな」
「あはは! オーエン、おまえって本当面白い奴だな! この話、今日でもう六回目だぞ」
氷が溶けきり薄まった炭酸水をカインはズズ、と勢いよく吸い切った。唇から離れたストローが、グラスの中でくるりと一回転するとカラリと音を立てる。
「ま、そうしてずっと怒っていられるのもある意味才能かもしれないな。それぐらいガッカリしたってことなんだろ? それに、それだけ文句言ってるわりに、嫌いじゃないみたいだし」
「ねえ、騎士様って馬鹿なの? だから違うって言ってるだろ」
へらへらと笑うカインのすねを靴先で勢いよく蹴り上げた。「いって!」と唸るカインは足を擦りながらオーエンをじっと恨めしそうに睨み上げる。「こら、俺を蹴るなって!」と言いながらも、そんなに気にしていない所がまた苛立ちを誘う。SNS上でも、こうして対面して話してみても一向に揺さぶられないがそれぐらい肝が座っていてくれないと推しがいもない。
「でもおまえの気持ちもわからなくもないぞ。俺だって、こいつと行ったら楽しいだろうなって思って誘ったのに、忘れられたら悲しいさ。けど、どうしてミスラは忘れたりしたんだろうな? なあ、おまえ……いったい、何て言って誘ったんだ……?」
カインは不思議そうな顔でオーエンに訪ねた。そんな大事なことを忘れるはずもない。ミスラとは言った言わないで何日もの間やり合ったのだから、オーエンはしっかりと一言一句覚えている。
「これ、今月の最後の日曜までだよって」
「それで、そのあとは?」
「その日、二、三時間ぐらいなら時間あるけどって言った」
正直に明かしたオーエンの返答に、カインはポカンとした顔で数秒黙り込んだ。それからゆっくりと机の上に両手を置くと、ぐいと机の上で身を乗り出す。
「おい、まさか……それだけなのか?」
「そうだよ。それにミスラは『そうですか』って返事したんだから、同意したも同然だよね」
さも当然のように答えると、カインは腰を引き、力が抜けた風船のように椅子にもたれこんだ。
「なあ、おまえのその自信はどこから来るんだ?」
「知らないの? ミスラは僕に尽くす信者みたいなものだろ。僕のこと優先するに決まってるんだから」
「信者……? あいつが……? どういうことだ?」
カインは長い眉をぐっと寄せて信じられないという顔をした。鈍いカインにはもっと説明が必要らしい。オーエンは仕方ないとばかりに肩をすくめてみせた。
「だってさ、僕が甘いものが食べたいって言うだけで、箱いっぱいにぎゅうぎゅうになるぐらいのケーキを買って来るんだ。それって僕に奉仕したいってことだろ……それに僕がつまんないって言うとお茶に誘ってくるし、お茶する気分じゃないって言うと今度は艶々して綺麗なものを僕に見せようと連れ出したりもする……そんな時は決まって僕の顔をじっと見てくるから、僕も気分がいいときは気まぐれに褒めてやるんだ。すると、あいつどうなると思う? まるでペットの犬みたいに尻尾振って喜ぶんだよ。ふふ……面白いよね。ほんと単純で、馬鹿みたい。ミスラはやっと理解したんだよ、僕のほうが上なんだって。だから僕に尽くしたくて仕方がないんだ。そんなミスラが、僕の誘いを断るはずなんてないでしょう?」
話してるうちにいくつも頭に思い浮かぶ自分に奉仕するミスラの姿に、さっきまで文句を散々放っていた唇の両端がくいと上がる。ふふと勝手に笑みが溢れて、まるでふわふわのマシュマロに包まれたように気分は高揚していた。
これでどうだと言わんばかりに背もたれにもたれて前を見る。けれども肝心のカインはというと、うーんと腕を組み天井を仰いでいる。
「かなりおまえらしい解釈だとは思うんだが……」と、カインは続きの言葉を探していた。まだ理解に及ばないらしいその様子に「何、違うっていうの?」と反論すると、口元に手をやり深く考えるような仕草をみせる。
「いや、違うっていうか……それって友達なのか? ミスラとは仲が良いってことなんだろ?」
「友達……ミスラのことはそんな風に考えたことない。でもさ、友達ってこういうことしないんでしょ」
「こういうことって?」
「エッチなこと?」
オーエンが素直に答えると、カインはぴた、と動きを止める。「それって……」言いにくそうに言葉を選ぼうとするカインへ「セックス?」と聞き返した。
「ま……まあ、そういうやつもいるだろう、けど……」
カインは空になっているのにも関わらずストローに口をつける。急にそわそわとし始めたカインに構わず、オーエンは頭に浮かんだことを喋り続けた。
「ああでも、最近はエッチするときだって変に優しいんだよね。痛いことだってしてこないし……それに僕がもっとっておねだりすると、あいつの機嫌も良くなるし、たくさんキスだってしてくれるから僕だって気持ちがいい。あ、この前なんかさ、僕の――」
「おい! ちょ、ちょっと待った!」
カインの持ち上げたグラスが勢いよく机に叩きつかれる。乱暴に机の上に置かれたグラスの底が、ゴンと大きな音を立てると、近くに座る客が一斉にこちらを見る。
「どうしたの、大声なんか出してさ……顔が真っ赤だよ。あは……ねえ、騎士様ってば何を想像したの? やらしい」
「オーエン! おまえなあ……本当冗談は止してくれよ」
「だって本当のことなんだし、騎士様が聞いてきたんだよ。でもこれでわかっただろ? ミスラは僕の言いなりだったんだ。なのに、あいつ……」
せっかく良い気分だったのに、振り出しに戻ったように嫌な気分がぶり返してチッと舌打ちが出た。腕を組んだ手に力が入る。イラつきながら足を組み直すと、カインが自分の頬を指で掻きながら苦い息をついた。
「まあ、おまえにも色々あるって言うのはわかったよ。でも、もう一度誘ったらいいだけの話じゃないのか?」
「だって……」
オーエンが口をと、カインが「だって?」と続きをせっつく。
「本当に僕と行きたくなくなったのかもしれないだろ。急に気分が変わったとか、興味が無くなったとかさ。あいつ気まぐれだから、信用はできないし。せっかく気分が良くて、どきどきして、ふわふわした生クリームと甘いものに囲まれてたのに、それが夢みたいに消えちゃって、真っ暗な部屋に閉じ込められるみたいになるのは嫌だ」
「なあ、おまえ、自信があるのか、ないのかどっちなんだ? でも……成程なあ、ちょっと興味深い話だぞ……」
独り言ちながら「うーん、無自覚……素直な……ちょっと違うか……これはまるであ、あー……思いつかないな……」とスマホを取り出しカインは何かを打ち込み始めた。急にぶつぶつ言い続けるカインへ「何なの、急に」とオーエンが訝しげに問いかけると、「いや、それがさ……」とカインは困ったように頬を掻いた。
「実は最近新曲のネタだしに困っててさ。何かヒントがないかなって悩んで行き詰まってたんだよ。けど、何だかちょっといいフレーズが浮かんできそうな予感がする!」
「やっぱり。最近アカウントの更新が疎かになってるから、おかしいと思ってたんだ」
「はは、さすがにおまえにはバレてるよな。でも、何だかできる気がしてきたぞ!とても良い刺激になったみたいだ。これもおまえのおかげだよ、ありがとうな!」
拳を握りカインはにかっと笑う。「そうと決まれば」と立ち上がるカインの勢いに押されて店を出た。
そのまま立ち去ると思いきや「そういえばオーエン、忘れ物だぞ」と言われ立ち止まる。声をかけてきたくせに「あれ、どこに仕舞ったんだっけか……?」と体中のポケットをまさぐるカインはしばらくして「あ! あったぞ、ほら」とぐしゃぐしゃに丸められた紙の塊を渡してきた。
「何これ、ごみ? こんなもの要らないんだけど」
「何言ってるんだ? まだ有効期限、残ってるんだろ。トレイの上に落ちてたぞ」
じゃあな、と駆け足で立ち去るカインの姿は、あっという間に遠くなる。
捩じれた小さな塊が、手のひらの上で勝手に開いていく。
「あいつ……」
ストローの紙袋と一緒にぐしゃぐしゃに捩ってやったのに、その紙は破れることもなくまだ四角い形を保っていた。
「余計なこと、するなよな」
カインに突き返すこともできず、周りには捨てるところもない。仕方ない。これは後で捨てるから、そういうことだから、とオーエンは誰も見ているわけでもないのに急いでポケットへ仕舞い込んだ。
◆
「オーエン。俺はテレビが見たいんですけど。そこどいてください」
「どくわけないだろ。これから騎士様の新曲の公開があるんだから」
「そんなのあっちで聞いてきてくださいよ。俺の場所ですよ、そこ」
ソファに近づいてきたミスラはいつまでも動く気のないオーエンの隣にぴたりとくっつくように座ると、体をぎゅっと寄せてきた。仕方なく少しだけ、ほんの気持ち数センチ、お尻をずらして譲ってやる。久しぶりに学校で会ってから、そのままなだれ込むようにミスラの家に連れて来られて、制服のままだらけている。
「やれやれ、あなたもよく飽きませんね。そんなアマチュアの歌なんて」と言いながらちゃっかり肩に手を回すミスラへ何か嫌味の一つでも言おうかと思うが、オーエンは肩の一つぐらい抱かせてやろうと気を大きく持った。どうせ「俺はプロのモデルですけどね」と自慢が始まるに決まっている。もうそろそろ、あと数十分、そんなどうでもいいことに付き合わされるのは流石に困る。
電源を入れるたびに自慢をしてくる大型のテレビにはカインの公式チャンネルを表示している。少し気まずい二人の目の前で、画面の中の写真のカインだけが爽やかに笑顔を見せていた。
「オーエン。どうせ時間が過ぎたらいつでも聞けるんでしょう? ちょっとぐらい我慢したらどうなんです」
やはり我慢しきれなかったのかミスラはイライラとしたそぶりでオーエンが手に持つリモコンを奪おうとする。それを何とかして捩じ伏せると、ミスラは不貞腐れたようにこれでもかと眉を寄せオーエンを睨みつけた。
「はあ? どういうつもりなんです。俺の家に泊まりに来て、一番にやることがそれなんですか?」
「へえ、じゃあ何? ミスラは僕に、何をして欲しかったって言うの?」
「何って、そんなこと……」
急に勢いをなくしたミスラは唇を閉じ、黙り込むとオーエンの顔を見つめてきた。肩に回した手が、オーエンの首元を意味ありげにすり、とさする。
何度か指で撫でられたあと、ミスラの顔が近づいてくる。その顔に対して、真顔でじっと見返すオーエンに気づくとミスラはぴた、と動きを止めた。「ちょっと、目を閉じてくださいよ」とミスラは不満げに唇を曲げるが、オーエンは「どうして?」とわざと小首を傾げてみせる。
「はあ? それぐらい、わかるでしょう」
細められた視線の先は、オーエンの瞳ではなくその少し下へとゆっくりと向けられる。指先が焦れったく、言葉の代わりにとでもいうようにオーエンの唇へ触れていた。
「ふうん。ミスラはそんなに僕とキスしたいんだ」
「毎日してるじゃないですか。今更嫌とか言わないでくださいよ」
「へえ、僕が好きでしてると思ってたんだ?」
「はあ? 嫌なんですか? だったらもういいですよ」
拗ねたように背を向けるミスラの顔をオーエンは両手で引き寄せ、ちゅっと唇を押し当てた。「嫌ならしないだろ」とふふ、と意地悪く笑うと、ぐうと動物が唸るように息を詰めたミスラが仕返しをするように唇にかぶりついてくる。吸い付くような軽い触れ合いが、そのうちにだんだんと深まっていく。舌をゆるりと合わせると、はっと息が零れて、それからじんと甘い痺れが引き出された。ミスラの手が、服を捲し上げ、直接肌に触れる。少し冷たい指先がするりとそこを撫で上げると、体の中が一気に動き出して熱くなる。
ぴちゃぴちゃと唾液の混ざる音に、熱い吐息。小さく喘ぐ声。身じろぎ、服が擦れる音が部屋に響く。そこへ突然流れ始めるのは、ギターの明るく透き通った音色だ。
「う……んむっ……あ! 始まった!」
ミスラの咥内から舌を引き出し、ぐい、と顔を押しのけた。「ぐえっ」と蛙が潰れたような声がする。
「はあ? ちょっと、今いいところだったじゃないですか」
画面に前のめりになるオーエンを、ミスラが後ろから腕を回して抱き寄せる。
「静かにしてなよ。聞こえないだろ」
珍しくオーエンが出す凄みに、流石にミスラは口をつぐむ。テレビの音量を上げるにつれ、カインの歌声がはっきりと聞こえてきた。『今回の歌はいつもより特別なんだ』と答えていたインタビューを思い出し、期待を寄せて耳をすませる。そんなオーエンとは反対に、ミスラはオーエンの肩に顎を乗せ、興味の欠片もなさそうに欠伸をしているが、一応画面は見ているらしい。
「ああ、これならゆっくりで聞きやすいですね。それにこの歌、面白いですよ。映画の話ですって」
「は?」
映画、と聞き体がピクリと動いた。確かにカインの歌にしては珍しく、かなり具体的なストーリー仕立ての大衆向けのバラードだ。これならミスラも歌詞を追えるらしく、珍しく夢中になって画面を見ている。
「へえ、今の聴きました? 一緒に観たかった映画、一回行けなかったぐらいでそんな怒る人もいるんですね。この人こんなに相手に与えられることには自信があるくせに、映画如き簡単に誘えないなんて、何だかややこしい人ですね」
ミスラの言葉にオーエンはひっかかる。これはまさか……と体の底から嫌な感じが込み上げてくるそのうちに、曲は盛り上がりを見せ、カインが目を伏せながらサビを熱く歌い上げ始めた。
「全く意味がわかりませんよ。こんなの好かれてるのに、まだ信じられないっていうんですか? こういうのって結局その人と一緒に観たいっていうのが目的なんでしょう。俺なら嫌だったら初めから約束もせず断りますね。数時間いけ好かないやつの隣に座るなんて嫌ですよ。だからこの人はもう一度誘うべきだと俺は思いますね。そう思いません?」
カインの歌詞をなぞってミスラが楽しげにいちいち茶々を入れていく。いつもならば「黙れよ」の一言でも嫌味だって沢山言ってやるのに、今日ばかりは頭がうまく回らない。
「『それが嫌じゃないって気持ちが、何なのかわからなかった』……ふふん、なるほど。俺はわかりましたよ。嫌じゃないってことは、この人、つまりそいつのことが好きで仕方ないってことなんでしょう?」
「は? 好き?」と思わず大きな声が出る。
「え? どうしたんですか、急に……だから、そいつのことが好きなんですよ、この人。嫌いなら、文句だって言わないし、気にもならないでしょう?」
言い返せずにいると、納得していないと思ったのかミスラは説明を続けた。
「だってそうじゃないですか。嫌なら離れるでしょう。喧嘩までしても一緒にいるのを選んでるんです……つまりはこの二人は両思いってやつなんですよ。ちょっと想像したらわかることを、こうやってわざわざ難しく考える人もいるんですね。まったく、不思議でたまりませんよ。そう思いません? ねえ、オーエン……って、ちょっと返事ぐらいしてくださいよ」
カインの歌詞と、ミスラのコメントがオーエンの思考をぐちゃぐちゃにかき乱していく。
ミスラが名前を呼ぶ声が遠のいていく。代わりにどくどくと心臓を動かす大きな音が体中を駆け回る。今なら顔に集まった熱が、肌の色さえも真っ赤に変えているだろうことだって想像できる。
ミスラの視線が頬に刺さる。反応すれば気づかれる。それなのにリモコンを握る手がきゅっと締まるその動きに自分自身で驚いてしまう。
何せこの映画の話はつい先日このソファの上で繰り広げた話なのだ。好きで仕方がない? それに両思い? つまりは、ミスラが今言ったことは――。
「はあ? 何ですか。俺のことさっきから無視して……あ、ほら、この歌と同じことしないでくださいよ。『困った時は無視するか、逃げることしかできなけど本心は』って……あれ、どうして顔が赤くなってるんですか?」
どきりとして体が強張る。画面には、今まさにオーエンがしていることがテロップで流れている。
「うるさいな。おい、いちいち読み上げるなよ」
「あはは! 『困ったらすぐうるさいって言うけど、それは照れ隠しで』 へえ、そうなんですか?」
「は? どうして僕に聞くんだよ」
「え? あれ、何でですかね」
サビを歌い終えたカインが、曲の終わりに向けて表情も柔らかくなっていく。いくら画面を睨みつけたところでもう止めることはできない。
「『我儘で傲慢で、急に不機嫌になるところがあるけど』ですって……ん? 何だかこれ、あなたによく似てますよね……」
ミスラがじっとオーエンの顔を穴が開くほど見つめてくる。
「あれ……そういえば、あなた、映画の話してませんでしたっけ……? ほら、この前殴り合って……あ! そうですよ、俺も結局痣になって怒られたじゃないですか!」
難問をついに解き終えたようにミスラが瞳を大きく開いた。ぐいと近づくミスラからオーエンは顔を背ける。
「ふん、あれはおまえが悪いんだろ」
「そういえば、あのチケット、結局どうしたんです」
「知らないよ。捨てたんじゃない? そんなことすら忘れた」
その瞬間、画面の音がふっと止まる。ワンテンポの静けさのあと、軽やかな弦の音に乗せて、カインが囁くように最後のフレーズを口ずさんだ。
――ぐしゃぐしゃになったチケットは、ポケットの中で待っ――。
「は⁉︎ それは騎士様は知らないはずだろ……!」
耐えられずに画面を消した。後でクレームをつけてやる。そう燃える心は、ミスラのひとことでかき消された。
「やっぱりあなたのことなんじゃないですかこれ。なんだ、まだ持ってるんなら言ってくださいよ」
「は? 何のこと……ちょっと! 触るなよ!」
暴れる体を上からソファーに押さえつけられ、ミスラに体中を弄られる。
「これ、俺と同じ制服なんですか? ややこしいな……」
「おまえの制服がおかしいんだろ!」
一つずつ中を探られ、ついにあ、とミスラの声がする。観念してじろりと見上げると、ミスラは満面の笑みを浮かべていた。
「あ、まだ期限残ってるじゃないですか」
オーエンに馬乗りになったミスラは、見せつけるようにペラペラと二枚の紙を揺らしている。
「そういえば、明後日はオフなんですけど」
「後から行けないなんてなったらもう知らないからな」
「それならまたその時考えましょうよ、次なんていつでもあるんですから。それで? これ、どうします?」
勝ち誇るような、唇が薄く開いたその顔がまたやけに似合っていて、それに少し嬉しそうな様子がたまらなく憎らしい。
「……ミスラが暇なんだったら、一緒に観に行ってやってもいい」
「はは、あなた本当に素直じゃないですね。あ、この曲のタイトルと同じですよ。よかったですね」
「くそ……騎士様にはあとで仕返ししてやる……でもさ……ねえ、ミスラ」
「何ですか」
ぐいと詰襟を引っ張るとミスラは大人しく近づいてくる。
「さっき、嫌なら初めから断ってたって言ってた。それってさ……僕のこともそうなの?」
瞳を合わせると、くしゃりと髪の毛を撫でられる。
「嫌じゃないのって……好きだとか、そんな意味がわかんないことも……それって」
唇が塞がれて言葉は口の中で消えていった。言わなくてもわかるでしょうと言われるように、甘く噛んで、長く重ねて、啄むように。だんだんと唇が焼けるように熱くなる。そうやって言葉よりも手が出るほうが早いところが自分たちらしい。
いつの間にか日は暮れ、暗い室内で画面だけが煌々と明かりを灯すころ。怠い体はとうに動けるはずなのに、タイミングを見失ったように狭いソファーにふたりで寝転がったまま、まだもう少しだけ。そうして時間が過ぎていく。
◆
「ねえ、いつまで見てるんだよ。騎士様の動画」
「しっ、静かに。はじまりますよ」
ベッドに寝転び隣のミスラの横顔を見つめるが、画面に夢中になるミスラは一向にこちらを見る様子はない。
あれからすっかりとこの歌ばかりを気に入って、ミスラは今日もオーエンをそっちのけでカインに夢中だ。
「ねえ、僕が泊まりにきてやってるのに、騎士様のことばっかり……僕のこと放っておくつもり?」
くい、と服の袖をわずかに引いてみる。体をすっと近づけてみる。ミスラはぱちぱちと瞳をまたたかせると、満更でもないように嬉しそうに笑っていた。