指先に思いを浮かべて カチャカチャとキッチンから小気味よい音が聞こえてくる。オーエンが中を覗くと、作業に集中しているネロの後ろ姿が見えた。ふわりと漂ってくるのは甘くてとろりと溶けてしまいそうなあの香り。オーエンが大好きな、ぬるぬるしてふわふわでべたべたの、雪のように真っ白なあの生クリームの香りだ。頭の中でたぷんと揺れる生クリームを思い浮かべば、ふふ、と口元が勝手に緩んでくる。
オーエンは背後から静かに忍び寄った。肩越しに見えるネロの手元には大きなボウルと、その中にはもちろん生クリーム。それを不思議な丸みを帯びた道具で、ネロは休むことなく熱心に掻き混ぜている。集中し、オーエンに気付く様子のないネロを驚かせようと耳元で「やあ、ネロ。こんにちは」と声をかけてみた。思った通り、肩をびくんと上げたネロが振り返る。
「うお! って、何だ、オーエンか……急に来たらびびんだろ」
「ねえ、それ、中身は生クリームだろ。いつ完成するの? 待ちきれなくなっちゃう前に早くして」
「残念ながらこれはあんたの分じゃねえよ。お子ちゃま達のケーキに添える分なんだ」
そう言ってネロは固く泡立った生クリームに、小瓶に入った液体をふりかけた。真っ白でどろどろのクリームの上に、血のような赤い水滴がじわりと広がっていく。
「ねえ、それって何の呪い? 可愛がってるふりをして、信用させてそんなことするなんて、あは……ネロってばとっても悪い魔法使いだね」
「おいおい、違うって。呪いなんかじゃねえよ」
「じゃあ何? どうしてわざわざそんなことするの?」
「はは、どうしてかって?」
その言葉にネロは待ってましたと言わんばかりにオーエンを見た。面倒ごとに関わるのを嫌がるネロにしては今すぐにでもオーエンに話したくて仕方ないようで、随分と機嫌が良い。
「これはさ、生クリームに色をつけてんだ。今日は真っ白じゃなくて、ピンク色の生クリームにすんの。ほら、もうすぐ春だろ」
ネロがそっと窓の外へと視線を向けた。つられて顔を上げると眩しさにオーエンは目を細める。たしかに見ているだけで暖かさを感じるような柔らかな日差しが樹々を照らしていた。緑は段々と色濃くなり始め、動物たちが騒がしく動き回り、それはオーエンの耳にも届いてきた。春に向かって、命は少しずつ息づいている。ネロの言うとおり、この魔法舎にも少しずつ春の気配がやってきていた。
「だから何? それと何の関係があるの?」
「だからさ、今日はちょっと春を感じてもらおうと思って。ほら、春の味、ってやつだよ」
ネロがぐるりと大きくかき混ぜるとクリームが一瞬で薄紅色に変化した。花びらの絨毯が敷き詰められたような、鮮やかな色が広がっていく。
ネロの答えはオーエンの疑問を大きくしただけだった。春が訪れることなんて見たらわかることだし、そもそも春の味だなんて聞いたこともない。それに、色が変わったところで、生クリームは生クリームだ。ミスラのでたらめな味覚とは違うが、オーエンだってとびっきり甘くて美味しく食べられるものならばどれも同じだと思っている。春が来るなんて当たり前のことを、わざわざ料理で知らせてやろうとするのだろうか。ネロの考えはオーエンにはよくわからないが、けれどもそれが一体どういうものなのかは興味はある。
「春の味とかどうでもいい。けど僕はそれが食べてみたい。それ、僕にもよこせよ」
「ま、おまえさんはそうだろうな」
オーエンがネロの話に興味を持たずとも、ネロは特に気にするそぶりはしなかった。仕方ないなと肩を大きく竦め、戸棚を開けもう一つボウルを取り出した。
「ほらよ。誰かさんがそろそろ嗅ぎつけてくるころだろうから、実は多めに作っておいたんだ」
ネロが大きなボウルに生クリームを注ぎ込むとスプーンと一緒にオーエンに手渡した。
「最初から用意してるならさっさと渡せよな」
「たまには、俺の話も聞いてくれたっていいだろ」
ボウルをすぐさま奪い取ると、じっと横目で作業に戻るネロのことを見てみる。食べ物のことになるとやたら強いこだわりを見せるネロはどこか変だ。食事なんて覚えきれないほど毎日と、何なら何百年以上何度も繰り返してきたことだ。そしてきっとこれからも。だからこそ一回の食事に何をそんなに手をかける必要があるのか、やっぱりよくわからない。そう思いながらオーエンはスプーンで大きく塊をすくいひと舐めしてみた。
「んむ……?」
いつもと何かが違う。舌の上に広がったのは、蜂蜜や砂糖の強い甘味とは違う、咲き誇る花の間を歩いた時に体に纏わりつくような、あの柔らかくて心地のいいもの。まるで春が口の中に飛び込んできたようなふわりと優しく甘い香りだ。確かめるように二口目を口に入れると、いっそうそれが濃くなった。
「ねえ、ネロ。口の中が花でいっぱいになった」
「お、そりゃよかった。色だけじゃインパクトもないかなって、今回は花の蜜のシロップを混ぜてみたんだ。春の花びらの色に、花の香りだ。な、春が来たって感じ、するだろ?」
うん、と素直に頷きスプーンに残っていたクリームをぺろりと舐め尽くす。ボウルにはすぐには食べきれないほどにこんもりと山が残っていた。オーエンはキッチンの机に腰掛けると、しばらくその珍しい生クリームの味を堪能していた。
いつの間にかネロはおやつの準備を終え、夕食の仕込みを始めている。いつもなら目当てのものを手に入れればあまりキッチンに長居することはなかったから、物珍しくてしばらく後ろから眺めてみることにした。それに、この不思議な生クリームのことも気になる。ネロも静かにしていればオーエンを追い出すこともしなかった。
トントントンと小さく細やかな音が続いたと思えば、気がつけばもう次の野菜を洗い、大きなまな板に乗せるとまた同じように端から順番に切って行く。見ていると、なんとも忙しなくて、そしてとっても退屈な作業だ。
オーエンは机から降りて、ボウルを抱えたままネロのそばに近寄ってみると、思ったよりももっと多くの野菜が山になってネロに調理される順番を待っている。何せ魔法舎全員分の食料だ。大量の野菜は切っても切ってもなくならないのだろう。
二股に先が分かれた人参を手に取り、ネロは手際よく皮を向いている。じっと眺めていると、ネロは手元から目を離さず答えた。
「何?」
「ねえ、そんなの魔法でやったほうが早くない?」
「前も言っただろ。面倒でも、これがいいんだよ」
「でもそうだろ。きみだって弱い魔法使いじゃないんだから分かってるんじゃない? 食べたらすぐにお腹に消えていっちゃうものをわざわざ手を使って時間をかけるなんて、それこそ面倒だし、そんなの馬鹿みたい」
オーエンの言葉にはは、と笑うネロは、握っていた包丁の刃を優しく撫でた。
「いや、やっぱりこれだけは違うんだよ。何て言うのかな、手間をかけただけ、その分美味くなる気がしてさ。それに、そうやって沢山手をかけたものを食べてくれたときの満足そうな顔が何とも言えないっつうのかな」
またネロがよくわからない話をする。美味しければそれでいいのだから、誰かどうやって作ったかなんてどうでもいい。この魔法舎でネロが作ったものが美味しいから、皆ネロの料理を求めるのだ。それに料理の最中にいくら色々と考えたところで相手に伝わらなければ意味がない。
眉を寄せながらスプーンを口に入れるオーエンの顔を見て、ネロは少しの間手を止めた。それからネロは二股のニンジンの皮を手早く剥くと、それをオーエンの目の前に掲げて見せた。
「なあ、このニンジンさ、料理の度に大きさも形も違うように切ってるっての、あんたは気が付いてたりする?」
「知らない。そんなの、適当に小さくしてるんだろ」
「違うんだよなあ」
「じゃあ何。早く答えなよ。僕のこと馬鹿にしてる?」
してないしてない、と言い睨みつけるオーエンをよそに、ネロは鼻歌を口ずさむようにニンジンをまな板の上に転がし包丁を入れていく。
「ほら、見てみ。木の板みたいなのが短冊で、この細長いのが千切り。んで、こういうのは薄切りって言うんだ。ほらピクルスとかサラダにも入ってるだろ。他にもまだあるぞ」
赤く鮮やかなニンジンはくるくるとネロの手によって転がされながら様々な形になっていく。その中に見覚えがあるものを見つけて思わず「あ」と声が出た。
「こいつ、この前のシチューに入ってた」
そう言ってオーエンが大きな塊を指でさすとネロはにこりと頷いた。
「そうそう。この大きな塊は乱切りってやつ。煮込み料理に向いてるんだよ」
「どうして? どうしてこれじゃないといけないの?」
「具材って言うのは煮込んでるうちに溶けたり崩れたりしちまうからな。ほら、こんな薄くてぺらぺらしたように切ったものを煮続けるとさ、形が保たないんだよ。オーエンだって、スプーンですくった時にこんな小さな欠片しか入ってなかったら悲しいだろ?」
そう言われて、頭の中でその様子をオーエンは思い浮かべた。
「たしかに。びしゃびしゃなだけのただのスープは味気ない。僕は中身がいっぱい入ったシチューが食べたい」
「だろ。だからさ、他の具材と大きさを合わせたり、食べやすいように切ったりしてさ、そうやって色々工夫してんだぜ。やっぱり食べたときに一番美味しいって思ってもらえるようにしたいんだよ。これでも料理人なんでね。さっきの春の味だって同じだよ。美味しく食べて、季節まで味わってもらえたらなんてさ、最高だろ?」
「じゃあ、生クリームもボウルからあふれるぐらい作って。それで、もう一回、この中を春にしてよ」
空になったボウルを差し出し、おかわりを強請るとネロが困ったように眉を下げた。
「はあ、もう食ったのかよ。あれ、泡立てるのも大変なんだからな……分かったよ。ちょっと先に仕込みを終えてからになるけどいい?」
「嫌だ。今すぐ食べたい。僕を待たせるなんて、その代わりの代償はわかってるよね?」
「はあ? 無茶言うなって。今日はカナリアもいないし……あっそうだ。なら、あんたが手伝ってくれよ」
「は? 東の魔法使い風情が、北の魔法使いの僕をこき使おうってわけ?」
「働かざるもの食うべからず、って知ってるか? 賢者様の世界の言葉って上手いこと言うよな。見ての通り俺は夕食作りに忙しいんだ。けど、お前さんが手伝ってくれたらすぐに生クリームに取り掛かれるんだけどな。簡単さ、あと残ってんのはニンジンを切るだけだから」
「そんなの僕がやるわけないだろ。ネロが二倍働けばいいんだから」
「へえ、何だ、オーエンにはできないってことか?」
ネロは腕を組んで鼻で笑った。そのいけ好かない態度にオーエンは「は?」と威嚇するが、ネロは怯えもせずむしろがっかりとしたような素振りを見せる。
「そっか、なら仕方ないな。卵は上手に割れないリケやミチルなんかでも一瞬で終わらせちまうから、これぐらい誰でもできるかと思ったけど、まさか北の魔法使いがそんなこともできねえだなんてな。あんなに上手に卵を割れるもんだからちょっと期待したんだけど、残念だよ」
「……貸して」
ネロから包丁を奪うとまな板に寝転がるニンジンの真上から振り落とす。けれども刃先はニンジンの丸い体をつるりと滑り、端に刺さっただけで思ったように切れなかった。
「は? 何こいつ、僕から逃げるんだけど」
「はは、卵は器用に割れても、流石に料理は全部完璧じゃないよな。ほら、オーエン、猫の手だよ」
ネロが両手を丸く握る。「猫? もしかして、猫を捕まえてきてそいつの手を使うの?」とやっぱり悪い魔法使いだと訝しげにネロを見ると、慌てて両手を振り否定した。
「ちげえよ。ほら、指を切らないように丸くして野菜を動かないようにするんだよ。ほら、手の形が猫っぽいだろ」
今度は教えられた通りに猫の手とやらでニンジンを捕まえる。するとニンジンはびくともせず、オーエンの振り落とした刃を大人しく受け入れた。真っ二つに割れたニンジンがまな板の上で瑞々しく光る。
「ねえ、できた。簡単だった」
「すげえすげえ。じゃ、それをもうちょっと細かく切ってくれる? あと、できたら包丁を振るのはもう少し抑え気味だとありがたいんだけど」
こんぐらい、とネロがまな板に置いた見本よりも大きな塊ができてもネロは笑って「やるじゃん。その調子」と感心したように言った。「当たり前だろ。僕を誰だと思ってるの」と答えるオーエンも、料理なんて面倒なことをしているのに少し楽しさを覚えてきていた。コツを掴んだ頃には順調に切り刻まれたニンジンの山ができていく。考えごとをする余裕も出てきたオーエンは、ふと思い立ってネロに聞いてみた。
「ねえ、さっきネロがしたやつ」
「何のこと?」
シャカシャカとクリームを泡立て始めたネロが隣で答える。
「魔法じゃないのに、ネロが思っただけで僕の口の中が春になった。あれ、僕にもできるの?」
「できるよ。誰でもな。食べてほしい相手の顔を思い浮かべるんだよ。食べたときにこう思って欲しいなってさ」
「ふうん」
魔法を使わず、ましてや呪術の類でもないのに相手を思った通りの気持ちにさせられるなら面白いし、それにいつか役に立つかもしれない。
ネロの言うことが本当なのか、オーエンは確かめてみることにした。けれども全員を観察するわけにはいかないから、ひとり標的を決めるほうがいい。
オーエンに無駄な嘘をつかず、素直な反応を示す奴がちょうどいる。同じ北の魔法使いのミスラだ。魔法舎に来てから、同じ国だからだろうか何となく一緒に過ごすことが増えてきて、機嫌の良し悪しだって昔よりもわかるようになったし、好きなものも嫌いなものも大抵のことは知っている。気まぐれに寝所で一緒に眠るときのほんの小さな癖だって、喧嘩の末に殺されるときとは違う、ほのかに甘いその時間がオーエンの肌の表面をじわりと熱くさせることも。
はっきりとしない心の変化にむず痒さを覚えるまま、だからといってそれをどうしたいのかもわからない。きっとミスラだって、何も考えてはいないのだろう。気持ちの赴くまま、殺したいときは獣のように牙を剥き、性欲が勝るときはオーエンを組みしくのだ。
考えていくうちに腹が立ってきた。どっちにしろオーエンに負担を強いるばかりなのに、ミスラのためにしてやるのも何だか癪に感じる。
やっぱりやめた。どうせミスラは消し炭でもなんでも美味しくいただく馬鹿な味覚の持ち主なのだ。オーエンが何か仕組んだところできっと何も考えずにたいらげるに違いない。
馬鹿なことを考えてしまった。何を期待しているのだろう。オーエンは苛つき混じりにさっさと作業を終わらせネロに引き渡す。
「ありがとよ」と受け取るネロが、「なあ、どんなこと考えたんだ?」と聞いてきたが「やめた。馬鹿馬鹿しい」と答えた。けれどもネロは「そうか」と返事をしただけで何も言わなかった。
「で、これは何になるの?」
いい匂いがキッチンに立ち込め始めた。仕上げに取り掛かっていたネロが「ん? そうだなあ」とのんびりとした声で笑っている。ネロが答えるのを待ちきれずオーエンはご褒美だと受け取った生クリームを食べながら鍋を覗いた。木べらで掻き混ぜられたなべ底から、鶏肉と野菜とバターの香ばしい匂いが煙と共に漂ってくる。ネロが両手で抱えた小麦粉の袋を片づけると、今度は奥から大きな瓶を持って来た。
「春が来るってことは、そろそろ冬も終わりってことだろ。名残惜しいけど、冬とのお別れもしてやらねえとな」
大きな鍋にネロがエバーミルクを注ぐ。真っ白なスープに浮かぶ、赤いニンジンや柔らかく溶けたジャガイモに、少ししょっぱくて、そして甘い匂い。それに気付いたオーエンはすぐさま顔を上げた。
「シチューだ」
ネロは静かに鍋をかき回す。とろとろにそれが煮込まれるころには、食堂に人が集まって来ていた。
◆
ネロが副菜やカトラリーを人数分用意した頃にはほとんどの面々が席についていた。席順を決めているわけではないが、慣れもあるのだろうか、ほとんどの魔法使いは国ごとに集まることが多い。オーエンの近くにはブラッドリーに、もちろんミスラも座っている。少し席を離れたところでスノウとホワイトが若い魔法使いたちと談笑していた。
他の魔法使いたちと話をしながら給仕を行っていたネロが、こちらのテーブルまでやってきた。
「ほら、オーエンの分」とネロが机に置いた皿には、とろりと揺れる真っ白なシチューが、たくさんの野菜に彩られている。
「ふふ、これ大好き」
「おまえさんのニンジンも入ってるだろ、ほら」
こっそりと囁いたネロが目配せをする。スプーンを持って皿の中をかき分けると大きな人参がごろごろとでてきた。これが自分が手がけたものだと分かると、いつもと同じシチューがもっと特別に思えてくる。気分よく眺めていると、横からブラッドリーが「何だあ?」とシチューをスプーンで見分するように掻き混ぜていた。
「東の飯屋が作ったにしてはこのニンジン、ちょっと不恰好じゃねえか?」
ブラッドリーがニンジンをスプーンで疑わし気につっついている。
「は? ねえ、ブラッドリー、今何て言ったの?」
「お、おい。何でオーエンが怒るんだよ。たかがニンジンが変って話だろ?」
「じゃあ食べなくていいんじゃない」
「あ! おい、てめえ何すんだよ」
魔法でブラッドリーの皿からニンジンを消し去った。文句を言う奴に食わせる飯はねえ、とよくネロが怒鳴っているがその気持ちはわからないこともない。ブラッドリーが困惑してる姿を、遠くからネロはちらりと見て笑っている。
「そうですか? このニンジン、食べ応えがあって美味しいですよ」
そこへミスラが割り込んできた。
「でもよ、ミスラ、おまえシチュー苦手じゃなかったか?」
ブラッドリーの言葉に、そういえばそうだったとオーエンは思い出した。
「こういう食べ物って、面倒なんですよね……具を食べてたら汁だけ残るし、ちまちま啜ってると口から溢れて汚れるし、俺にはどうも食べにくくて……でも今日のはいつもと違っていけますよ」
確かにミスラの皿はあっという間に空に近いほど食が進んでいた。オーエンが具材を切った以外は、ネロが調理をしているのだからいつもと変わらないはずだ。
「ねえ、それってどうして?」
オーエンの問いに、うーんと考えながらミスラは答えた。
「今日は特にこのふてぶてしい程大きなニンジンがいいですね。具材もいつもこれぐらいだと腹も膨れるし、食べやすくて俺好みなんですけど」
そう言ってスプーンを何ども口へ運ぶミスラは、いつもよりも嬉しそうだ。
「ふうん……ねえ、ミスラ。今日は特別にこれあげる。もっと食べなよ」
「いいんですか? ありがとうございます」
オーエンは自分の皿からニンジンをミスラの皿へと移してやった。オーエンが理由もなくミスラに分け与えるその光景に、ブラッドリーは驚いてスプーンを皿に置き、オーエンをじっと見つめる。
「おい、オーエン。てめえどうしたんだよ、おまえの好物だろ。ミスラに分けてやるなんて……なんだ、腹でも痛いのか? 食べねえんなら俺にも寄越せよ、ってかニンジン、返せって」
「ニンジンがきみに食べられるのは嫌だって言ってる」
「はあ? なんだ、おまえついに野菜の声まで聞けるようになったのかよ。妖精にでもなる気か?」
一人で笑うブラッドリーに「は?」と視線を向ける。ブラッドリーが冗談だってと笑いながら付け合わせのパンを噛みちぎった。
「ねえ、美味しい?」
「はい、美味しいです」
頬杖をつきながら、ミスラがぱくぱくと食べている姿をじっと眺める。ミスラがこうして食べている様子をまじまじと見つめるなんて、あまりしたことがない。口元はシチューの汁で汚れているし、シャツやベストにはこぼれ落ちた具材の欠片がへばりついている。そんなことも気にせず、あれだけ苦手だと言っていたシチューを美味しそうに食べる顔を見ると、オーエンまで頬が綻んでしまいそうになる。何だか悪くない気分だ。
「お、ミスラがスープまで完食するなんて珍しいな。いつもはパンばっかり食べてるのに。そんなに美味かったか?」
ネロがお代わりあるぞ、と鍋を台に乗せて押してやって来た。ブラッドリーが無言で皿を渡す。
「ああ、これなら毎日食べてもいいですね。今までのシチューの中で一番好きかもしれません」
ミスラの言葉に、オーエンは口元が緩むのを止められなかった。気づかれる前に、と具の少なくなったシチューを口に含む。
「お、リクエストだなんて嬉しいねえ。今日で最後にしようと思ってたけど、そこまで言われたらまた作らないと、な」
ネロの視線にオーエンは黙ったまま、スープを口に入れた。何だか秘密を共有されたようでむず痒い。
「はい、また作ってくださいよ。このでかいニンジンで。ねえ、オーエン」
そう言ったミスラは、知ってか知らずか、オーエンを見て笑っている。オーエンは、胸の中がほんのりと温かくなるような気がした。きっと、シチューを食べたからだ。そうに違いない。
「だとよ。まだ春とはいえ、冷える日もあるし。まだ冬とのお別れは早かったかな」
「そうかも」
小さな声で素直に答えたオーエンに、ネロは何か言いたげだったが他のテーブルへと向かっていった。春がもう少しだけ遅くやってくればいいのにと、ふとそう思ってしまったのはきっと、料理なんて変なことをしてしまったからだろうとオーエンはその場から姿を消した。