オメガバカピオロオロルン。
それは大昔の英雄、献身をその身に受けた心優しい青年の名。当時の炎神様と夜神の英雄である隊長を引き合せ、彼なしでは到底あの戦争に勝つことは出来なかっただろうと言われるほどの功労者。
しかし彼はあのアビスを退けた戦争の一年後、なんの前触れもなく亡くなってしまったのだ。
彼の魂は不安定だった。故に、あの戦争とその後に全てを賭したのだと。
団結も、廻焔も、祝福も、超越も、力も、皆が彼の死を惜しんだ。
彼がまた焔に巡る時、安寧が訪れますようにと。
■□■□■□■□
オロルンにとって、朝は憂鬱なものだった。
眠いし、起きれやしないし、一日が始まってしまうから。
ジリジリとけたたましくなるアラームを少々乱暴に止めて、再度布団を頭まで被り直す。カーテンの隙間から零れる陽の光は鬱陶しく、チュンチュンと無事に朝を迎えられたことに喜ぶ雀の声すらも酷く煩わしい以外の何者でもなかったから。
どうか僕を起こさないでくれと、何度願ったか分からない十何年目かの今日。今日も朝が来たのだと変わらない事実をどうにも享受することが出来ず、ずっと前は感謝していた太陽を拒絶してしまう。
眠ろう。
きっともう一度寝れば、すぐに夕焼けが始まる。
まぶたを落として体を小さくまとめる。大きくなった手のひらを、首輪のかかった項に押し当てた。ゆっくりとした呼吸のリズムに戻して、意識を暗闇に落として───────、
「起きてらっしゃい!」
ギャンッ!と少し怒ったような声が扉の開く音と共にやってきたかと思うと、頭から被った布団をぐわっと剥がされ、抵抗する暇もなくあっという間に日の目に晒されてしまった。キラキラとした太陽が直接目を体を焼き、天空の城の3分おじさんのように目を抑えてのたうち回りたい気分だ。
こんな容赦ないことをするのは、この家にただ一人しかいない。
「ぅう・・ばあちゃん・・・」
奪われた布団を返して欲しいのか、もぞもぞと丸まった態勢のままゆっくりとベッドの上を這い始め、隅に追いやられてしまった布団を求める。
ただ、その目論見が成功したことはこれまでの人生の中で1度もないのだけれど。
「いい加減起きなさいって!このアンポンタンッ!」
ガツンッ!と耳の近くで音が鳴ったかと思うと同時に頭に衝撃が走って、寝ぼけた頭は少しずつ覚醒してジワジワとした痛みを訴えかけ始める。甲高い声と共に繰り出された拳骨は、太陽でさえも覚ませなかったオロルンを完全に目覚めさせるには十分な威力だった。ジワジワどころではなくハッキリと痛みを訴えかける頭を呻きながら押さえ、こちらをずっと睨みつける視線に観念して渋々起き上がる。
「うぅ・・・おはよう、ばあちゃん」
目の前に仁王立ちして、頬をぷくりと膨らませていたシトラリは、いつもの事だと慣れてしまったのかオロルンが起き上がると直ぐにその様子をおさめ、全くコノ子は、とボヤきながら部屋を出ていってしまう。
「早くいらっしゃい。タタコスを作ってあるから」
反響する廊下から声が聞こえ、タタコスという言葉に耳をピクりと動かす。タタコス・・、と亡霊のように小さく呟き、足が冷えないようにとシトラリが買ってくれたもふもふのスリッパに足を通して廊下に出た。何度か匂いを嗅げば、確かにオロルンの好物であるばあちゃんが作ったタタコスの匂いだとわかる。ばあちゃんのタタコスは美味いんだ、それは前世からずっと言っていることで、今世もそれは変わらないし言い続けている。
オロルンには、前世の記憶があった。それはオロルンだけでなくて、シトラリもあるし、彼の友人であるイファにもあった。まだ会えてないけれど、きっとほかの4人の英雄や炎神様にもあるのだろうと。
オロルンが前世の記憶というものを認識したのは、四つの時。今世でも実の親に捨てられ、自分の見え方が他人と違うという認識すら知らずに孤児院で過ごしていた、とある日のことだった。急に僕を引き取りたいという人が現れて、その人───シトラリの前に連れて来られた時、全ての記憶が流れ込んできたのだ。
僕がどう生まれ、どう生き、どう死んでいったのか。
話はとんとん拍子に進んでいき、オロルンは今世も晴れて───書類上は違うけれど───ばあちゃんの孫として生きていくことになったのだ。
思えばオロルンたちが生きていたあの時代から、この世界は見事な程に様変わりをしていた。森林や草原で生い茂っていたあのナタの地は住宅街に変わり、聖火闘技場は今も尚改築を重ねて利用され、国民に愛されている。そして人類が発展するということは、つまり住処を追いやられる動物も出てきてしまうということ。前世では日常的に見ていた竜たちは、随分と数を減らしてしまっていて、よく懐いてくれていたフライングモモンガについてはもう絶滅してしまったのだと。でも、今世のオロルンだってその発展にあやかっている身。ジレンマだな、なんて思いつつ彼らを気にしてこうして日常を送っていくしかない。
思考の海のさらに深くへと沈みこもうとすると、それを無理やり引き上げるかのように声がかかった。
「オロルン、運んでちょうだい」
おぼんに乗せられた具沢山のタタコスと、なにも乗っていないタタコスの皮一枚。どうせキミはもう一個勝手に作って食べるんだから、なんて前世に言われた気がする。
ありがとう、そう言って少し重さのあるおぼんを受け取り、机まで持っていく。シトラリは既に食べ終えていたらしく、コーヒーを持ってきてオロルンの向かい側へと座った。今日は学校が休みだとはいえ、昼まで寝るのはいささか不味かっただろうかとシトラリの視線から逃げるようにそそくさとタタコスを食べ始める。
具材が逃げてしまって、もう1つタタコスが作られていくのを感じながら夢中で頬張っていると、呆れたような口調でちゃんと水も飲むのよ、と注意された。
「今日、定期検診の日だけどチャント分かってる?」
ピタリと、オロルンの手が止まった。でもそれは一瞬のことで、またすぐにタタコスを頬張り始める。
「うん、分かってるよ」
本人は平常心を装っているつもりだろうが、おそらく無自覚なのだろう。タタコスを皿において水を飲む時、片手を後ろの項に回して落ち着かないように何度も首輪越しに触れていた。何度も、何度も。
オロルンは、今世もオメガだった。前世はオメガで苦労したから、今世はベータがいいなと思い診断を受けたのだが、残念ながら今世もオメガという結果に終わっている。
故に、前世とは違い、今は国の決まりでオメガは定期的に検診を受ける必要があるのだ。周期は問題ないか、何か問題が発生していないか、番はどうだとか。半年に1回ほどのペースで、その毎回でオロルンは問題なしという健康優良児の名を冠している。2回目のオメガなのだから、自己管理など余裕だと言わんばかりの風格である。
「・・・今日もついて行ってあげられればよかったんだけど」
「気にしないでくれ、ばあちゃん。僕だってもう17歳なんだから大丈夫だ」
何かあるといけないから、こう見えて腕っ節の強いばあちゃんがいつも同伴してくれるのだけれど、今日はどうしても外せない用事と被ってしまったらしい。用事の方をキャンセルしようと奮闘してくれたらしいけど、残念ながら無理だったと告げられた時のばあちゃんの顔は本当に心配そうな顔だったのをよく覚えている。
「そう・・・。気を付けていくのよ、本当に気を付けてね」
不安気な声は、前世よりも随分と過保護になっていることの表れで、だがオロルン自身もそうなるのも無理は無いと思っている。前世、オロルンはこのバース性のせいで随分な目にあってしまったから。その記憶は、オロルンよりも長く生きたシトラリを苛ませたのだと誰に言われずともわかったし、きっと後悔として今も残っている。
シトラリの言葉にゆっくりと頷き、2つ目のタタコスを食べ終わる。そして、念の為の抑制剤2錠を口の中に放り込んで水で飲み込んだ。
「ごちそうさま、ばあちゃん。夕飯はポトフがいいな」
「分かったわ。材料を買ってこなくちゃね」
皿とコップを流し台に持っていき、洗おうと腕まくりをしていると、やっておくから早く行ってきなさいと声がかかる。ありがとうと返して、支度をするために足早に自室へと戻った。
スマホと財布と保険証とバース登録証と定期と、あと、念の為ピルも。このくらいで十分だろうか。
詰め込んだカバンを肩にひっかけて、スマホで電車の時刻表を確認する。この街から少し離れたところに病院があって、そこでいつも検診を受けるのだ。
ゆっくりと、首をさする。
読み込み中の画面がぱっと変わり、時刻が映し出される。あと15分と言ったところで、この家は駅から少し離れているが走れば何とか間に合うだろう。慌てて玄関へと向かい、靴へと履き替える。靴の収納棚の上に置いてある籠の中から家の鍵を取りだし、準備万端な様子だが、オロルンにはまだやることがあった。
「ばあちゃん!」
奥からシトラリが出てきて、まるで何に呼ばれたのか分かっているようでなんの迷いもなくオロルンの方へと向かっていく。シトラリが近くに来ると、少しだけオロルンは腰を曲げた。すると、シトラリの手が首元に伸ばされ、防衛本能によるものか少しだけ体がびくつくものの、シトラリは全く気にしない風に何度も首輪を触って点検する。
「・・・うん、問題ないわ」
そう言うと、ほっとしたように息がつかれる。
どちらのとも言えないそれはやがて空気に溶け、玄関の鍵が開けられた。
「行ってきます」
彼は再び、外へと旅立つ。
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「どうして、どうしてコノ子がこんな目にあわないといけなかったワケ!?」
微かに聞こえてくるのは、ばあちゃんの声。
真っ暗な部屋に差し込む一筋の光は、少しだけ空いた扉の向こうの部屋からだろう。多分その隙間から、ばあちゃんの声が聞こえてくる。ばあちゃんの声は今にも泣きそうで、こんな声は聞いたことがなかった。話しぶりからするに誰かと話しているのだろうけど、それを知るには、生憎座る気力も、立つ気力も、歩く気力も、何もかもがなかった。寝返りが、関の山といったところだろうか。
どれもこれも、理由はわかっている。心にぽっかりと空いた喪失感はどうにも埋めることが出来なくて、それはやがて絶望へと変わり、ゆっくりとこの体を蝕む並々注がれた毒となった。果てのない孤独感は、気が狂ってしまいそうになるほど苦しいのに、それでももういない人への熱を抑えることなどはできない。
吐き気と、頭痛と、目眩と、息苦しさと、あげればキリがないほどの不調はもうずっと前からで、隊長と出会ったあの頃に戻りたいと願ってももうそれは叶わない夢。所詮は夢、夢に過ぎないのだと、この節々の不調は嫌でも訴えかけてきた。
もう長くないというのは自分でもわかるし、世話をしてくれているばあちゃんなんて、もっと分かるだろう。イファや部族のみんなも手を尽くしてくれているけど、日に日に衰弱していく僕を見てもう頭を振ったものも少なくは無い。
こんな姿の僕を見て、君はなんと思うのだろう。僕はもうすぐ君のいる場所に向かうけど、寝ている君を起こせるほど僕は空気の読めない蝙蝠になったつもりは無い。本当はもっと話したかったし、もっと会いたかったけれど、残念ながら君が選んだ道を否定するほど出来た人間にはなれなかったから。
・・・視界がずっと霞んでるんだ。
上手く、声が出せないんだ。
上手く、動けないんだ。
上手く、考えられないんだ。
酷く、眠たいんだ。
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「・・・はい、はい。・・今回も、問題なしですよ」
17年連続健康優良児の称号を得て、成人する来年には箔付きの額縁に診断書を家に飾るのも悪くないかもしれない、そう思えるほど今回もスムーズに検査は進んだ。心の中でガッツポーズを作り、それと同時にほっとする。
だが、そう思うのもつかの間だと分かっていた。次に紡がれる言葉を知っていて、その言葉をオロルンは酷く嫌悪しているから。
「・・それから、国から番候補のリストが出ています。それも同封しておきますので、家で確認してくださいね」
番、そう、番だ。
前述した通り、オロルンは酷くその言葉を嫌っており、それには酷い目にあったからという理由も含まれている。オロルンがバース診断を受けて始めて病院に行った時から対応してくれるこの医者も、何も言わないがオロルンがその言葉にひどい嫌悪と、それと同じくらいの恐怖を感じているというのは気がついているだろう。1度だけ、ヒートや番の不安改善という建前でカウンセリングを勧められたこともあったが、それをにべもなく断ってからは勧められることは無かった。オロルンはあまり踏み込んでこないそういう態度を好ましく思っているし、少し遠くてもこの病院に通っている理由でもある。
しかし今日は定期検査だけでは無いようで、医者は少し態勢を前屈みにして真剣な顔色となり、オロルンもそれに気がついて姿勢を正すといつになく深刻な口調で話し始めた。
「近頃、オメガへのレイプが後を絶ちません。都内から離れたこの地域ですら、このひと月に10件以上が報告されています。本当に物騒な世の中になったものですから、どうか気をつけてください」
目を、見開く。
この地域にオメガが何人いるのかは知らないが、報告されているだけで10件以上。怖くてまだ通報なりなんなり出来ていない人もいると仮定するならば、20件はくだらない。
こんな忠告をされるのは初めてで、この医者も当事者たちを見てきた故の、オロルンの危うさに気がついたのだろうか。優れた容姿、珍しい獣耳、目を引くオッドアイ。その背の高さで一見アルファに見えることが救いだとも言えるが、それは同時にひどく目立ってしまう。だからこそ、番という関係を嫌悪するオロルンにとってその事件は恐怖の対象以外に何物でもないだろう。
「夜道に一人でいるとか、近道と思って路地に入るなどはやめてください。特に最近は酔い潰され、連れ込まれる事案が非常に増えています。気心知れた友人ならまだしも、知り合いたての人と酔い潰れるまで飲むことのないようにお願いします。オメガのための色々な施設や支援団体もありますが、結局自分の身を守れるのは自分だけですからね」
先生も、オメガ。首輪をしていないため番がいることは分かるが、そこに行き着くまでは常に不安定な生活を強いられているたということは身をもって知っているに違いない。だからこその、忠告だろう。
確かに、オロルンの周りでも番がどうとかと言う話はちらほら出始めている。番を持たないオメガはこれから出ていく社会に圧倒的に不利で、番を持たないオメガは雇わないと明言している企業もあるくらいなのだ。早くに番契約をすることが最も安定したルートへの近道なのだが、それをするには不本意な相手と結ばないように長い間かけて調査しなければならないという矛盾が発生してしまう。世の中のオメガたちはそうしたジレンマに苦悩し、でも社会に出ないという選択肢はよっぽどでなければ無いため、何とかしていくしかない。
「・・・肝に銘じておくよ」
そう言うと、医者はほっとした様子を見せる。それは暗に、番契約を検討してみるという返事だったから。
だが、オロルンは健康優良児であったとしてもその精神までもがイイ子ではない。
オロルンは、潮時などとは微塵も思っていなかった。自分は一生番など作らないし、そんなものは願い下げとすら思っていた。自由を失うとか、一人の時間が減るとかそういうありきたりな理由では無い。前世に刻まれた傷がぐちゅぐちゅとえぐり取られるように痛み、苦痛しか呼び起こさないというのを知っているから。それに、もし番契約などすればシトラリもイファもいい顔はしない。もちろん、オロルンだって。
医者には悪いが、リストは一瞥もせずに即焼却所行きだろう。
「それでは、また」
また、会うのは半年後。きっとなんの進展もないだろうオロルンをみて、表情を隠すのだろうか。それとも、心配そうな顔をしてくれるのだろうか。
手を振り、扉がしまったあと直接渡された診断書とリストの入った封筒をカバンに押し込んだ。代金は国が払ってくれるから不要で、そのまま病院を後にする。
溜息をつき、空を見上げた。
薄々わかっていた。そろそろ、番の件を打診されるだろうとは。
半年後が憂鬱だな、なんてまだ先のことを考えながらどこか邪魔にならない適当な場所に立ち止まって、家に帰る次の電車が何時かを携帯で確認する。
「うわ」
だが、それはオロルンの思わず口をついて出た言葉から察するに、あまり良くはない知らせが入っていたらしい。
『北部の大雪により、運転に大幅な遅れが発生中』
憂鬱な思いでアプリを開けたのが悪かったのだろうか、なんて思いながら恐る恐る自分の乗る電車が何時に来るか検索してみれば、まさかの3時間後。元々そんなに本数のない線であったから1時間半は覚悟していたが、まさかのその2倍である3時間。今の時刻は、昼の2時。起きる時間を考えて遅めに予約していたのだが、もっと早くに予約しておくべきだったと今更後悔してしまう。乗れたとしても5時で、ぎゅうぎゅうな可能性だってある。そう思えば、最低でも6時、最悪な場合を考えると7時や8時になってしまうことも視野に入れなければならない。
今は冬で日が沈むのも早く、ほんの数分前に医者が言ってくれた、夜道に一人でいるのはやめて、という言葉を早速破ってしまうのは確実だった。シトラリに迎えに来てもらおうとも思ったが、外せない用事で夜まで家にはいないことを思い出し、しかも自分は高校生の身でありタクシーなんて高くて使えたもんじゃないから、電車が動くまでここに居るしかないのかととぼとぼ宛もなくさまよい始める。
「どうしよう」
どうやって、時間を潰そうか。
生憎カフェに入れるようなほどの金銭は持ってきておらず、だが寒空の下、冬の風に吹かれて凍えながらボーッと過ごす趣味もない。首が隠れるようにちゃんと上着のチャックを閉め、その上からさらにマフラーを付ける。
図書館でもないだろうかとこの辺りの地図を検索し、ちらちらと前を見ながらゆっくりと歩き始めた。ビュービューと吹きすさぶ冷たい風は徐々に体力を奪っていくし、頭にぴょこりと生えた耳が寒くて寒くてたまらないと叫んでいて、一刻も早く暖かいところ、もしくは風を凌げるところに行きたい。この際図書館がないなら、スーパーでもいい、それすらないなら、コンビニでいい。祈るような気持ちで画面をスクロールし、注意散漫になってしまったのが悪かったのだろうか。
「う、わ・・!?」
突然、え、と言う暇もなく真っ黒な壁が目の前に出てきたかと思うと、ドン、という衝撃が体の前側を襲い、全く警戒していなかったオロルンは思わずたたらを踏んで、体勢が結局立て直せないままで尻もちを着いてしまいそうになる。だがそれを防いで、腕を持って体を支えてくれたのも黒い壁だった。
その『黒い壁』が人だと認識するには十分な時間で、落としたスマホを拾うこともせず、ただただ目の前のその黒い人を見つめる。背が高くて、黒くて、逆光で上手く顔が見えないけれどその瞳は青くて、ずっしりとしていてまっすぐで──────、
「・・たぃ、ちょう・・・?」
あまりに、見覚えがあった。
口をついて出た言葉に相手も目をまぁるくさせて、オロルンが態勢を立て直して立ち上がっているのにも関わらず、衝撃ゆえか腕を掴んだまま離さずにその顔をじぃっと見つめている。そして、ゆっくりと、恐る恐ると言った様子で口を開くのだ。
「オロルン・・・?」
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彼らは、愛し合っていた。
相思相愛であることは誰が見ても明白で、その視線に、声に、仕草に、全てに彼らの愛は囁かれていた。
その手に肌に触れる度、蝙蝠の彼は目尻と口端をふんわりと蕩けさせ、心底幸せな顔をする。僕のすべてをあなたにあげるから、眠れぬ夜を共に過ごしてくれ。そう、何度も囁くのだ。
仮面の彼も、その囁きに応えてゆっくりと髪を撫でた。彼の純潔に触れることはなく、唇と唇を触れ合わせるだけ。
彼らは、知っていた。
いつか、別れが来るのだと。それはいつか分からない。でも、確実に訪れるそれをきっと2人は恐れていたから、確かな結びを契ることは無かった。
そうして、彼らは誓ったのだ。
もし次に会うことがあったならば、今度こそは──────
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「落ち着いたか?」
「う゛〜〜・・・っ!」
「まだのようだな。使うか?」
差し出された2枚目の黒いハンカチを奪い取るようにその手から受けとり、一切の躊躇をすることなくそのハンカチを目元に当ててまたぐしょぐしょにする。ぼろぼろと溢れる涙は際限なく、鼻水はティッシュでその都度かんでいるが、漏れはあるというもので多分ハンカチにも付いているだろうに嫌な顔ひとつしない。
寒さをしのげる所を探す旅に出るところだったオロルンをこんなにしたのは、目の前にいる真っ黒の男のせい。
長い髪に、高い身長、深くて低い声。そして、凛々しい顔つきに、透き通った夜空の瞳。
後者はともかく、前者をオロルンは知っていた。それこそ何年前とはもう正確に数えられないほど前、長い髪に囲われ、その大きな体に組み敷かれ、深い声に何度も腹の奥を切なくさせられたのだ。
しかし、その愛した人は目の前で眠りにつき、結局オロルンの死に目にまで彼は目覚めることは無かった。だから今世も、まだあの人は眠っているのだろうと、そう思っていたのだ。
ぶつかって、謝ろうと顔を上げたあの瞬間の衝撃といったらオロルンは金輪際忘れることは無いだろう。知らない顔、瞳、そのはずなのに彼を彼だと────、隊長だとわかるのには十分で、気がついた時にはぼろぼろと今のように涙が溢れ出て止まらなかった。なんで、だとか、いつ起きたの、だとか、色々聞きたいことがあったのに全部声にならず、しゃっくり声にも似た声が変則的に喉からこぼれ落ちる。
感動の再会、というのは言うまでもないのだが、この光景を傍から見れば高校生を泣かしている社会人にしか見えない。見た限り人が通っていないとはいえ、どこに目や耳があるか知れたものでは無いため、近くに車を停めてあるからと誘導され、今ここにこうしているわけだ。
涙と鼻水でべしゃべしゃになった顔は隊長によって綺麗に拭き取られ、それでも収まらない様子だからと先程の通りにハンカチをもう1枚貸してもらった。自分でも持っているが、今更取り出す余裕もなければそもそもそんなこと頭にはなかった。
全く落ち着く様子のないオロルンを辛抱強く待ち、そうやって気遣いを見せてくれる所作はやっぱり全てが隊長で、恐らく今のオロルンは隊長の一挙手一投足全てが涙腺にはたらきかけてしまうのだろう。
すんすんと鼻を鳴らして、落ち着いてきた様子を見せ始めるオロルンだが、隊長にとっては小さな刺激すらも大きな刺激と受け取ってしまうくらいの脆い橋を渡るようにも思えた。
「すまん、驚かせてしまったな」
「ご、ごめん……ぼく、君ともう一度会えるのが嬉しくて……っ」
ずっと泣いているからか申し訳なさそうな顔をされてしまう。それに慌てて首を振り、戸惑いはもちろんあるが嬉しくて嬉しくて涙が止まらないのだと。そう言おうとするとまた感情がめちゃくちゃに混ざって、しゃっくりと共にポロポロと涙が溢れてくる。
「…そう泣いてくれるな。お前に泣かれると、どうすればいいのか分からなくなる」
涙を拭われ、柔く抱きしめられる。これ以上刺激しないようにという気遣いだろうが、まだまだ隙間があったためオロルンの方からぎゅっと抱き締めて、その隙間をなくしてしまった。彼から香る匂いは、やはりあの頃とは変わって───香水をつけているのだろうか───シトラスのような香りがするけれど、でもやはりその本質は変わっていないようで安堵する。
気遣いを無為に扱われ、さらに距離を詰めてきたオロルンを一切邪険にすることはなく、驚いた様子ではあったもののむしろ落ち着くように背を何度もさすった。その甲斐あってか、徐々にオロルンの涙が止まっていき、ほんの少しの衝撃で今にも決壊しそうなのは誰が見ても明らかではあったが、本人が止まったと涙声で言うから一応止まったようだ。
「久し振りだね、隊長」
「あぁ、息災で何よりだ」
2人して抱きしめあったまま、頭一つ分ほどの差があるにもかかわらずその視線はしっかりと相手を見つめて離すことは無い。
「君はいつ目覚めたんだ?僕、てっきり君は永遠にあの玉座にいるものだとばかり…」
仮面の無いその頬に触れ、そっと撫でる。すると隊長は頬に触れた手を包み込むようにその手を握り、離さないと言わんばかりに更に頬へと手を押し付けた。
「俺もその気でいた。だがいつ目覚めたのは定かではないが、夜神の国で目覚めた時早く転生するよう部下たちに急かされてな。何が何だか分からなかったが、あんなにも急かされたのはこの日のためだったのかもしれん」
思わず、その歯の浮いたような言葉に青と赤のヘテロクロミアが半眼になる。
「…君、随分ロマンチックなことを言うようになったな」
「俗世に染まれば嫌でもこうなる」
前世の隊長ならば絶対に言わなかったであろう言葉。私が生まれてきたのはあなたに会うため、にも似通ったセリフをまさか生で聞くとは思わなかった。ばあちゃんが読む本に出てきそうなセリフで、自分には一生縁がないと思っていたのに。
「まさか君、誰にでもそんなことを言ってるんじゃないだろうな」
あまりに淀みなく言葉がするりと出てきていたものだから、その交友関係に口を出すつもりは無いがやっぱり疑ってしまうし気になってしまう。例えば元カノが居たのかな、とか。
そういうヤキモチにも似た気持ちが伝わったのか、ふっと小さく笑った後に目と目をしっかり合わせてきて口を開いた。
「お前だけだ。お前以外、言うつもりはない」
硬い口調。でもどこか緊張しているように強ばっていて、そういう所が可愛らしいと思うのだが、なんだかこちらが照れてしまう。じわじわと顔が熱くなって、心臓がどくどくと波打ってきて仕方がなくなってしまったから、それを何とか誤魔化そうと目線を逸らした。
それで、話題を変えようと口を何度かもごもごとさせて、あー、だの、うーだの所在なさげに声を出す。
「き、君のことは、なんて呼べばいい?隊長?それともスラーイン?」
あぁ、今世での名前という手もあったかな。
話題の替え方が少々強引だったとは自覚しつつも、隊長はそれを指摘する気はないようで少し考える素振りを見せて、数秒経った後に決まったらしくオロルンの方へと向き直った。
「スラーイン、と。お前に名を呼ばれるのは心地いい」
小さく頷き、すらーいん、すらーいん、と何度かその名前を口の中で転がす。前世でも隊長呼びの方が多かったけど彼が眠ってしまってから寂しさのあまり何度も呼んでいたから、すぐに舌に馴染んだ。
「…うん。よろしくね、スラーイン」
そうやって右手を差し出せば、スラーインの大きい右手にぐっと握られてちょっと痛いくらいだった。痛いぞ、なんて抗議しようとしたが、その顔を見てやめてしまった。
なんというか、気恥しいというのか、照れているというのか、ギュッと口を一に引き結んで一見険しい顔つきをしているのに、よく見てみれば口の端はかすかに緩んでいて、目元も少しだけ細められている。これは嬉しい時の顔だ、と気がついてしまって、少し痛くても振り払えるはずがなかった。
「……それで、お前はどうしてここに?」
軽く咳払いをしたスラーインがそう尋ねる。ここは学生が遊べるような娯楽施設はなく、なおかつ一人でいたのだから不思議に思ったのも仕方がない。正直に話すべきか迷ったが、どうせこの先伝えるのだから今言ったところで変わりはしないだろう。
「僕、今世もオメガなんだ。だから通院でここまで来たんだけど、電車が止まっちゃってるみたいで帰るに帰れなかったんだ」
彼は表情を変えなかった。むしろ電車が止まった方に顔を顰めて、それは災難だったな、と言って特に驚くことも無く受け入れてくれるのだ。前世も確かそんな感じで、僕にとっては一世一代の告白だったのだが彼は今みたいな反応で、そうか、とだけ返答し、拍子抜けしたのを覚えている。今も昔も第3の性別については何かと問題で、オメガと言うだけで世間からの風当たりは強い。僕の知り合いの中で、気の毒そうな顔をしてこちらを見る人は多かったから。だから、隊長もきっとそんな顔をする。そう思っていたのだ。
でも実際は違って、それを知っているから今みたいに伝えてもこれといった手応えもなく、さっと現状を把握してくれる。
「オロルン、時間はあるか?」
すると、隊長がシートベルトを締め始めてエンジンをつけ始める。震え始めた車体と、ナビを操作する手。まるでどこかに行くような素振りだ。その瞬間、オロルンの脳はひとつの可能性を浮かばせ、その事象に胸は高鳴った。
……もしてかしてこれはどこかに、誘ってくれているのだろうか。つまり、デート?
「…うん!僕、今日はずっと暇だよ!」
弾んだ声と、輝いた目、顔が緩むのを抑えられない。これはデートだと期待していいのだろうか。
スラーインはほっとした様子を見せて、ちょうどいい所にカフェがあるからそこに行こう、とハンドルを切り、運転をし始めた。その横顔が明らかに緩んでいるものだから小さく笑ってしまって、きっと前世でも、僕の知らないうちにこんな表情をしていたのだと容易に想像がつく。
前世は周囲の警戒を名目にしか2人きりになれなかったけれど、今世は違う。そんなしがらみは無くて、学生と社会人という社会的な枷はあるにしろオロルンだってもうすぐ成人だ。それに、大学も行く。そうしたなら、きっと彼とはもっと対等になれるだろう。
彼は、前世の誓いを覚えていてくれたのだ。
今度こそ、君と番の契約を結びたい。
いつかそう言える日が来ると、信じていた。
例えどんな悲惨な別れ方をしても、どんなことがあっても、今度こそ、一緒になろうと。そう誓い合ったから。
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彼は、意外と甘党なんだと知った。
彼が頼んだチョコレートのパフェが僕の方に置かれて、僕が頼んだアメリカーノが彼の方に置かれたあの時の渋そうな彼の表情は、何度思い返しても面白いもので、ケラケラと笑いながら交換した。
今世での生活、学校、前世にいた人と会ったこと…他愛もない話をして、彼はチョコチップの入ったアイスをつつく。前世で彼が食べているところをあまり見た事がなかったから、なんだか彼もそういう娯楽を知ったのだとつい嬉しくなってしまった。
彼も彼自身の話をしてくれて、今はどこに勤めているのかとか、面白かったこと、前世では興味を持たなかったものに興味を示し始めたこと…隊長としてではなく、スラーインとして生活する方が息がしやすいこととか。あと、パフェの上に乗ってるミントは好きじゃないとか。
彼が生を謳歌できているようで何よりだ。
カフェから出る際、自分の分は自分で払おうとしたのだが、それよりも早くカードで支払われていて、これほどまでに己のネットへの疎さと未成年はカードが作れないという事実を恨んだ日は無い。
そして今、彼の車に乗って家まで送ってくれるらしい。暗くなるまで連れ回すのはさすがに大人としてどうかと考えたらしく、また会えるようにと彼は連絡先を交換して、いつでも来てくれと合鍵まで渡してくれた。そこのラインはセーフなのか。
いつも電車でしか通っていなくて、ゆっくり見ることのなかった全く知らない景色が車窓にとうとうと流れていく。
「俺が眠ってから、どうしていた」
あたりは田園風景で、車ひとつとして走っていない。ナビから流れる音量の小さな、誰かわからないアーティストの歌が孤独に歌い続けていた。
「……どうって…そうだな、君が眠ってからそりゃもちろん寂しかったけど、ずっとそれが続くのなんて、君は望まないだろ?だから、ちゃんと立ち直れるように頑張ったんだ。まぁ、立ち直ったあとも別に畑仕事とかしてただけなんだけど……あぁ、そうだ。他の国にも行けるようになったから、旅行に行った人に種とか色々貰ったよ。モンドの……えっと、レインボーローズが咲いたんだけど、とっても綺麗だったんだ」
「……そうか」
いつもなら直ぐに返してくれる相槌に、変な間があった。運転しているスラーインをこっそりと横目に見てみるが、その表情に何か変わった様子は無い。でも、なんだか一瞬だけモンドと言った辺りで空気が変わった気がしたのも事実。…もしかして、僕がほかの国で誰かを想ってしまったのかという心配をしているのだろうか。
「安心してくれ!……君以外を想ったことは無いよ」
「その点については心配していない」
いつものように、即座に返された。どうやら違ったらしい。ならば、先程の間は一体?
……まさか、勘づかれたのだろうか。僕はどこかでボロを…いや、そんなはずない。何も妙なことは言っていなかったはず。
さっきの妙な間はなんだったんだ?なんて馬鹿正直に聞けるわけがなく、雨が降るのか降らないのか微妙なラインの雲のように、ハッキリとしない思いが燻る。オロルンにさり気なく聞くなどという芸当ができるはずもなく、気のせいだと言うことにしたらしい。
「あ、そうそう、君が眠ってからすぐの話なんだけど、栄華の演舞が開催されてね……」
……………………
……………
……
時間というものは、早い。あっという間に過ぎていくものだ。
僕は喋る方では無いのにベラベラと色々話してしまって、その一つ一つに丁寧に相槌や質問をしてくれたりするものだから、僕も話すのが楽しくなってしまった。彼の話も聞きたかったのに結局自分の話しかして居なくて、家の前に車が停められてすこし膨れた顔をしていると、少しはにかんだ様子の彼が、次会う時には俺の話もしてやろう、なんて次の約束を取り付けてくれたのだ。
「楽しみにしてるよ、スラーイン」
満面の笑みでそう返せば、彼は小さく頷いた。その穏やかな顔はやっぱり前世では見られなかったもので、おそらく今世も表情の起伏が薄いであろう彼にそんな表情をさせることが出来てなんだか嬉しくなってしまう。
もちろん今までもばあちゃんやイファがいて「幸福」な日々を送っていたけれど、スラーインがそこに加わることによって、多分最上級の幸福へと昇格した。
僕が無意識のうちにニヤニヤと笑っていると、彼は小さく首を傾げて不思議そうにする。
「じゃあね、スラーイン」
「あぁ。次の機会にはシトラリに挨拶でもしておこう」
空が薄暗くなり始めて、電灯も少ないこの田舎では外で話すのにはあまり向かない時間帯になってきた。かなり冷えても来たし、風邪をひかせてしまうと申し訳が立たない。社会人の風邪は恐ろしいと聞く。そろそろ、と彼に声をかければ彼も暗くなり始めた空を見て、ポケットに入れてあった車の鍵を取り出した。ピッと少し離れたところに車が音を出して、鍵が解除される。
「ばあちゃんもきっとよろこ…びはすると思うけど酒瓶が投げられることだけは覚悟しておいてくれ」
今日の夜、ばぁちゃんが帰ってきた時にスラーインのことを報告するつもりだけど、多分ヤケ酒するのだろう。
「…肝に銘じておこう」
顔をしかめる彼の姿がなんだか面白くて、けらけらと笑っていると、不意に彼の手が伸びてきた。
「オロルン」
耳朶を打つ、低くて穏やかな、甘い声が僕は大好きだ。伸ばされた温かい手は、僕の頭の上に乗せられるのだろうか、それとも頬を撫でてくれるのだろうか。どちらにせよ、僕は彼の手が大好きだ。その手を受けいれ、もっと触れて欲しい、そう思ってしまうくらいには。
僕は、そっと目を閉じた。
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何かを、あいつは隠している。
星がよく見えた場所から、ほとんど見えないほど地上が明るい所へと帰って、ひとりで住むには少々広すぎる自宅へと戻る。鍵をカウンターの上に置き、スーツをハンガーにかけて、シャツを洗濯機に放って風呂の準備をした。
でもその間も、その言葉がずっと頭の中をぐるぐると回る。風呂に入っても、夕食を食べても、仕事の資料を確認しても。その言葉が、頭から離れない。
これ以上読み込んでも無駄だ、と机の上に散らばっていた資料を片付け、自身は立ち上がって冷蔵庫へと向かう。普段あまり飲みはしないが、よく冷えた缶ビールを手に取ると、プシュ、と軽快な音が台所に響き渡った。好みの味では無いが、別に嫌いな味でもない。
その足でまたリビングへと戻り、ソファに腰を下ろした。そして、考えるのだ。今日の彼の、おかしな所を。
縛られるのを好まない性格をしているのに、その首を保護するチョーカーはとても堅固なもの。
食べ物を無駄にしないはずのあいつが、最初に飲んだっきり最後まで、あまり手をつけなかったコーヒー。
友達や学校の話をする割には、あまりに真っ白な肌。
植生に詳しいはずだというのに、フォンテーヌに咲くレインボーローズをモンドのものだと間違えたこと。
前世の話を振ると、時折引き攣る口元。
極めつけは、頬を撫でようとした瞬間、その目には確かな恐怖が宿って足は1歩後ろへと下がっていた。そして、彼に触れることは叶わなかった。
乾いた音を立てて、強く払われた右手に視線を落とす。明確な、拒絶だった。いや、恐怖による防衛本能とでも言うべきか。得体の知れない化物を見た時のような、暗闇にひとり取り残されてしまったような、そんな恐怖が彼の影に付きまとっている。
それだけのヒントを与えておいて、何も無かったというのは有り得ない。前世に彼がそのような『恐怖』を抱く要因があり、その経験が彼の今の生活にも影響を及ぼしていると考えるのが妥当だろう。
結露の出た缶を机に置き、大きなため息を吐いた。
それにしても、あの拒絶は堪える。あの後すぐに顔を真っ青にして謝って来たためわざとでは無いとその瞬間から分かってはいたが、愛しいと想う者からの拒絶は、どれだけ精神を鍛えたとしても鋭く穿ち、鉄壁だったはずの心がまるでガラスのように砕け散る心地がする。
出来ることならば、もう二度と味わいたくは無い。だが、そうともいかないのは知れている。
俺が手を伸ばした瞬間、彼の瞳には俺では無いナニカが映った。オロルンを恐怖に陥れ、長年彼を苦しめ、雁字搦めに捕らえるナニカ。人なのか、獣なのか、あるいは別のものなのか。何も分からないが、随分と、心の深い所まで根を這わせているらしいそのナニカを知らなければ、根本的な解決には至らないのだろう。
ソファから立ち上がり、カウンターに置いていたスマホから会社へ暫く休むと言った旨のメールを受信する。有給が溜まりに溜まり、休んでくれと部下から散々言われてきたのだから快く受理してくれるはずだ。
ナニカの正体を彼本人に聞くのは最大の悪手だと言ってもいい。でなければ、隠すなどということはしないだろう。だから、休暇を取った。
俺が眠りについたあと、何があったのか。それを知るために。
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長官が、やっとお眠りになられた。
500年もの間、我らの魂の嘆きに耳を塞ぐことなく、その身がたとえ朽ち果てたとしても、我らの還る場所を求めてくださった。
我らの魂が夜神の国に解放された後、長官はこれまでの疲労と言う二文字では到底片付けられないほどの苦痛を、ようやく手放されて、その目を閉じられたのだ。
ある時、一人の青年が夜神の国へと還った。
先の大戦で死に、魂を受け入れられたというファデュイの数名がその青年に駆け寄り、なにやら話す様子が見受けられ、私はその話に聞き耳を立てることにした。
『オロルンじゃないか!久しぶりだな!…その姿、随分若くして死んだのか』
『まぁ、ね』
ここでは時間の流れが曖昧だ。現世での時間の流れが全く掴めず、そのオロルンと呼ばれた青年が死んだ時期というのも果たして大戦の何年先だったのかは分からない。
だが、なんだか青年の面持ちは暗いように思える。
『隊長様に会っていくだろ?』
『……』
青年は何かを言おうとするが、そのまま口を噤んでしまう。ファデュイは久々に会えた顔なじみに興奮しているのか、にっこりと笑ったまま何も答えないオロルンに気が付かず、話し続けた。
『隊長様は今眠っておられるけど、お前が来たならもしかしたら目覚められるかもしれない。お前と話している時の隊長様は、すごく落ち着いてるように見えたからな。なんてったって、お前と隊長様は───────』
青年と、長官。その関係性を知るよりも前に、青年が焦った様子で口を開け、自ら遮ったというのに視線を彷徨わせて、取り留めのない1文字を何度か零し、言葉にした。
『ぁ、え、と…か、彼には合わせる顔がないというか、その……、僕じゃ、あの…と、とにかく彼が目覚めた時に、よろしく伝えといてくれ。僕は君の地脈のおかげで、健やかに生きられたって。……その、ごめん、僕はもう行く、行かなきゃ…』
ファデュイが止める暇もないまま、青年は慌ただしい様子で走り去って行った。まるで、何かから逃げるように。
後から聞いた話だが、長官とあの青年は互いに想いを通わせていたのだという。尚更、疑問が深まった。何故、長官に会って行かない?合わせる顔がないというのは、なんだ。
我らがその真相を知ったのは、ナタで十数年の時が経ったあと。顔に傷を負った竜医が、全てを打ち明けたのだ。
そして我らは知った。知ってしまった。
あぁ、この蛇の胎動のようなうねる怒りはどこにぶつければいい?力任せに全てを斬り捨て、叫びたいような憤怒は、どこに埋めればいい?海に溶けた人魚を思うような哀れみは、どう放てばいい?
なにが、何が健やかに生きられたというのか!
我らは知ったのだ。声をふるわせた溜息を吐こうが、足元から真っ暗になって崩れ落ちようが、絶望に陥った頭を抱えようが、既にどうにもならない真実を知ってしまったのだ。
あの青年には、オロルンには。
もう二度と、春は訪れないのだろうと。