薄くなったアイスコーヒーの理由【黒夜久】『仕事何時に終わる?』
ぽこんと間の抜けた通知音に慣れた手つきでスマホを操作すれば、恋人からのメッセージだった。親善試合前の合宿中のはずの夜久から連絡が来るのは珍しい。つい数時間前、練習場に顔を出した際練習中の姿を見かけたけれど、声をかけることも出来なかった。何かあっただろうか? と一瞬不安がよぎったけれど、怪我などの情報ならいち早く届くような職場にいる。そういう話は聞いていないから怪我などではないとホッと息を吐いた。
声でも聞きたいとか? だったらいいなと思ったものの、夜久に限ってそれはないかぁと肩を竦める。とりあえず、仕事を早めに片付けて、今会社出たとこって返事を入れた。
今日は車で来ていたので、眠気覚ましに乗り込む前にコーヒーでも買うかとふらりと駅前に向かう。目的のカフェの手前で返事をしたきりうんともすんとも言わなくなったスマホを手に信号待ちをしていたら、突然震え出した。液晶に映し出される名前は『夜久』。それを確認して、すぐに通話ボタンをタップしそうになった自分に待てをして、ゆっくり一呼吸。緩みそうになる口元に力を入れて、通話ボタンをタップした。
「どしたの、やっくん?」
ホテルの部屋からだと思っていたのに、それにしては周りが少し騒がしい気がした。
『こんな暑いのに、お前ンとこクールビズじゃねぇの?』
唐突な話題はいつものことだ。何事だろうと思いつつも、向こうも練習場でこっちの姿を見かけたのだろうくらいに思っていた。
「今日はちょーっとかしこまったトコ行く用事があったからさ」
『ふーん。あつそ』
「なぁに? 心配してくれんの?」
即座に答えが返ってくるだろうと思ったからかいの言葉に、だけど夜久はすぐに反応しなかった。
しばらく無言が続く。本当にどうした? と不思議に思っていたら、信号が赤から青に変わった。歩き出そうとしたけれど、同じ信号で停まっていた先頭の車が脇見運転をしていたらしく発車が遅れたらしい。けたたましいクラクションの音に少し顔を歪めた。
…………?
『…………お前、なんて顔してんだよ』
しばらくの沈黙のあと、聞こえてきた夜久の少し怒ったような声に、顔? と首を傾げる。え? まさか? と思い、あたりを見回した。
自分の近くで鳴った音の方がうるさくて気のせいだろうと思った、受話器越しのクラクションの音は気のせいなんかじゃなかったらしい。
今向かおうとしていたカフェのテラス席。少し見上げる位置にあるその場所に目を向ければ、ふわふわと揺れる薄茶色が見えた。
『やっと気づいたか』
視線の先でにやっと笑われ、声を上げそうになる。なんとか口をおさえてやり過ごし、早足でカフェへ向かって歩き出した。
いつも後ろに流している学生の頃より長めの髪をセットせずおろしている。変装のつもりか黒縁メガネまでかけて、何やら涼し気にレモンが浮かべられた飲み物を飲んでいた。Tシャツにハーフパンツなんて軽装なせいもあって、学生と言われても疑うやつはいないだろう。
え、なんで? どうして? 出てきて平気なのか? 聞きたいことはたくさんあるのに、驚きすぎて言葉にならない。無言のままでいたせいか、プッと音を立てて通話は切れ、夜久の姿は店内へ消えていった。
慌てて後を追おうとしたけれど、店の入口付近に夜久がいるのが見え、店の前で待っているとドアがひらいて夜久が出てくる。
「おつかれ」
アイスコーヒーを差し出され、どうもって受け取った。ねぇ、アレって。え、そうじゃない? なんて、周りが少しざわついた気がして、夜久の手首を掴む。
「なんだよ?」
「少しは有名人の自覚持ってよ」
相手は日本代表様だ。変装みたいな格好をしていたって気づく人は気づくだろう。柔らかそうな明るい髪色も大きな目もあまり隠れていない。人目につく場所から離れようと手を引いて歩き出した。
野球やサッカーなんかに比べたらメジャーなスポーツというわけではないものの、代表戦がある時はテレビでも大きく取り上げられるようになってきていた。モンジェネと言われる世代の実力のおかげだろう。強ければそれだけ知名度も人気も上がる。
「ま、お前の頑張りの成果だな」
あまりにあっさりと、当たり前のことみたいに、後ろから聞こえてきた声に鼻の奥がツンとした。
「泣いちゃうからやめて」
「何だよ、泣いてんのかよ?」
けらけらと笑われ、顔を覗こうとしたのか少し早足で歩いてきた夜久が隣に並ぶ。
「ねらってやってんの、それ?」
そんなはずないのはわかってるのに聞きたくなる。
「何が?」
「こんなとこじゃ抱きしめられないんですけどぉ」
案の定な答えに、大げさに嘆けば、
「確かに。不審者だな」
とまた笑われた。
早足で車までたどり着くと、「何、お前車なの?」と聞く夜久を後部座席に押し込んだ。その後を追うように自分の身体も滑り込ませる。せっかく買ってもらったアイスコーヒーをドリンクホルダーに突っ込んで、狭いだなんだと文句を言っている夜久をぎゅうっと抱きしめた。練習後シャワーを浴びたのだろう。ボディーソープか何かの知らない香料に汗の匂いが混じる。何が、と聞かれると明確に答えられるものじゃない。だけどどんな匂いをまとったってわかる夜久の匂い。それにホッとして息を吐き出した。
「タイムリミットは?」
「22時にはホテル着」
ちらりと時計を確認してため息をつく。
「……1時間もないんですけど」
「ここからホテルまでそんなかかんねぇだろ?」
不満を口にすれば、首を傾げたらしく、自分の耳を夜久のやわらかい癖っ毛がくすぐった。
「何も出来ないじゃん」
この大事な時期、この大事な身体に何かするつもりなんてひとつもないくせに。ふてくされたみたいに言えば、腕の中でごそりと動いて位置を変えた夜久の顔が突然目の前にあらわれた。
驚いているうちに、下唇が柔らかい感触に挟まれる。初めてでもないっていうのにレモンの香りがほんのりと香った。
「キスくらい出来る」
何故かドヤ顔で自信満々に言われ、もー! と頭を抱えたくなった。それ以上出来ないのに、触れてしまえばそれだけじゃ終われないから言ってんのに。
「次帰ってきた時覚えとけよ」
悔し紛れに低く唸れば、
「おう。期待してる」
なんてからりと返された。
下腹部にたまっていく熱をなんとかしたくて吐き出した溜め息は微熱でもあるのかってほど熱く喉を通り過ぎる。
「んで、どしたの?」
「ん? 顔見たくなった」
誤魔化すみたいに話題を変えたっていうのに、どストレートな言葉にまたしてもぐぅ……と唸ることになった。上機嫌らしい夜久が、んははって笑う。力任せにぎゅうぎゅうに抱きしめてやったけれど、「あ、あと30分」と腕の中から無情なカウントダウンが聞こえてきた。
自由気ままな猫みたいなこの男に軽く10年以上振り回されている。だけどそれを悪くないって思ってるんだから、自分も相当末期だろう。
貴重な「恋人の時間」はあと少し。たった30分を有意義に過ごすべく、まずはさっきのキスのお返しをすることにした。