『愛おしい』ってやつだろ?からんとまあるいグラスの中で氷が音を立てる。冷たい飲み物の中で、緩やかに溶けていった氷がグラスの中でくるりと滑っているらしい。
涼し気な音とは裏腹に日本の夏ってやつは日が落ちたこんな時間になってもじとりと暑いままだ。
効きすぎた空調の中で身体を冷やしたくはなくて、夜だから平気だろうとテラス席を陣取ったけれど、日本の暑さを舐めていたかもとちょっと後悔し始めていた。
てか、あいつが遅いのが悪くね? なんて思えてきて、出てくるまで待っていようと思っていたのに早々にスマホに手を伸ばした。
『仕事何時に終わる?』
すいすいと画面上に指を滑らせ、メッセージを送る。すぐ既読のついた割に、返答までは少しの間があった。
まだ仕事中かぁと少しぬるくなったアイスティーをずずっと啜る。その音がやたら不満げで自分の気持ちの代弁みたいだと少し笑ってしまった。
親善試合前の合宿で日本に帰国中の夜久がカフェにいる理由は、恋人の顔を見たくなったからという単純なものだった。
練習が終わって、ホテルに戻り、ミーティングなども終わって、各々好きなように過ごしていい自由時間が与えられたのは数時間前のことだ。
コンビニまでふらりと出かけていくもの、好きな映画やテレビ番組、アニメなどを見始めるもの、マッサージやストレッチなど身体を整え始めるもの、ただただ休息に充てるものなど過ごし方は人それぞれ。
夜久と同じように海外のチームに所属しているものや、出身地から離れたところに本拠地をかまえる国内のチームに所属しているものなどは、久しぶりに会えるとスタッフに許可をもらい、出かけていくものもいた。
普段ならきっと夜久もマッサージやストレッチなど身体の調整に使っていたかもしれない。だけどその日は、家族や恋人と会えるのにをしゃいでいる他のチームメイトにあてられるように、ふと顔が見たいなと思ってしまったのだ。
両親や、かわいい弟たちじゃなく、思い浮かんだのは恋人の顔で。
つい数時間前、こんなに暑い最中着崩すこともなく、ワイシャツにスラックスという暑そうな出で立ちで練習場に来ていたのを見かけた。
見かけたとは言っても後ろ姿のみだ。多少整えられてはいるものの、あいも変わらずおかしな寝癖をつけた後頭部と、見慣れた……でも見慣れない広い背中だけ。
こっちは練習中で、あっちは仕事中。だから代表の合宿や試合などに黒尾が来ることがあったとしても、顔さえ合わせないことだってよくあった。当たり前だと頭ではわかっていても、心では声くらいかけろよなって不満に思ってしまう。
仕方ないじゃないか。だって、なかなか会えないんだから。
だけど、今いるのは日本で、ふたりの間にある長い長い距離は普段に比べるとないに等しい。なら、会いに行けばよくね? って思ってしまった。思い立ってしまえば、夜久の行動は早いものだった。
簡単に身支度を整え、スタッフに大体の戻り時間をつたえると、ホテルのエントランス前に待機していたタクシーに飛び乗る。
向かったのは黒尾の勤め先の最寄り駅だった。
突発的な行動だから、約束なんてしていない。突然来たなんて言ったらあいつどんな顔するだろう? とちょっと楽しくなってきてしまった夜久は連絡することなく待ち伏せしてやろうと黒尾の勤め先まで目と鼻の先という距離のカフェに足を向けた。
待つこと数十分。退屈さと暑さにやられ、した連絡にはまだ返事が返ってこない。
せっかくここまで来たけど、黒尾が忙しくしているのはわかっていた。練習場にも本当に顔を出した程度だったのもきっと激務のせいだろう。
会えないなら仕方ねぇなと諦めかけた頃、ぽこんとスマホが間抜けな音を立て、『今会社出たとこ』ってメッセージが届いたのを知らせてくれた。
駅に向かって来たところを驚かしてやろうなんて、人通りに目を向ける。他の人たちより頭ひとつ飛び出した長身、見知ったおかしな寝癖頭は割とすぐ夜久の視界の中にあらわれた。
すぐに見つけたその姿が店の近くの信号につかまる。もうすぐそこの距離がもどかしくて、夜久は驚かしてやろうなんて思っていたのも忘れつい通話ボタンを押していた。
耳慣れた接続音が聞こえてくると、視線の先にいる黒尾が手にしたスマホに目を落とした。
着信が夜久からであることなんて、黒尾ならすぐ予想出来ただろうに、何故か少し驚いた顔を見せる。黒尾の身体が少し揺れた気がした。だからすぐにつながるかとか思ったのに、接続音はいまだ続いたままだ。
ん? と首を傾げれば、向けていた視線の先で黒尾はゆっくりと一回ふぅと息を吐き出した。むにゅりと唇が歪んだあと真一文字に引き結ばれる。
変な顔してんなーって見ていたら、やっと機械越しの声が届いた。
『どしたの、やっくん?』
いつも通りの黒尾の声だ。何故か安心して、自分もいつも通りに言葉を発した。
「こんな暑いのに、お前ンとこクールビズじゃねぇの?」
もう仕事も終わったからだろう。練習場に来た時と違い、袖は肘の少し下くらいまで捲られている。ネクタイも緩んでいて、ボタンが2つくらい外されていた。
『今日はちょーっとかしこまったトコ行く用事があったからさ』
「ふーん。あつそ」
それでも暑そうなことに変わりはなくて、素直な感想を口にする。
『なぁに? 心配してくれんの?』
からかいを多分に含んだ声はよく聞く声だ。さぞ腹立つニヤつき顔で言っていることだろうと、じとりとした視線を向けた先、そこには予想とはまったく違う黒尾の表情があって、夜久はいつもなら速攻で応酬するはずの口をぽかんと開いたまましばらく動けなくなってしまった。
ああ言えば、こう言う。自分の知る限り黒尾ってやつはそういうやつだ。だから、恋人という関係になったのだっていまだに信じられない時がある。
だってあいつが人様の意見にわざわざ突っかかるのなんて、自分相手の時だけなのだ。
なんなんだ、あいつ。むかつくなと思うことは、お付き合いが長く続いている今でもよくあることで、ふたりの関係が始まった時から知っている海や研摩にグチることもしばしばあった。
「あいつ、ホントに俺のこと好きなのかよ」
なんて酔った時にこぼせば、その度ふたりは同じことを言ってくるのだ。
「クロ(黒尾)はすごくわかりやすいよ」と。
片やものすごく嫌そうな顔で、片やいつもどおりの穏やかな笑顔で。
けたたましい音に、はっと現実に引き戻された。
信号が青に変わったらしい。それに気づくのが遅れた先頭車両に後続車両がクラクションを鳴らしたようだった。
不自然に無言の間が続いてしまったのを取り繕うように何かを答えようとした。熱中症甘く見るなよとかそういう当たり障りのないことを。
なのに、視線の先には見慣れない黒尾がいて、動揺してしまう。
ニヤニヤとむかつく表情をしているのだろうと思っていたのに、夜久の視線の先にあるのは黒尾のひどく穏やかな笑顔だった。
胡散臭いとか食えないなんて言われるいつもの笑い顔じゃない。その表情が何を表しているかを、もう30年近く生きてきて、その半分くらいをこの男と過ごしている夜久はちゃんと知っている。
それって、アレだろ……?
追い打ちをかけるように、ふたりの『クロ(黒尾)はすごくわかりやすいよ』って声まで聞こえてきて、
「…………お前、なんて顔してんだよ」
とつい不貞腐れたみたいな怒ったみたいな声を出してしまった。
え……と小さな声が受話器の向こうから聞こえてくる。すぐに周りに視線を動かした黒尾の目が夜久を捉えたのはその直後だ。
ひどくマヌケな驚き顔をさらしている黒尾に、動揺と羞恥心が少しだけ落ちついた。
「やっと気づいたか」
してやったりとでもいうかのように笑えば、慌てて口をおさえた黒尾がその無駄に大きな歩幅で自分の方へ向かってくる。
暑さだけが理由じゃない、きっと赤くなっているだろう顔を誤魔化すように夜久は、もう必要なくなった通話を終わらせ、するりと店内へ入っていった。