欲を満たしたいと望むこと一、そんな今日の二週間前
「え?なんで知ってんの?」
ネロ、結婚したんだろう?と、ファウストに軽く聞かれた。本当に軽く。そしてつい口をついた言葉がこれだった。
「俺、まだ誰にも話してないんだけど……」
店の臨時休業中。引きこもりすぎて頭がおかしくなりそうで、遊びに寄った嵐の谷。そこにあるファウストの家。手土産にと、朝から作ってバスケットに入れたシナモンチュロスの存在もすっかり忘れ、俺はただ立ち尽くすしか無かった。
「はい」
おもむろに差し出されたのは一部の新聞。厚みはあまりない。どうやら号外のようだ。俺は何を言うでもなく、バスケットを差し出し、受け渡し、そうして空いた手でそのままその新聞を受け取った。
「この間、ヒースとシノが遊びに来てくれたんだけど、その時に彼らからもらったんだ。なんでも街中で号外として配られていた新聞らしいよ」
手渡された新聞には『独占スクープ』の記載。その下に踊る文字に目を疑う。
――死の盗賊団頭領ブラッドリー・ベイン、獄中結婚――
「は!?」
すぐ傍らでは、
「シェフの特製シナモンチュロスか、ありがとう」
なんて呑気な台詞が発されたが、右の耳から左の耳へと抜けていき、そのまま記事を読み進める。
記事には、『死の盗賊団盛衰記』で有名なブラッドリー・ベインが獄中結婚したことが書かれていた他、盛衰記に記されている死の盗賊団の人気エピソードや、中央の国での獄中結婚のメリットなど法律にまつわる話まで……とにかくブラッドリーやその結婚に関連した話がわんさか載っていた。ただし、結婚相手については現時点で公表されていないと記されている。
「……先生さ、これでなんで俺が結婚したってわかった訳?」
シナモンチュロスを客人と共に食べるためだろうか、皿に並べながらファウストは言う。
「すまない、鎌を掛けたんだ」
ばさり、と新聞が落ちる音が響いた。
二、あれは今日のひと月前
あの何人もの魔法使い達がやられた〈大いなる厄災〉襲来からは、もう何年も月日が経っている。十年以上は経っただろうか。今では、あんな馬鹿みたいな強さの〈大いなる厄災〉がやって来ることはなくなった。もっと以前と同じように、年に一度魔法使いたちが集まって〈大いなる厄災〉をみんなで押し返す、ただそれだけの恒例行事に戻ったのだ。
長らく共同生活をした魔法使いたちは誰一人欠けることなく過ごせている。ただし、大きく変わった点を挙げるとすれば、共同生活が解消された点だ。何人かが負っていた〈大いなる厄災〉の奇妙な傷も癒えて、賢者と離れられない理由も無くなり、各々が己の心の向くままの生活に戻り始めたのだ。
魔法舎内の人数が減っていく中、俺はリケと賢者のことが心配になった。しかしそれも杞憂だった。リケは教団内の食事事情は自らが導いて改善すると豪語し、賢者は魔法舎に一人は寂しいから魔法使いの家で過ごす、と言っていた。皆随分逞しくなったもんだ。
けれど、きっと、今年の〈大いなる厄災〉襲来時も、一ヶ月程度はまた見知った面々と過ごすことになりそうだ。誰も約束なんてしていないが、皆大体一ヶ月前にはやって来る。なんだかんだ、あの共同生活の良さを皆知ってしまったのだと思う。
そうして俺も魔法舎を出た訳だが、賢者の魔法使いとして顔が割れているからには、もう東の国で飯屋はできないかもしれないと危惧していた。
しかし、実際に東の国へと帰ってみれば、魔法舎で過ごした数年の内に事情はすっかり変わっていた。賢者と賢者の魔法使い達が〈大いなる厄災〉による各地の異変を解決していったお陰で、賢者の魔法使いは危害を加えない良い魔法使いだ、という考えが東の国で広まっていたのだ。
あくまでも賢者の魔法使いに限られているところはまだモヤモヤするが、人間たちからの差別が薄まったのは良かった。お陰で俺もまた店を持つことができた。最初の頃は客足が少なかったが、最近は常連客も増え、地道に営業を続けている成果が出始めたように感じている。
*
今日は店の定休日。俺が来ているのは中央の国。後で買い出しに市場に寄る。そう、これは市場に寄るついで、あくまでもついで、だ。そうやって自分に言い聞かせながら毎回ここに通っている。ここと言うのは刑務所だ。月に一回、魔法を使って入る限りのフライドチキンをバスケットに詰め込み、ここに来る。
よく見かける強面な門番、数ヶ月前に入った受付の大人しそうな若者に、案内してくれる看守のおっさん。ここで働く人々の顔も、屋内の内部構造も、扉の鍵の種類まで、もうすっかり覚えてしまった。でも、扉の向こうの、あの部屋に行く、そのことを考えると毎回緊張する。通路を歩きながら、どんな顔すればいいんだろうとか、何を話そうと思っていたっけなとか、色んな考えが頭の中を駆け巡り、少しばかり心臓の動きが早くなったことを感じる。案内役が立ち止まり、すぐ、がちゃり、と扉を開ける音がした。促されて入る。
「よぉ」
面会室、結界の向こうの椅子にブラッドリーが腰掛けていた。この面会室の囚人と面会人を隔てる結界はフィガロの魔法によるものらしい、とは以前ブラッドリーから聞いた話だ。あの椅子もフィガロの魔法で固定されているらしい。
「差し入れ、持って来たから。後で食って」
「お!フライドチキンか!?さすがネロだぜ!」
あんなにぐるぐると考えたのに、話し初めは結局いつも同じ言葉になってしまう。次に何を言うんだっけ、と思えば、
「毎月毎月ありがとな」
と珍しく素直に謝意を表されたものだから、面食らってしまった。こいつ、ありがとうとか言う奴だったっけ?
「てめぇのフライドチキン、もっと食いてぇなぁ……」
そんなお強請りするような奴だったっけ?ああ、そうか、盗み食いできないから強請るしかないのか。まあ、でもそれは無理な話だ。なぜなら、
「中央の法で決まってるからな。家族でもなんでも無い奴は面会も差し入れも月一回なんだよ」
「ケチくせぇ法だなぁ……」
膨れ面して、こんな可愛い奴だったっけ?ああ、でも確かにこんな顔、昔はよく見てたかも。と思ったら、また鼓動が早くなってきた。
「仕方ねぇだろ。……結婚でもして家族になれば、週一回は差し入れできるけどな」
結婚だなんて余計なこと言っちまったなとも思いつつ、事実だしな、とも思う。実際中央の法ではそのように決まっているのだから。
「じゃ、しようぜ?結婚」
けろりとした顔で目の前の男は言う。
「あ?」
思考が止まって、一拍置いて、ようやく理解が追いついて、顔から火が出る。
「馬鹿野郎!冗談で言う言葉じゃねぇだろ!」
不敵な笑みを浮かべた男が、ブラッドリーが、くつくつと笑ってから話し出す。
「はっ。俺様は本気だぜ、ネロ。なぁ、次来る時、婚姻届持って来いよ。本当にサインしてやるから」
「てめぇ……何言って……」
「なんなら約束しておいてやろうか?てめぇと必ず結婚するってよ」
「そんな下らねぇ約束するんじゃねぇ!」
「下らなくなんかねぇよ。俺は真面目に言ってんだ」
すると、脇に控えていた看守がそっとブラッドリーに近づいて耳打ちする。
「本当か?じゃあ頼んだ」
今度は、向こう側にいる看守が、こちら側にいる看守のおっさんに耳打ちする。
「ちょっと待っててくださいね」
言いながら、扉の向こうに行ってしまった。何がどうしたのかわからず、俺はそのまま扉を見つめる。すると今度は結界の向こう側の扉が開く音がしたので、結界の方へと向き直る。先ほどまでこちらにいた看守だ。
「いやぁ、たまにいるんですよねぇ、今すぐ書きたいって言う人!」
ブラッドリーは紙を挟んだバインダーとペンを渡され、スラスラと何かを記入していく。
「ほらよ」
一式を再び看守に返し、
「あと、これも頼む」
と言いながら、自らの左手の指輪を一つ抜いて一緒に渡した。
「はいよ」
看守は気安く返事をして、また扉を出る。
「……何の書類?」
「あ?フライドチキンの追加発注」
「は?」
噛み合わない会話をしている内に、看守が戻って来た。
「どうぞ」
差し出された紙に書かれた標題こそ、
「婚姻届……?」
併せてペンと指輪も渡される。
「その指輪、シンプルで飯屋に丁度いいだろ?ちゃんと嵌めとけよ」
「これ、本気?」
それ以前に、現実か?
「やっぱり俺様の約束が必要か?」
俺の夢じゃなくて?
「それはマジでいらないけど……。ブラッド、婚姻届のことわかってんのか?これ、役所に出したら、俺たち結婚しちまうんだぞ?」
夢だとしたら、これは良い夢なのか?それとも悪夢か?
「てめぇの方こそ、誰に何言ってるのかわかってんのか?ちゃんと理解して書いてるに決まってんだろうが」
ブラッドリーは少し呆れたように首を横に振ってから、そのまま話を続ける。
「それは、てめぇが俺のものになるっていう契約書だろ?同時に、俺もてめぇのものになる。ネロ、てめぇは俺のことが欲しいと思うか?」
耳に入ってきたそれは悪魔の囁きか何かだろうか。理性と欲望が渦巻いて、胸の奥がめちゃくちゃに掻き回されたように苦しくなる。そりゃ、俺の答えは決まってる。けれど、それを俺が許さない。どうしたらいい?どうしたら……。
「俺は、てめぇの欲は嫌いじゃねぇ。あるならはっきり言ってみろ、俺様がちゃんと聞いてやる。俺は、お前のものにならなってやってもいい。どうだ?ネロ」
盗賊じゃなくても、欲は出していいんだぜ?と一層煽られる。
「……仕方ねぇからサインしてやるよ。フライドチキンの差し入れ回数を増やすためにな」
「素直じゃねぇなぁ」
言葉とは裏腹に、随分と優しい眼差しを向けられた。
「うるせぇよ」
妙に照れくさくなって、俺はブラッドリーを視線から外し、下を向いた。そのまま手元の婚姻届にサインをする。
「指輪、今嵌めてみろよ」
「今?」
持っていた筆記具を膝の上に乗せ、指輪をまじまじと眺める。確かに、シンプルで料理をするにも邪魔にならなそうではある。内径の大きさからして、薬指あたりが丁度良さそうかなと考え、どちらかと言えば利き手ではない方の右手薬指に嵌めた。
「絶対外すなよ。てめぇが俺のもんだって証だからな」
外すなよって言うか、
「外れねぇじゃねぇか」
びくともしない。
「予め魔法掛けといたからな」
確かこの刑務所は、どんな場所でも双子とフィガロ以外が魔法を使うと警笛が鳴るようになっていたはず、と思い出す。いつの間に?という俺の視線に、ブラッドリーはちゃんと気づいたらしい。してやったりと言わんばかりのドヤ顔を決めている。
「てめぇの指にその指輪嵌めてやるって決めた時に、俺以外の奴が嵌めたら外れないようにしておいたんだ」
マジでいつだよ。調子に乗りやがって。くそ。なんか今日、結界越しの癖にこいつに振り回されすぎじゃねぇか?腹立ってきた……。
「あっそ。じゃ、これ出しとくからな」
俺は書類に一部追記をしてブラッドリーに見せびらかした。
「あ!てめぇ!インクで書いたのに!書き換えやがったな!」
「これくらいなら魔法無しでも朝飯前だ」
「くそっ……手癖の悪い野郎だな……」
「……俺をこうやって育てた奴がいるんだよ。なんだ?出すの辞めるか?嫌ならこの指輪外しやがれ」
ブラッドリーは何かを諦めたように、はぁ、と一つため息をついた。
「……いい。そのまま出せ。それがてめぇの欲だって言うなら構わねぇ。指輪は絶対外してやらねぇ」
「マジで出すからな?後から無しとか言うなよ?絶対このまま出してやるからな!」
「なんだ?止めて欲しいのか?止めねぇよ。それとも、この期に及んでビビってんのか?あ?」
「うるせぇ!この足でこのまま出しに行ってやるよ!」
勢いに任せて立ち上がり、荒く扉を開けて面会室を飛び出した。このまま建物を出てしまおうと思ったが、筆記用具を借りたままだと思い直し、受付で返却する。
「そのまま中央国内の近くの役所に行かれるといいですよ」
と受付の若者が教えてくれた。言われるがままに役所に行く。足取りは自然と軽く、そして速くなる。
こんなに心臓がうるさいのは、腹が立っているから?あいつに煽られたから?それとも、あいつのことが……いずれにしても、この機会を逃す訳にはいかない、と本能が喚いているのがわかる。俺って奴はいつも自分勝手だな、と理性が怒鳴りつけているのもわかる。ただ、何故か今日に限って、俺は、己の欲望のままに動くのが正解だと思ってしまった。
先ほど案内された役所に付き、受付で事情を話し、書類を出す。少し待っている間にそれは呆気なく受理されてしまって、書類の控えを渡された。俺はそれを丁寧に折りたたんで、ポケットの中へと仕舞う。鼓動は余計に早くなった。
盗賊としての初仕事を終えた時、でかい仕事を俺の主導でやり終えた時、それらに近い高揚感。俺って、この歳になっても、まだこんな感性残ってたんだ……と初めて知る。そうして、それら全てを誰に報告する訳でもなく、ただ真っ直ぐ店に帰った。
夜になってから市場に寄り忘れたことに気づき、常連客には悪いが、明日は臨時休業にしようと考える。なんだかもう疲れてしまったから、指輪を外す方法もまた明日以降に考えよう、と魔法で身体を清め、服を着替え、さっさと寝る支度をした。現実味が無かった。
今日の出来事は全部本当だったのだろうか?それとも、ブラッドリーに恋焦がれすぎた己の欲望が見せた、白昼夢だったのか?
翌朝、ベッドの上で自分の右手を見て青ざめて、慌てて飛び起きる。テーブルの上に置いた例の書類の控えを見て、一気に現実に引き戻された。
もう後戻りはできない。俺は、手に入れてしまったんだ。捨てたはずの欲なのに、目の前に差し出されるとダメだ。飢えた獣が獲物を見て涎を足らすように、耐え切れなくなって手を伸ばしてしまった。幸福と不幸は表裏一体と知っているのに。欲を満たせば満たすほど、己の首をぎりぎりと絞めていったことを、あんなに身を持って、心を削って、思い知らされたのに。
店の扉に貼り紙をした。三ヶ月間臨時休業、と書いて。
三、そして今日
先日書類を出した時、役所の担当者からは、
「差し入れ回数が増えるのは来月からです」
と教えてもらっていた。が、その初日の予約を入れる間もなく、〈大いなる厄災〉襲来予定のひと月前が近づいていた。
箒で空を飛び、中央の国に入る。外は橙と紫の入り交じった幻想的な夕暮れで、魔法舎の窓からもぽつぽつと灯が漏れ始めた。その光の数や影の数で、ああ、もう大体集まってんのかもな、とわかる。
俺だってさっさとここに来たかった。なのに、なんなんだ?この仕打ちは。腹の虫がおさまらねぇ。
「ブラッド!!てめぇ、ふざけんなよ!」
魔法舎の中に入るとあいつの気配がする。もうここに来ているのはわかってる。ダンダンと抑え切れない足音を鳴らして歩き、バン、と勢いよくキッチンの扉を開く。案の定、戸棚を漁っているブラッドリーがいた。
「お、やっと来たか。待ってたぜ」
「待ってたぜじゃねぇよ!!俺は、さっさと離婚届出してやったっていいんだからな!こちとらてめぇの筆跡くらい簡単に真似してやれんだぞ!!」
こちらの様子にちょっとばかり気圧されたのか、ブラッドリーは戸棚を漁るのをやめて、こちらに体を向けた。
「着いて早々元気一杯じゃねぇか。どうしたんだよ?」
「どうしたもこうしたもあるかよ!てめぇ、余計なインタビューなんか受けやがって!あれを読んだ雑魚の魔法使いどもが何人も俺に喧嘩売ってくんだよ!!」
そう、あれは二、三日前から。最初は店の金を狙う強盗か何かだと思った。けれど、それにしてもならず者たちがやたらめったらやって来る。仕方が無いので何人かを石にしない程度にぶちのめし、理由を聞いた訳だ。すると、ブラッドリーを倒したいから弱点である伴侶を狙ったとか、自分がブラッドリーの隣に立ちたいから伴侶が恨めしかったとか、とにかく全員の口から出た言葉は、ブラッドリーブラッドリーブラッドリー、ブラッドリー!
最終的に、先日ファウストに見せられたスクープ記事の後、続報としてインタビュー記事が出されたことを教えられた。そしてそこに、ブラッドリーの結婚相手が俺だとわかる情報が載っているのだと知ったのだ。
これらの事実を一通り説明したにもかかわらず、原因の男は平然と言ってのける。
「ああ、魔法舎の外に潜んでる奴ら、全員お前狙いだったのか。モテモテで良かったじゃねぇか」
ぶちん、と己の何かが切れる音がした。
「モテモテなのはてめぇの方だろうが!!今からぎったんぎったんに切り刻んでミートソースにしてやろうか!?」
「おっかねぇな……。でも、てめぇなら全員さっさと倒せるだろ?直接俺のとこに来ずにてめぇの方に行くあたり、骨の無い雑魚どもなのは間違いねぇしよ」
ブラッドリーは両手を軽く上げて、降参のポーズをとるようにして言った。
「てめぇと結婚なんてするんじゃなかった……あの日の俺をぶっ殺してやりてぇ……」
頭を抱えていると、パチンと指を鳴らす音がする。
「《アドノポテンスム》」
「おい、ブラッド、何して……」
ああ、またその笑顔だ。碌でもないことをやらかす時の、俺が最高に嫌いなお前の表情。
「魔法舎の結界を解いてやったんだよ。てめぇの暴れてる姿見るのもまた一興だしな」
「だから、何結界解いてんだよってことだよ!馬鹿!」
外が騒々しい。ならず者達が魔法舎の敷地に侵入していっている証拠に他ならない。
「ああもう……最悪だ!」
キッチンの窓から急いで中庭に出る。
「《アドノディス・オムニス》」
箒に飛び乗り、あえて目立つように動きながら、カトラリーを浮かせておく。他の奴らに迷惑掛ける前に、わざと己の居場所を指し示す。陽動だ。
「空色の髪の魔法使い!」
「あいつがブラッドリーの……!」
すっかり暗くなった夜の世界で、〈大いなる厄災〉の光といくつかの外灯によって照らされている程度だったが、しっかり見つけてもらえたらしい。
「てめぇら!いくらブラッドと俺に用事があるからって、魔法舎にまで来るのはやめろ!」
声を張り上げ、より一層視線をこちらに集める。気配と視線の数を数える。人数は三十人前後か。何人かが箒に乗り、俺の方に迫ってくる。呪文を唱え始めた奴もいる。全員でいっぺんにけしかける気か。
「ネロ!大丈夫か!?」
声の方を向けば、ファウストが自身の部屋の窓辺から身を乗り出している。
「大丈夫だ!奴ら全員弱っちい魔法使いしかいねぇ!ただ、中庭で戦うって、あんまり迷惑掛けたくねぇなぁ……できれば場所を移してぇ……!」
ブラッドリーのように飛び道具を使う奴もいるようだ。あいつの射撃の腕と比べればよほど下手だ。暗くて何を使っているのかまでは読めないが、飛んできたその何かの軌道をスプーンで弾いてずらす。その間に近づいてきた奴は短剣を持っていて、呪文を唱えながら振りかざしてきた。俺はその刃をフォークの先で受け止める。そうしていると、他に二人ほどある程度の間合いに入ってきたので、
「《アドノディス・オムニス》」
まとめて弾くように飛ばしやった。
一息ついてみると、談話室をはじめとした他の部屋からもこちらを伺う視線を感じる。他の賢者の魔法使い達だ。しかし中には騒動に動じていない奴もいるようで、影はあるのに視線は無い部屋もある。いつもの北の奴らが暴れ始めたとでも思っているのかもしれない。
「ネロ!場所はどこが良さそうですか!?」
談話室の方から賢者が声を掛けてきた。先ほどのファウストとの会話を聞いていたのだろう。
「えっと……とりあえず北?」
すかさず同じく談話室から、今度は低い声が聞こえた。
「《ヴォクスノク》」
オズの呪文により飛ばされたのは、星々が煌めき、冷たい風が吹き荒ぶ場所。足元を見遣れば雪。ここは正しく北の国。周りを見渡すと見覚えのある土地で、時の洞窟の割と近くに飛ばされたことがわかる。
「オズの野郎、俺のことまで飛ばしやがった……」
俺の近くを箒に乗ったブラッドリーが飛び回る。すると、俺を襲おうとやって来た魔法使い達は、ブラッドリーの姿を見て様々な反応を漏らした。
「ブラッドリー・ベインだ!俺と結婚してくれ!」
「東の魔法使いなんかに惚れた腑抜けが!お前に憧れた日々を返せ!」
「あの時の屈辱!あんたにも味わわせてやるからな!」
はぁ、とため息が勝手に漏れる。仕方ないので、奴らの方に向き直って声を掛けてやる。
「てめぇら、全員北の生まれか?それとも北に来るのは初めてか?」
改めてカトラリーを浮かせて構える。
「北の魔法使いの挨拶教えてやるよ」
殺し合いだ。
*
大したもんじゃねぇな、と拾ったマナ石を値踏みする。そういった行動が癖になっていることに嫌気がさす。
「なんかもう疲れたわ……」
夜の時の洞窟は、鉱物や水が外から入った〈大いなる厄災〉の光を反射して、少し控えめに、優しくきらきらと煌めいている。まるで夜空の星をそのまま地上に下ろしたように。そんな神秘的な様相の中では、自分の汚らしさがより際立ってしまう。髪も顔も手も服も、そこかしこが赤色に汚れ、気分も最悪。そう言えば、昔もここで同じように感じた日があったな、と思い出し、在りし日の景色に感傷と共に浸る。
「いい暴れっぷりだったじゃねぇか!さすが俺様の伴侶だ」
隣に並んで座りんでいたブラッドに肩を抱かれる。本当に呑気な野郎だ。俺の気も知らないで。
「ブラッド、てめぇ、マジで何やってんだよ……」
「あ?」
間の抜けた返事に、怒る気力も湧かなくなった。
「そもそも、なんでてめぇの結婚が紙面に載ってるんだよ……」
問いかけながらふと視線を向けたが、何故か相手の顔は逸らされていた。
「俺が書いてくれって頼んだからな」
「は?」
思いがけない言葉に、阿呆みたいな声を出してしまった。そうして二人、口を噤んだ間にイェストゥルムの鳴き声がした。よりによって俺とお前を模したそれだ。それを聞き終えて、ようやくブラッドリーが話し始めた。
「もし、俺との新しい関係まで隠したいとか言われちまったら、この俺様だってさすがに堪えるんだよ」
俺との関係を隠すのが堪えるだって?あのブラッドリー・ベインが?
「だから先回りして公表したって言うのかよ?」
「……んだよ、いいじゃねぇか」
全然良くは無いのだが、お前がそう言うのならそうなのかも、と思わされてしまう時がある。やっぱり俺の身体は、頭も、魂でさえ、ブラッドリーの言いなりになるのが染み付いているのかもしれない。嫌になる。嫌になり切れないのが嫌になる。
「じゃあ、続報のインタビューは?なんなんだよ、あの公開惚気は……。あれ、道端で出くわした店の常連客にも、わざわざ法典を犯してまでちゃかされたんだぞ?『号外読みました!幸せ一杯ですね!』なんて言われてさ」
会話の最中も、遠くでイェストゥルムが鳴いている。知っている声、知らない声、知っている声。そんな声たちを押し退けるように、ブラッドリーの声が響き始める。
「てめぇが鈍感すぎるからだろうが。ここまでやりゃ俺の気持ちもわかんだろ?」
イェストゥルムは相変わらず鳴いている。なのに、
「大体、なんで俺が婚姻届なんて言う、つまんねぇ人間が作り出した屑みたいな制度のどうでもいい書類なんかにサインしたかわかってんのか?」
鳴き声が、俺の耳には届かない。
「てめぇとなら、こういうのに乗ってやってもいいと思ったんだよ」
例えその鳴き声が、お前と同じ声色でも。
「なぁ、いい加減わかれよ、ネロ……」
目の前の男の声だけが、俺の頭にがんがんと響いた。
「……てめぇもな、ブラッド」
胸の奥に熱を持つのがわかった。
四、それから数日後
結局北の国で戦ったあの日は、時の洞窟に一晩泊まり、翌日に魔法舎に戻った。夜更けに戻るのも迷惑かも、とか、もう疲れたから眠ってしまいたい、とか、そういう色々な考えが渦巻いた結果だった。もちろん、泊まることを決めてすぐにファウスト宛に手紙を書き、魔法で小鳥に変えて送っておいた。思い返すと、あの時ブラッドリーは、魔法舎にネロの飯がある訳じゃねぇし、とかなんとか小っ恥ずかしいことを言っていたような気がする。
そんなことを思い出しながら、俺は寸胴鍋の中のスープをかき混ぜていた。
「ネロ、こんなにたくさん作ってくれたの?」
振り返ると、キッチンの入口にヒースクリフが立っていた。その後ろにはシノもいる。二人はキッチン内のテーブルに近づいて、おお、と声を上げた。
「レモンパイもある!さすがネロだ」
いくつも並ぶ大皿料理に混じったレモンパイに目をつけたシノは、食欲をそそられたのかこくりと唾を飲み込んでいた。
「ああ、昨日やっと全員揃ったから、記念にパーティーをやりたいってスノウとホワイトに言われたんだよ。だから豪勢にたくさん作ってやろうと思ってさ」
返事をしながら、そろそろかな、と火を止めて鍋に蓋をした。
「え、ネロ……」
ヒースクリフは言いかけて、
「そっか、ありがとう。僕も手伝うよ」
と笑顔を見せた。
「じゃ、ヒース達にはケーキのデコレーションをしてもらおうかな」
俺が指を指すと二人が一斉にそちらを向く。その視線の先にあるのは、ケーキのスポンジ、泡立てたばかりのクリーム、カットしたフルーツ、昨日たくさん焼いておいたクッキーなどの焼き菓子。材料だけは用意して、後はお子ちゃま達の好きにしてもらおうと思っていたのだ。
「リケとミチルも呼んで来てくれるか?」
と声を掛ければ、二人とも素直に呼びに行ってくれる。
そうして、お子ちゃま四人で嬉しそうにケーキを飾り付け始める。今の俺の生活では、いや、これまでの人生でも、こういう光景は魔法舎でしか見ることはない。こういう時は、こういうのも悪くないな、と思う。
「ブラッドリーさん、来ませんね」
ケーキを飾り付けながら、ミチルが呟いた。
「こんなにおいしい料理がたくさんあるんだから、いつもならつまみ食いに来てもおかしくないのに……」
と続けるので、俺が答え合わせをしておいた。
「俺の部屋にフライドチキンを置いておいたからな。たぶんそっちにかかってる」
シノが顔を上げる。
「かかってるって、まるで狩りみたいだな」
「ああ、あるだろ?そういう狩猟方法。あいつ、その辺の獣みたいにちょろいからさ」
お子ちゃま達がくすくすと笑う。とびきり平和な世界だ。
「ネロが辛い思いをしていなさそうで、安心しました」
リケが小さくこぼした言葉は、俺の耳に届くより先に、笑い声の中に溶けてしまった。
*
夕方になると、たくさんの魔法使いたちがキッチンや食堂に集まってきた。各々が思うまま、パーティーの準備を進めていく。食堂を飾り付ける者、料理を運ぶ者、音楽を奏でる者、どんな余興をしようかと相談する者。やっていることはバラバラだが、パーティーを盛り上げるためという目的が同じところは微笑ましい。
「全員揃ったようじゃの。パーティーを始めるのじゃ!」
「今日は立食パーティーじゃ!」
スノウとホワイトに始まりを告げると、食堂内の至る所で酒やジュースのボトルが飛び交い、グラスに飲み物が注がれる。
「賢者に乾杯の挨拶をしてもらおう」
「賢者や、よろしく頼むぞ」
双子に促された賢者は、一度深呼吸をし、そして口を開いた。
「ブラッドリー!ネロ!ご結婚おめでとうございます!乾杯!」
今なんて?という俺の声は周りの歓声にかき消されてしまった。そんな俺の表情を読み取ってか、ホワイトが満面の笑みで俺の方を見ながら話す。
「今日はサプライズ結婚祝いパーティーじゃ!」
スノウは、全く同じような笑みでブラッドリーの方を向いて話す。
「ブラッドリーちゃんが、ネロちゃんのご飯じゃないと嫌だ〜!って駄々を捏ねるものでのう。二人が主役のパーティーじゃが、ネロちゃんにはそれを秘密にしてご飯を作ってもらったぞ」
ほほっ、と双子が揃って笑う。
「さすがスノウ様とホワイト様!主役にご飯を用意してもらうなんて、斬新な発送ですね!」
とのアーサーの言葉に、そうじゃろうそうじゃろう、と言いながら、双子は笑顔で頷いた。
「俺、身近な人が結婚するなんて初めて!ねぇねぇ!結婚の決め手はなんだったの!?」
パーティーが始まってすぐに近づいてきたクロエは、質問をする側なのに顔が真っ赤に染まっていた。
「えっ……と……差し入れの回数を増やしてやりたかったから?」
「わっ!それって、すっごく『愛』だよね!」
クロエの瞳がきらきらと輝く。そのあまりに純朴な様には後ろめたささえ覚える。
「伴侶のために許された回数だけ通って、許された回数だけ贈って……なんか、御伽噺みたい!」
「そういう訳じゃないんじゃねぇかなぁ……」
どうにか絞り出した声は、相手の耳には届いていないようだった。
入れ代わり立ち代わり、色んな魔法使いに声を掛けられる。みんな俺とブラッドリーが結婚したことを知っていて、それに関する話題ばかりだ。全員にこの情報が行き渡っているのは、ブラッドリーが新聞を使って公表した成果だろう。正直そんな成果を得たって何も嬉しくはないし、むしろすげぇ恥ずかしいが、隠す必要が無いというのは確かに気が楽だと感じた。
「ところで、わざわざ婚姻届を出したということは、苗字を選ぶ欄があったじゃろ?」
突然スノウが、聞こえよがしに大きな声で話し始める。
「そうじゃ!どちらかの姓か、はたまた別姓か、そなたらは何を選んだのかのう?」
ホワイトも、わざとらしいったらありゃしない。
「ジジイども……知ってて余計なこと言うんじゃねぇよ」
ブラッドリーは悩ましげに眉間を指で抑えた。
「これ言わなきゃダメなやつ?」
俺もこの話題は特に気が進まない。が、俺とブラッドリーのすぐ正面に立っていた賢者が、
「正直、すごく気になります!」
と声を上げた。
「賢者さんに言われちゃしょうがないか……」
「あ!もちろん、お二人が内緒にしたいなら言わなくて大丈夫ですよ!ただどうしても気になっちゃうって言うだけで……無理はしないでください……」
相変わらず気遣いの人だなと思ったし、だからこそ期待に応えてあげたくなってしまった。俺は覚悟を決めて口を開く。
「……強いて言えば、同姓にした」
俺の言葉を受けて、賢者が目を見開く。
「それじゃあネロの名前って……」
「俺はネロ・ターナー」
「「「は?」」」
ネロのすぐ横に立っていた東の魔法使いたちの、たった一音が重なった。同時に、一瞬で会場が静まり返る。そうして全員の視線が一斉にブラッドリーに向いた。ブラッドリーは気まずそうに、全員の視線を遮るように目を閉じる。
「……この流れなら言わなくてもわかんだろ」
てめぇが書き換えやがったせいだからな、と小声で付け加えられた。てめぇがそのまま出していいって言ったんだろ、とこちらも小声で返しておく。
険しい顔をする奴、怪訝な顔をする奴、目を輝かせる奴、頬を赤らめる奴、嫌味みたいな笑顔の奴……様々な反応の魔法使いがいた。そんな集団の中、ルチルが発言をするべく片手を挙げる。
「私、聞きたいです!ブラッドリーさんの新しいお名前!」
ブラッドリーは、間を置いてから、観念したように話し始める。
「……ブラッドリー・ターナー。くそ、全然締まらねぇじゃねぇか!」
どよめきが起きて、会場は急激に騒々しくなった。
「お前……ネロのことそんなに好きだったの?正直虫唾が走ったよ」
と発したのは、たまたまブラッドリーの近くに立っていたフィガロだ。
「あ?てめぇに比べりゃよっぽど有意義な生き方してると思うけどね。言ってる意味わかるか?」
「……お前……この場にミチル達がいることに感謝しろよ」
こんな所でそんな物騒なやり取りをしないでくれ。
「ネロ、お前すごいな」
横では尊敬の眼差しを向けてくるシノ。その両脇には、
「ネロって、ブラッドリーと本当にどういう関係なの?」
と困惑の表情を浮かべるヒースクリフと
「深く聞くつもりは無いんだが、何をしたらそんな形で結婚することになるんだ?相手は盗賊団の頭領だぞ?」
と明らかに引いた様子のファウスト。
「……そんなの俺が聞きてぇよ」
「そろそろ前の賢者が言うところの『縁もたけなわ』の時間じゃの!」
スノウの言葉に周りを見渡すと、眠たそうに目を擦り始めているお子ちゃまが何人かいた。次にホワイトが口を開く。
「おめでたいブラッドリーちゃんとネロちゃんに、サプライズ発表じゃ!今度こそ本当のサプライズじゃ!」
それを受けてスノウが再び声を上げる。
「なんと、各国の人間の要人たちが、ブラッドリーちゃんの刑期短縮を決めました!拍手〜!」
魔法使い達が思い思いに手を叩き、そしてまたホワイトが喋る。
「ブラッドリーちゃんの残りの刑期は〜……」
スノウとホワイトは小声で、せーの、と息を合わせた。
「「ゼロ日〜!!出所おめでと〜!!」」
わっ、と歓声が上がり、西の魔法使い達が室内で小ぶりの花火を上げた。なんとも賑やかで嬉々とした旋律の音楽も奏でられる。そんな中、ブラッドリーに話しかけに来ていたカインが首を傾げた。
「あれ?結婚の決め手って、差し入れの回数を増やすためだったんだよな?」
先ほどまで花火を上げていたムルが、箒を乗り回しながら近づいて来る。
「檻の中で過ごしているブラッドリーのために婚姻届を出したのに、婚姻届を出したら檻から出てきちゃったんだね!面白〜い!婚姻届を出した意味はあったのかな?それとも、無かったのかな!?」
ムルの顔が俺の顔先に現れる。その顔はにんまりと笑っていた。俺の代わりに答えるように、横から声がする。
「あんだろ。何のためにこの俺様が苗字まで変えてやったと思ってんだよ。既成事実でも無い限り、このお宝は手に入らねぇからな」
言いながら、ブラッドリーはちらりと俺を見た。何故か少し笑っているみたいだった。
「……ああ、まあ、そうだな」
俺の欲のため、かも。