「…あ」
うつらうつらとソファで低い天井を眺めていたら、床に落ちた音と、パリンという乾いた破裂音が重なった。
ナマエは、ソファから体を乗り出して蛍光灯の光を拾ってチカチカ光ってる床のタイルに散った破片を見つめた。
いつも彼が時間がうんざりするほど身だしなみを整えている時に使っているものがどうしても欲しくて数年前、彼にねだって似たデザインを買ってもらったものだった。
「割れた鏡って、不吉なんだっけ…」
ポツリと呟いて、彼女はため息をついた。いつも数センチ手を伸ばしたら壁に手が届くくらいの距離にある隣のビルからは人がせわしなく出入りする音が響き渡っているのに、今日に限っては驚くほど静かな部屋。テレビはついているけれど、古いせいか雑音にかきけされたニュースキャスターの声が遠く聞こえた。
——さっき近くで抗争があったらしい。
——また何人か死んでいるみたいだな。
普段なら気にも留めない会話が、妙に耳についた。そういえば、彼は昨日大きい仕事があると言っていなかっただろうか。
「まさか、ね……」
ひんやりしたタイルにしゃがんで割れた鏡の破片を手に取ると、細かい破面のざらつきが肌に引っかかって指の皮に薄く線が入った。
薄暗くなってきた部屋に座り込んでいると、ぎ、と蝶番が音を立てて扉が開いた。その瞬間、風が生暖かく部屋を流れ、いつも嗅ぎなれている彼の香りと、鉄のような匂いが一気に吹き込んだ。
「……あ」
ナマエは振り返る間もなく、その姿に息を呑んだ。
玄関に立っていたのは、全身血に染まった彼——十二だった。
タンクトップは時間が経ったせいか赤黒い血でぐっしょりと濡れ、滴るような血の匂いに、思わず鼻を覆う。
「よっ」
いつも通りの軽い声。いつもあきれるほど整えている綺麗に整えられている前髪はぺしゃりと張り付いていて、ちょっと小動物みたいになってるのが腹立たしい。
「えっ、ちょっとアンタ、それケガ、してるの……?」
彼は物珍しいものをみるような顔でナマエを見た後、面白がるように笑った。
「へー、心配してくれんの?俺のじゃねぇから安心しろ」
「……なにそれ……!」
ナマエは立ち上がると、十二の胸ぐらを掴んだ。思わず涙がにじむ。
「珍しく心配してやってんだから!馬鹿!」
「ふーん……」
十二は、ぺしゃりとへたった前髪を指でいじりながらナマエをじっと見つめて、含みを持たせた表情で言う。
「めずらしー、ナマエがそんな顔するなんて」
「っ……うるさいな、柄じゃないとかいうわけ?」
「いやー、いいな。可愛いとこあるじゃん、今日は気分が良い」
口元がにやりと歪むと同時に、彼は笑いながら血まみれのタンクトップを脱ぐとそこらに投げ捨てた。彼の細身ながらも引き締まった体がガバリと私を抱きすくめて抱え上げられる。
「ベッドちょっと借りるぞ。背中が痛い」
「はっ!? ちょっ……!」
抵抗する間もなく気づけば、するりと腕に絡め取られて視界が一気に傾く。布地のざらつきと、熱を持った掌が腰にまわり、冷えた背中がベッドに沈み、あれよあれよという間に組み敷かれる。
「背中痛いって言ってなかった!?」
「あ~あ、ほら、痛いからちゃんとベッドで大人しくなってる」
彼が私の脚の間に割り入ってTシャツの裾をまくりあげようと手をかけた時――――
ピロピロピロと気の抜けた甲高い機械音が彼の腰から聞こえた。
「おっと、虎哥だ」
彼はちらりと腰につけていたポケベルに目をやるとさっきまでの色っぽい空気が一瞬で切り替わり、するりとベッドから抜け出す。足元に脱ぎ捨てたタンクトップを着て前髪をさっと整えた。彼がタンクトップを脱いでいた時より、その動きが妙に艶っぽくて、ナマエは喉が鳴るのを止められなかった。
「まあ、お預けってことで」
彼はタンクトップの裾を直しながら、ベットの上でほおけているだろうナマエの顔を見てふっと笑う。
「そんな残念そうな顔すんなって」
「うるさいクソ黒社会!早く死んじゃえ!」
そう叫んだ瞬間、自分でも何を言ってるのか分からなくなって、顔から火が出そうになる。恥ずかしさをごまかすように、ナマエは勢いよく布団をかぶって丸くなった。
「ふーん、俺が死んだら悲しいくせに」
「し、しない!うるさいっ!」
ナマエは枕を引き寄せ、彼に向かって半分だけ顔を出して叫んだ。視線がぶつからないようにと焦ったが、その声にまったく怯む気配はない。むしろ——彼の足音が、一歩分だけ近づいた気がした。
その直後、柔らかな唇の感触が、額にふわりと触れる。
彼はそっと近づき、額にそっとキスを落とす。
「じゃあまた後でな」
「…待ってないし!」
思わず言い返すが、その言葉に力はなかった。
ドアが静かに閉まる音がして、部屋に再び静寂が戻る。
ナマエはしばらく布団の中から動けなかった。
さっきまでそこにいた彼の残り香を吸い込むたびに心がざわつく。少しだけ汗の匂いが残っていて——そのたびに、自分の頬が熱を帯びるのがわかった。
「……バカ」
誰にともなく呟くと、ナマエはそっと顔を出し、ベッドの上で体を起こした。
シャツの裾を軽く整え、ベッドサイドの小さな鏡台に目を向けると、ふいに思い出す。
——そうだ、鏡。
「……不吉、ね」
手のひらに残る小さな切り傷に、ちくりとした痛みがよみがえる。
だけど今はなぜか、それも“彼といた証”みたいに感じられて。我ながら面倒くさい女だなと思う。ナマエは小さく息を吸い、少しだけ笑った。
「……またすぐ来てやるから、そんな顔すんなよ」そう言って笑った彼の声を、まだ耳の奥で覚えている。
彼がいつも「また後で」と言って本当に帰ってきたこと。そして一度も、帰ってこなかったことはないということ。その事実だけが、今の静けさの中で、少しだけ温かかった。