ファーストキス 魔法使い達が朝食を食べ終わって、各々の部屋に戻り始めた頃。片付けをするネロに話しかけたのはクロエだった。
「あのね、ネロ、ちょっと聞きたいことがあって…」
社交的な彼にしては珍しく、下を向いてもごもごと言いづらそうにしている。
「どうした?話なら聞くけど」
すると、少し安心したらしい彼がとんでもない一言を放った。
「ネロって、誰かとその…キ、キスしたことある?」
驚いて持っていた皿を落としかけた。
なるほど、そりゃ言いづらそうにするわけだ。
「まあ…これだけ生きてたらなぁ…普通にあるよ」
「あるの!?!?」
大きな菫色の目を輝かせたクロエは、先程までの様子とは打って変わって、勢いよく話し始めた。
「賢者様の世界ではね、初めてのキスは甘酸っぱい味がするって言われてるんだって!」
「へぇ…何だかロマンティックだな」
「だよね〜!甘酸っぱいってどんな味なんだろう…こういう手の話はシャイロックが1番詳しそうだと思って聞いてみたんだけど、教えてくれなかったんだ」
シャイロックは西の魔法使いらしく独自の美学を確立している男だ。他人の話を引き出すのは上手いが、自身についてあまり多く語りたがらない節がある。そこで、ある程度経験が豊富そうで料理や味に詳しいネロに聞きに来た、ということらしい。
初めてのキス。忘れられるわけが無い。
盗賊団に入りたての頃、首領であるブラッドリーは何事にも欲のないネロを気にかけ、時に美女を宛てがった。故に、ネロにはそれなりの経験がある。だがネロは、キスだけは誰ともしたことがなかった。
ブラッドリーはネロの料理の才能を見いだし、厨房に配置した。ネロは、自分の作った料理を美味しそうに食べるブラッドリーを遠くから見るのが好きだった。
料理人にとって、口や味覚は料理の腕と同等に大切なもの。ブラッドリーが唯一認めてくれたそれを、誰にも触れさせたくなかった。まあ、相手がブラッドリーであれば話は別だが。いくら性別に無頓着な魔法使いだからといって、部下に手を出すなんてことは有り得ないだろう。
ようやく団に馴染めるようになってきた、とある晩。金持ちの爺さんの屋敷に奇襲をしかけて成功し、アジトでは大きな宴が開かれた。色とりどりに輝く宝石に、高価な美術品。そして見たこともない食材。団員たちは羽目を外して酒を煽り、空き瓶がそこら中に転がった。
ネロにとっては大量の料理を作ることは苦ではないが、部下に「そろそろネロさんも休んでください」と言われたので、外へ出て夜風に当たることにした。
「よお、ネロ。なんだ、飲まねえのか?」
煙草をふかして一服するネロに話しかけてきたのは、ブラッドリーだ。ネロがこの世で最も尊敬し、敬愛する人物である。
「…っす。ボスは飲まなくていいんすか」
「だぁから、『ブラッド』でいいって。それに敬語もいらねえ」
最近、ブラッドリーはやたらと愛称で呼ばれたがる。尊敬するボスにいきなり馴れ馴れしく話せるわけが無い。こちらの心情も察して欲しいところだ。
「ぶ…ブラッド」
目線を逸らして呟いてみると、ブラッドリーは一瞬呆けたような表情を見せたが、「おう!」と満面の笑みで応えた。
犬みたいで可愛い。まあ、腐っても声に出すことはないが。今なら話せるかも、と、疑問に思っていたことを尋ねてみることにした。
「なんで、俺にブ、ブラッドって、呼ばせるんだ?」
「あ?」
「だって、他の皆はボスって…」
「………はぁぁぁぁ…」
ブラッドリーは大きなため息を着くと、ネロの両肩を掴んで、目線を合わせた。
「それ、他の奴に聞くなよ。嫌われるぞ、お前」
そう言われても、分からないものは分からない。
「…?」
「お前なぁ…」
ついに、呆れられたのか。やっと居場所を見つけたと思ったが、杞憂だったようだ。
「ネロ」
ブラッドリーの声に、はっと顔を上げる。
「お前は俺の相棒なんだよ。分かるか?」
相棒。
思わぬ言葉に、目を見開く。
「ったく…本当に分かってなかったのかよ」
あのブラッドリーと肩を並べる?この俺が?
「別、に俺じゃなくても…」
「お前じゃなきゃ意味ねぇよ」
ガーネットの瞳に真っ直ぐ射止められ、身動きが取れなくなる。するとその瞬間、唇に何かが触れた。
ーー柔らかい、何かが。
「…っ」
「まあ、そういうことだ。じゃあな」
ブラッドリーはそう言って、何事も無かったかのように立ち去った。
濃い葡萄の香り。そして、自分が吸っていた煙草の匂い。考えられる答えは1つしかない。
ネロは顔を真っ赤に染めたまま、呆然とその場に立ち尽くした。
…というのがネロにとっての初めてのキスであるが、多分、ブラッドリーは覚えていない。賢者の魔法使いの中に相手がいると伝えたら、クロエはどんな反応をするのだろう。
「うーん、あんまり覚えてねぇかな。本当に一瞬だったし」
「そっかー、やっぱりそうだよね〜…」
クロエは笑顔で「ありがとう」と言うと、パタパタと何処かに駆けていった。
「覚えてねえのかよ」
不意に声が聞こえて振り返ると、そこにはブラッドリーがいた。
「聞いてたのか」
「ああ。お前、あんなに驚いてたのに、覚えてねえのかよ」
何故、驚いたことを知っているのか。もしかして、ブラッドリーは、あのキスを覚えていたのか?その後は何も気にする様子はなかったのに。それに、ネロの初めてのキスの相手がブラッドリーであることは、本人は知らないはずだ。
「覚えて、たのか?」
「おう」
「俺がそれまで、その、キスしたことないって、知ってたのか?」
「おう。俺様が宛てがった女だからな。全部筒抜けだぜ」
空いた口が塞がらない、とはこのことだ。全部、知ってたのか。
「それで、どうだった?初めてのキスの味は」
「……酒臭かったことしか覚えてねえよ」
ブラッドリーの質問に動揺したネロは、当たり障りのない回答をした。それに、実際そうだ。あの一瞬で、考えを巡らすなんてことは出来なかったはず。
ブラッドリーは顎に手を当てて何かを考えた後、こちらを向いた。そして、
ーー唇に、何かが触れた。
「これで、思い出したか?
……今夜、俺様の部屋に来いよ」
ネロはあの時と同じように、その場に立ち尽くすことしかできなかった。