おめでとうなんて言ってくれるな 窓の外の景色にも、もうすっかり夜の帳が下りた頃。革張りのソファーに身を預けていたブラッドリーを誘うように、ノックの音が部屋に響いた。
この部屋にやってくる人物の中で、律儀に扉を叩くような者は限られている。賢者か、たまに魔法を教えてやっているミチルか。しかし今日の其れが、そのどちらとも違うことにブラッドリーは気が付いていた。
ぐっとひとつ伸びをして、長い脚をソファーのアームレストから床へと移す。だが決して音のもとへと歩み寄ることはせず、ブラッドリーは口を開いた。
「入れよ。ドアなら開いてるぜ」
声掛けから一拍遅れて扉の向こうから姿を現したのは、迷うように視線を泳がせた、ブラッドリーの予想通りの男だった。その手にはつまみの白皿と、赤いボトルが一本握られている。
「珍しいじゃねえか、てめえの方から訪ねてくるなんてよ。なあ、ネロ」
「……うるせえよ」
ネロは勝手知ったる様子でブラッドリーの方へと歩み寄り、サイドテーブルに皿と酒を置く。ブラッドリーが戸棚から二人分のグラスを取り出し、ソファーの隣にちょうど一人分の隙間をあけてやると、ネロは今度はなんの抵抗もなく其処に腰をおろした。
「いつもみたいに夜のうちに朝飯の仕込みに行ったんだけどさ、追い出されちまった」
二つのグラスにそれぞれボトルの中身を注ぎながら、ネロはぽつりとそう呟いた。
「まあ、そりゃそうだろうな。此処に居る連中は皆、大なり小なり張り切ってやがるぜ? 愛されてんなあ、ネロくんよ」
おおかた、明日の祝いのためにキッチンで準備をしていた者が居たのだろう。ブラッドリーの言葉にネロは小さく肩を竦めると、淡い赤色の水面が踊るグラスにそっと口をつけた。こく、と喉仏が上下して、薄い唇が透明なグラスから離れて──それからハッとしたように蜜色の瞳がこちらを向く。
「あ、悪い。まだ乾杯してなかったよな」
「はは、たまにはいいだろ。ほら」
軽やかな音と共に、二つのグラスが触れる。ゆらゆらと不安定に揺れるロゼワインの波を眺めながら、ブラッドリーは白皿の上のつまみへと手を伸ばした。
「まあ、なんというかさ。ありがたい話なんだけど、正直落ち着かなくって……」
ちまちまとグラスの中身を減らし続けながら、ネロはふっと目を伏せた。その眦がほんのりと赤いあたり、この『落ち着かない』はそう悪い意味ではなさそうだ。
思えば昔からそうだった。隣に居るこの男は、祝いや称賛といったストレートな愛情表現を受けると、何かと理由をつけてひらりひらりと躱そうとする。そんな大したことじゃないだとか、落ち着かないだとか、柄じゃないだとか。
正直、ブラッドリーからすればよくわからない感覚だった。
この魔法舎には、少なくともネロに対して口だけのおべっかを使うような連中は居ない。好意なんてものは素直に受け止めておけばいいのに、それが出来ないからこの男はこうやって酒に頼ろうとしているのだろうか。
ふと、ブラッドリーはソファーから立ち上がると、棚の中を物色しはじめた。取り残されたネロは一度だけ不思議そうに視線をそちらにやったが、すぐに再びグラスへと向き合った。
「ネロ」
ブラッドリーはソファーにもたれ掛かった男の名を呼ぶと、青灰色の横髪を指先でそっと耳にかけた。次の瞬間、露出したネロの首筋に何か冷たいものが吹き付けられる。
「うわっ、急に何すんだてめえ……!」
きっと眉をつり上げたネロは、視線の先のブラッドリーの表情を見て目を見開いた。続いてスッと清涼感のある香りが鼻腔を擽る。嗅ぎ覚えのある其れと、ブラッドリーの手に握られた香水瓶に、ネロはは、と息を震わせた。
「気付けだ気付け。酒なんかよりよっぽど良いだろ」
「これ、まだ残ってたのかよ……」
ブラッドリーがネロに今しがた吹き付けたのは、ネロが盗賊団で初めて自らの力で手にしたお宝だった。「俺は持ってても使わねえので」なんて言葉と共にネロがかつてブラッドリーに渡したもの。揮発しやすい主成分の其れは、それ相応の管理をしていなければ未だに使えるはずがない。
「……で、だ」
カチ、と音をたてて時計の長針と短針が重なり合う。
落ち着かないなら自室に戻ってしまえばいいものを、わざわざつまみと酒を引っ提げて此処までやってきたかつての相棒を見て、ブラッドリーはゆるりと口角を上げた。
「今日の主役はどんな言葉をご所望で?」