しあわせは温風に乗って風呂から上がり、火照った体にシャツとスエットを適当に羽織る。髪から滴る雫もそのままに、熱気のこもる脱衣所から逃げるように離脱した。
ソファには、先に入浴を済ませた理鶯がくつろいでいた。背筋をピンと伸ばした姿勢ではあるが、これでもかなりリラックスしている姿勢だということが最近になってわかってきた。
銃兎は頭にフェイスタオルをかぶったまま、その隣にどっかりと座る。机に置いていたスマートフォンを引き寄せ、そのままメールやニュースサイトをチェックする。
ふいに、後頭部を何かが撫でた。おそらく理鶯の手のひらだろう。頭頂部を中心に、わさわさと左右に動かされる。最近ようやく、こうして頭を撫でられるのにも慣れてきた。
心地の良いそれに身を委ねていると、何かいつもと違うことに気が付いた。これは撫でているというよりも、拭っている、ような。
タオルの隙間からそっと隣を見やると、理鶯と視線がぶつかった。穏やかで、落ち着いた視線。銃兎が一番安らげる表情だ。
「濡れたままでは風邪をひくぞ」
なるほど、そういうことだったのか。感じていた違和感の正体に、ようやく合点がいった。タオル越しに髪を弄られている感覚は悪くない。きっと彼も手持ち無沙汰なのかもしれない。勿論、心配性なだけかもしれないが。
それならば。銃兎はこてん、と小首を傾げてみせた。
「理鶯に拭いてもらいたいです」
「今日の銃兎は世話が焼けるな」
「世話を焼くの、好きでしょう?」
「まあな。背中をこちらに」
どうやら、悪い気はしていないらしい。むしろ、それを言われるのを待っていた様子さえある。見えないはずの大きなしっぽを感じながら、銃兎は理鶯に背を向けた。
背後で、理鶯が自分の方向に向き直る。頭に両手を添えると、遠慮がちに手を動かし始めた。片手で頭を押さえ、もう一方の手で毛先の水分を拭っていく。右側、左側、後頭部、襟足。がしがしと響く音と、タオル越しの指の感触が心地いい。銃兎は手に持っていたスマートフォンを置き、しばしその感覚に浸ることにした。
いくらか拭き終わったころ、ふいに理鶯がどこかへ行ってしまった。トイレにでもいったのだろうか、と辺りを見回すと、その手にはドライヤーが握られていた。
「あ、待ってください」
銃兎は体の向きを変え、理鶯に手を差し伸べた。理鶯は小さく首を傾げながら、それに手を重ねる。
「そうじゃなくて。理鶯もまだ濡れているでしょう」
ぎゅう、と手を握って、笑いかける。その手のひらは、風呂上がりのせいか少しだけしっとりと汗ばんでいた。ドライヤーを指さすと、理鶯は勘違いにようやく気が付いたらしく、ふふ、と笑いを零した。
「小官は短いからすぐに乾く」
「あ、そうやっていつも乾かしてないな? 貴方こそ、風邪ひきますよ」
「小官はそんなにやわではない」
「ハイハイ。私がふわふわに仕上げてあげますから。ほら、下座って」
理鶯の手を引いて、カーペットの上へと導く。大きく開いた脚の間を指させば、理鶯は素直にそこに座り込んだ。
ドライヤーの電源を入れ、理鶯の髪へと風を当てる。そういえば、この角度から理鶯を見ることは、あまりなかったような気がする。
なんだか、大型犬をブローしているみたいだ。銃兎は少しだけ楽しくなって、オレンジ色の髪へ何度も指を通す。短いけれど、柔らかい毛質。何度も触れているのに、こうして改めて触れる度、新鮮な気持ちになるから不思議だ。
立ち上るのは、自分と同じシャンプーの匂い。理鶯本来の香りと混ざり合い、なんだか心がふわふわと湧きたってしまう。
半分ほど乾いていたせいか、あっという間に乾いてしまった。空気を含んで柔らかく弾む髪に、小さな達成感を覚える。
「気持ちよかったでしょう?」
「ああ、たまにはいいものだな。さあ、次は銃兎だ。座れ」
「はいはい」
ドライヤーを手渡して、ポジションを交代する。今度はタオル越しではなく、地肌を指先がなぞっていく。
さらり、さらり。器用に風を当てながら、銃兎の髪を丁寧に乾かしていく。理鶯は几帳面だから、こういった作業は得意なのだろう。優しく通り抜ける指が心地よくて、思わず目を閉じてその感覚に浸る。
嬉しい、楽しい、気持ち良い、満たされる。胸の内が、喜びの類の感情でいっぱいになっていく心地がする。わくわくして、落ち着かなくて、自然と口角が上がってしまうような、そんな感覚。
「完了だ」
ドライヤーの音が止まり、彼の手櫛が形を整えるように何度か頭を滑る。自分でも触れてみたが、いつもよりもサラサラになっているような気がした。
「ありがとうございます。これ、戻しておきますね」
理鶯からドライヤーを受け取り、所定の位置へと置きに行く。リビング以外の電気を消して、再びソファへと舞い戻った。ぴったり隣に腰を下ろし、理鶯へと問いかける。
「さ、寝る準備は整いましたけど、理鶯はどうします?」
視線がぶつかる。先程と変わらず穏やかで、リラックスした表情。いつ見ても整った顔立ちに、目が釘付けになる。反応を待っていると、ソファの上で指先が絡み合い、するりと恋人つなぎで捕らえられてしまった。
「もう少し銃兎との会話を楽しんでいたいな」
「奇遇ですね。私も、このまま寝てしまうのはもったいない、というか、気分がよすぎて、多分しばらく寝付けないなと思ってました」
「ならば、眠くなるまで話でもしていようか」
「そうですね」
二人きりの、甘い空間。気分がいいのは、きっとそのせいもあるんだろう。銃兎は抱えきれないほどの感情を分け合うかのように、絡められている理鶯の手をぎゅっと握り返した。