ユジョンの献身.
退院して宿舎に戻ってきたウンジは私の部屋で暮らし始めた。同じ階で隣の部屋だから荷物も取りに行きやすいし、何より問題なかったと言われてもひとりのときに具合が悪くなったらと思うと不安になる。親戚で頭を打ってしばらくしてから亡くなったひとがいた。ウンジもそうじゃないと誰が言い切れるのだろう。
食器についた泡を流して水切りカゴへと並べていく、ふたり分の洗い物をしながら今夜は何を食べようかなんて考えている。昼食を済ませたばかりなのになんだかおかしくて口が緩んだ。まだ刺激物は無理だしと思案しているところにウンジが洗面所から戻ってきた。
「ハミガキできたよ」
利き手が使えないのは想像以上に不便なようで、パーカーの袖が左だけ濡れている。ウンジは気にする様子もなく、腕を振って肘付近まで捲れた袖を伸ばしていた。
「ほら口開けて」
ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろして私の到着を待っているウンジに近づく。手を洗ってビニール手袋をはめるとテーブルに置かれたチューブの軟膏を指先に絞り出す。大きく開けられた口内に指を差し込んで頬の内側に薬を塗り込む、切れてしまったそこは傷になり少し化膿してるようで退院のときに塗り薬が処方された。
「……ねぇ、噛まないで」
塗り終わって出ていこうとする指に歯を当てられて甘噛みされる。痛くはないけどウンジの戯れにどう反応していいか分からない。
「噛まれるの好きじゃん」
舌を出して悪びれる様子もなく笑うウンジに本当に憶えてないのだと指じゃなく胸が痛む。軽薄な彼女の態度が苦しかったあの頃を思い起させる。私との関係が終わってもこういう風に誘われては流されて後悔した。
「好きじゃない」
好きじゃなくなりたかった。逆走後の忙殺されていく日々の中でやっと私たちはお互いの体温を欲しがらなくてもよくなったのに。手袋を外して見上げてくるウンジを三角巾で吊った右腕に響かないように優しく抱きしめる。
「オンニごめんなさい」
いやだった?と腕の中で小さな声で聞かれる。明るく振舞っても現状に不安を感じるのはウンジとはいえ当然だと思った。世界が180度変わったのにそこにひとり放り出されたのだから。
「嫌ではないけど……分かるでしょ」
「骨折してるから?」
「ばか」
前髪を分けて額に口づける、これぐらいの触れ合いなら身体に障ることもない。ウンジがひとりで2年前を生きるなら私が一緒に生きていく、それが間違いだとしても。
「シャンプーしようか」
「え」
「明日病院でしょ?おいで」
身体を拭いたりお風呂も手伝ったりしてはいるが満足に洗えていない髪は油分が多い。大人しくあとを付いてくるウンジはあまり乗り気じゃないようで、我が家の4匹目の犬のように思えた。ワンちゃんみたいでかわいいと言ったあの子はどうしているのだろうか。
ウンジを病院に送った帰りにスーパーへと寄って食材を買い足す。診察に付き添おうとしたら、わたしら有名人なんだよと大真面目に言うものだから可愛くて笑ってしまった。車から降りて袋を両手に提げエレベーターに乗り込む。私たちが住む階で降りるとウンジの部屋の前にあの子がいた。
「あっあのウンジオンニはどちらにいらっしゃいますか?」
目が合って会釈すると返されて、堰を切ったように問いかけられる。連絡が取れなくてとスマホを握りしめている、外でする話ではない思い部屋の中へと招いた。ウンジの為にと買った魚や肉、牛乳の重さが指に食い込みそう。
「コーヒーでいい?」
「すいませんありがとうございます」
冷蔵庫に食材をしまっている時間待たせてしまった、すぐにでも話を聞きたいだろうに。お湯を沸かしている間はこれでとグラスにジュースを注いでソファで待つイヴに渡した。
「ウンジはいま病院で」
「病院!?どこか悪いんですか?」
「事故に遭ったの知らなかった?」
「知らないです、どこの病院ですか?」
病院だと言えばイヴは驚きの表情を浮かべ、それがどんどん青ざめていく。今にでもバッグを掴んで飛び出していきそうな勢いだ。この前の私のように、痛いぐらい気持ちが分かる。
「今日は通院で検査と診察だけだから」
帰ってくるよと言うと安堵の息が漏れる。黒髪で揃えられた前髪から覗く瞳がまだ抱える不安を色濃く映していて、それでも意思の強そうな真っ直ぐな視線は苦手だと思った。
「私この前まで日本でコンサートがあって、それで全然知らなくて……」
ウンジによく似た目元からポロポロと雫がこぼれ落ちる。テーブルのティッシュを近くに寄せてあげれば、すいませんと手に取って涙を拭った。
「ウンジオンニが事故に遭ってたなんて」
事故という単語に顔をくしゃっと歪めて辛そうにウンジを想って泣いている。この子に記憶のことを伝えてしまってもいいのだろうかと躊躇した。お湯が沸いた気配がして逃げるように席をたつ。
「オンニのこと待っててもいいですか?一目だけでも逢いたいです」
ウンジは彼女に逢ったらどんな反応をするのだろうか、もしかしたら思い出すかもしれない。コーヒーの粉を軽量しようとしていた手が止まる。
「ウンジオンニの部屋で待つので……」
「待たないで」
背中を向けたまま相手の顔をみないで発した言葉は思った以上の強さを孕んでいた。この子にまたウンジが奪われるのだと頭に血が昇る。
「ウンジはいま私と一緒に暮らしているから」
「どういうことですか?」
「わかんないかな……あなたに連絡しないんでしょ?察してよ」
振り返ってそう言い放てばイヴが顔を赤くして意味を理解してくれた。この空気に耐えれないのは私も同じだけど、荷物を持って出て行こうとする。去り際にごちそうさまでしたと小さく言われ、チクリと胸に刺さった。
見知らぬあの子に恋人だと迫られるウンジがかわいそうだなんて言い訳で、最低なことをしたと分かっている。それでも今はまだ逢わないで、ウンジを連れて行かないで、私だけ過去に置き去りにされたくなかった。