イヴの失望.
察してよと言われて頭を殴られたような衝撃を受ける。ウンジが自分だけを愛してくれているなんてとんだ自惚れだった、恥ずかしさで顔が燃えそうに熱い。ふたりが暮らしてる部屋にこれ以上居たくないと逃げるときに開け放たれたままのドアの奥がみえた。ウンジの部屋と同じ間取りだからそこが寝室だと分かっていた、整えられた寝具の上に置かれたピンク色のテディベアに胸が掻きむしられる。
バレンタインにもらったお揃いのぬいぐるみ、せめてそこにはいないでほしかった。大事にするねと言ったウンジの言葉には嘘はなかったように思う。
何もする気が起きずベッドの上で布団にくるまる。スマホを手に取りスケジュールアプリを開くと、今日3月14日にウンジのEとハートマークがついていた。ホワイトデーは空けといてデートしようと誘ったのはあっちのくせに、連絡もなく顔もみずに終わりにするなんてあまりにもふざけている。段々と怒りがこみ上げてきて、落ち込む時間は十分すぎるほど過ごしたと布団を跳ね除けた。
出来るかどうか分からないけど、ウンジにマシュマロでも渡してこよう。嫌いだなんて面と向かって言えるはずもないのだから。
いざウンジたちの宿舎のマンション前に来ると足が竦む。ふたりが一緒にいるところに出くわしたらと思うと胃の辺りがキリキリと痛んだ。意気地がない私は道路を挟んだ距離から入口の様子をうかがった。
しばらくすると人の気配を感じて目を凝らす。ウンジだった。久しぶりにみるその姿はキャップを目深に被っていてもすぐに分かった、右腕が三角巾で吊られていて左腕だけ通したジャケットを肩にかけている。事故の怪我を目の当たりにすると苦しい気持ちになった。
歩き出すウンジを追いかける車道を挟んで同じ方向へ歩く。横断歩道をこちら側に渡ってくるのが分かり青信号でも渡らず待った。目の前から来るウンジと目が合ったのに逸らされる。いつもは私を見つけると優しい目つきになって甘い声で名前を呼んでくれるのに、仕打ちに打ちのめされそうになった。
「お、オンニ!待って!」
横を通りすぎたウンジに声をかけて左手首を掴む。いまこの手を逃したら後悔すると思ったから。
「え、あ……」
どうして何も言ってくれないの?見上げたウンジの顔には戸惑いだけがあって私への罪悪感なんてこれっぽっちもなかった。心の中で振り上げた拳の行き場を見失う。
「イダレの!イヴちゃん!」
急に名前を呼ばれて納得したかのように頷くウンジの何もかもが分からない。好きじゃなくなったのなら最初から好きじゃなかったらどうしてスヨナなんて呼んだの?言葉にならない嗚咽が口から漏れる、泣き顔をウンジに見られたくなくて顔を伏せて手を離した。
「ちょっときて」
視界が暗くなったと思ったらウンジのキャップを被らせられた。手を握られて引かれるまま連れていかれるまま流される。先を歩く背中からは何の感情も受け取ることが出来なくて、でもウンジの手が暖かくて握り返してしまった。
公園の中にあるカフェに入るとテラス席に私を座らせてウンジは店内へと入っていった。泣いてしまった私が恥ずかしくないように、そういうさりげない優しさが大好きだと思った。
「ごめん飲み物だけでも聞けばよかったね」
しばらくして片手しか使えないウンジが店員を伴って戻ってきた。私の右隣の席に座って、ふたりで公園を眺めるように並んだ。テーブルに置かれたトレーにはマグカップがふたつとケーキがひとつ、フォークがふたつ。ごゆっくりどうぞと店員が去っていく。
「ホットチョコレートなんだけど飲めそう?」
「飲めます、あのお金」
「いいよ」
泣かせちゃったからと左手が伸びてきて右頬に触れる。親指で涙袋のあたりをなぞられて、ごめんねとまた謝られた。ユジョンの言葉、ウンジの言動に泣かされたのは事実なのに、優しい指先と悲しそうな表情に私が悪いような気持ちになる。
「イヴちゃん」
「その呼び方……」
「イヴ?」
「違くて……呼びたくないなら無理しなくても」
決定的な言葉を聞いて諦めてしまいたい。そうでもしないとウンジの優しさに縋ってしまいそうだったから。よく喋るウンジが口ごもってるのが尚更終わりを告げるのを躊躇っている気がした。
「ごめんねあなたのことを憶えてないの」
「え」
予想していた言葉じゃなくて変な声を出してしまった。ウンジの唇がわたしの右耳に触れる。
「わたしね2年間の記憶がなくて」
「冗談で、すよね?」
ひとを傷つける冗談をいうひとではないことは分かりきっていた。それでもにわかには信じ難くてウンジの顔をみる。
「ほんとなの逆走前、2年前までしか分からなくて」
憶えてなくてごめんなさいとウンジが辛そうに顔を歪ませる。十分だった、辻褄の合わない言動がいまはそうだったのかと納得してしまう。
「イヴと仲が良かったんだよね?一緒の写真があったし」
「はい」
どの写真だろうか、私は毎日眺めて元気をもらっていた。
「イヴのチッケムも観てたみたい、閲覧履歴に残ってた」
それは知らなかった。嬉しくて照れくさくて顔がにやけてしまう。
「記憶がないことは言わない方がいいってユナに言われてたんだけど」
マグカップを取り湯気が少なくなったところを一口飲んでウンジは言葉を続ける。
「分からないことで騙されたりするからって……でも、イヴには知ってほしいって思ったの」
「……戻らないんですか?」
首をふって分からないと眉を下げて申し訳なさそうにウンジが笑う。誰よりも思い出したいのは本人なのに、浅はかな質問をぶつけたと悔やんだ。
「私が憶えてますから」
ウンジの左手を両手で包んで見つめる。初めて逢ってから、好きを自覚してから、ウンジがくれた言葉、触れてくれたこと全部残さず私が憶えているから。私のことを憶えてないことがあなたを苦しい気持ちにさせるなら、何ひとつ伝えることは出来ないけど。
「頼もしいね」
人懐こさを浮かべて笑うウンジをみて、また好きになってもらおう。そう思えた。
左手でフォークを駆使して何とかケーキを食べようとしているウンジから変な声が漏れている。よりよっていちごタルトでタルト生地が硬くて大変そうだ。
「手伝いますね」
カチとタルト生地を切ったフォークが音を立てる。掬ってウンジの口元へ運べば大きな口で食いつかれた。利き手が使えないって不便なんだなと口端についた欠片を指で拭ってあげた。
「い、イヴも食べて」
ふいと顔を逸らされて反対側を向いて飲み物を飲むウンジに勧められるがまま食べた。そうだ、ひとつだけ伝えておこう。
「オンニは私をスヨナって呼んでました」
「スヨナ」
「はい」
「スヨナ、ケーキ食べたい」
あーんと口を開けて待ってるウンジがいつだかと同じでおかしくて笑ってしまう。ケーキを口に含んで咀嚼しているところに質問をぶつけた。
「右手使えなくて大変ですよね」
「うん、でもユジョンオンニが一緒に暮らしてくれてるから」
ユナも色々きにかけてくれるしとケーキを飲み込んだウンジが何の気なしに答えた。ホットチョコレートを飲みながら考える。カカオのいい匂い。
一緒に暮らしているのは事実だけど必要に迫られてといった感じで、それでも関係を匂わせてきたユジョンの顔を目つきを思い出すと背筋がゾクリとした。