黒に咲く〜第3話 第3話:ネクタイを締める手
蒼一がベッドを下り、スラックスの上からジャケットの袖を通す。動きはまだ緩慢だが、どこか洗練された優雅さが滲んでいた。
玲司は、その姿を無言で見守っていた。
御影蒼一。
幼き頃は同じ地面を駆け回っていた男が、今では人を束ね、命を背負う立場にいる。
だが、こうして寝起きの仕草ひとつ取っても、彼が“ただの若旦那”ではないことがよく分かる。
無理をしてでも、前に立たなければならない。
組を背負うには、それしかない。
「……ネクタイ、貸してください」
玲司の声に、蒼一が手を止めた。
ジャケットの前を軽く整えながら、眉を上げる。
「……結んでくれるのか」
「今朝は特に、手元が甘い。寝起きで組の者の前に出て、“だらしない”なんて印象を与えては困りますから」
玲司は一歩踏み出し、ポケットから蒼一のネクタイを取り出す。
深い紺に黒のストライプが走る、御影家にふさわしい格式ある一本。
蒼一は黙って顎を上げた。
玲司が距離を詰め、指先が器用にネクタイを操る。
距離は近い。
顔が触れ合うには足りないが、息が互いに触れそうなほどの位置。
玲司の手は迷いなく、美しい手つきで結び目を形作っていく。
けれどもその動きには、ほんの僅か――震えにも似た緊張があった。
「……昔は、お前のネクタイなんて気にしたこともなかったのにな」
ぽつりと、蒼一が言った。
玲司の手が一瞬止まり、すぐに動きを再開する。
「昔は、俺が締める立場じゃなかっただけです」
「違うな。俺が“締めさせる”ほど、頼ってなかった」
「……そう思ってました?」
玲司の声が、わずかに低くなる。
「蒼一が、誰かに何かを任せるようになったのは、いつからですかね。……あの頃からずっと、自分で全部背負ってるように見えた」
結び目が完成し、玲司の指が最後に軽く形を整える。
そのまま、ネクタイの中心を押さえながら、ふと見上げる。
目と目が合った。
玲司の瞳は冷静で、張りつめた硝子のように美しかった。
だが、その奥にあるものは、幼馴染としての感情に他ならなかった。
「……頼ってほしいと思うのは、俺の勝手ですか」
静かに、淡く、けれど確かに熱を帯びた声。
蒼一は答えなかった。
ただ、視線を逸らさず、玲司を見つめていた。
---