贄の子(仮) それは、吹く風も冷ややかな秋のことだった。
「……ひでえな」
連なる山々の中でもいっとう高い山の、その中腹まで登りきった虎杖は、葉を落とした木々の隙間から、麓にある小さな集落を眺め下ろして眉を寄せた。
以前この場所で同じように眺めた時には、刈り入れを待つ稲穂が黄金色の敷物のように遠くまで広がっていた。その合間に点々と建つ藁葺きの家々が収穫の準備に忙しくしている様子に、土地を持たないみなしごの虎杖は淡い羨望を覚えたものだった。
しかし今はほとんどの稲は立ち枯れてひび割れた地面が覗き、なんとか育った穂が頼りなげにゆらゆらとしているのが見えるだけの、荒れ地にも見間違うような田畑しか見つけられない。
この時期なら収穫の準備で忙しなくしているはずなのに、どの道も歩く人の姿は見当たらないし、荷引き用の牛小屋がどの家も空になっているのが遠目にもわかる。昼間だと言うのに煮炊きの煙もなく、もはや村と呼ぶことすら危ぶまれそうな光景だ。
虎杖は、二度と踏み入れることのないだろう自身の故郷の有り様に、痛ましさと同時に一抹の寂しさおぼえながら目を伏せた。
虎杖が十六年を過ごしたその集落一帯では、もう三年にも渡って深刻な不作が続いている。
一年目は、夏に起こった長期間の日照りによる水不足で多くの田が枯れた。翌年は突然の大雨で氾濫した川が収穫シーズンを目前にして田畑をさらっていった。本来ならこういった水害の後は山の肥えた土も入ってくるので、次の年は豊作になることも多いのだが、そんな期待も虚しく、三年目の今年、なんとか土地をならして植え直した作物のほとんどが何故か十分に育たず、次の年に回すべき種すら事欠く有り様だ。
「山神様に乞うしかあるまいか」
そんな言葉が出たのは、なんとか二年の間村を支えてきた備蓄もついに底を尽こうとしていた日のことだった。
村一番の古株の家に集まった顔役達は皆、その家主であり村長とでも言うべき立場の老人の言葉に、不安げな顔を見合せあう。
「山神様と言うても、あれは……」
「のう……」
男たちが言葉を濁した通り、村にとって「それ」は守り神というわけではない。
古くからの伝承によると、村を含めた辺り一帯の土地を囲うかのようにそびえる山々のうち、その最も高い山には、人を喰うモノが棲むと言う。
かつて村が出来るより以前、当時このあたりの土地にあったと言われるふたつの大きな村の間で大戦(おおいくさ)があった。村と言っても、ほかの集落からあぶれたような荒くれ者が多く、槍や弓に加えて火も使うような、ずいぶんと乱暴な争いであったらしい。そうして里の草原を焼かれ、山を踏み荒らされたのに怒った「それ」は、陣営の区別なく襲い掛かり、集落ごと人々を食い尽くしてしまったのだという。
それ以来、この辺り一帯では、土地をみだりに荒らすと「それ」が村を滅ぼすと恐れているのである。
本当のところは定かでないが、その何か恐ろしいモノが存在すること自体は、遠く山二ツ向こうの集落にも聞こえるほど有名な話だ。
いつしかその恐ろしいモノは山を守る存在として山神と呼ばれるようになったが、その姿についてははっきり伝えられていない。巨大な蛇だと言う話もあり、恐ろしい姿の鬼だという者もいる。そんなものが、助けを求めたところで力を貸してくれるとはとてもではないが思えない。
村人たちの表情にそんな考えがありありと浮かんでいたが、村長はただただ淡々と続ける。
「いずれにせよ、このままでは村は立ち行かぬ。かつては荒ぶった神とはいえ、その身を賭して乞えばあるいは助力をくださるかもしれん。よしんば叶わぬとしても……」
村長の言葉はそこで不自然にふつりと途切れたが、村人たちは飲み込まれたその先を察してしばし沈黙したものの、やがてそれぞれが恐る恐るといった調子で顔を見合わせると「そうさのう」とぼそぼそと躊躇いがちに口を開き始めた。
「何もせず手をこまねいてはおられんしの」
「……残っとった鶏も牛もバラしてもうた。これ以上、食うに充てるもんは無いじゃろうな」
「坂の婆さんとこの孫たちは、まだ小さかろ。このまま食い物が尽きては助からんかもしれん」
後ろめたさがそうさせるのだろう。吐き出される言葉がどこか言い訳じみているのは彼ら自身よくわかっていながらも、まるで互いが共犯者であることを確認しあうかのようにそれぞれがひと通り口にしたところで、誰ともなく「しかし」と口火を切った。
「使いに行かせるとしたら誰ぞ?」
「……年寄りでは、あの山の上へは難儀する」
「かといって、働き手を減らすわけにも……」
皆、はっきりとは口にはしないが、山の神への使いというのが何を意味しているのかわかっていた。それでも、誰ひとり反論が出ることはなく――両親もなく、引き取り手であった祖父を数年前に亡くした虎杖に白羽の矢が立つのは、当然の成り行きと言えた。
そうしてひとり、山の神への訪問を託された虎杖は、未練を断ち切るように再び山を進み始めて暫くしたところで思わず足を止めた。
曰く、山の神の住まう場所に続くというその道は、件の戦の折に山の神が啜った血によって染まったと言う。
そんな物騒な伝承を信じたわけではなかったが、紅葉して真っ赤に染まった葉がまるで意図的に敷き詰められたかのではないかと疑うほど一本の道のようになって山の奥へと続いているのには、流石に虎杖も緊張に息を呑んだ。
獣たちまで避けているのではないかと思わせるほど深い藪には獣道すらない。山に慣れている虎杖でもその道を行くのは危険だとわかった。
「まあ……でも、今更びびったところでしょうがねえか」
いずれにしても、ここまで来た以上は進む以外に無いのだ。呟きひとつで覚悟を決め、まるで拒むかのように足元を深く覆う藪と密密と生えた木々の合間を深く分け入って赤い道標をたどり続け、ちょうど日の傾きかけた頃。
狩の時にも踏み込むことのないような森の奥まったところで、唐突に行くてを阻んでいたすべてが消えて開けた視界へ飛び込んできた光景に、虎杖は目を瞬かせた。
「すげ……」
それは、遠目にしただけで圧倒されるような、逞しく巨大な樹だった。
何の樹なのか、どれ程の年月を重ねているのか、大人が六人ほど両手を広げて囲ってもまだ足りないような太さをした幹から、天向けては太くしなやかな枝が伸びて、小さな家ひとつ覆ってしまえるほどに広がり、地に向けては隆々とした根を周囲一帯を丘のようにしてしまうほど張り巡らせている。季節になり青々とした葉を繁らせた姿はさぞ荘厳だろうと思わせた。
それだけでも目を奪われるような光景だったが、さらにこの場所を神秘的に見せているのは、その足元にある丸い泉だろう。
樹の大きさから比べると小さく感じるが、まるで月のように綺麗な円を描くその泉は、虎杖が足を伸ばして浮けるくらいには広く、湛えている水は恐ろしく澄んでいるのに、どれほど深いのかその底は窺えない。水のせいか深さのせいか覗き込んだらそのまますうっと呑み込まれてしまいそうな色だ。
聞いたことのない光景だったが、虎杖は直感でここが目指していた場所だと理解した。
(でもなんか、人を喰うようなモノが棲んでる感じじゃないな……)
どちらかと言うともっと厳かな何かが宿っていそうな気がして樹の周りや池の周囲を探ったが、お供えでも置いておくためのような古びた小さな社を根と幹の隙間に見つけた以外には、鳥や小動物の類の気配さえなかった。
本当にここでいいのだろうか、という疑念が過ったが、他に思い当たる場所があるはずもない。
「まあ……考えても仕方ねーか。ええっと、かしこみ、かしこみ申し奉る。此が麓にて広がる里の枯れゆかんや憐れと慈悲を賜らんこと、この身命として願い奉る。叶えたまへ、叶えたまへ」
あっさりと覚悟を決めた虎杖は、村長から教わった通りの言葉を奉上し、ぱんっと手を合わせると、そのまま足を踏み出して泉の中へと身を投げた。
(つっ……めた……!)
一気に全身を飲み込んだ泉の水は、川のそれよりも冷たく、一瞬で虎杖の体温を奪っていく。きゅうっと内臓が縮まる感覚を堪え、浮かぼうとする身体を深く深くへ沈めていきながら、虎杖は暗いはずの泉の底のほうで、何かがきらきらと瞬いているのに気が付いた。
(……綺麗だな)
まるで星空を写したような光景に、虎杖は思わず頬を緩めた。自分の最後を迎える場所がこんなに美しいのなら、何に喰われるのだとしても悪くないかもしれない。
そんなことを思いながら、凍える身体がとうとう意識を失おうとしていた時だった。
――――こぉん
(え……木槌の、音?)
突然、本来聞こえないはずの音が響いたかと思うと、今まで静かだった水が急に渦のような流れが生まれると、その中心から現れたなにかがなにかが伸びてくる。それが自分の体に巻き付いてきたのに、こぼりと思わず空気を吐き出してしまう。
これで終わりか、とそう思って目を瞑り――次に目を開いたときには、虎杖の身体は見知らぬ男の腕のなかにいた。
「えっ、誰……?!」
驚きのあまり虎杖は思わず声をあげたが、すぐに自分を抱えている腕が、人間のそれではないことに気が付いた。ごつごつと固いそれには皮膚や肉の柔らかみはなく、五本どころではなく分かれている指のようなものは木の枝のように見える。まるで揺りかごのように自身を持ち上げていたそれは、やがてゆっくりと虎杖の身体を地面へと下ろすと、するすると男の袖の中へ引っ込んでいった。
(今のって、あのヒトの手、なんかな……)
先ほどまで泉に浸かっていたのに全身がほとんど濡れていない奇妙さに気付く余裕もないまま、地面にへたりと座り込んだままの虎杖は、目の前の「誰か」をじっと見つめた。
この辺りでは見かけない柄をした着物をきっちりと羽織るその姿は、腹のあたりから上はがっしりとした大人の男の見た目をしているが、視線を下げていくと帯から下のあたりからはまるで溶け込むかのように境目なく太い幹に繋がっている。虎杖の感覚で言えば、巨樹から生えてきているように見えるその男は、差し込む光を弾く銀杏色のような髪色にしても、白い肌に彫りの深い目鼻立ちにしてもヒトとしてはずいぶんと異質な見目だ。
だが、不思議と恐れは沸いてこず、ただただ虎杖の目はいくらか不機嫌そうに細い眉を寄せるその顔ばかりを追いかける。
すると、瞬きふたつほどしたところで、薄い唇が溜め息を吐き出すように「何のつもりか知りませんが」と低く言った。
「泉を汚されては困ります。泳ぐなら他所でなさい」
静かだが重たく響く声は、怒っているという雰囲気はなくただ淡々としている。
それでいて、村の長たちのそれよりも腹に来る威が滲んでいて、虎杖は直感的にこの男が件の山神と呼ばれている存在だと理解した。
「泳ぎにきたわけじゃないんだ。えっ、と……」
言いながら慌てて正座して頭を下げると、先も口にした奉上をもう一度繰り返した。
「かしこみ、かしこみ申し奉る。此が麓にて広がる里の枯れゆかんや憐れと慈悲を賜らんこと、この身命として願い奉る。叶えたまへ、叶えたまへ」
手習いを受けたことのなかった虎杖にとっては理解の難しい言葉だったが、何をどう願っているのかはわかっている。深々と頭を下げながら更に「山神様、お願いします」と言葉を重ねた。
「この山の麓にある里はさ、どこも田畑が枯れて戻んなくて……このまま里の実りが戻らんかったら、村のみんなが飢えるしかないんだ。俺のことなら喰ってくれていいから……っ」
「何か、誤解があるようですが」
必死に声をあげる虎杖だったが、返る声は静かだった。
「山神なんぞという呼び名はアナタ方が勝手に付けたもので、私はこの山に棲まうモノのうちのひとつに過ぎません。そもそもアナタがたは私のことを人喰いだの鬼だのと言っていたのに、いつのまに神だなんて呼ぶようになったんですか?」
「…………っ」
温度のない声が告げる事実に虎杖は思わず顔を上げその口を開こうとしたが、出せる言葉はなかった。
自分が遣わされる先は「山神様」だと村長から伝えられた。身命を捧げればその身を喰らう代わりに祈りを聞き届けてくださるだろうと言われていた。みなし児である虎杖は人を喰う神だと漏れ聞いたことがあるだけなので、村の長たちしか知らない事実があるのだろう、と思うようにしていたが、やはりそうではなかったらしい。薄々わかっていたことながら、虎杖は苦いものが滲んで視線を落とした。
(やっぱ、そういうこと……なんだよな)
村の人たちにとって、古くから山に棲むとされた「モノ」は畏れによって神と呼びはしていても本質的には「人喰い」の認識で、助けてくれる相手かどうかは二の次であったに違いない。もちろん助けてくれるならそれにこしたことはないが、彼らが本当に望んだのはーー……
(……いいじゃんか。それでも、ここに来ただけて俺はみんなの助けになるんだから……)
考えないようにしていた事実が背中に迫り、虎杖はぎゅうと拳を握りしめる。
その様子をどう思ったのか、男の姿をした「それ」は溜め息を吐き出すと少し屈む仕草をして「私は子供は喰いません」と変わらず抑揚の少ない声で言った。
「でも、俺は……っ」
「……帰りなさい。そして里へ私に頼っても無駄だということを伝えてください」
それは彼にとっては慈悲なのだろう。子供は、と注釈したということは、確かに人を喰らうモノなのだ。見逃されたことに感謝をして、言われた通りのことを村に戻って伝えればこの話は「命が助かってめでたしめでたし」だ――本来であれば。
けれども、虎杖は自身にその結末は許されていないことを知っていた。
(帰る、場所なんて……)
だが、そんな事情は目の前の存在には関係のないことだ。ぐっと奥歯を噛み締めながらも立ち上がった虎杖は、口から出かかった言葉をなんとか笑みを取り繕う。
「……えっと、急に押し掛けてスイマセンっした」
そうしてぺこりと頭を下げると、行くあても無いままにその場から踵を返そうとした、その時だ。
「酷いことするなあ」
唐突に、上から声が降ってきた。
虎杖が驚いて顔を上げると、ばさりと大きな音を連れて一羽の鳥が巨樹の太い枝の1本に降りてくる。すると、男は細い眉を不機嫌そうに跳ねさせた。
「……何の用ですか、五条さん」
「冷やかしかな」
明らかに歓迎していない男の声に、五条と呼ばれた鳥は嘴をかちかちと鳴らしながら笑うように言った。
「久々にオマエのところまでヒトが入ってきた気配がしたから、様子見に来たんだよ」
どこか甘さを含んだ声で喋るその鳥は、形こそ鴉のそれだが、その翅は染みひとつない白銀で、明らかに自然のものではない気配を纏わせている。虎杖が好奇心に逆らえず視線を向けると、夏の濃い空の色を水晶に閉じ込めたような目が見つめ返してきた。
先ほどまで自分が沈んでいた泉のように底の見えない深い青の奥で、細かな星が瞬いているのが見える。ついついじっと見つめ返した虎杖に、五条は笑ったようだった。
「畏れをあまり素直に覗き込むと呑まれちゃうよ」
「えっ」
「それよりオマエだよ、七海」
言葉の意味を掴みかねて虎杖が目を瞬かせている間、鳥はくるりとその顔を男に向ける。
「その子がどうしてこんなところに来たのか、わからないオマエじゃないだろう?」
五条の言葉に、七海と呼ばれた男は一瞬沈黙すると、苦そうな顔で眉間を寄せた。
「……あなたがどうにかすればいいでしょう」
さっきよりも低くなった声で応じる七海に、五条は肩を竦めるような仕草をする。
「不干渉の盟約外。だいたい僕がそういうの向いてないって、オマエもよく知ってるじゃないか」
けらけらと笑う五条は、七海が何か答える前にくるりと虎杖のほうを向き直ると「ねえ」と投げ掛けてきた。
「コイツに帰れって言われた後、どこへ行くつもりだったか言ってごらん?」
「えっ……と」
その言葉に、虎杖はすぐに返すことができなかった。
山神の下へ向かうことになった時、その身ひとつで向かうように言われていた。身命を賭すその覚悟をお伝えするためと聞かされたが、ようするに死出の旅へ出る自分には不要になるものは置いていけということだと、本当は察していた。きっと今ごろは、祖父と暮らした家もどう解体してどう分配するかついて話し合われているはずだ。とっさに思い出したのは、普段狩りでよく訪れていた場所だけだ。
「ここより下のあたりに猟師小屋があるから、そこに泊まろうかと思ってるけど……」
「止しなさい」
あそこなら狩りに来た者たちが寝泊まりするだけよ最低限の備えがあるので、一時的にでも身を置いておけそうなところだと考えたのだが、七海はぴしゃりと虎杖の予定を却下した。
「もうすぐ冬だというのに、あんな小屋ではひと月持たずに死にますよ」
そんな七海の言葉に、にやにやとしているのがわかる声で五条が「だよねぇー!」と羽をばたつかせた。
「でも、ほかに寝床になりそうな場所はこの山にはないんだよなぁ。どうするの七海ぃ」
「……クソ」
明らかに面白がっている口調の五条をぎろりとその鋭い目で睨み付けた七海は、舌打ちひとつ漏らすとついでに深々と息を吐き出して「君」と呼び掛けてきた。
「名前は」
「え、と、虎杖……」
「では虎杖くん」
耳奥に響くような低い声で名前を呼ばれ、思わず姿勢を正した虎杖に、男は先程までの不機嫌さを消した淡々とした顔で続ける。
「改めまして、アナタ方の言う人を喰うモノにしてこの山の根と枝の一端、星の寝床の番人の七海です。見てわかるでしょうが、この樹が私です」
「え、と、はい」
虎杖にとって難しい言葉が多かったが、要するに自分が名乗ったことに対する自己紹介なのだろうと頷いていると「ちなみに」と鳥が割って入った。
「僕は五条。暁に炉をくべる星にして、この山の頂きの蒼。親しみを込めて先生って呼んでくれてもいいよ」
わざとらしく胸を張るふざけた態度に七海はもう一度ため息をつくと「いい加減にしてください」と手で払う動作をしながら再び虎杖に向き直る。
「……君にはひと冬の凌ぎに、私の内を寝床として使うとを許します。ただし人の住み家のようにはいかないことは我慢してもらいますよ」
「え……?」
突然のことに戸惑う虎杖に、七海は僅かに頷いただけで、先程うろうろしていた時に見つけた社を指差した。
「どうぞ」
その一言に、入れ、ということだろうと察して、根の中に埋まるようにひっそりとあるその古びた小さな社の戸を開く。
(入るかなあ……)
どう見ても子供が丸まってぎりぎり入るかと言うような狭さの社だ。困惑したもののまずは言われた通りにするかと、虎杖はその中へ這うように入っていったが、その先には不思議な光景が待っていた。
先程まではあったはずの板で作られた壁が消え、ぽっかりと姿を表した空間は、虎杖の体格でも横になれるくらいの奥行きがあって、完全に立ち上がれるほどではないものの、中腰で動くくらいはできる高さもあった。手触りや見た目からして、樹の幹をくり貫いてできた空間なのだろう。
(私の内ってそういう意味かぁ)
もそもそと奥まで入って腰を下ろした虎杖は、この樹だと名乗った男が人を喰うモノだと自称したことをふと思い出した。もしかしてこのまま喰われるのだろうか、と一瞬よぎりはしたものの、どちらにしても虎杖に行くところなどないのだ。むしろ、隙間風も防げないような建て付けの猟師小屋よりよほど良いし、もし万が一このまま喰われるのだとしても、こんな風に包まれながらなら、悪くないかもしれない。
そんなことを思いながら奥にもたれ掛かるように腰を下ろすと、無自覚な疲労があったのだろう。そのままずるずると背中が滑り降りていく。すると、虎杖が入ってきたのと同じ場所から、のそりと現れたのは真っ黒い狼だ。普段山の中で見かけるものよりもひとまわりは大きい。
「彼は大丈夫ですよ」
どこからか聞こえる七海の声はそう言うが。ひとつしかない入り口をふさぐように現れた狼に警戒するなというのも無理な話だ。だが、こちらを見つめる目が柔らかな色をしているのに気付いて虎杖は息を整える。
「俺、虎杖。よろしく、でいいんかな」
「……伏黒だ。五条さんに言われて来た。このあたり、夜は冷えるからな」
そう言って近付いてきた狼は、虎杖にそのふかふかの体を寄せるようにして丸くなると「寝ろ」とそっけなく言う。
「一晩くらい、俺の毛皮を貸してやる」
「おー……ありがとな」
獣がしゃべっているということも自然と受け入れている自分を不思議に思いながらも、立て続けに起こったあまりに理解を越える出来事たちにもう限界はとっくに超えていたせいか、樹と狼の暖かさに包まれた虎杖の意識は、そのまますとんと落ちていったのだった。
+++++
「ちょっと、いつまで寝てんの」
翌日。虎杖の目を覚まさせたのは、元気で若い女性の声だった。
ずしりと胸の辺りに乗っている重さは覚えのないもので、何だろうと思いながら目を開けた虎杖は、その顔を覗き込んでいる狐の姿に瞬きを数度。
「えーっと、誰? 伏黒は?」
と思わず問うと、栗色の毛色をした狐はふん、と鼻をならす仕草をする。
「釘崎よ。棘を歩く音の釘崎。伏黒は出掛けてるわ。というかアンタね、乙女に先に名乗らせるなんてどう言うこと?」
「あっ、悪い。俺は虎杖、えっと……麓の村の、荒野のじいちゃんの養い子、だった」
言われて思わず村でするような名乗りを口にすると「里の子ね」とそれで満足したのか、柔らかそうな体がぴょんと虎杖の胸板から飛び降りると、入り口の方へ向き直る。
「アンタ昨日からなんにも食べてないんでしょ? 七海さんが呼んで来いってさ」
釘崎にせっつかれるように社をくぐって外へ出た虎杖は、木の根に腰かけている七海を見つけた。と言っても足がある辺りは樹と同化しているので、正しくは違うのかもしれないが。
「起こしてきたわよ」
「ありがとうございます」
そんな七海のそばにたたっと駆け寄ってどこか自慢げにつんと口の先を上げた狐の頭を、大きな手が撫でていく。それは人間のそれと同じかたちをしていて、昨日自分を包んでいた枝の腕とは違うんだ、とぼんやり思いながらふたりのそばに近寄ると、大きな根の隙間に覗く地面に寝そべっていた伏黒が顔をあげた。
「良く眠れたみたいだな」
「あーえと、すげえ暖かかった。助かったよ」
「おう」
礼を言うと短い会釈が返り、伏黒が再び大きな体を丸めると「伏黒の毛は気持ちいいわよねぇ」と、その背中に釘崎がのっかっていった。
「おい、何で当たり前みたいに乗るんだよ、重いだろ」
「乙女に向かって重いとは失礼ね」
昨日から動物たちが当然のように話しているので尋ねる機会を失っていたのだが、微笑ましい二匹のやりとりに改めて興味がわいてしげしげと眺めていると、虎杖の視線の意味に気が付いたのか「彼らは神使ですよ」と七海が教えた。
「ここは神代の山なので、他の森とは違って神使の数が多いんです。とは言え、彼らのようにヒトの言葉を紡げる者は少数ですが」
「シンシ?」
「ヒトの言葉で言うと妖や守り主のようなものでしょうか。山の有り様を守る意志がかたちを取ったものたちです」
「ううん?」
「ヒトのわかるように説明するのは少し難しいですね」
難しい言い回しに虎杖が首をかしげたが、七海は特に理解を求めてはいないらしく「さて」と腕を動かすと、根の隙間から血抜きをすませてある様子の兎と、いくつかの木の実が転がり出てきた。
「伏黒くんたちが、獲ってきてくれたものです。知りたいことは多いでしょうが、君はまず食事をとりなさい」
****
「あれから十日かぁ……」
夕飯用の薪を集めながら、虎杖は白い息を吐き出した。
麓の里よりずっと高い場所だからだろう。冷たく肺を刺す空気が、もうすぐそばまで冬の来ていることを教えている。
「冬支度急いだほうが良さそうかも」
「収納が必要なら、西側のウロを使って構いませんよ」
独り言のつもりだったのだが、樹のそばにいたので聞こえたのだろう。樹皮から抜け出るように姿を表した七海が、あそこですと太い幹のやや上のほうにあるでっぱりを指差した。ここからは見えないが、今虎杖が寝床に借りているような空洞があるらしい。
「ありがと、ナナミン!」
礼を言うと、ヒトの姿をとった七海は、微妙そうに眉を寄せた。
「確かに、山神様とは呼ぶなとは言いましたが……その呼び名はなんとかならないんですか」
「嫌なら呼ばんけど……だめ?」
「……まあ、君の好きにしなさい」
もう何度めかのやりとりは、今回も虎杖の勝利で終わった。