【脛に傷】 この発憤興起すべき世の中で、昼間っからゴロゴロと寝ている馬鹿があるかッ!
処暑も過ぎて暑い暑いとへこたれるごときは、意気地無しの骨頂なり。夏が暑くなければ、それこそ大変! 大事変! 稲穂も頭を垂れず、柿も栗もアケビでさえも実を結ばず、秋はことごとく生色を失することとなる。この暑さが嫌な奴は、勝手に遊泳場なり滝に打たれにでも行くが良い。そのほうが、よっぽど建設的である。
なに?
この時期の遊泳場は、snobばかりで気に食わぬ?
うむ、左様。それならば仕方あるまい。
無理に湖へ行けとは言わぬ。
だが、我々は大いに夏を愛するのだ。
暑ければ暑いほど、無駄なやる気が満ちて来る。
そこで、企てたのが「日橋川徒歩縦断旅行!」
十六橋を始点とし、近代的機械工場を支える四つの発電所を見物してまわるのである。昨今は、国費を得た学生が西比利亜鉄道にて欧州まで行くご時世。まるで猫の散歩のような旅ではあるが、一日で巡って来られる距離なら他にはあるまい。それでも口をアングリ開けて惰眠を貪るよりは、千倍も万倍も愉快に間違いなしである──、たぶん……
──と。そこで
怒濤の勢いで続いた玉森の弁論が、ぱたりと止まる。
(さては、飽きたのか)
今年で九つになる子どもは、博文館より発行された冒険世界の「本州横断 癇癪徒歩旅行」の冒頭を、巧みに真似て俺達に聞かせていたのだが。突然、発条の切れた玩具のように動かなくなってしまった。俺はさほど、驚かなかった。小さな子どもには良くあることだ。そっと玉森の顔を覗いてみれば、先ほどの威勢は何処に消えたのか、情けない声で俺の名を呼んだ。
「なんと、……鼻緒が、切れてしまったのだ」
「そうか、……見せてみろ」
足を貸せと玉森の前へ屈めば、素直に俺の肩へ手を置いて、下駄履きの足を差し出す。同い年の水上や川瀬に比べれば、いくぶんか小さい。切れた鼻緒の当たっていた指の間は、ほんのりと赤くなっていた。
「痛くはないか?」
「ない」と、玉森は首を振った。
それにしては、覇気がない。
日差しにあてられたのだろうか。
「下駄はすぐに直してやろう、その前に」
ぺたりと前髪の張り付いた額へ手をやる。
汗もかいているし、熱もないようだ。
「ああ、大事ではないな」
ため息を吐く俺を玉森は、じっと見つめていた。
「どうした?」と聞けば
「幸先が、悪いのだ」と答える。
そこでようやく合点がいった。
せっかく、皆を集めて蛮カラ画伯だの、応援将軍だの、写真技師だの役割を振ろうとしていたところ、出鼻をくじかれてしまったらしい。優しい水上は「夢に見たのでは、ないんだろう?」と慰め、聡い川瀬は俺に「うるさいから、早く下駄を直してやって」と責める。
たかが鼻緒というが、下駄が壊れていては前には進めぬ。幸いにして煩い姉達に鍛えられ、下駄の応急処置ならば、少しは腕に覚えがあった。まずは、手ぬぐいの端を裂き切れてしまった鼻緒と取り替える。元の藍色に白地は目立つが、仮止めの間に合わせだ。穴に通した仮の鼻緒を裏で三度ほど結べば、元通りとは言えなくとも歩くだけなら差し支えない。
「ほら、出来たぞ」
そう言って、下駄を差し出せば玉森の丸い瞳が、昼間の湖面のように輝いた。太陽の光線より明るく、眩しい。俺はどうにも、三つばかり離れたこいつの笑顔にかなわない。もしも弟というものがあったなら、たぶん玉森のような存在であっただろう。
「立ってみろ」
どうだ? と。
まだ笑っている子どもの顔を見上げる。
タンタンと下駄の歯で足踏みをして「ヨシヨシ、直ッテイルゾ」と、玉森は続けて短い礼を言放った。まったく根拠のない伝聞ではあるが、旅立ちに下駄の鼻緒が切れるのは、吉凶の凶である。下駄を直しても「幸先が悪い」のには変わりない。
「それなら船着き場はどうだ? 遊覧船が来ているぞ」
見に行かないか? と。
尋ねれば、また。
きらきらと眩しい光が、我が視界へと落ちてくる。
その後、日橋川徒歩縦断旅行へ同行したのかといえば、故郷を離れる最後の日まで実現しなかったのだ。
(──幸先が悪い、か)
子どもの下駄とは明らかに違う、鮮やかな赤い鼻緒を直しているとき。そんな他愛もないことを思い出した。ザアザアと傘に当たる雨の音が、羽化したばかりの蝉時雨と似ていたからか。ほんの一時だけ、心が雑踏を離れて古里の森のなかに移っていたようだ。
気付けば、傘を貸した女人から「軍人さん」と呼ばれていた。
「──なにか、余所のことを考えていらして?」
「いえ、なにも」
「そうですか、こんな雨のなか、何をするにも不自由だと思いますのに。悠然と笑っていられるなんて、さすがに士官学校出の男子は違うのですね」
「……自分が、笑っていましたか?」
「ええ、口元が少し」
名も知らぬ令嬢から指摘され、思わず口を覆ってしまった。彼女はそれを「もったない、良い笑顔でしたのに」と首を傾げた。剛健強勇を生命とする男子が、舞台俳優のように愛嬌を振りまいては格好がつかない。手のひらの下、慌てて口を閉じれば、今度は女のほうがクスリと笑い声を漏らした。
「誰か、想い人でも?」
「そういうものでは、ありません」
「そうですか、それなら良かったわ」
なぜ良かったと言ったのか、丁寧に理由まで彼女は教えてくれたのだが、女学生の間で読まれているという本の名を知らず。彼女のする話の半分も理解しなかった。流行りの女流文学だと言うから、同じものが姉の書棚にあったかもしれない。残念ながら、他人の本まで借りて読むほどの読書家でもなく。
「──雨、いつまで降るでしょうか?」
「研究室の見立では、夕方までと。傘はそのまま、貴方が持っていけばいい」
豪雨のせいで国鉄の駅は酷く混雑している。不可抗力とはいえ制服のままの兵隊が、嫁入り前の若い女人と親しげに話していたのでは、彼女に悪い噂が立たずとも限らない。しっかりとした身なりの淑女であったから、どこか良い家の子女であるのは間違いなかった。
「いいえ、後でお返ししますわ」
ありがとうと頭を下げた女を駅の外まで見送った後、俺自身も首を傾げた。雨に濡れてしまった女物の白い足袋が、日に焼けた子どもの裸足に見えるなど。白昼に幻でも追っていたのか──。
東京に来て唯一の友に鼻緒のくだりを話してみれば、腕組み難しい顔をして「花澤くんは、その方にとても好かれたのかもしれません」なとど言う。
「だって信如なら、断らねばなりませんから」
「親切を、か?」
「あ、あまりにも親切が過ぎると誤解されてしまいます、……」
「だが、往来で立ち往生していたのだ」
ただ、困っている人を助けただけである。
恋物語のように特別な意味があるとは思えない。
「花澤くん、お相手は女性ですよ!」
東京では下駄の鼻緒を直してやるのも、ただの親切では済まされないらしい。
その証拠に数日後、陸軍科学研究所第三課地学的事項研究所まで、美しい文字の恋文まで添えられて貸した傘が届けられていた。
恋と言うのは淡い憧れみたいなものです、と。
友の言うとおりなら──、
きらきらと彼の周りに降る眩しさは、得体の知れない「恋に似た何か」であるのかもしれない。
***
花澤くんが博士と知り合った頃のお話、子どものころの玉森くんが真似したのは、押川春浪の「本州横断 癇癪徒歩旅行」の冒頭で、博士の言う鼻緒のくだりは「たけくらべ」でした