高諸①雨が降っていた。五月の終わりにしては肌寒く、窓の外には濡れた街路樹が風に揺れている。高坂は、キッチンの時計をちらと見た。
――23時14分。今日も、尊奈門はまだ帰ってこない。
「……遅いな」
呟いた声が、静かな部屋に落ちた。
大学進学を機に、尊奈門がこのマンションに転がり込んできてから一年が経つ。最初は賑やかで、毎晩のように今日の出来事を語ってくれた。講義で隣になった子が面白かったとか、サークルに誘われたけど断ったとか、やけに細かく報告してくれるものだから、高坂はうんざりしながらも耳を傾けていた。
――だけど、あの男と付き合い始めてからは変わった。
「……尊」
小さく呼びかけるように名前を呟いたとき、カチャリ、と鍵が回る音がした。
「ただいま戻りました……」
申し訳なさそうな声。玄関に現れた尊奈門は、濡れた髪を乱し、傘の先からぽたぽたと水滴を落としていた。高坂は無言でタオルを差し出す。
「すみません、高坂さん……また遅くなって……」
「どこにいたんだ?」
「……あの、先輩と……」
その言葉に、ぎり、と高坂の奥歯が鳴った。
「……あの男か」
尊は困ったように俯き、小さく頷いた。
「先輩、女の人と話してて……その、友達だって言ってたんですけど、なんか、腰とか触ってて……でも、私が疑うのも、よくないかなって……」
泣きそうな顔で笑うその姿に、どうしてこんなにも胸が痛むのか。わかっている。わかっているのに、踏み込む勇気がなかった。けれど、もう限界だった。
「尊」
ぴたりと、尊の肩に手を添える。驚いて顔を上げたその目に、まっすぐ視線を落とす。
「お前、あんな男のどこがいいんだ? 女と遊び歩いて、お前の気持ちも踏みにじって、それでも……好きでいられるのか?」
「……好きっていうか……先輩、優しい時もあって……怒らないで聞いてくれる時もあって……私、今まで女子校だったから、男の人とどう付き合っていいか分からなくて……」
「尊」
その名を呼んで、肩を抱き寄せた。尊が目を見開いた。
「私は、ずっとお前のそばにいた。泣いた時も、怒られた時も、全部見てきた。お前の一番近くにいるのは、私じゃなきゃ駄目なんだ」
「高坂さん……」
「違うか?」
言葉が詰まったように、尊は唇を震わせていた。ぎゅっとシャツの裾を握り締める。
「……別れたいです。先輩とは……もう、無理です……私、ちゃんと好きになってもらえたと思ってたけど……ただの罰ゲームだった、って……」
ぽつりと落ちたその一言に、高坂の中で何かが切れた。
「は?」
「――あいつ、殺す」
「やっ、やめてください高坂さん! そういうのダメです!」
「ふざけるな……罰ゲームだと? それでお前を泣かせたのか……!」
堪えきれない怒りが喉元までせり上がるが、震える肩を抱いたまま、高坂は深く息を吐いた。
「……わかった。私が全部終わらせてやる。だから、お前は――もう、私のところにいろ」
尊はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと、小さな声で呟いた。
「……高坂さん。……今日だけ、陣にいって呼んでも、いいですか」
高坂の目が柔らかく細められる。
「……ああ。帰ってこい、尊。お前の居場所は、ここだ」
その言葉が、尊奈門の中の最後の氷を溶かしていった。
高坂の胸に、静かに顔を埋める。いつかのように、子供の頃のように。
「……陣にい」
その懐かしい呼び方を口にすると、胸がぎゅうっと締めつけられた。泣きたくなんかないのに、涙が溢れて止まらなかった。
「私、馬鹿ですよね……気づけなくて……ずっと、“好き”って何なのかわからなくて……」
「馬鹿じゃない。……お前は、優しすぎるだけだ」
「優しいだけじゃ、だめなんですね」
「それでも、私はお前の優しさが好きだ」
高坂の指がそっと頬を撫でる。濡れた涙の跡を拭うように。その優しさに、また涙がこぼれる。
「……陣にい、私ね、先輩といるときより、今のほうが安心するんです。ほっとするっていうか……なんか、息ができる感じ……」
「そりゃそうだ。私の前でだけは、無理しなくていい」
尊は、胸に顔を預けたまま、小さく笑った。
「陣にい、やっぱり大人ですね」
「そりゃな。お前の世話、何年してると思ってる」
「うん……一緒に住ませてもらって、本当に、よかった……」
「だったら、もうどこにも行くな」
その言葉と同時に、ふいに顔を上げられた。真剣な瞳。こんな近くで見つめられると、逃げたくなるのに――不思議と目が離せなかった。
「……尊。私はもう、待つのをやめる」
「……え?」
「もう誰にもやらない。私のところに、戻ってこい」
高坂の手が尊の頬に添えられ、そのまま、唇が重なった。
優しくて、でもどこか苦しくなるような、そんなキスだった。
初めてのキス。こんなにも安心して、あたたかいキスが、この世にあるなんて。
尊は目を閉じて、そのぬくもりを、そっと受け入れた。
長い時間が流れたようだった。唇が離れたあとも、ふたりはお互いの距離を詰めたまま、何も言わずにいた。
「……じゃあ、私、もう……あの人とは会いません。会いたくも、ないです」
「そう言ってくれて、よかった」
「陣にい、私、まだ恋愛とかよく分からないけど……」
「分からなくていい。これから全部、教えてやる。私だけを見ていればいい」
「……はい」
尊は頷いて、安心したように高坂の胸に頭を戻す。
こうして、ようやく彼女は戻ってきた。
小さな背中を抱きしめながら、高坂は心の中でひとつだけ誓った。
――もう、誰にも渡さない。尊奈門、お前は私のものだ。