雑諸⑦雨が、降っていた。昨日も、その前も、ずっと。
梅雨の空はいつも同じ灰色で、どこを見ても逃げ道がなかった。風のない、重たい湿気の中。尊奈門は、ふすま一枚隔てた部屋の外に雑渡が居ることを知っていた。いや、感じていた。
──見張られている。
その感覚は、日に日に濃くなっていた。優しい笑顔の奥にある、底知れぬ執着。それに気づいたのは、きっと随分前のことだったはずなのに、心のどこかで見ないふりをしてきた。
「組頭は、優しい。私のことを、思ってくれてる。」
そう言い聞かせてきた。どんなに行動が過剰でも、どんなに言葉が過ぎていても。
けれど──
今日、ふと棚の奥にしまわれた小箱を見つけたとき、その言い訳は崩れ去った。それは、尊奈門がかつて落とした手ぬぐい。もう捨てたと思っていた古い頭巾。幼い頃に描いた、稚拙な絵……。どれも、尊奈門が忘れていたもの。なのに、雑渡はひとつ残らず、それを持っていた。きれいに、丁寧に、愛おしそうに保存された「私」が、そこにいた。
「なんで……」
箱を閉じる手が震えた。雨音が妙に大きく聞こえる。耳が詰まったように、自分の鼓動しか聞こえない。身体の奥から、何かが叫びだしそうだった。
──ここに居たら、壊される。
気づいたのだ。いや、本当はずっと知っていた。けれどそれを「愛」だと思い込んでいた。信じたかった。
「でも、もう……」
私が、私じゃなくなる前に。
ごめんなさい、と胸の中で呟いて、私はそっと動き出した。畳が軋む音にさえ息を止めながら、押入れの奥にしまっていた風呂敷を取り出す。用意していた荷物。簡単な着替えと、少しの金、そして…組頭からもらった小刀。護身用ではない。ただ、彼のことを思い出すには十分な重さだった。
──今夜しか、ない。明日でも、明後日でも駄目だ。今夜。
夜になるのを待った。灯りを落とし、眠ったふりをして布団に潜る。時間がゆっくりと、じわじわと溶けていく中、尊奈門は何度も何度も拳を握った。怖い。見つかれば、許してもらえない。でも。
「逃げなければ」
雨が強くなってきたのは、ちょうどその時だった。雑渡の気配が遠のいた瞬間、尊奈門は息を止めるようにして立ち上がった。下駄は音がするからと裸足のまま、裾をたくし上げて部屋を抜け出す。忍び足で裏口に向かい、戸を押すと──かすかに開いた。空気が、外の湿気が、どっと押し寄せる。目が潤んだ。自由の匂いがした。走った。とにかく走った。庭を抜け、塀を越え、土を踏みしめて、雨の中を駆ける。足元はすぐに泥に塗れ、髪も肌も濡れそぼる。どこかで足をくじいた気がする。でも止まらない。
「遠くに……遠くに……!」
頭の中で、それだけが響いていた。遠くへ。組頭の目が届かない場所へ。あの優しい声が、届かない場所へ──
身体の芯まで冷えきって、肺がきしむように苦しくなってきた頃。ようやく、古びた蔵のような小屋を見つけた。
「少しだけ…少しだけ、休みたい…」
泥だらけの足で中に転がりこみ、膝を抱える。肩が震えて止まらない。寒さと、恐怖と、罪悪感と……でもその奥にある「正しさ」を信じたくて、尊奈門は唇を噛んだ。息を整え、目を閉じる。けれど──その静寂は、長くは続かなかった。
「……そんなに慌てて、どこに行くの?」
その声が、雨の音を割って、耳元に落ちた。ピシッと、背筋が凍った。振り返らなくてもわかる。柔らかい声。いつもの優しい声。なのに、そこにあるのは、怒りだ。呼吸が止まった。背後に立つ男──雑渡昆奈門の視線が、尊奈門をまるごと貫いていた。
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「……そんなに慌てて、どこに行くの?」
湿った空気を割って届いた声は、優しく、静かだった。けれど、それがなにより怖かった。尊奈門は振り返れなかった。背筋が凍りつき、足の指先から頭のてっぺんまで、全身の血が逆流していくような感覚に襲われた。
「…………ぅ」
喉が詰まって、声が出ない。肩が震えて止まらない。軋む木の床に、重たい足音がひとつ、またひとつと近づいてくる。
「……私に、黙って出て行ったんだね。」
あのいつもの、微笑みながら語るようなトーンで。でも、音のない雷が落ちてくるような──底知れぬ怒気を、尊奈門は背中いっぱいに浴びていた。
「尊」
その一言で、心臓がひゅっと縮む。
「ここまで、よく走ったね。こんな雨の中、裸足で、泥だらけになって。」
目を閉じて、歯を食いしばった。けれど雑渡は容赦しなかった。尊奈門のすぐ後ろまで来ると、そのままゆっくりと、腰をかがめる。
「尊。振り向いてよ。」
「……っ」
「怖い?」
尊奈門は、かすかに頷いた。
「うん、そうだね。きっと、今の私は怖い。だって尊が、私を置いてけぼりにしたんだから。」
そこで、静かに笑う気配がした。吐息のような、低く喉で鳴る音。それは、柔らかな愛情と、ねじくれた執念の入り混じった──支配の音だった。
「尊、私がどれだけお前を大事にしてきたか、わかっているよね?」
「……わ、わかって、ます」
震える声で答えると、背中に指先がそっと触れた。濡れた衣の上からでも、その体温ははっきりと伝わってくる。優しい指だった。だけどその指が、今はまるで刃のようだった。
「だったら…どうして、こんなことをしたの?」
「…外に…外に出たかったんです…少しだけ……」
「それは、なぜ?」
返事が、できなかった。ほんとうはわかっている。「組頭が怖かった」と言えば、それで全部説明がつく。でも、そんなこと言えるわけがない。そんな言葉を口に出した瞬間、自分はもう「可愛がられる存在」ではなくなってしまう気がして。それを思うだけで、怖かった。
けれど──
雑渡は、待たなかった。尊奈門の肩に手をかけて、ぐいと振り向かせた。濡れた頬に髪が張りつき、涙と雨の境界はもう曖昧だった。そして、その瞳を見た。
──怒っていた。静かに。底なしに。笑っている。でも目が笑っていない。黒曜石のような瞳が、じっと、獲物を捕らえるように尊奈門を見据えていた。
「私から、離れようとしたんだね。」
「……ご、めんなさい」
「尊」
ふたたび名前を呼ばれる。それだけで胸がきつくなった。
「私は、お前に鎖をつけたことはない。檻に閉じ込めたこともない。そうだろう?」
──していない。でも、しているも同然だった。行動は監視され、いつもじっとりとした視線を受けていた。組頭の目の前では、ただ「お利口な尊奈門」でいるしかなかった。
「でもね、尊──」
そこで、雑渡の顔がすっと近づいた。
「これからは、本当に鎖をつけないといけないのかもしれないね。」
そう言って、濡れた尊奈門の頬に口づけを落とした。冷たい唇。でも中にある熱は、焦げつくほどに激しかった。
「お前は私のものだ。それだけは、絶対に、忘れさせない。」
「…………っ、ぅ……!」
尊奈門の身体が小さく震え、肩をすくめると、雑渡はそのまま腕をまわし、抱きしめてきた。雨の音が、遠くなっていく。この腕からは、もう逃げられないと、心の奥が理解していた。
静かに、檻が閉じる音がした。
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肌寒い雨の夜道を、雑渡は濡れた尊奈門をしっかりと抱きかかえたまま歩いていた。尊奈門は抵抗しなかった。──できなかった。
温かくて、優しいのに。どうしようもなく怖い。大きな掌が背を撫でてくる。抱きしめる腕は、逃げられないほどに力強いのに、撫でる手はひどく優しい。
「濡れちゃったね。風邪を引く。ちゃんとあたためてあげるから、ね、尊奈門。」
耳元でそう囁く声に、尊奈門の心はぎゅっと縮んだ。拒否したい。でも、この人は私を拒ませてはくれない。戻る頃には、夜が深まっていた。あの抜け出した裏口ではなく、正面の門から堂々と。廊下は静まり返っていた。誰もいない、誰も止めてくれない──二人きりの、箱庭の世界。雑渡はそのまま、尊奈門を庵へと運んだ。雑渡と尊奈門の三年間が詰まった、普段、誰も入れない部屋。畳は乾いていて、障子からわずかに雨音だけが聞こえた。濡れた衣が体に張り付き、冷えた手足がかすかに震えていた。
「はい、尊。これに着替えて。お湯も沸いてるよ。」
柔らかい口調だった。まるで看病でもするかのように。けれど、渡された浴衣は──紐がない。尊奈門は震える手でそれを受け取って、そっと口を開いた。
「……組頭。あの、これは──」
「着替えて」
低く、短い言葉だった。尊奈門の言葉を遮って、雑渡は笑ったまま、しかし目だけは笑っていなかった。
「もう、お前を自由にはさせないよ、尊。私から逃げようとした罰は、ちゃんと受けてもらうから。」
そう言って、すっと手を伸ばし──尊奈門の髪に触れた。濡れた前髪を梳く指先が、異様なほどに優しい。
「怖がらなくていい。痛いことはしない。私はお前を、壊したくはないから。」
でも、檻には入れておきたい。触れられない場所に、誰にも奪われない場所に。その本音が、皮膚越しに伝わってくる。
「お前はね、尊、誰よりも私の可愛い人なんだよ。」
浴衣の襟元に指が触れる。身動きできず、尊奈門は目を伏せるしかなかった。涙が、また頬を伝う。
「泣かなくてもいいのに。…泣き顔も可愛いけどね。」
抱きしめられた。その大きな体に包まれると、すっぽりと覆われてしまう。逃げ場はない。温かさと苦しさが、同時に襲いかかってくる。
「愛してるよ、尊。私の、たった一人の可愛い子。」
「……ん、組頭、わた、し……っ」
「大丈夫、大丈夫。お前がちゃんと“私のもの”ってわかってくれるまで、何度でも、何日でも、ずっとそばにいるから。」
窓の外では、まだ雨が降っていた。その音は、外の世界を遠ざけるように、深く、重く、屋敷を包んでいた。そして、尊奈門の世界は、静かに──閉じられていった。
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目が覚めたとき、外はまだ雨だった。ぼんやりと天井を見つめる。障子越しの光はなく、部屋の明かりだけが、柔らかく灯っていた。
「……あれ」
寝台の上に寝かされていた。しっとりとした布団、甘い香りのする枕──それらすべてが、あの時のままだった。動こうとして、足に引っかかるものがあった。薄い金属の輪が、足首を包んでいた。
──鎖だ。
細い鎖が、柱の根元へと繋がっている。布をかけられていたから、すぐには気づかなかった。
「……っ」
嫌な汗がにじむ。逃げようとしていたことを、もう一度思い出す。雨の中を走って、怖くなって、見つかって──「罰」として、ここに。
ガラリ、と障子が開く音がした。
「おはよう、尊奈門」
笑顔だった。いつものように、柔らかく、優しい──でもその手には、器があった。湯気の立つ雑炊の匂いが漂う。
「今日は少し食べて、それからまた、眠ろうね。疲れてるでしょ。」
「……組頭」
震える声で呼ぶと、雑渡は嬉しそうに目を細めた。
「はい、尊」
「……この鎖、外しては、いただけませんか。」
目を逸らさずに言った。精一杯、声を平らに保った。でも、返ってきたのは、笑顔のままの返事だった。
「ダメだよ」
柔らかくて、残酷な一言だった。
「お前が逃げようとするから、こうなったんだよ? 今の尊には、ここが一番安全なんだから。」
「……安全、じゃないです。ここは……」
「檻?」
声を重ねるように、雑渡は囁く。
「そう思ってもいい。なら、私は喜んでその鍵を持っていよう。」
微笑んだまま、そっと器を差し出してきた。
「はい、あーんして?」
「……っ、」
尊奈門の唇がかすかに震えた。心も、身体も。なのに、その手からは熱が逃げていかない。むしろ、どこか安心してしまいそうになる。
──この人は、私を絶対に見捨てない。それが、恐ろしくて、嬉しい。ひと口、受け入れる。柔らかい雑炊が、温かく喉を通る。それだけで、なぜか涙がこぼれた。
「……ああ、泣かないで。ほら、よしよし」
背中に手が回され、ぎゅっと抱きしめられる。優しい腕。強い腕。逃げようとすれば、きっと壊されてしまう。
「尊は可愛いね。ほんとうに、ずっとこうしていたい。」
「……組頭」
「なあに?」
「……私も、組頭のこと、大好きです」
それは本心だった。でも、だからこそ苦しい。だからこそ、この檻の中でもう、何も考えたくない。愛しているから逃げたい。でも、逃げられないから、愛を信じるしかない。雑渡は、満足げに笑って、尊奈門の額にキスを落とした。
「それでいいんだよ。尊は私だけを見ていればいい。……ずっと、ね」