高諸④春の風が制服の裾を揺らし、桜の花びらが廊下に舞い込む放課後。
誰もが憧れの眼差しで見つめるその人物――高坂。
整った顔立ち、きりりとした瞳、凛とした立ち居振る舞い。すべてがまるで芸術作品のようだった。
近寄りがたい。話しかけるなんて無理。
生徒たちは口をそろえてそう言う。
そんな中、ふわふわのポニーテールを揺らして現れた一人の少女。
「高坂さん!」
明るい声とともに、高坂の隣にぴたりと立つその姿に、廊下の空気が一瞬止まった。
「…尊。今日も可愛いわね。そんなに笑って、どうしたの?」
「えへへ、高坂さんが隣にいるだけで、嬉しくなっちゃうんですもん」
高坂は、ほんの少し口角を上げて応じた。
その瞬間、周囲の視線が一気にざわめいた。
(え…今の、笑った?)
(あの高坂先輩が、あの子にだけ…?)
誰もが認める美貌を持ちながら、どこか距離を置いていた高坂が、唯一自然体になる相手――それが尊奈門だった。
「高坂さん、今度一緒にお洋服を買いに行きましょう!」
「また?」
「はい!春の新作です!」
「尊は可愛いから、きっとなんでも似合うわよ」
「えへへ…可愛いって、大変ですね!」
「ふふ、そうね。尊はとっても可愛いものね」
「はい!」
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「ねえ、高坂先輩、迷惑してるんじゃない? あなたみたいな子に付きまとわれて…」
休み時間、女子生徒の一人が笑みを浮かべず、淡々と声をかけてきた。
「えっ、と…」
「教室にまで押しかけてるよね?先輩、きっと迷惑だと思ってるわよ」
「でも、高坂さんは昔からずっと、」
「……なにそれ妄想? 幼なじみとか、夢見すぎじゃない?」
――冷たい声に、何も言い返せなかった。
女子生徒は、そんな尊奈門を見て満足げに鼻を鳴らし、去っていった。
確かに、昼休みや放課後、自然と足が向いていた。
扉の前で呼び止めて、にこっと笑って「高坂さん、来ちゃいました」って声を掛けるのが、尊奈門の日常だった。
だけど──
「…迷惑、ですよね。きっと」
誰にも聞こえないように、尊奈門はぽつりと呟く。
(高坂さん、忙しそうだった。この前だって、ノートを広げて難しそうな顔してたし。私が行っても、邪魔になるだけかも…)
そう思い始めると、もう教室の前に立つことすらできなかった。
(“付きまとってる”…私、そんなふうに見えてたんだ…)
ただ、高坂の顔が見たかった。
声が聞きたかった。
笑ってほしかった。
──でも、それって全部、“私のわがまま”だったのかもしれない。
「…うん、今日はやめとこ」
制服の袖をぎゅっと握りしめて、尊奈門は踵を返す。
高坂の教室の前にたどり着く手前で、ほんの少しだけ立ち止まった。
だけど結局、そのまま廊下を歩き去った。
──知らないうちに、自分で自分に「行っちゃダメ」って言い聞かせている。本当は、今日も高坂の笑顔が見たかったのに。
けれど、それこそが高坂にとっては“迷惑”なのだと、再度自分に言い聞かせる。
足早に廊下を歩き、自分の教室の扉に手をかける寸前、クラスの女子生徒たちの話し声が耳に入り、咄嗟に手を止める。
「…あの子、全然可愛くないのに、自分のこと可愛いと思ってそうで痛いよね」
「毎日すっぴんだよね? あとあの笑い方、超ぶりっ子」
「高坂先輩、絶対迷惑してるよ。断れないだけじゃない?」
最初は気にならなかった噂も、だんだんと耳に入るようになった。
その夜、尊奈門は鏡の前で自分の顔を見つめた。
(…私って、本当に可愛いのかな)
高坂さんが「可愛い」って言ってくれた。小さい頃からずっと。
そんな言葉を真に受けて、可愛いんだと思い込んでいた自分が恥ずかしい。
「…わたし、可愛くないんだ」
心の奥が、すうっと冷えていった。
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次の日から、尊奈門は高坂に近づかなくなった。
「高坂さん」ではなく「高坂先輩」と呼び、目も合わせず、そそくさと廊下を通り過ぎる。
高坂はすぐに異変に気づいた。
「尊」と声をかけても、「あ、すみません。急いでて……」と逃げるように去っていく。
――おかしい。
気のせいかと思った。
でも、次の日も、その次の日も、変わらなかった。
「高坂〜、これ回してくれない?」
クラスメイトに声をかけられても、どこか上の空。
手元のプリントを渡すだけで、それ以上言葉を交わす気になれなかった。
いつもなら、この時間には、あの子が扉の前に立っているはずだった。
ふわふわのポニーテール。
柔らかい声。
無邪気な笑顔で、「高坂さん」って呼んでくれる――そんな日常が、唐突に途切れていた。
(…来ない。尊が…)
高坂は胸の奥に、小さな棘のような違和感を抱えた。
気づけば昼休み、何度も教室の扉に目をやってしまう。
いつも通りの顔を装いながらも、廊下の人影に敏感になっていた。
来ない。
やっぱり、来ない。
静かすぎる教室。
穏やかに過ぎていく時間。
けれど、その静けさが、高坂には苦しかった。
(おかしい。尊が私の前に来ないなんて、あり得ない)
高坂は、ふと立ち上がる。
教科書を閉じ、鞄のポケットに手を伸ばしながら、自分の席を離れた。
(私、なにかした? それとも…)
不安が喉元までこみあげてくる。
いつも自信に満ちていたはずの自分が、いま、こんなにも脆く感じる。
「…行かなきゃ」
高坂は小さく呟いた。
尊が来なくなった理由なんて、今はわからない。
けれど、このまま静かにやり過ごせるほど、あの子の存在は軽くない。
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(…すっぴんって、そんなにダメなのかな)
尊奈門は俯いたまま、自分の頬をそっと触れた。
鏡を見れば、昨日と変わらない自分の顔。
高坂が「可愛い」って言ってくれたそのままの自分。
だけど――今は、それがとても頼りなく思えた。
放課後、自室。
制服のままベッドに座り、スマホを開く。
「メイク 初心者」「ナチュラルメイク」「可愛くなるには」
検索窓に文字を打ち込む指が、どこか震えていた。
たくさんの記事。たくさんの動画。
でも、どれもキラキラしすぎていて、遠く感じた。
(アイライン?ビューラー?…カラコンって、これ目に入れるの?)
思わず眉をひそめる。けれどページを閉じることができなかった。
(みんなやってるんだもん。私も、ちゃんとしなきゃ。可愛くならなきゃ。高坂さんの隣に立つには、そうじゃなきゃ――)
そのとき、インターホンが鳴る。あわてて玄関の扉を開けると、そこには高坂が制服のまま立っていた。
「高坂…さん…?…あ、ちが…高坂、先輩…」
目を丸くする尊奈門を前に、高坂は眉をひそめる。
また「高坂先輩」だ。
「尊、何があったの?」
「……なにも」
「嘘つかないで。私を避けてるでしょ?」
尊奈門は唇をかんだ。眉を寄せ、顔を顰める。
「そんなんじゃ、せっかくの可愛いお顔が台無しよ」
高坂のその言葉に、尊奈門の指がぴくりと震えた。
「……私、可愛くないから。別に、台無しでもいいんです」
淡々と、けれど少しだけ震えた声で尊奈門は言った。
その瞬間、高坂の表情がぴたりと止まる。
「…今、なんて言ったの?」
「…可愛くないって。だから、気にしなくていいんです」
「――は?」
声が低くなった。
静かな怒気を孕んだその響きに、尊奈門はびくりと肩をすくめる。
「誰に言われたの? それとも、自分で思ってるの?」
「…だって、みんな言ってたんです…実際、私、高坂さんみたいに綺麗でもないし。お化粧だって知らないし、ぶりっ子だって、言われてるし……」
ぽつぽつと、自嘲するように言葉を並べる尊奈門。
高坂は静かに歩み寄り、尊奈門の肩を掴む。
「尊、それ以上言ったら、本気で怒るわよ」
尊奈門はびくりと震え、目に涙をためる。
その涙を見た瞬間、高坂の心がチクリと痛んだ。
「あ、ご、ごめんなさい……」
「泣かないで。泣かせるつもりじゃなかったのよ…」
尊奈門の頬を両手で包む。
涙の浮かんだ目尻に、そっと唇を寄せた。
「…尊が誰に何を言われても、私にとっては、世界で一番可愛い女の子よ。“可愛くない”なんて、もう二度と、その口で言わないで」
「でも…」
「“でも”じゃない!!」
高坂にしては珍しく、声を荒らげた。
尊奈門は驚き、目を大きく見開く。
高坂の瞳は怒りに揺れていた。
でも、それは怒鳴るような冷たい怒りじゃない。
悲しみと、焦りと、どうしようもない愛情が混ざった、苦しい怒りだった。
「私にとっての“可愛い”は、他の誰かに決められるものじゃない。私が、尊を可愛いと思ってる。それがすべて」
「…高坂、さん…」
「泣きそうな顔で、私の前に立たないで。そんな顔、見たくない…」
高坂は尊奈門の頬に手を添える。
熱を帯びた手のひらに包まれて、尊奈門の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「ごめんなさい……」
「もう、二度とあんなこと言わないで」
そう言って、高坂はその涙を指で拭い、そっと口づけた。
何も言えなくなった尊奈門の頭を、やさしく撫でながら、高坂はぽつりとつぶやいた。
「…私が尊を“可愛い”って思ってる限り、尊は可愛いの。世界でいちばん、ね」
「高坂さん…」
尊奈門は、ぎゅっと目を閉じて、小さくうなずいた。
「お化粧だって、しなくていいのよ。尊はそのままがいちばん可愛いんだから。」
「でも…私、インターネットとかで調べてみて…」
「インターネット?」
高坂の眉が寄せられる。
「やめて。変なこと書いてあるし、尊に合う方法かもわからない。もし本当にしたいのなら、私が教えてあげるから。」
「え、あ、はい…」
愛しの尊奈門が自分以外に染まるのが耐えられない。ただでさえ外部からの影響を受けて弱っているのに、そこにつけ込まれたらひとたまりもない。
「…ありがとう、ございます」
小さな声とともに、尊奈門は高坂の胸にそっと額を押しつけた。
高坂はその背中を抱きしめる。春の風がふたりの髪を優しく揺らした。