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    社会の窓

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    社会の窓

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    まだ付き合ってないルクジェミ
    blueskyに載せたものの再掲です

    短景『翠髪』 その日、ルーク・サリバンがジェイミー・ショウを訪ねたとき、部屋には珍しく先客があった。
    「また来たのかよ」
     開け放しの玄関ドアから中を覗いたルークへ、いじっていたスマホから顔を上げたジェイミーが、呆れたように言う。
     夕方の西陽が、玄関から部屋の奥に向かってまっすぐ差し込んでいた。その光を遮るように、長い脚が投げ出されている。玄関を入ってすぐ、キッチンの椅子に浅く腰掛けていた家主は、「連絡してから来いよなあ」と小さくぼやいて、またスマホに目線を戻した。
    「っせぇな、居たら飯でも誘ってやろうかと思って顔出しただけだっての」
    「一人じゃさみしくって飯も食えねぇって? しょうがねえな、脳筋くんは。可哀想だから付き合ってやるよ」
     にゃはは、と揶揄うように笑うジェイミーに、「言ってろ」とルークは返す。
     いつ会っても、ジェイミーの態度はこんなふうだ。ルークも分かっているのに、一々律儀にイラついてしまう。それでいながらお互い心底嫌いあっているというわけでないのは、暇と思えば足が向き、誘えば断らないという事実が示しているところだが、どうしてこうなったかというのは、当人たちにとっても不思議なところだった。
    「中で待ってな」と、ジェイミーはルークのほうを見もせず、部屋の奥を指差した。
     中? とルークは訝しみ、
    「ここでいいからさっさとしろよ」
     とジェイミーを急かす。
     部屋着でこそないものの、ジェイミーはまだ髪も下ろしたままだった。昼夜が逆転した生活をしているから、きっと起きたばかりなのだろう。洒落者のこの男が洗い髪で出掛けるわけがないことは、ルークも知っている。
     しかしジェイミーは待っていろと言いつつ、椅子から立ち上がることはおろか、スマホを離す様子もない。ルークをじろりと睨み上げ、
    「いいから入ってろ」
     と有無を言わせぬ口調で言った。
     ここへ来て、ルークもいよいよジェイミーの態度が我慢ならなくなった。
    「ああ?」
     他の人間相手ならいざ知らず、ジェイミーを相手取ると、ささいなことでもつい手が出る。殴れば同じ力で殴り返してくる相手だと、知っているが故の気安さだろう。胸ぐらの一つも掴んでやろうと、一足、部屋に踏み込んで、しかしそこで、ルークははたと止まった。
     部屋を覗いただけでは、気づかなかったものに気づいたのだ。
     ジェイミーの背後に、子供がいた。
     ジェイミーの背に隠れるようにいたその子が、ルークのほうを気まずそうに見ているのと、目があったのだ。
     虚をつかれて、ルークはその不安そうな瞳と見つめあう。
     何度も訪れてはいるものの、ジェイミーの部屋に客があるということも、それが子供であるということも、今までに無かったことだ。全く予想もしなかった出来事を脳が処理するのに、流石のルークも時間がかかった。
     しばしのフリーズののち、ルークは振り上げた拳をぎこちなく開き、「……やあ?」と何とも頼りない挨拶を返した。
     横目で見ていたジェイミーが、さっきよりも大きくため息をつく。呆れた目をして、さっさと行け、と言わんばかり、ルークにむかって顎をしゃくった。
     説明しようという素振りもない。ジェイミーの仕草に、当然、ルークもイラつきはしたが、まさか初対面の子供の目の前で続けるわけにもいかない。ジェイミー相手ではすぐ吹っ飛んでしまう分別を手繰り寄せ、後で絶対に殴る、と心にきめて、足音も荒く部屋の中に入った。
     キッチンの奥は、ベッドとテーブル、それに一人がけのソファがあるだけの、意外なほど簡素な、狭い部屋だ。
     街の『トラブルバスター』を自称するジェイミーは、自分の居場所はストリートだと思い定めている節がある。起きてから寝るまでのほとんどの時間をストリートで過ごすジェイミーにとって、ここは寝に帰ってくるだけの場所、着替え置き場、あるいはシャワールームに過ぎないらしかった。自分とは違いすぎる人種だと、ここへ来るたびにルークは思う。そしていつ来ても、ソファは家主が脱いだ服が積まれているから、座って休めるような場所はベッドしかなかった。ルークはせめてもの腹いせに、スプリングを痛めつけるように勢いをつけて、ベッドへ腰を下ろした。勢いがよすぎて、スプリングどころか、ベッドフレームまでがぎしぎしと激しい音をたてたので、少し胸がすっとする。
     キッチンのほうから、「あのアホは気にしなくていい」というジェイミーの声が聞こえてくる。
     いちいち腹の立つ、と思いながらも、ルークはそちらへ目を向け、耳を側立てる。気勢を削がれて促されるまま、何も聞かずに入ってきてしまったが、ジェイミーの部屋に似つかわしくない存在が、気にならないわけがない。
    『トラブルバスター』は、基本的に住民からの頼みを断らない。きっとこれもそのあたりの事情なのだろうと、想像はするのだが。
     子供は、少年だった。歳の頃は十二、三のように見え、チャイナタウンの子らしいのは、顔立ちからわかる。しかし、チャイナタウンで見かける子供たちとは、どこか違う雰囲気があった。
     少年はルークのほうを気にしながらも、ジェイミーに促されて手を動かしはじめる。
     それで何をするのかというと、彼はその手に持った櫛で、ジェイミーの髪を漉きはじめたのだった。
     床につくほど長い黒髪を、少年は一房取っては、丁寧に梳る。無駄や躊躇いのない手つきで、慣れている様子が遠目にもわかった。しゅ、しゅ、と衣摺れのような微かな音が、規則正しくタイル貼りの床に響く。
     彼が手を進めるにつれ、部屋の中には馨しい芳香が広がる。ルークも嗅いだことのある匂いだった。ジェイミーからいつもほのかに香っている匂い。酔って髪を解いたとき、あたりにぱっと広がる匂いだ。花のような、果物のような。
    (ヘアオイルの匂いだったんだな)
     少年が時折手に取るビンを見て、ルークは今更に気づいたのだった。
     少年は淡々と仕事を進めた。
     梳られた髪は艶を増し、さらさらと床に流れて川を作る。全ての髪を梳かし終えると、彼はそれを結い上げはじめた。ジェイミーのたっぷりとした黒髪は、見るからに少年の手には余るようだったが、彼は両手でそれらを器用にまとめ上げ、細い紐と見えるもので頭頂の根元を結えた。3度ほどそこへ髪の束を巻き付け、するすると絡み合わせてから、残りを三つ編みにしていく。
     澱みなく、一定のペースで動く少年の手を、ルークは我知らず見つめていた。
     子供らしくない、というのが第一の感想だった。所作もそうだし、よく見れば服装や髪型も洒落ていて、大人びた子だ。それだけなら感心して終わりだったろうが、ジェイミーが自身の身支度を他人に、しかも子供に任せて当然のような顔をしている、それも何の注文もつけずに、黙ってやらせているということに、ルークは何とも言えない、いやな感じを覚えていた。
    「……ジェイミー、どう?」
     仕事を終えた少年が訊ねると、ジェイミーはようやく立ち上がって、ううん、と一つ伸びをした。ジェイミーの動きにあわせて、長い三つ編みが鎖のように、西陽を反射して煌めきながら踊る。
     その重みとしなりを確かめるようにジェイミーはニ、三度首を巡らせて、
    「……ああ、いい感じだ。あんがとな」
     振り返って少年に微笑みかけた。少年の肩が下がる。ルークのほうから表情は見えないが、ほっとしているのだろうことはわかった。
     ジェイミーは少年に幾枚かの紙幣を渡し、「また頼む」と言う。少年は躊躇わずそれを受け取って、ズボンのポケットに仕舞い込んだ。幾ら渡したのかまでは見えなかったが、子供の駄賃には多すぎるように、ルークには思えた。
    「飯は? 下で食ってくなら、オレにツケといていいぜ」
    「ありがと。でも大丈夫、今日は餃子いっぱい作るって言ってたから、帰って手伝わないと」
    「……そか。じゃ、気ぃつけて帰れよ」
    「うん、また来るね」
     帰りしな、少年はルークをちらと見て、しかし何も言わずに出て行った。
     二人きりになった部屋に、急に静寂が訪れる。少年が鉄製の外階段をおりる甲高い音が聞こえなくなると、後には日も暮れ方の紅虎街の喧騒が、遠く聞こえるだけとなった。
     沈黙を破ったのはジェイミーだった。
    「……ガキをビビらすなよ」
    「してねえ」
     ルークは立ち上がってキッチンのほうへ歩きながら、素早く言い返す。それへジェイミーは向き直り、舌打ちした。
    「ちょっと待たされたくらいでイラつきやがってよ。待てねえ男はモテないんだぜ、脳筋くん。一つ賢くなってよかったな? ジェイミー様に感謝しろよボケ」
    「ガキに何やらせてんだよ?」
     目の前まできたルークを睨み上げ、ジェイミーは「あぁ?」と威嚇する。しかし、ルークの態度に何か感じとったのか、少し睨みあっただけで、ジェイミーの目はすっと冷えた。
    「……小遣い稼ぎにって頼まれたんだよ。試しに触らしたら意外と巧かったんで、少し前からやらせてる」
    「てめえでできることを、金払ってガキにやらせてんのどうかと思うぜ」
    「この長さの手入れがどんだけ手間か知らねえから、そういうことが言えんだ、お前は。……あのな、お前だってガキの時分に家の前でレモネード売ったことくらいあんだろ? それとこれ、どう違うってんだよ。あいつが売込みにきた、オレは気に入ったから買った。それだけだろ?」
    「…………髪触らせんのは、なんか……違えだろ」
    「あぁ?」
     ジェイミーが凄む。ルークは睨み返すだけで、それ以上何も言えなかった。
     いつもなら、ジェイミーを煽る言葉がいくらでも出てくるところだ。しかし今は、どうしてか勢いがつかない。自身が覚えた「いやな感じ」を説明できないからだ、とルークは気づく。なぜいやだと思ったのか、説明ができない。言い争えば、追及されて、深掘りせざるを得なくなるだろう。そうしたくない自分を自覚するが、なぜしたくないのかはやはりわからない。
     となれば、今のルークには、子供のように口を尖らせて不機嫌を主張するくらいしか、できることがなかった。
     ルークの調子がいつもと違うことに、ジェイミーも気づいたのだろう。睨みあっていた視線を不意にはずして、長々と溜息をつくと、
    「ったく、何が気に障ったんだか……わかったって、待たした詫びに奢ってやるよ。ピザとハンバーガー以外な。食ったら鬱憤晴らしに一戦やろうぜ」
     珍しく自分から折れてみせたジェイミーは、それでいいな? と念を押すように言う。ルークは不承不承といった程で頷いた。
     そうだ、待たされたから。仕事終わりで疲れていて、腹が減っていたから。それできっと、イラついてしまったのだ。
     店までの道すがら、ジェイミーの一歩後ろを歩きながら、ルークはそうやって自分を納得させた。
     ルークの眼前で、その黒い長い髪はチャイナタウンのネオンの光を受けてなお黒々と艶めき、誘うようにゆらゆらと揺れている。
     
     
     
     
     また、別の日。
     貴重なオフの一日、いつもより遅く起きたルークの足は、ゲームショップとPCパーツのジャンクヤードを経由して、チャイナタウンの方角へ向かっていた。
     オフのときにまであの色男の縄張りに入らなければならないのは忸怩たる思いだが、目的はジェイミーではなく別にある。
     チャイナタウンを取りなすマンション群、その片隅にある土産物屋だ。
    『変なTシャツ集め』を趣味の一つとして標榜する彼は、長年の経験から、観光地の土産物屋が穴場の一つであることを知っている。チャイナタウンにも土産物屋はいくつかあるが、目指しているその店は、中でも一番のお気に入りだった。
     繁盛しすぎていなくて、かといって寂れてもおらず、適度に新作が入荷する程度にはやる気がある店というのは、ありそうでなかなか無い。もちろん、店主のシュミがいいというのは大前提だ。
     近くへ行くなら寄りたいといつも思うのだが、ジェイミーがいるとダサいだのセンスが悪いだのと、隣でうるさく言われるのは目に見えている。だからわざわざオフの日に、一人で訪れる必要があるのだった。
     ありがたいことに、店はチャイナタウンの外に向いた、海沿いの通りに面している。大門をくぐらなくて済む、つまりジェイミーに見つかりにくい場所にあるということも、ルークがそこを気に入っている理由の一つだった。
     あの日から二週間、ルークは一度もジェイミーの部屋を訪れていない。あの後食べた夕食の火鍋は美味かったし、腹ごなしのファイトはルークの快勝で、気分よく別れたのは確かなのに、何となく避けたいような気分が続いていて、足が向かなかった。あの日、胸の内にわだかまった、何とも言えないいやな感じは、今もそこに残ったままだ。考えないようにしているから解消されないのだとわかってはいるが、もしかしたら時間が解決してくれるのではないかと淡い期待を抱いて、ルークはそれから目を逸らし続けていた。
     次のオフには片付けなければと思っていた用事を全部放り出して、今日一日を趣味に費やしたのも、気を紛らわせたかったからに他ならない。しかし、気を紛らわせたいと思いながら、結局無意識にそこへ近づいてしまっていることに、ルークはこのとき、まだ気づいていなかった。
     平日の夕方でもチャイナタウンは賑わいを見せており、大門をひっきりなしに人が出入りしている。
     それを横目に、ルークは通りに幾分ひっそりと佇んでいる、その店のドアをくぐった。
     ドアにつけられた鈴が、ちりんちりんと鳴って客の来訪を告げる。そう広くない店内に、他の客は見当たらなかった。幾分ほこりっぽさを感じるのは、古道具なども置いているからだろう。観光客が欲しがりそうなものなら何でも、という気概が伺える雑多な空間は、眺めているだけでも楽しく、一日中でも過ごせそうだった。
     奥のカウンターには、子供が座っていた。雑誌か何か読んでいたらしい。鈴の音に俯いていた顔を上げると、ルークを見て「いらっしゃい」と言った。
     いつもは店主らしき男性が座っているのだが、きっと家族なのだろうと、ルークも挨拶を返しながら考える。
     と、その子はルークの顔をまじまじと見て、
    「やっぱりおにーさんだったんだ」
     と言った。
    「どっかで会ったか?」
     訊ねると、彼は周囲を確認してから少し声をひそめて、
    「こないだ、ジェイミーのとこで」
    「………………あ!」
     ルークの驚いた顔に、少年は声をあげて笑った。
     
     
    「見たことある人だと思ったんだ。うちでいっつも変なガラのシャツばっか買ってく人だって。親父が面白がっちゃって、あんたが気に入りそうなやつ、いっつも探してるよ」
     少年は棚を漁り、「ほら、こんなのとか」と手に取ったTシャツを広げてみせた。胸の部分に漢字で文字が書いてある。
    「何て書いてあるんだ?」
    「下腹」
     少し考える。狙いすぎな気もするが悪くない。キープで、と告げると、少年はそれを横の棚に寄せた。
    「あ、サイズ合わないと思うけど、いいの?」
    「コレクション目的だからなあ。自分で着れりゃあ文句ないけど、ほら」
     言いながら、ルークは曲げた腕に力を込めた。傷だらけの肌に血管が浮き、ただでさえ常人離れした太さの前腕部が、筋肉の膨張によって更に膨らみを帯びる。
    「……これだろ? 厳しいんだよな、実際」
    「はは、だよね。こんな腕太い人、初めて見た。……じゃ、サイズは二の次でもいいわけだ。でも着れるなら尚いい、と。親父に言っとく」
    「あんま気にしなくていいぞ? 俺のサイズなんて、他に買うやつそういないだろ」
    「大丈夫大丈夫、着れないサイズは売れないけど、着れるなら意外と売れるから」
     少年は快活に言う。その話しぶりはやはり大人びていて、先日に感じた印象のままだ。商家の生まれだからかと思えば、納得はできる。
     灯台下暗しとはこのことで、今まさにルークを思い悩ませている原因と、こんなところで行き合うとはさすがに予想できなかった。しかも相手が自分のことを、既に知っていたとは。
     先日の少年だと気づいたとき、あのときの自分の態度を思い出したルークは気まずさを覚えたが、少年のほうに気にしている様子は見えなかった。本当に気にしていないのか、商売人としての手管なのか判断がつかないほどに、少年はごく自然な態度でルークに話しかけてくる。だからルークも、気負わず普通に返すことができた。
     話していて、いやな感じはしなかった。そりゃそうだろう、とルークは思う。この少年が原因の一つなのは間違いのないところだが、多分きっと、彼そのものが理由ではないのだ。
    「そうだ、今日ジェイミーいないよ」
     あれこれと商品を取り出しては広げてみせる手を止めて、少年が唐突に言った。
    「組合の麻雀大会やるんだけどさ、面子足んなくてジェイミー入れようって話してたから、多分誰か呼びに行ってると思う」
     親切心から言うのだろう、少年が出した名前に、ルークは動揺を顔に出さないように努めた。
     だから、いままさに俺はそいつのことでちょっと困ってるんだって。そう言いたいのをぐっと堪える。この子に言っても仕方がない。
     ジェイミーの縄張りに入っておいて、その名前から逃れられると考えたのが間違いだったのかもしれない。
     そもそもチャイナタウンにおいて、自分がジェイミーのツレだと思われていることは薄々察していたし、実際ルークがここに来る理由のほとんどがジェイミーなのは否定できない事実だ。しかしこんな子供にまで当然のようにそうと扱われるのは、やはり複雑な気分だった。
     ウマが合うとはとても言えないし、趣味は違いすぎるし、お互いに負けん気が強すぎて会話するだけで疲れるし、一緒に飯を食う仲になった今でも三回に一回は大喧嘩になるし、ぶっ殺してやる、と本気で叫んだ回数はもはや数えきれない。
     しかしそうやって力一杯殴り合ったあとでも、一週間もすればどちらからともなく、何食わぬ顔で飯を誘いあうのだから、本当に訳がわからないと、自分でも思う。
     子供の頃から様々な人間と付き合ってきて、ツレと呼べるような相手も大勢いたが、ジェイミーとの関係はこれまでの誰とも違っている、矛盾に満ちたものだ。
     だから周囲から友人だのツレだのと思われるのは当然とわかっていても、実際そう扱われることには釈然としない、というのが、ジェイミーに対するルークの正直な心情だった。
     ルークが何とも言えない表情で口籠るので、少年は首を傾げた。
    「今日はあいつに用はないんだ」
    「あ、そうなんだ。……」
     ルークの素気無い返事に、少年は何事か考え込むように押し黙った。さっきまでの流暢なセールストークが嘘のような沈黙に、怖がらせたかとルークは慌てて取り繕うように口を開く。
    「あー、……麻雀、麻雀な。俺、やったことないんだ。あいつできるんだな。知らなかった」
    「え? ……ああ、ジェイミー? うん、そんな強くないけど、金払いがいいからって」
    「……金賭けてやってんのか?」
    「あっ」
     少年は咄嗟に口元を抑えて、上目遣いにルークを伺う。本気で焦っているらしいその表情は、彼が今日初めて見せた子供らしさだった。大人びた少年の思わぬ失態に、ルークは返って肩の力が抜けるのを感じた。
     しかもどうやら、今夜の色男はカモにされる運命にあるらしい。それが知れただけ、気分が良かった。
    「オーケー、聞かなかったことにしとく」
     少年は見るからにほっとして、「ありがと、おにーさん」とルークを拝む。
    「…………ついでにさ、おれがジェイミーのとこに出入りしてることも、黙っといてよ」
    「黙っとけって、誰に?」
    「みんな。特にうちの親父」
     どうしてと訊ねると、怒られるから、と少年は答えて、ルークの様子を伺う。勿論、それだけの説明でうんとは言えない。ルークの視線だけで意を察した少年は溜息をつくと、ルークにはカウンターの横にあった丸椅子を勧め、自分はさっきまで座っていたのだろう、カウンターの奥のソファに腰掛けた。
    「……ジェイミーって、悪い人じゃないよ。それはみんなわかってる。でも黄巾のやつらと繋がりあるし、あちこち面倒ごとに関わってるし、……話すくらいならともかく、部屋まで行ってるって知れたら、やめろって絶対言われる」
     聞きながら、最もだとルークは思った。
     トラブルバスターという仕事の内実は、現状ほとんどがギャングやチンピラの起こすトラブルの「鎮圧」だということをルークも知っている。恨みもそれなりに買っているし、ジェイミーと関わりがあると周囲に認識されれば、ましてそれが子供となれば、どういうトラブルに巻き込まれるか、わかったものではない。親の立場なら、深入りするなと言いたくもなるだろう。しかもこの子自身が、そのことを理解している。
    「そこまでわかってるのに、何で行くんだよ」
     ルークは当然の疑問を口にする。
     少年ははにかみながら、
    「美容師になりたいんだ」
     と言った。
    「カットはまだ無理だけどスタイリングなら出来るから、今のうちからできるだけたくさんの人の頭、触りたくて」
    「そういう理由なら、別にあいつじゃなくてもいいだろ?」
     少年はわかってないなあ、という目でルークを一瞥して、
    「おれが知ってる中で、ジェイミーの髪が一番長くて、一番きれいなんだよ。プロになろうと思ったら、『良いもの』に触りたいって思うのは当然」
    「……そういうもんか?」
    「そう、もうおれ、ジェイミーに聞きたいこといっぱいあったんだ。手入れの仕方とか使ってるブラシとかシャンプーとか、あの長さの髪を扱わせてもらうだけでも勉強になるし、……あ、あと今度メイクも教えてもらおうと思ってて」
     話すうちに少年の口調は勢いを増し、ルークを見る瞳はきらきらと輝いた。こういう瞳を、ルークは知っていた。子供の頃よくつるんでいた人は、ルークにバイクの話をするとき、よくこういう目をしていた。心から好きなものについて語っているとき、人はこういう目をする。
    「そうだおにーさん、ジェイミーが踊ってるとこ、見たことある?」
     不意に少年は、身を乗り出してルークに訊ねた。
     ジェイミーのファイトは踊っているようだ、とよく評される。祖母を師として鍛えた武術に、好きが高じたブレイクダンスを取り入れているのだというから、見たことがある、と言えなくはないが、ルークが見るのはいつもファイトのときの振る舞いであって、ただ踊るために踊っているジェイミーを見たことは、思い返してみれば一度もない。
     しかしどうしてか、ルークは正直にそうと口にできなかった。
    「……まあ、割とある、かな」
     誤魔化されたとも思わないのだろう、少年は素直に目を輝かせて「いいなあ」と嘆息する。
    「おれ、去年の春節で初めて見たんだ。広場で正装して演舞やってて、それがかっこよくってさ。で、終わったら調子出ないってすぐ飲みはじめて酔っ払っちゃって、ジェイミーって機嫌いいと、ブレイクでも孫悟空でも、お願いしたらなんでもやってくれるんだよ。春麗大姐の流派でもやれるってカンフーまでしはじめて、もうめちゃくちゃ。でも面白かった!」
    「………………いいな」
    「え?」
     にこにこと思い出を語っていた少年が、首を傾げる。その反応を見て初めて、ルークは自分が口にした言葉に気がついた。瞬間、心臓がどっと大きな音を立てて波打つ。
    「……あっ、いや、なんつーかそういう、伝統芸能? いいよなって」
    「うん? うん、だよね」
     咄嗟の言い訳にしては上等だった、かどうか自信はないが、幸い少年はルークの様子に戸惑いをみせつつも、それ以上聞いてはこなかった。
     取り繕えたらしいことに、内心で胸を撫で下ろしながら、
    (「いいな」って何だ?)
     ルークはいまさっき無意識に口からまろび出た言葉を反芻する。
     いま、自分は羨ましいと思ったのか?
     何を羨ましいと思ったんだ?
     気づきたくないものが、すぐそこまで肉薄している予感がして、ルークは一瞬で自分の感情に蓋をした。今はそれに構っている場合ではないと判断したときの切替の速さは、軍隊での訓練の賜物だった。
     ルークがこっそりと大汗をかいているとも知らず、少年はジェイミーが踊るとき、三つ編みがきれいにその動きについてしなるようにするにはどう編んでいくべきかということについて、訥々と語った。
    「だから、加減が難しいんだよ。緩いとすぐ崩れちゃうし、きついと滑らかに動かない。何回かやったけど、まだ緊張する。時間かかるから、失敗したとしても簡単にやり直させてくれって言えないしさ。でも、おれがスタイリングした髪で踊ってくれたら、おれもあのかっこよさに貢献できてることになるかなって」
    「……色々考えるもんなんだな」
     心臓をなだめ、声が上滑りにならないように気をつけながら、ルークは感想を述べる。
    「でも勿体なくないか? そんなに手かけてやっても、あいつ酔ったらすぐ髪解くだろ」
    「髪ってそういうもんだから。またおれが結えばいいだけだし。それにさ、三つ編みが丁寧に編めてると、ほどいたときにウェーブもきれいに出るから」
     だから無駄じゃない、と少年は言った。
     ルークはジェイミーとのファイトを思い出す。酔いが極まったときの、あの悪魔的な強さと解かれた髪の揺らめき。酔っているのに、打ち込まれる拳は素面のときよりも速さと重さを増し、隙と思って踏みこめばゆらりと躱わされて、気づいたときには地面に強か全身を打ちつけている。調子に乗りやがって、と怒りが沸くのと同時に、見上げた視界に広がる黒髪の、柔らかな曲線は確かに美しかった。
     ジェイミー本人にはとても言えないが、子供相手なら素直に同意できる。
     しかし口を開こうとしたルークは、胸中にまたもやもやとあのいやな感じが燻るのに気づいた。蓋をしたにも関わらず、漏れだすように湧いてくる不快感に戸惑う。自分はこの少年が嫌いなんだろうか、と自答してみる。そうだ、とは答えないが、違う、とも言わない。
     繕わずに口に出せば、なんかやだ、という子供っぽい言葉にしかならないのだ。
     ルークの中で囁くものがあった。
     親に言ってしまえば、この子はもうジェイミーのところへ来れなくなるのではないか?
     彼が悪いわけではないとはいえ、彼が原因なのは間違いないのだから、取り除いてしまえばこの不快感はなくなるだろう。
     トラブルの芽を未然に摘み取るためだと思えばいい。彼には恨まれるだろうが、大人として子供を危険から遠ざけるという責務を果たすべきではないだろうか?
     いかにも最もらしい理屈だった。自分がそういう理屈を思いつける人間であることに、げんなりするほどに。
    「なあ、もし親に止められたら、行くのやめるか?」
    「止めないね。ジェイミーから来るなって言われるまでは行く」
    「だよなあ…………」
     聞くまでもないことだった。同じ年頃の自分を思い出してみても、親の言いつけなど聞くわけがないことはわかりきっている。まして目指すものがあって、やりたいことがはっきりと決まっているのなら、彼自身が納得しない限りその歩みを止めることはできないだろう。
     ルークは天を仰いで逡巡する。ジェイミーならどうするだろうか、とつい考えた。
     少年は緊張した面持ちで、ルークが口を開くのを待っていた。
    「…………トラブったらすぐあいつに言うって、約束できるか?」
    「できる!」
     前のめりに、ほとんど叫ぶように少年が答える。
    「よかった! ありがとうおにーさん!」
     ルークは曖昧な笑みを返した。
     卑怯な大人と無責任な大人、どっちがマシだろうと考えて、まだ後者になるほうがいいと思っただけだったからだ。それにチャイナタウンでのトラブルなら、ジェイミーに任せるのが一番早い。ルークの問題は一つも解決しないのだから、少しの後悔もないと言えば嘘になるが、部外者の自分が出しゃばれるのはここまでだろうと、ルークは思った。
    「おれ、おにーさんに嫌がられてるかと思って、ちょっと心配だったんだ。邪魔しちゃったかなって……おれのせいで、ジェイミーと喧嘩してるわけじゃないよね?」
     やはり少年は、あの日のルークの態度を気にしていたらしい。
    「んなわけないだろ。だいたい、喧嘩してるから会わないわけじゃない」
    「じゃあおれ、今までどおり行ってもいい?」
    「俺はいいとか悪いとか言える立場じゃない」
    「彼氏の許可は取っといたほうが、気が楽になるからさ」
     は? と今日一番の大きな声が、ルークの口から発された。
    「彼氏だ?」
     少年はきょとんとした顔で、
    「え、違うの」
    「違うに決まってんだろ。俺とあいつのやり取り見てたろ? あれが恋人同士の会話に見えたか?」
    「だってジェイミーが部屋の中に人入れてるの、珍しいから」
    「自分だって入ってたろ」
    「おれは仕事で入っただけ」
     少年は納得しかねるという目でルークを見て、首を傾げる。
    「だって、ジェイミーが自分からあんな絡みにいくの、意外だったから、……なんかあるんだろうと思ったんだけどなぁ……」
    「ませガキ……」
    「客商売なんだから、目端がきかなきゃ話になんないよ。……でもよかった。違うなら余計気が楽になった」
     ルークが言い返そうとしたとき、不意に鈴が鳴った。
     新たな来客に、少年はルークの肩越しにいらっしゃい、と声をかける。そろそろ潮時かと、ルークも腰を上げる。
     帰りかけるルークに、少年は素早く棚から避けていたTシャツを押しつけた。
    「口止め料。持っていっていいよ」
     そう言うと、ルークの返事を待たずに客のほうへ行ってしまう。ルークはしばし手の中のTシャツを見つめていたが、少年に気づかれないようにそれを棚に戻すと、静かに店を出た。
     日はすっかり沈み、通りの客層は夜のメトロシティらしい顔触れへと変わっていた。
     冷たい海風に吹きつけられて、ルークはようやく息をつく。何だったんだ、と我知らず呟いていた。子供と話していただけなのに、ずいぶんと体力を消耗した気がする。特に最後、ツレを通り越して恋人と思われていた点については、衝撃が大きすぎて、今もじわじわとダメージが入り続けている感があった。
    「あ、メシ……」
     腹が減っていることに気がつき、ついジェイミーの顔を思い浮かべたが、そうだ今日はいないんだった、と思い出す。
     いや別に他意はなくて、さっきまであいつの話をしていたから条件反射で思い出しただけで。
     誰に対してかもわからない言い訳を、ルークは頭の中でぐるぐるとかき回す。
     ジェイミーについて考えたくなくてあれこれと動き回っているはずなのに、どうしてこうなってしまうのかわからない。
     ままならなさに苛立ちが募る。
     とりあえずいまは、目先のフラストレーションを解消したかった。となると、方法は一つしか思い浮かばない。ストリート・ファイトだ。強い相手と向き合い、思い切り拳を奮えば、大抵のもやもやは消し飛ぶ。少なくとも、ファイトの間だけは。
     この時間でも捕まり、かつ手加減なしで殴りあえる相手は、あまり多くない。ルークはスマホを取り出し、連絡先のリストを眺めながら歩き出した。空きっ腹は一戦やってからどうにかしよう。今はともかくすっきりしたい。
     ジェイミーがいれば、空きっ腹もファイトもいっぺんに解決するのに。
     一瞬よぎった考えを見ないようにして、ルークは連絡先リストをスクロールし続けた。
     
     
     
     
     そのまた次の日。
     定時で仕事を終えたルークの姿は、ジェイミーの部屋の玄関先にあった。
    「お。久々だな、脳筋くん」
     絆創膏とアザの増えたルークの顔を見て、ジェイミーは椅子を揺らしながら「男前になったな」と笑う。
     ジェイミーの挑発にはこたえず、ルークはその背後に少年がいるのを確かめると、何も言わずずかずかと部屋に踏みこみ、どっかとベッドに腰をおろした。
    「入っていいって言ってねえんだけど?」
    「うるせえな。待っててやるからさっさとしろ」
     ジェイミーが肩を竦める。少年がルークのほうを振り返って小さく手を振るので、ルークも小さくそれへ返した。
     少年がジェイミーへ向き直り、手を動かし始めるのを見て、ルークは二人に気づかれないよう、静かに深呼吸をして部屋を見渡す。
     二週間ぶりでも、そこは何も変わらなかった。変わったのは、きっとルークの心境だけだ。
     昨日まで逃げ回っていた場所へ、どうしてやって来る気になったかと言えば、「逃げても無駄なのではないか」と思ったからだった。
     昨日、ルークのフラストレーションの犠牲に選ばれたのはエドだった。久々に軽くやろうぜ、というノリで連絡しておきながら、もう一戦、あと一戦だけ、と粘り続けるルークに、短気なエドにしては辛抱強く付き合ってはいたが、とうとう我慢できなくなって『あの跳ねっ返りとやりゃあいいだろうが』と言い返してしまった。何であいつが出てくんだよ、とルークも怒りだし、口論になり、最後はファイトというよりも、ただの喧嘩で終わった。顔の有り様はそのせいだ。
     それでも多少は鬱憤が晴れたのだろう、少しすっきりした頭で様々のことを思い返すと、結局、逃げれば逃げた先で同じ名前に行き当たるという事実があった。
     ルークは信心などカケラも持っていない人間だが、昨日の出来事に至っては、いっそ何がしかの大いなる力が働いたのだと断言したいほど、出来すぎた「偶然」だった。
     言ってしまえば、諦めたのだ。
     なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか、全くもって納得はいかないが、逃げられないのなら、受け入れる努力をするほうがまだ生産的だと思った。
     そうやって諦念とともにやってきたルークの眼前にある光景は、前回と何も変わらない。
     少年が丹精した黒髪は、今日も艶やかに床に広がっている。キッチンはヘアオイルの匂いに満ち、ソファにはジェイミーの服が山と積まれている。
     当たり前だと思った。ルークがちょっと文句を言ったくらいで、自分のやりようを変えるジェイミーではない。ルークもそれはわかっていたし、わかっているからいやだった。
     少年の人となりを知ったせいか、前回ほどの不快感はなかったが、それでも、ルークの胸中は今日も複雑に蠢いていた。
     なんかやだ、とルークの中の子供が繰り返す。繰り返せば慣れていくのかもしれない。しかしなぜ自分がそこまでしなければならないのか、と怒りも沸いてくる。百歩譲っても、ただの友人にすぎない自分が、どうして。
     思うだに、あのつんとすました横顔が小憎らしくなってくる。
     と、睨みつけるルークの視線を感じたのか、不意にジェイミーが振り向いた。視線がかちあう。時間にしてほんの数秒、ジェイミーはルークを見つめると、ふっと口元を緩めて、すぐ前へ向き直った。いつもの小馬鹿にするような薄笑いとは違う、柔らかな笑みだった。
     愛おしげな、と言ってもいい。
     そんな表情を向けられる意味がわからず、ルークは動揺した。いつものように馬鹿にしているのだと思うには、あまりに優しげな顔だったからだ。
     体温が上昇するのを感じる。腹が立っているからだ、と思おうとした。無理矢理ラベルをつけて、「怒り」と書かれた箱に乱暴に突っ込む。理由のわからない感情を、これ以上増やしたくなかった。
     少年はルークを恋人だと思ったというが、友人としてだってこれほど振り回されているのに、これが恋人となったら、どんな苦渋を舐めさせられるか。
    (……冗談じゃねえよ)
     きっとこいつは恋人と同じベッドで目覚めた朝でさえ、習慣だからとあの子に髪を結わせるだろう。
     ジェイミーをよく知るからこそ、確信を持って言える。ジェイミー・ショウというのはそういう人間だ。
     昨夜ベッドで散々に乱れた髪を、今朝は何も知らない子供が梳る様を見て、その恋人は一体なにを思うのだろう。
     それでもいいという奇特な人物がそのうち現れるかもしれないが、しかしそれは自分ではない、とルークは思った。
     あの黒髪に絡めとられてしまった憐れな未来の誰かに、ルークは友人として心から同情した。そうすることで、その未来を自分から切り離して、他人事としておいておけるかのように。
    「逃げても無駄なのではないか」と予感していながら、自分がその意味するところを本当にはわかっていなかったということを、ルークは数ヶ月後に知ることになる。そのとき彼は、適当なラベリングをして放り込んだ感情の一つ一つを取り出し、眺めて、痛みとともにそれに正しい名前をつけ直すことになるだろう。
     いくら感情に蓋をして目を背けても、その瞬間は遠からず、容赦なくやってくる。それは運命なんて大それたものではなく、ただ自身で選択した日々を重ね続けた先の、必然に過ぎない。
     ジェイミーのそばに居続けると決めた、ルーク自身の選択が、彼をそこへ運ぶのだ。
     その「誰か」がほんの数ヶ月先の自分自身であることを、彼はまだ想像もしていなかった。
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