あだ花ひとつ、またひとつと花が咲く。
ぽとり、ぽとりと花が落ちる。
花弁のような紫色の花心を持つ白い花。
緩やかな曲線を描いて広がる紫の花。
光を奪ったように黒く、だが仄かに混じる紅色が艶やかな花。
風がそよぎ、花弁が散ってゆく。
ああ、なんて――
芝居小屋で賑わう大通りから少し離れた奥まった場所に、その茶屋はあった。
立派な門構えのその建物は、料亭のような風格ある佇まいをしていた。事実、腕のある料理人を抱え、料理の提供も行っていたが、その店を訪れる客の大半の目当ては美食に舌鼓を打つことではない。格子門戸を潜り、土間を上がった先にある一階には、大小様々な座敷が設けられていた。客を通す部屋は、それぞれの会話や音が漏れないよう、厚い壁やいくつもの襖で隔てられている。客同士が顔を合わせることのないよう行き来にも配慮がなされ、そこでのひとときを内密に過ごせるようにと徹底されていた。二階の窓は千本格子となっており、窓際から誰かが外を覗き見ても、外から中の様子を窺うことは出来ない作りになっている。
そこから一人の少年が外を眺めていた。長く伸ばされた癖のない艶やかな黒髪が顔の左側に垂らされ、白い肌を覆い隠している。不意に、何かを見つけたように一点を注視すると、立ち上がり部屋から出て階段を降りた。
「チヒロ」
勝手口から外に出ようとしたところで背後からかかった呼びかけに、少年――チヒロは足を止めて振り返る。そこにゆっくりと歩み寄る男がいた。少し長い前髪が、男の右目を隠している。
「……薊さん」
「どこに行くつもりだい?」
穏やかな口調で訊ねられ、チヒロは真っ直ぐにこの店の楼主である薊を見返して言った。
「ちょっと湯屋に」
「……内風呂があるだろう」
「気分転換です」
表情を変えず臆面もなく宣うチヒロに、薊は額を押さえた。
「もう……言っても聞かないことは分かっているけど……せめて、柴を連れていってくれ。何かあったら大変だから」
「少し表に出るだけですよ。それに、まだ昼日中ですし」
少し鼻白んでチヒロが返すも、薊は譲らなかった。
「柴を連れていくこと。それが君の外出を許可する、最低条件だから」
「そんで、薊との根比べに負けたと。珍しいこともあるもんやなぁ」
可笑しそうににやけながら柴が言った。
癖のある、少し長めの明るい色彩をした髪を撫でつけ、六尺は優に超えそうな身の丈とその恰幅の良さは周囲に威圧感を与えそうなものだが、チヒロに向けられる表情は柔らかく温かで、その印象を緩和している。
「……薊さん、言い出したら聞かないから」
ぼそりとチヒロが呟くと、柴は「君がそれを言うか」と言いたそうな顔をした。
薊に言われた通り、柴を伴ったチヒロは店の裏通りを抜けて湯屋の方向へと歩いていた。柴が不思議そうに言う。
「あれ、本当に湯屋行くん?」
「他に用事もなくなっちゃったので」
薊に掴まっている間に、本来の目的であったものは何処かへと姿を消していた。だからといって薊に嘘をついてまで外に出ようとした手前、やっぱりもういいですと言を翻す訳にもいかない。
「すみません、巻き込んで」
「別にええで、俺も広い風呂にのんびり入るの好きやし。それに、薊が心配するのも分かるしな」
「……二人とも、心配性すぎませんか」
実際、チヒロ以外の店の者に対しては薊がここまですることはない。
チヒロが身を寄せる薊の店は陰間茶屋と呼ばれるもので、遊郭とは違い、遊女ではなく陰間と呼ばれる男娼を斡旋する茶屋である。陰間の多くはチヒロのような少年で、中には歌舞伎役者の修業中の身である者や、若衆などもいた。遠出する場合は流石に許可がいるものの、店の近場にある湯屋や表に出る程度で楼主が口を出したり制限をかけることはなかった。
「他でもない君のことなんや、これでも緩すぎるくらいやと思うけど」
「……」
柴にそう言われると、チヒロは何も言えなくなる。分かってはいるのだ。二人がこんなにも自分に対し過保護に振る舞う原因を。分かってはいるのだ、自分の立場を。ただ、それはチヒロにとって足枷でもあった。
柴が足を止める。
「君の気持ちも分かるが、焦りすぎも禁物や」
チヒロが見上げると、柴は先程までとは違う真剣な目をして言った。
「君自身の身を危うくする訳にはいかん。虎穴に入らずんば虎児を得ずとはいうが、だからといって無闇に動けば良いというものでもないやろ」
チヒロが顔を背けると、柴は追うように手を伸ばす。チヒロの髪に触れ、指を滑らせて黒髪越しにその左頬の輪郭をなぞる。
「……もっと、君自身を大切にしてくれ」
「……」
チヒロは応えず、ただ唇を噛み締めた。
それは夜更けのことだった。その時、チヒロは熱を感じて目を覚ました。
その頃は納期が迫った依頼が溜まっていて忙しく、夜は泥のように深く眠っていた。夜半に目が覚めることなんてなかったから、訝しく思いつつも身を起こし、目を擦って開き、チヒロは絶句した。
家が燃えていた。家の中は夜なのにあり得ない程煌々と赤く照らし出され、障子は焼け崩れ、視界は異様に開けたものになっていた。
畳の上に、何か大きなものが倒れていた。家を燃やす炎の赤とはまた別の、赤黒いものでそれは染まっていた。
ぴくりと、それが微かに動く。
「……ち、ひ……ろ……」
燃え盛る炎の音に掻き消えそうな程弱弱しい声だったが、チヒロの耳は確かに聞き取った。その声は確かに、父のものであった。
「……父さん?」
「……に……げ、ろ……」
「父さんっ!!」
駆け寄ろうとした体に誰かが腕を回し、引き戻される。
「離してっ、父さんが……っ!!」
「もう無理やっ!せめて、君だけは逃げな!」
背後から現れた柴が、チヒロの体を羽交い絞めにするように抱えて叫んだ。
「いやだ……父さん、父さんっ!!!」
声がしたのだ。名を呼ばれた。まだ生きていた。まだ、まだ父は生きている。だから、まだ、救えるかもしれないと、そう思って必死で手を伸ばした。
「父さんっ!」
轟音がして、天井の一部が崩れ、父の真上に降りかかる。
「っとうさ…」
「っ駄目や、見るな!!」
目を覆われ、柴の胸に顔を押さえつけるようにして抱え込まれた。轟音と地響きが徐々に収まる。
「……すまん」
そのまま柴に抱えられて、燃え盛り崩れゆく家から連れ出された。
父を一人、そこに残して。
「……っ!」
がばりと起き上がり、伸ばしかけた手に気づく。
(……ああ、夢か)
手を戻し、目元を覆った。今自分がいるここがどこであるのか、意識と記憶が現在まで戻ってくる。
あの後、気を失ったチヒロを抱えて柴は薊の元に転がり込んだ。襲撃者からチヒロの存在を隠すため、そして、その襲撃者の情報を得るため。反対されたりと色々あったが、すったもんだの末、薊の店に身を寄せ、今に至る。
ここは、焼け落ちたあの家ではない。あの家はもう、どこにもない。父の体も、亡骸も。
全て土の中。
口元を押さえる。胃からせり上がってくる感覚に吐き気を抑えきれず、えずいた。
口からぽとりと何かが落ちる。それは嘔吐物にしては確固たる形を保っていて、花のような香りまで漂わせている。
そう、それは花であった。柔らかな花弁を持った、美しい花。本来、人の体から排出されるべきではないもの。
落ちた花は、純白の鳥が羽を広げたような形をしていた。
「鷺(さぎ)草(そう)……また、夢を見たんか」
花から目を離して顔を上げると、開いたままであった部屋の襖の横に柴が立っていた。柴が部屋の中へと入ってくる。
「……柴さん」
「あんまり、思い詰めたらあかんよ」
柴はチヒロの傍まで寄ると屈みこみ、持っていた火箸でチヒロが吐き落とした白い花を摘んだ。そしてそれを寸の間眺めた後、抱えた桶の中に入れる。
「……君の体が、持たんくなる」
「……」
「今日は休み。薊には俺から言うとくから」
そう言い残すと柴は身を翻し、部屋を出ていった。その背を目で追った後、チヒロは俯く。瞼を閉じれば、暗闇の向こうにあの日の赤がまた見えるようで、込み上げる激情に追従する吐き気をやり過ごし、チヒロは畳の目を睨みつけた。
その病は、花吐き病といわれた。
想いを拗らせては花を吐き、花を吐き出せば吐き出すだけ体力を奪われ、徐々に衰弱していく病。そのまま衰弱死する者や、花を喉に詰まらせて窒息死する者もいる、場合によっては致死的な不治の病ともいわれるもの。
感染者が吐いた花に他者が直接触れると感染することもあるが、感染した者が強い想いを抱く相手をもたなければ顕性化せず、潜在的にあるだけの不顕性感染に留まる。この病は感染者が誰かを強く想った時に症状が現れ、花を吐く。想う頻度が上がれば上がるだけ花を吐いてしまうので、体が弱っていく。
ただ、完治は出来ずとも対症療法というか、対応策がない訳ではない。花吐き病の症状は、相手への想いが強まった時に現れる。つまり、想う頻度が減れば、想いが薄まれば症状は改善する。時間の経過が心を癒すというが、この病もまた、時が過ぎるまで体が持ちこたえられれば寛解する者も多くいた。
時を重ね、忘れられさえすれば。
(……忘れる?)
そんな風に、忘れられる訳がなかった。
繰り返し夢に見る。あの日の炎、血溜まりの色、横たわったまま動かない父の上に雪崩れ込んだ瓦礫と、その轟きを。
強まる嘔気にチヒロは喉元を押さえ、手で口を覆う。何度もえずき、漸く治まると、その手の中には色鮮やかな花々があった。
濃い黄色の小花を囲むように薄紫の舌状花が連なった花。鮮やかで澄んだ青色をした小さな花。
げほりと一段と強くチヒロが咳き込むと、またその口から花が転がり落ちてくる。
光を奪われたように黒く、血のような赤が混じった花。
(……ああ)
忘れられる訳がないのだ。この情を、この想いを、この苦しみを。
遺されたのは、この身と、思い出と、この激情のみ。
あの日以来、ずっと縋りついてきたもの。
手放しては生きてゆけなかった。
「……父さん」
涙腺は疾うに涸れはて、何度も濡らした頬ももう、カラカラに乾いていた。
チヒロの父、六平国重は名を知られた刀匠であった。
その刀を求めて大名の名代が訪れる程で、その分やっかみや面倒事に巻き込まれることも多かった。だから用心はしていたのだ。国重の友人であった柴も心配して六平家の傍に居を構え、何かあればすぐに駆け付けられるようにしていた。
だがあの夜、柴は間に合わなかった。
数日前から六平家の傍をうろつく怪しい影があった。その夜、柴はその影と行き会い、追いかけた。そして影を見失い、戻った時には既に六平の家は燃えていた。中に押し入った時にはもう国重を救える手立てはなく、父の元に行こうとするチヒロを無理矢理連れ出すだけで精一杯だった。
守ると誓ったのに、守れなかった。
何とか助け出したチヒロは、燃える家から脱出した時には気を失っていた。体はあの炎の中で奇跡的にも軽い火傷程度に済んでいたが、その左頬には大きな刀傷があった。傷自体は大きさの割に浅く斬りつけられた程度であったが、傷痕は残った。
そしてチヒロが意識を取り戻して状況を把握した時、チヒロはえずき、花を吐いた。
黄色い小花と薄紫の舌状花の花、紫苑を。
それからも、チヒロは父のことを想う度に花を吐いた。薊の元に身を寄せ、医者にも見せたがどうにもならなかった。どんなに滋養の良い食事を用意しても、少しでも何か口に出来るものはないかと駆けずり回って探してみても、どんなものもチヒロの体は受け付けず吐き戻し、過呼吸を引き起こし、その身はどんどん痩せ細っていった。
このままでは、チヒロまで喪ってしまうと思った。柴は思ってしまったのだ。
――そのくらいなら、と。
「……なあ、チヒロ……六平を、君の父さんを殺した奴らは、あの家から刀を奪っていった」
「……」
もう何でも良いと思ってしまった。
「憎くはないか、奴らが」
例えそれが歪んだものでも。
「……にくい」
彼を思うのであれば、本来示すべき正しい道ではなくとも。
「取り返したくはないか、六平の刀を」
良薬なんかじゃない。毒を吹きこんでいると分かっていた。
「……とりかえしたい」
それでも。
(……君の、生きる糧になるなら)
「……なら、生きろ」
ただ、チヒロに生きてほしかった。
「生きてさえいれば、奴らの情報を得て、奴らに復讐し刀を取り返すことだって出来るかもしれない」
チヒロが息をすることが出来るのであれば、そこが地獄でも、最後まで連れ立っていこうと決めた。
(君が、生きようと思えるのなら)
毒を盛ってでも、君を生かそう。
「……っ」
また口を押さえ噎せこみ出したチヒロの背を、柴は優しく撫でる。
「死んだら、そこで終わりや」
チヒロの耳元に囁く。
「君の父さんの無念を晴らすためにも……君は、生きるんや」
ごほりと、チヒロがその手に花を吐き出す。
それは、夜の闇のように深い黒に、血のような赤が滲んだ黒百合だった。
まるで自分が犯した罪の色のようだと柴は思った。
その日は宴席の予約があり、それもかなりの上客からのものであったから、店は昼間から準備に追われていた。
「チヒロ、本当に大丈夫なのか?無理しなくても良いんだぞ?」
薊は心配そうに眉を顰め、チヒロの顔を覗き込む。チヒロは一歩後ろに下がり、頷いてみせた。
「大丈夫です。吐き気の発作も治まりましたし、もう座敷に出られます」
「でも、一昨日まで吐いていたんだろう?」
「昨日一日は吐いていないです」
「だが……」
尚も食い下がろうとする薊の目を見つめ、チヒロは「大丈夫です」と繰り返す。
「何かあったら、すぐに下がりますから。他の子もいるし、俺一人じゃないですし……宴席に出させてください」
お願いしますと言って目を逸らさないチヒロに、薊は溜息を吐いて折れた。
「分かったよ。宴席に加わるのは認める。ただし、座敷の外に柴を控えさせることが条件だ。それなら良い」
「座敷の外に、ですか?それだと、お客様がご不快に思われませんか?」
流石にどうかと思い、チヒロが言うと、薊は笑顔を浮かべる。
「大丈夫だ。客から見えなければ何も問題はない」
胸を張って、薊はそう言い切った。
「……やっぱり、薊さんは過保護すぎると思います」
宴席のための身支度をしながら、チヒロはぼやいた。
「いや、まあ、他でもない君のことやし?仕方ないやん」
省みれば薊と同類でしかない柴は、少し目を泳がせながらそう返した。
今回の宴席では客側の要望により、店の陰間は遊女のような華やかな女物の着物を着て接客することとなっていた。そのため、それに合うような化粧をして髪を結う必要があり、その準備にチヒロは手間取った。
着物や化粧、髪結い自体は店側が手配をして手慣れた者を呼び寄せていたのだが、何故かチヒロの装いに柴が口を挟んできて、とにかく首を横に振るばかりでなかなか頷こうとせず、チヒロと職人を困らせた。漸く柴から良しが出た時には、開始から数刻が経とうとしていた。余裕をもって支度を始めたはずなのに、宴会までの時間が大分迫ってきていた。チヒロと職人は大わらわで身支度を進め、何とか遣り果せた。
羽織る打掛は、光沢のある紅染めの絹生地に、金糸で金魚が優雅に泳ぐ姿が刺繍されている。中の小袖は黒い生地に水面を揺らす波紋のような文様が描かれ、その下の長襦袢の襟の白さと、そこから覗く首筋の肌の色、首の細さが艶やかに引き立つ。前結びされた帯は、表は金、裏は赤色で、華やかさを添えていた。
目尻と唇には紅が差され、その大きな眼に愛らしさと共に色香を乗せている。長く艶やかな黒髪には螺鈿金絵巻の細工を施された鼈甲櫛が挿され、結いあげられており、その下から項が覗いていた。左頬の傷は化粧で誤魔化し、長い前髪を一房垂らして隠した。
「……うん、綺麗やわ」
柴が頬を緩ませて言った。
「……お気に召したようで、良かったです」
チヒロは宴席の前から既にややげんなりした様子で返した。
「そろそろ時間やない?移動せんと」
「はい」
宴席の場となる座敷へ向かうと、もう既に中から人の気配がした。少し予定より早かったが、客ももう到着していたらしい。
「柴さん」
「分かっとるって。気づかれんようあっちの襖の裏におるから、チヒロもその辺りにおってや」
「分かりました」
柴の姿が見えなくなってから、チヒロは廊下に座って息を整え、中に声をかける。
「失礼します」
襖をそっと開け、三つ指をついてお辞儀をすると、ゆっくり頭を上げる。中では数名の客人が席に着き、お膳台も運び込まれていた。チヒロは腰を上げ、中へと入る。
「“鉱”と申します」
源氏名を名乗り、挨拶を済ませると宴席の様子を軽く見回し、ある一点に目を止めた。
他の客や陰間などから少し離れたところに男が座り、一人静かに酒を煽っていた。男の両目の上には刃物で斬りつけられたような大きな傷がそれぞれ走っており、目が潰れているのか、瞼は閉ざされている。座っているため正確には分からないが、上背もあるようで体格も良く、店の他の者達は怯えてあまり男に近づこうとしないようであった。
「もし」
チヒロは男に声をかける。男は目を閉ざしたまま顔を上げた。
「お隣、よろしいですか?」
「……ああ」