まどろみちりんと、軽やかな音が鳴る。
首元に下げた鈴を揺らしながら、それは匂いのところまで駆けていく。角を曲がると見えた飼い主の足に擦り寄る。
「こら、危ないぞ」
穏やかな声で窘められる。ジュージューと何かを焼く音と、香ばしい香りが辺りに広がり、それはスンと鼻を鳴らした。主の足の周りをくるりと回り、スウェットに柔く爪を立ててじゃれつく。
「もう終わるから、待てって」
足が何度も行き来するのをそれが眺めていると、しばらくして体を抱き上げられる。
「お待たせ、淵天」
頭を撫でる温かな手。淵天は喉を鳴らし、その手に身を任せた。
「おっ、朝飯か」
朝から元気な声を出して、大柄な男が入ってくる。
「父さん、おはよう」
「おはよう、チヒロ。いつもありがとうな」
いつもと同じ挨拶を交わし、チヒロの父、国重はチヒロの腕の中の淵天を覗きこむ。
「お前もおはようさん、淵天」
返事をするように、淵天は「なー」と鳴いた。
二人が温かな朝食を共にする間、淵天はテーブルのすぐ下に置かれた淵天用の皿の中の餌に齧り付く。初めのうちは居間に淵天の餌置き場が準備されていたのだが、淵天が二人の食事時間になるたびに自分用の皿を口に咥えて現れ、何度元の位置に戻しても持ってくるものだから、そのうちここが淵天の食事の定位置になったのだ。
二人が食べている姿を見て羨ましくなるのかと、食事の量を増やしたり、食事を出す時間を合わせてみたりもしたが、淵天は変わらず同じ行動を繰り返した。一緒に食べたいのかと国重が訊くと、淵天は肯定するように、「なー」と鳴いた。なので、今では二人と一匹で食卓を囲むのが習慣となっている。
朝食を終え、国重が皿洗いを引き受けている間に、チヒロは洗濯物を洗って干す。それを淵天が追いかけ、チヒロと行動を共にするのも、いつもの朝の光景だ。
石段を誰かが登ってくる音がして、一人の男が姿を見せる。
「おはよ、柴さんが来たでー」
「柴さん」
柴はチヒロの方に近寄ると、手に持っていた袋を差し出す。
「これ柿な。美味そうなのあって、いっぱい買いすぎてしもたから、お裾分け」
「ありがとうございます」
袋を受け取り、中を見てチヒロは顔を綻ばせた。
「大きい」
「やろう?齧り付きがいがありそうや」
「切らずに、丸齧りにするんですか?」
チヒロが目を瞬かせ、柴を見る。
「柿は齧り付くのが美味いんやでぇ」
柴は親指を立てて言った。
「そうなんですか」
「そうやで。チヒロ君、後で一緒に食おっか」
「はい」
素直にチヒロが頷く後ろで、玄関から国重が出てくる。
「おー、柴、来てたのか」
「今さっき着いたところや」
なー、と足元で鳴き声が上がる。柴が視線を下げると、チヒロの足元にくっついた淵天が柴を見上げていた。
「ああ、すまんすまん、お前もおったな」
しゃがみこみ、ポケットから何かを取り出す。
「ほら、お前さんにもちゃんと土産持ってきたで」
柴が淵天の目の前でそれを揺らすと、淵天はピクリと耳を動かした。
「金魚のオモチャ?」
「淵天の遊び道具に良いかなと思って」
柴の手がそれを持ったまま、あっちに行ったりこっちに行ったりするのに釣られるように、淵天の頭は動く。黒と赤、そして3色の錦と、3匹の金魚がボールの中に入っている。ボールを揺らすとスノードームのように中の金魚達が動き、まるで水の中を泳いでいるみたいに見えた。
「ほれ」
柴がボールを軽く投げる。それを追いかけて淵天は飛び掛かった。
「気に入ったみたいだな」
国重が笑う。
「いつもチヒロにべったりなチビが、珍しく離れてはしゃいでやがる」
ボールと戯れて地面を転がる淵天の動きに合わせて、ちりんちりんと鈴が鳴る。その様子を眺めてチヒロが微笑む。
「淵天」
チヒロに名を呼ばれ、淵天はボールから目を離して呼ばれた方へと顔を向けた。
「おいで、中で遊ぼう」
淵天はボールに付いた紐を咥え、差し出されたチヒロの手に向かって駆けて飛び込んだ。それを抱き留め、両腕で抱え直すとチヒロは立ち上がる。
「そろそろ冷えてきましたし、中へ入りましょう。お茶を入れますよ」
「ありがとう、チヒロ君。お邪魔するわ」
「おー、おー、入れ入れ」
チヒロが玄関に足を向け、二人も後に続く。
「にしても、淵天は相変わらず賢いなぁ。ちゃんとボールを咥えてチヒロ君のところに戻ったのには驚いたわ」
「猫なのに、ちょっと犬みたいなところあるよな、淵天」
「そうですか?」
淵天を抱え、チヒロは首を傾げる。チヒロの腕の中で、安心しきったように淵天は欠伸をした。
「チヒロ君、お出かけせえへん?」
「……なんですか、藪から棒に」
急な柴の誘いに、チヒロは瞬きをした。ちょうど家事が一段落し、ずっと構ってほしそうに纏わりついていた淵天を椅子に座って撫でてやっていたところであった。
「いや、君の父さんから、今日は仕事も修業もお休みって聞いてな。ほんなら、チヒロ君もお暇かなーと」
柴が耳の後ろを掻きながら言う。
「そうですね……でも、まだ、掃除とかが残っていて」
「それくらい、俺がやっておくから」
チヒロが悩んでいると、国重が現れて言った。
「たまには外で遊んで来い」
「……父さん」
国重は椅子に座るチヒロの近くまで寄ってくる。
「工房での作業が立て込んでいたせいで、チヒロもずっとここに籠りっぱなしだったからな。息抜きに丁度良いだろう」
そう言ってチヒロの頭に手を置くと、髪を掻き混ぜるように撫でた。撫でる力に押されてチヒロは前屈みになる。
「ちょっと、父さん」
非難を込めてチヒロが振り返ると、その鼻先を国重が指で軽く弾いた。
「いたっ」
「ほら、さっさと支度してこい」
手をひらひらと振って国重が促す。
「……もう、わかったよ」
チヒロは小さく息を吐いた。椅子から立ち上がるため、膝の上にいた淵天を床に下ろそうとすると、淵天はその手をすり抜けてチヒロの肩の方に登る。
「こら」
チヒロが捕まえようとすると、嫌がるように更にその手から逃れてチヒロの頭の上に飛び乗った。
「ちょっと、淵天……重い」
「チヒロと一緒にいたいんだとさ」
国重が笑って言った。
「まあ、淵天なら外に連れていっても大丈夫かもな。賢いし」
柴の援護するような言葉に同意を示すように淵天は「なー」と鳴く。
「……もう、わかったから、下りろって」
苦笑いを浮かべ、チヒロは頭の上の淵天を今度こそ捕まえて下ろし、腕に抱きかかえた。
身支度をし、車道のあるところまで山を下りた二人と一匹は、停めてあった柴の車に乗り込んだ。助手席に座ったチヒロがシートベルトを締めたのを確認し、柴が車を走らせる。国重との留守番もゲージの中に入ることも頑なに拒否した淵天は、チヒロの腕に抱えられてご満悦な様子である。
「どこに行くんですか?」
「うーん、そうやな……適当にドライブしながら考えるつもりやったけど、チヒロ君は行きたいところとかある?」
「行きたいところ、ですか?」
淵天を撫でながら、チヒロはしばし悩む。
「……海、とか?」
「海か!了解や」
小一時間ほど道を行き、腹の上の淵天のぬくもりにウトウト舟を漕ぎかけていたチヒロは、「そろそろ着くで」という柴の言葉で目を覚ました。
「あ、すまん、寝てたか?」
「すみません、運転してもらっているのに」
「ええねん、ええねん。むしろ起こしてしもて、ごめんなぁ」
走る車の外を窓越しに見ると、もう既に海が横にあった。
「そこ曲がったら、車停めるな」
「はい」
海側に続く道に入り、駐車可能なスペースに車を寄せて停めると、柴は車からするりと降りて、チヒロが動く前に助手席側の扉を開ける。
「あ……すみません」
「チヒロ君、淵天で手塞がってるし、気にせんで」
開けたドアに軽く凭れかかり、柴が笑って言った。それに素直に甘えることにして、チヒロも淵天を抱えて車から降りる。
「ありがとうございます」
「それに、俺がエスコートしたかっただけやし」
「……?」
よく分からなくて、チヒロは柴の方を見た。柴はまた、へらりと笑う。
「ほな、日が沈む前に、秋の海を拝みますか!」
柴がチヒロを連れてきたのは、小さな入り江のようになった場所だった。岩場と木々に囲まれ、チヒロ達の家くらいの広さの綺麗な白い砂浜がある。そこに青い波が泡を立てながら行ったり来たりを繰り返していた。抉れた海岸の先に見える水平線には太陽が沈みかかっており、青い海と空の一部が赤と橙色に染まっていた。
「……綺麗ですね」
海と夕日を見つめ、チヒロが呟く。
「……そうやね」
夕日の光に照らされるチヒロの顔を見ながら、柴はそう返した。