【風→円】風呂からあがってきた風丸は、髪を拭きながら部屋に入った。学習机の椅子に座って、タオルを首にかけたまま、充電してあった携帯を手に取る。二つ折りのそれを開いて、アドレスのア行をスクロールする。その名前は、一行だけ光っているみたいに、すぐ見つかった。
だが見つかりはしても、メールか電話かで決定ボタンを押す前に、やめてしまう。
今日も結局諦めて、溜め息と一緒に携帯を閉じた。
ここしばらくはこんな風に、煮え切らない時間を過ごすことが増えていた。
風丸、と軽やかに名前を呼ぶ声と、背中を軽く叩く手。当然のように横に並んで、にかっと笑う彼と、いつも通りに挨拶を交わす。
「おはよう、円堂」
「はよ!あのさ、今日数学の宿題やってきたか?」
「なんだよ、写したいのか?」
「違うって。俺今回は頑張ったんだぜ。ただちょっと・・」
語尾を濁した円堂を見て風丸は、彼がこの間、今の数学の単元がよく分からないと嘆いていたことを思い出した。対して、自分は数学全般が得意なことも。
「ちょっと自信がないから、答え合わせしたいんだろ」
「あ、よく分かったな。出席番号でいくとさ、俺当たるんだよ」
「長い付き合いだろ、それぐらいはな。……良いぜ。多分俺は、できてるし」
助かった、と言って手を合わせる円堂に笑いかけながら、風丸はこの凪いだ気持ちが、帰りのホームルームまでしか続かないことを悲しく思った。
掃除当番だった風丸が、遅れてグラウンドに着くと、意外なことにまだ練習は始まっていなかった。
皆の輪の中に入ると、中央にいたのは、円堂と鬼道だ。風丸に気づいて、よう、と軽く挨拶をするふたりに、尋ねる。
「どうした?まだ練習してないのか」
「響木監督が急に来られなくなったから、練習メニューを相談してたとこなんだ。試合も近いだろ」
「そうか、それで、もう決まったのか?」
その問いに頷いたのは鬼道だった。
「初めの一時間、円堂はキーパー技の特訓。豪炎寺と染岡のシュート技のブラッシュアップも兼ねて、ゴールをひとつ占有する。MFとDFはそれぞれのポジションについて、フォーメーションの確認。終わったら紅白戦をやろう」
「……分かった」
鬼道は、以前は円堂が大ざっぱに考えて、皆の意見を聞きながら修正していた練習メニューや作戦を、来た瞬間から担当するようになった。元帝国学園キャプテン、ゲームメイクの天才と言われるほどだから、当たり前の流れなのかもしれない。気が付いたときには風丸も皆も、円堂も。何か考えなくてはいけない状況では、鬼道の顔を見ることが普通になっている。
「行こう」
風丸は、ちらりと円堂のほうを見てから、自分のポジションを目指して走った。雑念を振り払うように、風丸がいくら走っても、時折響く大きな声に、一瞬だけ目を奪われることがある。
そんなときは決まって、円堂が泥まみれの顔で、誇らしげにボールを掲げている。染岡と豪炎寺が放ったシュートを、見事に止めたのだろう。
円堂が染岡に何か言う。豪炎寺に、笑いかける。
それを見ると風丸の足は、枷でもはまったかのように重くなってしまう。
豪炎寺は円堂にとって、特別なストライカーだ。突然現れて、勝利の味を教えてくれた、特別な人間。こと試合においては、絶対の信頼を置いていることが、円堂の目を見ていれば分かった。
風丸は、枷を引きちぎりながら、走る。
初めは、本当に初めのころは、円堂には自分が必要なのだと思っていた。いつもすぐ側にいて、力になろうと思っていた。だが今は、そうだろうか?
(……こんなのは)
胸が焼け焦げるようなその気持ちに風丸が気付いたのは、しばらく前のことだ。
男として、二人の能力に嫉妬しているのかと考えたりもした。
だが大事なのは、円堂がどう思っているのか、ということだった。
(こんな気持ちは、友情じゃない)
筋肉の限界を要求する加速に、足が悲鳴をあげる。それでも、鬼道と豪炎寺に向ける円堂の眼差しは頭をちらついて、部活が終わるまで離れなかった。
そうして、日も暮れた帰り道。
用事があるもの、道が分かれるものが一人ずつ減っていって、最終的には風丸と円堂二人だけになった。
「今日も練習した~!って、感じだな」
「なんだよ、それ」
「なんかあちこち痛くてさ。でも、前より違うとこが痛い気がする。てことは、段々成長してきてるってことだろ」
「……そうかもな」
「明日は、また違うとこが痛いぜ。きっと」
前向きな笑顔に、心臓が高鳴る。二人でいることが嬉しいのに、その感情にはどこか辛さが付きまとっていた。
(お前に、俺は、必要なのか)
ぽつぽつと会話を交わして、もうすぐ分かれ道、という場所まで来たとき、ふいに円堂が呟いた言葉に、風丸は耳を疑った。
「なんかさ。変かもしれないけど、俺最近思うんだよ」
「なにを」
「風丸がいると、落ち着くって」
「え?」
あまりに不意打ちだったから、目を丸くして、無防備に尋ね返した。円堂は、だから変かもしれないけど、と苦笑いしながら続ける。
「俺さ、サッカー好きで、24時間サッカーのこと考えてたいくらいで」
「……知ってるさ」
「でも実際には、24時間サッカーやってられるわけじゃないだろ。学校もあるし、行事もあるし、家にも帰るし」
「当たり前だろ」
それが、さっきの話とどうつながるのか、さっぱり掴めない。
円堂も自分で首をひねりながら、
「お前と一緒だとさ、朝は、ああ今から学校なんだなって思うし、お前が弁当持ってると、昼飯食べるぞって思うし。こうやって帰ってるときも同じでさ。今日も1日、終わるんだなって」
「………」
「部活のときは壁山とか後輩もいるし、一応キャプテンだから、俺はやるぞ!って肩の力入ってんのかな。それが抜けるっていうか。あ、でももちろん部活のときは、風丸の走り見て気合い入るんだぜ。それとはまた別で……やっぱり、長い付き合いだからかなあ」
と言った。
しかし自分で自分の言葉に満足いかないようで、まあ、気にするなよ、と頭をかいている。
風丸は、笑った。
円堂はそれを、おかしなことを言ったからだと解釈したようで、笑うなよ、とむくれている。
(……違うんだ、俺が笑ったのは)
「円堂、俺はさ」
(お前は俺に、まだちゃんと居場所を空けておいてくれてたんだなって)
「俺は、お前のことが」
顔を合わせたら言える気がしなくて、メールや電話に頼ろうとした。
でも違った。
顔を合わせなければ結局、伝えることなんでできなかったのだと、今ようやく気が付いたのだった。
「好きなんだ」
友達としてじゃなく、と付け加えるのを、風丸は忘れなかった。
おわり