ほしのうつわハッキリと宇宙に呼ばれて覗き込んだのは、軍警に捕まったあの日が最初。
だが、そのもっとずっと前。
遠い昔に、カミーユは似たようなものを感じたことがあった。
───その時からだ。
アーガマの自室、姿見の前。カミーユはひどく平たい下腹部を撫でる。
その声を聞いたばかりに、少年の身体は雄の象徴を失い、受け入れる器のごとくまろい雌の形に変わったのだった。
「ここに隠れれば、絶対に見つからないわね」
埃まみれの作業台の下に潜みながら、したり顔で微笑む幼い少女、ファ・ユイリィ。
秋の穏やかな日差しの中、時刻は15時。
四半刻前にプライマリースクールが終わり、クラスメイトと「公園でかくれんぼしよう!」という約束を交わした彼女は、教室の隅で空を見ていた幼馴染の男の子───カミーユ・ビダンの手を引き、公園にやってきた。
公園に向かう間「いやだ」「行きたくない」と何度もぼやくカミーユを、「一緒に遊びましょうよ」と説得し、途中で逃げられないようにクラスメイト達にもしっかりと「カミーユも混ぜて」と許可をとった。遊び相手が増えたとカミーユが歓迎され、ファが「遊びましょ?」と微笑む頃には、彼の拗ねたような顔はいくらか緩んでおり、彼女も少し胸を撫で下ろした。
全員が揃ったところで、さぁかくれんぼを始めようと『オニ』を決めるジャンケンをする。
各々が考える最善の手を出し、その結果唯一負けてしまったカミーユは、今、公園の真ん中で全員の「もういいよ」という返事を待っているところだった。
「───もういいかい?」
遠くで問いかけたカミーユに、ファはクラスメイトたちと声を重ねるように応える。
「もういいよー!」
叫んだ拍子にたまらずクスクスと笑ってしまい、ハッと慌てて口を押さえる。それでも絶対見つからないという自信があったファは、余裕の笑みが止まらなかった。
「…こんな良い場所があるなんてね」
彼女が隠れ場所に選んだのは、公園から少し離れた場所にあった古めかしい倉庫。
ボロボロの建物は、長い間誰にも見向きされなかったのだろうか。その扉にぶら下がるのは読めない文字が書かれた板と、錆びついて壊れた錠前。破れた窓のガラスは白く濁り、吹いてきた北風から重く湿った匂いがする。
ここだわ!と直感したファは、早速扉に手をかける。扉は古びているはずなのに、意外にも容易く開いて少女を招き入れ、そっと仕舞い込むようにカタンと閉まった。
狭い室内には、掃除用具とお祭りの時によく見かけた看板、そして大きな作業台だけ。手頃な隙間は無いかと見回しながら台の下を覗くと、彼女が伏せて入れば十分に収まる空間があった。
隠れるにはなんと打って付けな場所だっただろう。───プライマリースクールに入りたてのファが、扉に下がる板の“立入禁止”を読めなかったことを除けば。
台の下で寝転びながら、ファはまた堪えきれずにクスクスと笑う。
「ふふっ、かくれんぼは私の勝ちだわ!」
落ち葉を踏んで駆け回る足音と、先に見つかったクラスメイトの笑い声を聞きながら、彼女は自分を探し回っているカミーユを思い浮かべる。
爪を噛んだりクラスメイトと喧嘩したりと、いつも私を忙しなく困らせてくるカミーユが、今日は私がいなくなって困っているなんて!
心細く名前を呼んでは、迷子のように狼狽える。そんな姿を想像すると、彼女は何故だかおかしくてたまらなかった。
「あーあ。カミーユ、早く見つけに来ないかしら!」
「……ここにもいないよー?」
「どこに隠れたのかな、もう日が暮れちゃったのに」
「おうちに帰ったんじゃないの?」
「えーっ、帰っちゃったの?」
時は過ぎ、時刻は17時。
太陽が水平の淵に佇み、空の端から夜へと染まっていく頃であるにもかかわらず、カミーユたちのかくれんぼは一向に終わる気配がなかった。───クラスメイトは全員見つけたが、ファだけが見つからないのだ。
駆け回ったせいで流れる汗を拭いながら、カミーユは呟いた。
「あいつ、どこに隠れたんだよ…っ!」
カミーユも最初は『オニ』として、自身の力だけで探した。
しかしどうにも見つからず、彼はは既に見つけたクラスメイト達にも協力を仰ぎ、全員で思い当たる場所を探して回った。
それでも彼女は見つからない。そうなってくると、クラスメイト達も徐々に何かおかしいと感じるようになり、口々に諦めの言葉を溢していった。
もう辺りはすっかり薄暗くなっており、スクールの先生からも「最近は日が沈むのが早いから、早く家に帰るように」と教わったばかりだ。
これ以上皆を付き合わせるのは酷かと思い、カミーユはひっそりとため息を吐いた。
「みんなは先に帰っていいよ、ファはぼくが見つけるから」
「カミーユくん、いいの?」
「うん、ぼくの家はまだ門限じゃないし」
「そうなの?ありがとう!」
彼の提案に、クラスメイト達は安堵と共に感謝の言葉を述べる。
そして「お母さんが心配してるかも」、「お父さんに怒られちゃうよ」などと話しながら、急ぎ足で家路へとついていった。
……門限どころか、自分のことを心配してくれる親など、帰っても家にはいない。どうせ今日も『仕事が忙しい』らしいから。
しかしファの両親はそうではない。彼女が家に帰らないとなればひどく心配して、今にも死んでしまいそうな顔をしながら、どこまでも彼女を探し歩くのだろう。
そう思うと何故だかカミーユの胸は締め付けられ、必ず彼女を見つけてやらなければという強い意思に駆られる。
彼はもう一度息を吸い、大きく声を上げた。
「ファ、どこだ!いるんだろ!」
何度も彼女の名前を呼んだが、虚空に溶けるだけ。
まさか本当に家に帰ってしまったのだろうか、だとしたら自分に一言でも声をかけるはず。律儀な彼女ならきっと、いやでも。
カミーユが立ち止まり、考え込むように親指の爪に歯を立てたその時、
きらり。
目の前を、小さな流れ星が飛んだ。
「えっ…?」
見間違いではないかとカミーユは両手で目をこすり、もう一度目を凝らす。
きらり、きらり。
やはり、星が流れている。
針の穴ほどの大きさなのに、強い光を放ちながら明滅するそれは、夜空に輝く星そのもの。気付けばカミーユの周囲では、数多の星が彼を追い越すように流れていた。
「……?」
規則性を持った流星群は、まるでついて来いと急かすようにカミーユを一つまたひとつと追い越していく。
───行かなくては!
突如として心がそう叫び、カミーユは弾かれたように足を動かした。
理由は分からない。だけど、自分はこの星と共に行かなければならない。そんな気がした。
火を追う羽虫のように光が走る先へ先へと駆けていくと、進むほどに増えていく星たち。
カミーユは、まるで自分が銀河の中を走っているような不思議な感覚がした。
彼の息が上がる頃、星は流れることをやめた。くるりくるりと宙を舞い、とある場所を示す。
そこは公園から少し離れた場所にあった、古めかしい倉庫だった。
「ここって、“立入禁止”の倉庫…」
そういえばと、カミーユはひらめく。
“立入禁止”───入ってはいけないと書かれたこの場所だけは、危険だと思って自分もクラスメイト達も近寄らないように探していた。
もしここにファがいるとしたら……。
半信半疑ではあったが、星たちが示す倉庫の扉にカミーユは耳をひたりと付けてみる。
すると、微かにすんすんとすすり泣く声が聞こえてきた。
その音はカミーユが幾度も聞いたことがあるもので、彼は咄嗟に名前を呼んだ。
「ファ!ここにいるのか!?」
「…っ、カミーユ…!?」
内側から聞こえた声へと近付くように扉を押すと、意外にも容易く開いて彼を招き入れる。
ひどく暗い倉庫の中、泣き腫らしたファがカミーユへと駆け寄り、飛び込むように抱きついてきた。
「お前っ、皆探してたんだぞ!」
「だって出られなくて!怖くて…こわかった……!」
驚きながらも彼女を叱ってみたが、ファは余程心細かったのか、言葉を紡ぐ前にわぁわぁと泣きじゃくってしまって話にならない。
安堵したのも束の間、ひとまず彼女泣き止むまで待つことにしたカミーユは、いつか彼女がしてくれたように背をさすり、ぽんぽんと柔らかく叩いた。
暫くして彼女が落ち着きを取り戻し、しゃくり上げながらポツポツと経緯を話し始めた。
隠れていた台の下で眠ってしまったこと、目が覚めたら夕方だったこと。出ようとしたら内側から扉が開かなくなっていたこと、助けを呼んでも誰も来てくれなかったこと。
最後に、反省したように「ごめんなさい」と呟き、ファはぐしぐしと赤い目を擦った。
全てを聞いたカミーユは、彼女を許す代わりにポケットのハンカチを渡してやる。彼女はそれを受け取ると、いつものようにふわりと笑った。
「…ねぇ、なんであそこにいるって分かったの?」
家へと帰る途中、ふと彼女にそう問われ、カミーユは照れ隠しのようにふんと鼻を鳴らして答えた。
「なんで、って。流れ星のおかげだよ」
言いながら、目の前で幾筋もの軌跡を描く星に指をさす。
この流星の導きがなければ、カミーユはきっと今も彼女を見つけられなかった。そう考えると、この神秘的な輝きにも幾らかの親近感が湧くもののように感じる。
「流れ星……?」
「流れてるよ、今も。綺麗だろ?」
こんなにも燦然と星が輝いているのに、まさか彼女に見えないということはないだろう。
そんなカミーユの確信に反して、星がファの眼前を通り過ぎても、頰に当たって光が弾けても、彼女はキョロキョロと不思議そうに見渡して首を傾げるばかり。
ついには疑いを混ぜた眼差しを、カミーユに向けてきた。
「……カミーユ、それホントなの?」
「ほんとだよ」
「ホントのホントに?」
「だから本当だって……っ、見てろよ!」
疑問ばかりのファに痺れを切らしたカミーユは、近くを流れる星をかき集めるように宙を掻いた。
手応えのある握り拳を開けば、やはり砂粒のような沢山の星が、キラキラと輝きながら手のひらの中で踊っているじゃないか。
ずいっと手を前に突き出して見せてやると、彼の期待通りにファは目を点にして驚いた。
……のは、ほんの一瞬だけ。
彼女はそのままぷっと吹き出し、その笑い声を大きくしていった。
「な、なんで笑うんだよ!」
「あははっ!もうカミーユったらおっかしいの、あはははっ!」
「笑うな!」
大真面目なカミーユをよそに、彼女はころころと笑うのを止めなかった。
ファがひとしきり笑うと、カミーユはすっかり膨れっ面になっていた。少し悪いことをしたかと思った彼女は、手のひらを指さして言った。
「だって、そこには何もないのよ?」
カミーユはムッとして、自分の手のひらをもう一度覗き込む。
見間違いなもんか、そこには確かに星が……。
………………星が?
───瞬間。グルリと地面が逆さまに反転するほどの、ひどい眩暈がした。
その眩暈と同時に、彼に見えていた全ての星たちが輝きを失い、灰のようにサラサラと指をすり抜けて風に舞っていく。
大地がガラガラと揺れながら崩れ落ち、その奥から湧き出る強い力に引っぱられそうになる。膝をつきそうになる身体に振り子のようなゆったりとした震えが襲い、つんざくほどの耳鳴りがした。
「……なんで」
うわ言のように呟きながら、カミーユは視線を上げる。
いつの間にか目の前にいたはずのファの姿は消え、衛星のように周囲を漂っていた灰が徐々に形を成して、夜空色をした無数の手へと変わっていく。
ひゅっと息を呑んだ。恐怖。反射的に半歩下がったが、伸びてくる手はその小さな身体をゆっくりと捕えていく。
怯えるカミーユを揶揄うかのように、極色彩の声が語りかけてきた。
おいで、おいで。
……だれ?
やわらかなこども、ほしのうつわのこども。
……なんのこと?
こちらにおいで。いのちのみなそこ、かがやきのうてなへ。
そんなのしらない、いきたくない。
おいで、おいで。そのさきへ、かなたまでつれていってあげる。
…っ、しらない、なにもしらないったら!
雨のように降りそそぐ身勝手な誘いに、カミーユが耳を塞いで強く拒絶を示した。
その刹那、きゃらきゃらと笑う赤子の声と共に、彼の身体に絡まっていた手が霧散していく。
そして星たちが蘇ったかと思うと、在るべき場所、銀河へと帰るように流れていった。
自分に一体何が起こっているのか理解できないまま、少年は空を恐る恐る仰ぎ見る。
星が描く光の筋の中、その合間を縫いながら、大きな白い羽根が一枚舞い落ちた。
───そして、カミーユは見た。
そらの彼方へ遠く飛んでいく、一羽の白鳥を。
「カミーユ?……どうしたの?カミーユ!?」
四肢を吊る糸が断ち切れたように、カミーユの身体は立っている力を失った。
頭痛、眩暈、熱、悪寒。そして身体の内側が無数の手でぐちゃぐちゃとかき回されていく感覚は、子供のカミーユでは到底耐え切れるものではなかった。
五感を一つひとつ奪われていく中で、ファの泣きそうな声だけが遥か遠くに響く。
自分が倒れた感覚は、もうなかった。