金髪のジャポネーゼ 金髪のジャポネーゼ
ルチアーノは、自分の住むナポリの街が世界一だと思っている十歳の少年だ。
イタリア以外の他の国なんかよく知らないが、南部に位置するナポリはいつもあったかくて、ヴェスヴィオ火山の麓から見える海岸沿いの景色はとても綺麗で、いつ見ても最高だった。それに家族も地元の人たちも大好き。みんな裕福じゃあないし治安が悪いときもあるけど、それでも近所同士は仲良くて助け合って陽気に生きてる。
ルチアーノには優しい両親がいる。父のジュゼッペはちょっと頑固だけど腕のいいスーツ職人で、有名なナポリ仕立てのスーツを作っている。この辺りで父のサルト(仕立て屋)を知らぬ者はいないくらいの名人だ。母のフェデリカは実家が経営しているエノテカ(酒屋)で働いていて、ルチアーノは普段、その店で祖父母に面倒を見てもらっていた。でも時々、店のおつかいや配達を頼まれることもある。その度に母や祖父母がお小遣いをくれるので、ちょっと面倒ではあるけど嫌いじゃない。
今日は、近所に住んでるお得意さんのジャポネーゼ(日本人)が特別に注文したワインを届けるように言われた。それは、ナポリから遠く離れた、ドイツに近い北部ヴェネト州のバルドリーノという銘柄の赤ワインだった。
いつもながら、わざわざ地元のワインじゃなくて、しかもヴェネトの赤だなんて、ルチアーノには理解しづらい。だって父のジュゼッペも祖父も、赤ワインなら地元の有名なタウラージくらいしか飲まない。この辺の男たちならだいたいそうだと思う。ナポリの人間はわざわざ北部のワインなんか、誰も飲まないし買わないし。そりゃ、祖父母の店には贈答用赤ワインの高級品で有名なトスカーナ州のブルネッロ・ディ・モンタルチーノやロンバルディア州のバルバレスコやバローロなんかはあるけど、こんなヴェネト州のバルドリーノなんて好んで買うのは例のジャポネーゼだけだ。
でもワインの変わった趣味はともかく、ルチアーノはあの金髪のジャポネーゼのことが好きだった。
彼がナポリに来たのは、確か四年くらい前だ。最初カタコトだったイタリア語もすごく上手になって、今はナポリ訛りまでバッチリだ。
キョージュロは、いつも穏やかで優しくて親切だ。時々話してくれるジャポーネ(日本)の話もルチアーノには面白い。右目を怪我してるけど見た目もカッコ良かった。
最初は外国人だと警戒していたルチアーノの母のフェデリカも今はすっかり気に入ってる。今日も注文されたワインの他に母の手作りお菓子のババ(ラム酒を使ったナポリ名物の焼き菓子)を持たされているし。
キョージュロがルチアーノの母に気に入られたきっかけは、店に買い物にきた時のやりとりらしい。いきなり「バルドリーノと言うワインはありますか?」て聞いてきた怪しい金髪のジャポネーゼに「なんでヴェネトのワインなんか欲しいの?」と不審そうに聞いた母に「大事な人との思い出のワインだから」とキョージュロは答えたんだそうだ。それを聞いた母のフェデリカは、その場で卸売業者に連絡したらしい。
そんなことがあってから、キョージュロは母の店の常連になった。今では祖父母を含めたルチアーノ一家の夕食にキョージュロを招待するくらいには仲がいい。ルチアーノの祖父、マルコはキョージュロのことをサムライだと思っていて、目の怪我はカタナで切られたといまだに思ってる。クロサワ映画で昔見たんだ、と言ってた。サムライなんてもうとっくにいないよ、とルチアーノはキョージュロに教えてもらって知ってたけど、マルコはそれを気の利いた冗談だと思って毎回それを言うから、キョージュロも諦めて否定しなくなった。
キョージュロは、ホントはサムライなんかじゃなくて、昔は警察官だったけど仕事中に大怪我して辞めたんだそうだ。右目の傷もその時のだって言ってた。今はイタリア生活のことを日本向けの記事にしたり、日本人観光客の多い店で雑用や通訳をしたりしてる。
ルチアーノはこないだ、イタリア語が上手くなったキョージュロに「キョージュロはどうしてナポリに来たの?」と詳しいことを聞いてみた。そしたら「イスキア島に行きたかったんだ。綺麗なところだし、ずっと興味があったんだよ」とキョージュロは答えた。確かにナポリ湾に浮かぶイスキア島は、温泉と綺麗な景色が有名な観光地だ。怪我してる右目もそうだけど、お腹の古傷が痛むから、キョージュロはよく治療代わりに通ってるらしい。
ルチアーノは「その怪我って誰にやられたの?悪い人?」と聞いたら、キョージュロはちょっと困った顔をして「悪いだけの人だったら、良かったんだけどね」と言ってた。よく分からないけど、ルチアーノにはその顔がとても哀しそうに見えたから、それ以来、キョージュロに怪我のことは聞かないことにしていた。あまり思い出したくないのかもしれないし。それに、彼が大好きな故郷のナポリを気に入ってくれてるのが分かってさえいれば、ルチアーノには充分だった。
母の店から三軒先の角を右に曲がるとバール(イタリアのカフェ)があって、そこの二階の貸部屋がキョージュロの住まいだ。顔馴染みのバールの主人に挨拶をすると「キョージュロは買い物から帰ってきたばかりだよ」と教えてくれた。ルチアーノは店主に礼を言ってワインと母の作ったババが入ったカゴを持って二階に上がると、キョージュロの部屋の扉をノックした。
「アカザ?」
ルチアーノがノックして名乗る前に、キョージュロは焦ったみたいにそう聞いてきた。アカザって誰だろ?とルチアーノは思った。誰か来る予定だったのだろうか。
「いや、俺だよ、キョージュロ。ルチアーノだよ。いつものワイン届けに来たんだ」
「ルチアーノ?ああ、わざわざすまなかったね」
そう言いながら扉をあけてくれたキョージュロは、すぐにルチアーノを部屋に入れてくれた。長めの金髪を後ろに結ったジャポネーゼは、相変わらずいつもの下がり眉で優しそうな笑顔をしていた。
「はい。いつもの赤ワインだよ、あとは母さんが作ったババも」
「ありがとう、ルチアーノ。フェデリカによろしくね。そうだ、レモネードがあるから飲んでいくかい?」
「うん」
せっかくだからババを一緒に食べよう、とキョージュロから誘われたので、ルチアーノは素直に甘えることにした。キョージュロがレモネードとエスプレッソを準備しているのを待つ間、ルチアーノは彼がパソコンを置いて仕事している机になんとなく目をやると、新しい写真が飾ってあるのを見つけた。
今まではキョージュロそっくりな弟さんと一緒のと、それから警察官時代の仲間らしい人たちとの写真しか無かったところに、赤い髪をしたジャポネーゼらしき男の人とキョージュロが一緒に写ってる写真が加わっていた。写真のキョージュロはまだ片目じゃなくて、今よりずっと若く見える。部屋の中だけど後ろの大きな窓から見える景色は真っ白で、雪が積もっていた。二人はキモノっぽい服を着てるし、場所はイタリアでは無さそうだ。ナポリは暖かいからルチアーノは本物の雪をまだ見たことがない、だから珍しくて、なんとなくその写真に見入っていると、エスプレッソとレモネードを持ってきたキョージュロに聞いてみた。
「新しい写真だね。キョージュロが着てるこれ、もしかしてキモノ?」
「うん。そうだよ。宿泊施設なんかによくあるユカタって言うんだ。古い友達がね、昔旅行した時の、懐かしい写真を持ってきてくれたんだ」
「この隣の人?」
「そうだよ。最近、彼もナポリに来たんだ。前はシチリア島で働いてたんだけどね」
「へえ」
キョージュロは嬉しそうだった。親しい友達なのかもしれない。ただルチアーノはなんとなくだが、この赤い髪の男になんとなく見覚えがある気がした。でもすぐには思い出せない。
「キョージュロ、キモノが似合うね」
「そうか?それは嬉しいな」
「ねえ。ジャポーネ(日本)が恋しい時ないの?ずっと帰ってないよね?」
故郷が大好きなルチアーノには、離れて外国で暮らすなんて想像がつかなかった。両親に祖父母、友達ともずっと会えないなんて、考えるだけで寂しくて仕方ない。去年家族で行ったバカンスでギリシャまで船旅に連れて行ってもらったけど、やっぱりすぐナポリが恋しくなったのを思い出した。
「恋しい時もあるけど。俺はナポリが気に入ってるんだ。ジャポーネよりも自由があるから」
「そうなの?」
「ああ。大事な人と会えないんだ、向こうだと」
イタリア語が上手くなっても、キョージュロはこんな感じで、時々よくわからないことを言う。今もホントはどういう意味かルチアーノには理解できなかった。
でも大事な人と会えないならやっぱり故郷よりナポリの方が良いってことなのかな、とルチアーノは思った。
レモネードとババを頂いてから、ルチアーノはすぐにキョージュロの部屋をあとにした。キョージュロといるのは楽しいけど、これから客が来るみたいだし、あまり長居して遅くなると母に叱られてしまう。
少し急ぎながらバールを出ると、ルチアーノは道の反対側から目立つ赤い髪の男が歩いてきたのが目に入った。バールの客だろうか。ただ、その男に見覚えがあったので、ルチアーノは思いきって「チャオ(こんにちは)」と挨拶してみた。すると男は愛想が悪いながらも小さな声で「チャオ」と返してくれた。
その瞬間に気づいたのだけれど、男はさっきキョージュロと写真に写ってたジャポーネに似ていた。あと見覚えがあると思ったのもやっぱり間違いではない。先週、父のサルトにたまたまいたら、スーツを作りにきたカモッラ(ナポリのマフィア)の幹部がきて採寸を遠巻きに見ていたのだが、その取り巻きの中に一緒にいた気がする。その幹部が「シチリアから流れてきた珍しいジャポネーゼのボディーガードを雇ったらしい」と後から父が従業員に言っていたのをルチアーノは思い出した。
「ねえ」
何を思った自分でもよくわからないが、ルチアーノはその赤い髪の男に声をかけてみた。よく見るとその整った顔立ちは、やっぱりキョージュロ部屋で見た写真の人物に間違いない。あちらは少し若かったが、やっぱりそっくりだ。
「なんだ?」
赤い髪の男は、ルチアーノに声をかけられて不審そうに足を止めた。なんだか、雰囲気が怖い。カモッラの関係者なんだから当たり前だ。こんなのバレたら母に怒られそうだな、とは思ったけれど、ルチアーノは好奇心が止められなかった。
「あなた、もしかしてアカザって名前のョージュロの友達?」
「まあ、そうだが」
「やっぱり。キョージュロ、待ってたよ。さっきバルドリーノを配達してきたんだ。一緒に飲むの?」
思いきってそう聞いたら、男はルチアーノの言葉にかなり驚いた様子だった。さっきまでの怖い雰囲気が、一気に消えてた気もする。
「そう、だろうな。教えてくれてありがとう」
赤い髪のジャポーネは、ルチアーノの言葉を聞いてあからさまに嬉しそうに礼を言ってから、キョージュロの住むバールの二階に入って行った。
そうか、そう言うことか、と。ルチアーノはその男のいきなり変わった表情を見て、幼い頭でもなんとなく確信した。
想像でしかないけれど、遠いジャポーネでは自由に会うことができないキョージュロの大事な人、と言うのはあの男のことなのだ、きっと。