ゆだねる遠いはるか昔の異国の哲学者が「器官なき身体」という概念を提唱していた。ものすごく短絡的な言い方をすると、それは「欲望」のこと。生存のために稼働する有機的な物理的な臓器を器官と称したとき、それらとは全く別個に存在する「欲望」のこと。生きるために心臓から血液を各内臓へ送り出したい、といういわば有機的サイクルとしての欲望ではなく、それらとは全く関係ない、社会的な概念的な欲望。
僕はその考え方がちょっと好きだ。
僕の身体はあるいは、僕を含む奴隷達の身体はいつだって自分だけのものであったためしがない。品定めをする視線で、無遠慮な手で、耳障りな言葉で、僕達の身体は常に消費されてきた。ただ守る、それだけのことがあまりにも難しかった。
ほそく、たよりなく、骨肉が張り付いているこの身体。有機的サイクルによって稼働し続ける、数多の臓器で構成されたこの身体。僕達のものであるはずなのに、他者による侵犯を常に恐れなければならないこの身体。
でも「器官なき身体」が欲望、つまり心のことを指すのなら、それは決して誰にも何にも脅かされない。物理的に損なわれることも奪われることもない。
ナイフを握り襲いかかってくるおぞましい手は、僕達の肉を切り裂いたとしても、僕達の心までは切り裂くことはない。折檻のあとに放たれる舌打ちは、僕達の耳を傷つけても、僕達の心を壊すには至らない。
そう言い聞かせなければ生きていられなかっただけで、実際のところ、心は確かに傷つくし壊れたりもする。でも、言い聞かせることのできる絶対的な命題があるだけで、僕は、僕達は、この世界でまだもう少し頑張ってみようかと思えたりするのだ。
僕達の身体はときにひどく他者によって踏みにじられる。
でも、決して踏みにじられることのない、「器官なき身体」も僕達には備わっていて、それだけは絶対に、他者に蹂躙され得ないものなんだと。
なつかしいな、と思う。もう戻らない日が。あの中にいるときには分からなかった、永遠を凝縮したような、混沌としたかがやきの日々が。
肉体があった頃に苦しかったことのいくつかとは決別できて、いくつかとは今も決別できていなくて、これから先、その数は減ったり増えたりをゆるやかに繰り返していくことだろう。僕がこの「器官なき身体」と生きていく限り。
「今日はやること沢山ですよ。頑張りましょうね、モリィさん!」
腕まくりしながらのんきに張り切って、返事がないことを不思議に思って振り返った彼女とバッチリ目が合う。彼女はじっとこちらを見ている。心を見透かすような視線。けど決して不快ではなかった。
「どうかしましたか?」
「なんにも。…ああそうだ、はい」
僕は傲慢な仕草で、とんとん、と自分の唇をゆびさした。彼女は綻ぶような笑顔を浮かべる。
「仕方ないですね」
もう、なんて思ってもなさそうなのにそう言って、従順に近づいて、背伸びして、僕の肩に腕を回す。
身を屈めた僕の手は彼女の背中をするりと撫で、それを彼女はくすぐったそうにまた笑う。
――いつもいつでも、僕の身体は僕のものじゃなかった。
でも今は、確実に、僕がゆるした、僕がのぞむ人に、僕の身体をゆだねることが出来る。
僕がそのことに泣きたくなるほど安堵していると、この子は本当に分かっているのかな。
そのよぎる不安ごと抱き込むように抱き締める腕の力が強くなったので、僕は驚く。
「…君ってもしかして、僕の心読んでる」
「どうでしょう、ふふ」
「そっか」
読んでもいいんだよ。この心は君のものだからね。
そう言ってなんだか急に気恥ずかしくなったからいつもみたいに笑ってごまかそうとしたのに、さっそく僕の心を読んだ彼女が黙ってキスをしてきたので、僕はなんだか悔しくなってぎゅっと抱き返した。からだとからだの境界線が、わからなくなるくらいに、ぎゅっと。