真意一閃(上) 「父上。折り入って話がございます」
朗らかな鳥のさえずりとは対照的な緊迫した空気の中、四葉は額を冷たい畳に付ける。父こと、四条院 西鶴は何も言わず流麗に筆を滑らす。
「剣術の修行のため、東の里へと向かいます」
「お前の剣は、既に里の中でも群を抜いている。その必要はないだろう」
「ですが、超えるべき壁があるのです。我が父を超えることこそ、私の到達点なのです」
サラサラと動いていた筆はピタッと止まり、ゆっくりと傍らに置かれた。重苦しい雰囲気が漂う中、西鶴は口を開く。
「…そうか」
「…」
「であればお前はこの家に相応しくない。東に行くなり何なり、好きにすればいい。出ていけ」
西鶴は威圧を感じさせぬ、だが静かな山の如く、重みのある声で言い放った。そして、再び走り出す筆は相変わらず滑らかだった。
なるべく足音が響かない、だができる限りの怒りを込めて、四葉は廊下をノシノシと突き進む。すれ違う侍女達が何事かと、目を丸くさせて見てくるのも気にしない。
「おねえちゃま」
彼女の機嫌などお構い無しに駆け寄ってくる弟を見た瞬間、四葉の顔は溶けた。まだ幼い弟はキャッキャと、その小さな体で大好きな姉に抱きつく。
「虎太郎〜…んむ〜かわいいでしゅねぇ」
ぎゅっと抱きしめると、虎太郎は嬉しそうに笑う。先程までの怒りはどこかへ行ってしまった。苦しいと背中を叩かれ、名残惜しいこと極りないが、仕方なく四葉は弟を解放した。
「おねえちゃま、東へいってしまうのですか?」
虎太郎は寂しそうな顔をする。その上目遣いに思わず修行の意志が崩れそうになるが、心の中で四葉はブンブンと首を振り、誘惑をとっぱらった。
「しばらくの間ね。だから虎太郎が父上と母上を守るんだよ」
「はい!まかせてください!」
わがままな姉を許しておくれ。何も知らぬ弟は無邪気に笑った。
屋敷を出て、東へ向かう。東の里は二日あれば着く距離だ。爽やかな青い田畑を抜け、橋を渡り竹林に差し掛かった頃、道の真ん中に誰かが倒れているのが見えた。急いで近寄ると、倒れていたのは二十代くらいの青年で、端正な顔は土で汚れている。
「大丈夫ですか!?」
脈を確認する。生きてる。
旅をしていたにしてはかなり質素な格好で、物一つ持っちゃいない。盗賊かと周囲を警戒するが、その気配もない。とにかく今は水分を摂らせなければと、四葉は懐から携行していた果実を取り出した。
「これチトセの実、飲んで。じゃないと死ぬよ」
指で潰した実から果汁がしたたり、彼の喉を潤す。
「ん」
「しばらく行ったら沢がある。歩ける?肩貸すから」
自分よりも少し高い背を担ぎ、彼に負担がかからないように歩き出す。沢につくと手早く火を起こし、ある程度煮沸させた水を飲ませた。コクコクと動く喉を見て四葉はホッとする。半刻程経てば、彼はすっかり歩けるほどに回復した。沢で取った魚を焼いて渡せば、恐る恐る齧り、美味いと分かればペロリと平らげてしまった。その様子が何となく子供のようで、少し不思議だった。
「助けてくれてありがとう。この恩はいつか返す」
育ちの良さを感じさせるお辞儀から、どこぞの坊ちゃんが逃げ出したのかと勘ぐる。それならば先程の食事の様子もうなずける。きっとこれまで野営などした事なかったのだろう。
「私、四条院 四葉。西南の里から来たの」
「わたしは……」
言いかけて彼は口を噤む。しばらく黙ったままでいるものだから、痺れを切らした四葉は言った。
「名前、忘れたの?」
「…」
ただならぬ事情がありそうだ。それなりに名のある家の出身だから、言うとバレてしまうとか?深入りしないのが賢い選択かもしれない。などと考えている四葉を他所に、彼はうーんと唸っていたかと思えば、突拍子もないことを提案してきた。
「名前をつけてくれないか」
「は!?」
かなり重要なことをサラッと言わなかったか…?荷の重さに断ろうとしたが、期待に満ちた眼差しに負け、四葉もまた唸った。
「じゃあ…チトセで」
「さっきの果実の名前?」
「そう。由来は昔の武人、千歳の豪が修行中の飢えを凌ぐために食べたことからって言われているわ」
千歳の豪は修行の末に神速の剣を得たという。逸話は多く、音をも置き去りにし、葉を斬れば向こうが透けて見えるほど薄く斬ることが出来たとも。そんな人間本当にいるのだろうか、などと疑わしい話も多いが、古今東西、剣士を目指す者の憧れであることには違いない。
この素性の不明な青年が剣士かはさておき、響きも悪くないし良いのではないか。由来も含め、その名を良しとするかは最終的にこの青年の判断に任せるが。
「素敵な名前だ。私もそこまででは無いが、かつては刀を振るった身なれば、非常に恐れ多い名をいただいてしまったわけだ」
そう言って、青年もといチトセは誇らしげに笑った。しかしこの細身で刀を振るっていたとは、少し意外だ。四葉の疑わしげな視線に気づいたのか、チトセは弁明する。
「刀は色々あって持っていない…」
「ふーん。盗賊に奪われたとか?」
「…平和に暮らしたくて」
その瞳はどこか遠くを見つめる。纏う哀愁は本物で、少なくとも蝶よ花よと育てられた箱入り息子では無さそうだ。少なくとも金持ちの面倒事には巻き込まれなさそうで、四葉は密かに胸を撫で下ろす。
「かくいう四葉殿も腰のもの、武人とお見受けする」
チトセは艶やかに輝く、手入れされた四葉の相棒を興味深そうに見る。
「そんな大層なもんじゃないよ。なんなら、これから修行しに行く身です。たださ、修行に行くって言ったら、なぜか怒られて…」
「怒られた?」
「理由はわかんない。これでも里の中では強い方だと思うんだけど、父上にはいつまで経っても追いつけず…その背中を追い越すのが私の目標なの。それを言ったら出てけって言われたんだよね」
あはは、とお腹を抱えて笑う。何も関係ない人に話していたら、あの時なぜ怒ったのか不思議になってきた。きょとんとするチトセに申し訳なくなり、四葉は「ごめんごめん」と涙を拭って謝る。
「そういえば、どっから来たの」
「…北から」
「山越えてきたってこと?大変だったね」
正直、彼がどこから来ようがどうでも良かった。名前も覚えていなかったのだから、もしかするとどっから来たかも覚えてない可能性がある。何より、返答の前に生まれた若干の間がその答えだろう。
ひとしきり話した後、すっかり本調子に戻ったチトセを見て、四葉は出発の準備を整える。
「私はこのまま東に行くけど、チトセはこれからどこへ?」
「人里に行きたい」
「どこの里?」
「…」
「まさか決めてないわけ?」
これはもう面白いを通り越して、今までどうやって生活していたのか不思議なくらいだ。これからが心配になってくる。それにここまで謎が多いと、その素性が気になってしまうのが人の性である。やましい気持ちには目を背け、四葉は提案した。
「じゃあ一緒に来ない?」
「いいのか?」
真っ黒な瞳が僅かに輝く。
「うん。それに元々剣士だってんなら、楽しいと思うよ。なんせ東の里は剣豪の集う所だからね!」
♢
歩くこと半日。東の里まで半分まで来た頃、村が見えてきた。元々、この村で休む予定だった四葉はふと違和感に気がつく。村の入口が封鎖されているのだ。入口手前では旅人や商人が立ち往生していた。小走りで寄ると、門兵が槍で彼女の行く手を阻む。
「帰れ帰れ!今、この村には入れない」
面倒くさそうに雑に払われる。その態度に思わず四葉はムッとなった。が、彼らもこのやり取りをもう数十回とやってきた故にこの態度なのだろう。
「何があったのさ」
「流行病だよ。村人ほとんどが高熱でうなされてる。死者も出てるんだよ」
困ったように兵は首を振る。話によると、病が流行り始めたのは二週間前。何でも、鬼が出ると噂がたち始めた頃に流行り始めたそうだ。実際に役人が鬼と対峙したが、てんで敵わず、全員しっぽを巻いて逃げたという。
「それは本当に鬼なのか?」
「そうだよ。役人たちは見たって言ってるし、俺も塀越しに唸り声を聞いたんだ」
チトセの問いにそう答える門兵は、四葉の腕に巻かれた紋を見て閃いたと言わんばかりに口を開く。
「あんた、もしかして四条院とこの?」
「そうだよ」
「そりゃありがてぇ。なら鬼を斬ってはくれねぇか?」
「えー!?鬼なんて斬ったことないわ!」
「頼むよ。あの西鶴の娘だろ?腕が立つってのは聞いてる。頼む、この通り!」
門兵はパンと手を合わせて頭を垂れた。
その夜。
「お人好しだな」
「あそこまで言われちゃね」
四葉とチトセは村の空き家に潜み、鬼が出るその時を待った。門兵の必死の頼み込みに加え、そもそもここを通れなければ、東の里まで遠回りすることにもなってしまうので、仕方なく四葉たちは鬼退治を引き受けることにした。正直なところ、四葉はまだ鬼の存在を信じていなかった。昔から鬼が出てくるおとぎ話はあるが、そんなもの子供に教育する為の作り話に過ぎないと思っていたからだ。役人たちは対峙したと言っていたが、実際はデカい獣なんじゃないだろうか。
「出たぞ」
四葉がうとうとし始めた時、チトセの静かな声が彼女を起こす。彼の視線の先を追うと、朧雲の下、淡い月の光に照らされて、一つの巨体がのそりと動く。村の篝火に照らされたその顔を四葉は目の当たりにした。
赤く岩のようにゴツゴツとした顔。逞しい腕は、一振すれば村の木造住宅など枯葉のように吹っ飛んでしまうだろう。だが、鬼は唸り声を上げながらウロウロするだけで、暴れる気配はない。果たして本当にあれが病の原因なのだろうか。なんにせよ、村がこのままでは商人も通れないままなので、何とかするしかない。
「…やるしかない!」
フンと気合いを入れ、四葉は空き家からそろりと忍び出る。まずは両腕を断つ。その後に首を。機をうかがい、彼女は鬼目掛けて一直線に走り出した。
駆ける音に気づき、鬼はグリンとその太い首を回す。月を逆光にして光る双眸は確実に四葉を捉えた。
「はは、ウソでしょ。でか…」
見たこともない巨躯に怯んでしまいそうになる。人々の恐怖の塊とも言える赤い巨体を前に、冷や汗が頬を伝うのが分かる。その一瞬の隙が命取りだった。四葉が刀を振り下ろすより先に、巨木のような腕が物凄い勢いで彼女目掛けて飛んでくる。
「あ」
おわった。
ゆっくりと迫り来る死を目前に、かわいい弟の顔が脳内を駆け巡ったその時。
一陣の風が四葉を襲う。
が、痛みはない。恐る恐る目を開けると、斬り落とされた巨木が砂埃を上げ、地面に転がり落ちた。ヴオォと低い遠吠えが地を震わす。その喉を斬らんと、再び白い軌道が鬼の首目掛けて物凄い速さで伸びていく。だが、その光が到達する前に鬼は地面を蹴って走り去ってしまった。残された四葉は地面に穿たれた穴と、その隣に立つ人物を呆然と見ることしか出来なかった。暫し月を見上げていた彼は流れるような美しい動きで、門兵から奪った刀を鞘に納める。
「恩返しだ」
振り返った瞳は月夜の下でも真っ黒なまま、相変わらず静かな声で言う。
「いやいやいや……いや、まずはありがとう!?ちょっと待って…強すぎない? 」
相手があまりにも冷静なので、慌てる自分が少し馬鹿らしい。もしかしてこれが普通の力量なのか?井の中の蛙大海を知らずと言うように、里の中で強いのだと自負していたが、実は全体的に見ると中の下だったりするのだろうか。
「褒めても何も出せないぞ」
「何もいらない。それよりも!私の先生になってくれませんか!!」
「断る」
「そこをどうか!」
四葉はこの人しかいないと思った。鬼をも斬る圧倒的な技量を前にして、弟子入りしない選択肢は考えられなかった。
「嫌だ」
四葉が頭を下げても、チトセは頑として首を縦に振ろうとはしなかった。これでは埒が明かない。
「…理由を聞いても?」
チトセはその問に困ったように眉を下げ、四葉を見つめるが、観念したのか躊躇いがちに口を開く。
「人の友達が欲しかったから…先生というのは、師だろう?それでは嫌なのだ。でも、望むなら手合わせはできる」
釈然としない答えだが、もうそこは気持ちの問題だろう。師弟という関係でなくても、手合わせで得られるものもある。それにお願いした身だ。これ以上のわがままは許されない。
「ありがとうございます!それで良い。技を盗むから!」
その言葉に、またもやチトセの真っ黒な瞳が僅かに輝く。基本落ち着いて謎めいた青年だが、結構分かりやすい感情表現をしてくれるのが可愛らしい。
「とにかく、よろしく。チトセ」
「四葉、よろしく」
そう言って差し出した四葉の手を握り返した彼の手は、微かに震えていた。
その夜、村の空き家で一晩を凌ぐことにした二人は、適当に腹ごしらえを済ませ眠りにつく。草木も眠る丑三つ時、何かが動く気配を感じた四葉は、横たわったまま寝ぼけまなこでそちらを見た。室内に射し込む月明かりに浮かぶ影は、二本のツノを持つ美しい横顔。それが鬼なのだと、睡魔で靄がかった頭で理解する。こちらを振り向いた黒い瞳と目があったような気がするが、何故かそれに対する恐怖は無かった。
(続く)