Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    yctiy9

    @yctiy9

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 63

    yctiy9

    ☆quiet follow

    四年前に書いたものをリメイク
    本にする

    珈琲とメッセージボトル あれは確か高校一年生の時。夏休み前だった気がする。自転車を漕ぐ度に、宇宙空間を漂う巨大な宇宙船内に吹く、少しカビ臭いそよ風を全身に受ける。毎朝出かける前に飲んだコーヒーと学校までの自転車を漕ぐ動作と、この気持ち悪い風のおかげで授業が始まる頃にはすっきり目が覚めてしまっている。授業中寝ないという点に関して一躍担っているそよ風には、ある程度感謝していたりもするが、気持ち悪いものは気持ち悪い。
     少し眩しすぎる気もする人工太陽の朝日を浴びながら、僕、シリウス・オリエンタは学校までの道を自転車で行く。籠る空気の中、歩く同級生や先輩を横目にスーッと自転車で通り過ぎると、僕は学校の端っこにある駐輪場に自転車を停めた。駐輪場は、なんとなくいつも置く場所が決まっていて、多分他の人も同じらしく、自転車を置く場所を探す手間がかかる事はない。駐輪場を出て、校門から入ってきた生徒達の群れに合流し、みんなと同じように下駄箱で靴を脱ぐ。僕の下駄箱は最上段。平均より身長が割かし高い僕にとっては、好都合な場所だった。これが一番下だったりしたら、いちいちしゃがむ必要が出てきてめんどくさい…なんて事をボケっと考えていつものように下駄箱の扉を開け、上履きに手を伸ばす。が、思わず手が止まった。
     別に上履きが無くなってたとか、上履きが臭かったとかじゃない。
     そこには一通の手紙があった。上履きの上にちょこんと乗ったそれに恐る恐る手を伸ばす。白地に可憐な淡い水色の小花がデザインされた封筒だ。これは……
     「ラブレター?」
     まるで僕の心を読み取ったかのような……いや、これは誰が見てもそう思うに違いないが。視線を横にずらすとそこには親友のポラリスがいた。彼はよっ、と手を上げる。
     「粋な事する人もいるんだな」
     「ね」
     「なんか……嬉しくなさそうだな」
     僕の他人事の様な反応に、彼は苦笑いする。
     「だってまだ中を見てないから…もしかしたら果たし状とかさ…………」
     「それはそれで粋だと思うがな……」
     そんな呑気で日常的な会話をしながら、手には非日常的な手紙を持って、教室へと向かう。
     「なんだろうな……」
     僕よりも興味津々に、彼は手紙を見つめる。早く中が見たいようだ。実際、僕も中身は気になった。
     誰からだろう。なんて書いてあるんだろう。なんて返事をしよう。そんな淡い期待を悟られないよう精一杯隠しながら、糊付けされた封筒を僕は丁寧にを開ける。優しく優しく、そっと。まるで壊れ物を扱うかのように開けた。手紙かふわっと立ち上る心くすぐる優しい香りにドキッとする。

    『拝啓
     名も知らぬ貴方へ

     涼風肌に心地よく、ますますご健勝のほどお慶び申し上げます。
     さて、今回、以前から頂いているコーヒーに関してお礼と私の気持ちを申し上げたく、このように一筆取らせて頂きました。お礼と言いましても、貴方にコーヒーを頂いたことはなく、ましてやお礼は既にマスターに申し上げております。ただ、時々お手伝いしている貴方にもお礼を言いたかったのです。
    ありがとうございます。
     それから、いつか貴方にコーヒーをいれていただきたいのです。根拠はないのですが、貴方がいれるコーヒーはきっと美味しいと思います。
     では、いつもの席にてお待ちしております。

     敬具
     名も知らぬ私より』

     封筒と同じ白地の便箋に書かれた文字は細く美しかった。
     「これはある意味ラブレターであり、果たし状でもあるな」
     ポラリスが僕の手から便箋を取ってもう一度読み返す。
     「……お前ん家の常連で、しかも同じ学校の人か。すぐ気付くんじゃないか?例えばこの香りで…これは相当な美人の香りだ」
     彼はスゥーっと大きく息を吸い込んで、その優しい香りを肺いっぱいに満たした。
    「きっっっも……だいたい手伝いって言っても数えるくらいだし…………いちいち客なんて覚えてないよ」
    僕が返してと、手を差し出すと、彼は便箋を元のように畳んで手に乗せた。
     「で、返事は?」
     「いる?返すにしてもどこの誰か分かんないし」
     彼は「ラブレターいいな〜」なんて呟きながら窓を開け、少し外に身を乗り出す。校門に面した教室の窓からは、ちらほらと生徒が学校に入ってくる様子が見えた。もうすぐ朝礼だ。あと少しするとリレー選手さながら、閉まる校門目掛けて走ってくる生徒が見られるはずだ。
     「あ」
     ポラリスが声をあげる。何かと思い僕も窓の外を窺った。夏の日差しの照り返しで眩しくてよく見えない。
     「スピカ先輩だ」
     手をかざしてよく見てみる。ポラリスの視線の先を追うと、銀髪の人が急ぎもせず校舎の中に入っていく所が見えた。だがあまりにも一瞬で、幻を見たと言っても過言では無いくらいに一瞬だった。
     「だれ?」
     「知らないの?三年生で、この学校のマドンナ。すげー綺麗なんだ。スピカ先輩って、相当なお嬢様らしいぜ」
     明るい地面を見すぎたせいか少し目が疲れた僕に構わず興奮気味で話す。
     「なんせ母親はプロのピアニスト、父親は映画監督。んでもって姉は今をときめく有名モデル、アダーラ・ファウラーだ!すげぇよなぁ…」
     「へぇ」
     正直あまり興味のない話に僕は適当に返事をした。
     『貴方にコーヒーをいれていただきたいのです』
     先程の手紙に冷めた態度をとっておきながらも、僕の頭の中はその言葉でいっぱいだった。それは青い春への期待ではなく、不安の方で。数ヶ月後に迫る文理選択。家の喫茶店を継ぐのか、自分の道を進むのか……。もし僕が喫茶店を継がなければ店はそこで終わり。正直なところ、喫茶店を継いで安定した生活が送れるのかという不安がある。どちらかと言えばセカンドライフの楽しみというイメージしかないのだ。それなら無難にサラリーマンになるのが得策だ。でもそれは自分の気持ちを汲まなかった場合の話。正直、祖父の代から続いた喫茶店が閉まるのは悲しい。
     とにかくそんな迷いがあるからこそ、この手紙の言葉は心に傷をつけた。
     「だからといってなぁ……」
     悩んでいたら段々と頭が痛くなってきた。はぁ……とついたため息は初夏の有限の青空に、外を吹く気持ち悪い風と共に消えていった。
    ♢
     期末試験から解放された僕たちは、夏休みの宿題に追われながらも遊びに遊んだ。それからたまに実家の喫茶店の手伝いもしたけれど、結局手紙の主の正体を知ることは出来なかった。
     九月一日。日焼けに痛めつけられながら、重いペダルを漕ぐ。二学期の初めだからか、みんな再び始まる学校に気分が沈んでいるらしく、学校全体が重々しい空気を漂わせていた。それでも友達に会うのは嬉しいのだろう。若者たちのおしゃべりは止まることを知らないらしい。ポラリスも例に漏れず、下駄箱で会った瞬間夏休みの話を始めるのだ。僕は適当に相槌を打って下駄箱を開ける。
     「あ」
     まただ。
     白地に水色の小花があしらわれた封筒が、数ヶ月前と同じように上履きの上に乗っていた。
     「マジか……熱烈だなぁ…」
     ポラリスが妙に感心する。別に迷惑だとは思わない。初めての手紙から何か生活が変わったかと言われたら特に何も変わることは無かった。生活に支障が出ないなら別にどうだっていい。
     「それいつ入れてるんだろうな。誰か一人くらい入れてる現場を見てそうなもんだけど……。」
     確かに、ポラリスの言う通りだ。決して生徒数の少なくないこの学校で、いつバレずに手紙を入れているのだろう……もし誰かが現場を見ているのなら少しくらい噂になっていてもいいはずだ。
     「人が少ないってなると、早朝、放課後……部活中かな」
     「よし、なら今日張ろうぜ」
     なぜかポラリスはウキウキしている。
     「馬鹿なの?僕は帰るよ」
     「お前は興味ないのかよ?」
     「それどころじゃ…ない…………」
     僕の言葉に彼は怪訝な顔をする。が、すぐにピンと来たようだ。
     「文理選択?」
     そう。この時期、いや、正確にはもう少し先だが、僕たちには文理選択という最初の分岐点が待ち構えていた。
     「……やりたい事が分からなくて」
     「そりゃそういう人もいるだろ」
     「お前はどうすんの?」
     僕がそう聞くと彼はフンと鼻息を荒くして答える。
     「俺は昔から宇宙船技師になりたいって思ってるから、理系に進む」
     「いいなぁ、やりたい事が決まってて」
     「羨ましがられる筋合いはねぇよ。てか、お前だって昔は喫茶店継ぐって…」
     その何気ない思い出話が再び僕の心を抉る。
     「それは昔の話だろ?今は…知らない…」
     「知らないってなぁ……自分のことだろうが……」
     「将来の事を考えたら、普通に大学行って就職して……それが一番無難なんだと思う」
     「無難、ねぇ……」
     彼は考え込むように呟いた。
     教室に着いてカバンを下ろし席につくと、それまでの話を忘れたかのように早速例の封筒を開ける。今日は何が書いてあるんだろう。まだ二通目の手紙だが、それは文理選択に悩む僕の心に非日常的で新鮮な気持ちを持たらし、束の間のストレス発散になる。

    『拝啓
     エプロンが似合う君へ
     秋風が心地よい季節となりました。いかがお過ごしでしょうか。
     本当はもう手紙を書くつもりはありませんでした。でもなぜか筆を取りたくなったのです。あなたがこの手紙を読んでくれているかも分からないのに。まるでメッセージボトルみたで、書いていてワクワクします。
     メッセージボトルと言えば、まさにこの宇宙船の事だと思いませんか?どこに行くあてもなくただ広大で真っ暗な海原を漂うボトルみたい。中に住む人々の数だけメッセージがある。誰かにボトルが届くことはありませんけど。
     私、宇宙は嫌いなのですが、こんな風に考えたら夢があって悪くないかもって思えます。
     取り留めもない話でごめんなさい。でもね、私、こういう話をするのが好きなんです。特に静かな空間で、一杯のコーヒーを片手に持ちながら考えるのが大好きなんです。

     では。
     敬具
     ピアノが嫌いな私より』

     なぜだろう。僕は手紙を読み終わってもしばらくそれを眺め続けた。前とは違う、少し早い金木犀の香りが僕の胸を締め付けた。 
     夏休み明け初日の退屈な学校が終わると、放課後に家庭科部の活動がなかった僕はそそくさと学校を後にした。いつもの帰り道、少しだけ寄り道をするとお目当てのものを見つけすぐにマンションへと帰る。帰って手洗いうがいを手早く済ませると、早速買ってきた便箋を机に広げた。最初こそ返事をするつもりなど微塵もなかったが、今ではなんとなく書いてみようかなと思ったのだ。そう、メッセージボトルみたいに相手に届くか分からない手紙を。気楽じゃないか。悩みを言葉に書き出せば少しは気持ちが楽になるんじゃないかと、手紙の返事と共に、文理選択の話もちょっとばかし書いておいた。相手ほど字が綺麗なわけではないけれど、自分の中で一番綺麗な字が書けるように時間をかけて書いた。何の意味があるかは分からない。無駄な時間かもしれない。それでも僕はゆっくりと本音を綴った。
     手紙を書き終えた頃、携帯の画面をつけるとメッセージが届いていた。クラスのグループメッセージが動いている。
     『今週の木曜日から文化祭の準備再開します!文化祭まであとちょっと!協力お願いします!』
     クラスの実行委員の子もお疲れ様だ。まあこの子に関してはみんなを引っ張るのが好きみたいだから、あまり苦ではないのだろうが…。
     「はぁ」
     今年のクラスは妙に一致団結感があるから、微妙に居心地の悪さを覚える。ああいうノリはあまり好きではないのだ。
     僕は書き終えた手紙を三つ折りにして、「珈琲が好きなあなたへ」と書いた封筒に仕舞うと、忘れないようにカバンに入れた。
     メッセージで一気にテンションが下がった僕は階段を降りてリビングへ行く。リビングでは妹がソファで寝ていた。
     「アルドラ、起きろ。ご飯作るから手伝え」
     そう言って揺り起こすと、アルドラは眠そうにのそのそと起き上がった。マンションの一階のテナントで喫茶店を営む父と母の代わりにいつも僕達がご飯を作る。
     祖父が始めた喫茶店は今でも続いている。ここら辺の住宅街では唯一の憩いの場でもあった。最近じゃバスで十五分程行った所にある駅前も開発されてきたせいで、前よりも客足は減ってしまったが、それでも有難いことに常連客が毎日のように来てくれている。九時閉店のため、以前は両親のどちらかがが混み具合をみて晩御飯を作りに戻ってくれたり、作り置きをしてくれていたが、高校生になってからは専ら自分たちで作るようになった。初めは焦がして不味かったご飯も、今では親の味とまではいかないがそこそこ美味しくなった。栄養面も……一応考えてはいるが、正直自信はない。
     今日の晩ご飯はハンバーグだ。楽しそうに肉を捏ねるアルドラの横で僕は野菜を切る。こうやって、彼女と共に料理を一緒に作る日もそろそろ終わるのだろうか。来年から中学生になる妹は、制服に着られなくなった頃、反抗期を迎えるのだろう。そしたらきっと台所に一緒に立つことはない。それは少し悲しい気がする。手ごねハンバーグは少し焦げたが香ばしい香りを漂わせている。グーっと腹の虫が鳴った。
     「「いただきます」」
     テレビの音をBGMに、妹の学校であった話をひたすら聞く。話を聞いてると自分が小学生だった頃と少しずつ文化が変わっているようで、時の流れを感じた。
     「あ、この人」
     ふとテレビで流れている化粧品のCMに目がいく。アダーラ・ファウラーだ。ポラリスが言っていた、今をときめくスーパーモデル。確かにこれは相当な美人で、それだけでなく迫力がある。この人の妹が同じ学校にいる。その事実だけで大分自慢話になるだろう。
     「私もアダーラみたいになりた〜い!」
     「ふーん」
     小学校高学年ってのは大体年上に憧れて粋がるようになるよな…、と思った。自分もこうだったのかなぁ、なんて少し恥ずかしくなる。
     綺麗に完食するとアルドラが率先して皿洗いをしてくれる。適当に褒めておだててやれば、僕はあとは風呂に入ってのんびりするだけ。ああ、よく出来た妹だ。風呂からあがり、髪をある程度乾かすと僕は自室に戻った。
     「疲れたし……寝ようかな……」
     久しぶりの学校で疲労が溜まったらしい。ベッドに横になると自然と瞼が重くなって、いつの間にか眠っていた。
     「ここは…?」
     ぼんやりと浮上した意識の中でまず目にしたのは、清潔なキッチン。見覚えがある。ここは実家の喫茶店だ。カウンターと接したキッチンからは店内がうまい具合に見渡せる。ふと窓際の席に目を向けると一人の客が座っていた。窓から差し込む光が後光となって、その姿は分からない。
     「夢かぁ……」
     きっと例の手紙が原因でこんな夢を見ているのだろう。
     『貴方にコーヒーをいれていただきたいのです』
     あの言葉が脳裏を過ぎる。
     キッチンの上にはコーヒーを入れるための器具が揃っていた。
     「本格的なコーヒーなんて一度しか入れたことないのに……」
     まあこれは夢だし。そう思ってずーっと昔、祖父に教えて貰ったコーヒーの入れ方を思い出しながら覚束無い手で器具を触る。実の所、手伝いでは食事を運んだことしかないから、コーヒーは入れられないのだ。
     コーヒーは毎朝飲んでいるが、特段好きだと思ったことはない。ただ、祖父や両親に染み付いた香りは幼い僕を安心させた。もしかしたらコーヒーは僕の心の拠り所なのかもしれない。
     流石は夢だ。カップに注いだコーヒーは、喫茶店のものと同じ色をしていて、香りも悪くない。僕は正体の分からない客にそれを差し出した。その人は優しくカップを持って香りを嗅ぐ。顔は見えないけどその人の雰囲気が和らいだ気がした。
     「ん…………」
     重い瞼を数ミリ上げると、部屋の電気が視界に飛び込む。どうやら電気を付けたまま寝てしまったらしい。寝起きの低いテンションも相まって、その事に対して無意味に深く後悔する。とりあえずゆっくりと体を起こし、部屋の電気を消した。時計を確認するとまだ朝の四時。もう少し眠れる。僕は再びベッドに潜った。
     さっきの夢は、客にコーヒーの感想を聞かぬまま終わってしまった。また同じ夢を見られるだろうか。そしたら今度は感想を聞こう。
     僕は暖かい布団に身を委ね、再び意識を手放した。
     「お兄ちゃん!起きて!!」
     うるさい聞きなれた声と共に二度目の目覚めを迎える。結局、夢すら見ずにタイムリミットが来てしまった。
     「分かった分かった……揺らすな……」
     僕を起こそうとアルドラが、掛け布団を掴んで必死に揺さぶってくる。寝起きにこの揺れは地獄だ。まだ半分眠っている意識を起こすため、洗面所で顔を洗い、制服に着替え、親が作ってくれた朝ごはんを頂く。全て綺麗に完食した後は、一杯のコーヒーを飲み歯を磨く。その頃にはすっかり目も覚め、丁度家を出る時間になっている。今日もいつも通り学校まで自転車を漕ぐ。ここまではいつもと何ら変わらない日常的な行動。
     だけど今日は一味違う。僕は下駄箱について上履きを取り出し、ローファーを仕舞う。そしてその上にカバンから取り出した封筒を乗せた。僕が昨日書いたメッセージボトルだ。相手がいつ下駄箱を見てくれるか知らないが、もし届かなかったら届かなかったで構わない。
     届いたらいいな。
     僕はその程度でいた。放課後、帰りに再び下駄箱を開けたらまだ手紙が鎮座していた。どうやら今日は相手にとって手紙の日ではないらしい。ここで引き下がるのは少し悲しかったので、とりあえず様子を見ることに決めた。
     翌朝、まだ手紙は残っていた。午前中は虚しさと落ち着かなさで授業どころではなかったが、放課後の部活までにはすっかり落ち着いていた。諦めにも近い感情かもしれない。家庭科室に行くとすでに先輩達が数人集まって駄弁っていた。
     「この前、スピカ先輩が図書室に本借りに来たんだけどさ、すっっごい良い匂いしたの。マジでびっくりしちゃって、どこの香水使ってんだろう」
     「わかる。廊下ですれ違った時とか思わず振り向いちゃうも……うわっ!びっくりした!!急に後ろに立たないでよ!」
     声をかけにくく、突っ立っていたのが良くなかったらしい。先輩は椅子から落ちそうなほど大袈裟に驚く。
     「すんません」
     「ほんとだよー。シリウス、ただでさえでかいんだからさ」
     あはは、と笑って先輩たちは部活の準備を始めた。
     部活後、下駄箱を開けると手紙は無くなっていた。僕はほんのりと嬉しさを覚えた。
     しかし、その翌日の木曜日。文化祭の準備再開初日という事で校舎には多くの生徒が残っていた。それが原因なのだろう。手紙が下駄箱に届く事はなくなってしまった。きっと人目を気にしているに違いない。もし手紙を下駄箱にいれる場面を誰かに見られでもしたら噂になる。それを相手は恐れているに違いない。
     もしかしたら文化祭が終わったらまた再開するかも知れない。僕はまるで恋でもしたかのように、その時を楽しみにしていた。
     文化祭を一週間後に控えた放課後のこと。
     「それ、持とうか?」
     クラスの子が一人でゴミを捨てに行こうとしていたので、思わず声をかけた。たしか、名前はアリオトさん。アリオトさんは一瞬驚いた顔をしていたが、すぐに「ありがとう」とはにかんで大きなゴミ袋を一つ渡してくれた。
     「文化祭まであとちょっとだね」
     「ようやくだね。アリオトさんは吹奏楽部だっけ?出し物とかするの?」
     「よく知ってるね。うん、一日目も二日目も演奏するんだ。もし良ければ聴きに来て欲しいな」
     「ぜひ、どうせヒマだし。……ん?」
     裏庭に出た時、そよ風にのって少し悲しげな音色が聴こえてきた。ピアノだ。
     「スピカ先輩かな」
     アリオトさんも聴こえたらしい。吹奏楽部なら耳が良いはずだから、僕が聴こえるならそりゃそうだと一人で納得する。それよりも、だ。また出た。謎のスピカ先輩。
     「スピカ先輩、知ってるの?」
     「うん、吹奏楽部の練習が無い日はよく弾きにくるんだ。受験勉強の息抜きって言ってた」
     「へー…」
     みんな知ってるスピカ先輩に少しだけ興味が湧いた。
     文化祭当日。クラスの出し物はそこそこ盛況。簡単な謎解きアトラクションだ。まあ使える範囲が教室一個分の広さだから、そんな仰々しいものではないけれど。一日目はクラスのシフトと、家庭科部の手伝いでほぼ時間を潰した。二日目はクラスの出し物のシフトが終わればあとは自由時間だ。約束通り、吹奏楽部の演奏も聴きに行った。
     「シリウスくん、ありがとう!聴きに来てくれたんだね」
     「すごい良かったよ」
     「えへへ、そう言ってもらえて嬉しいな。あのさ……この後、時間ある?もし良ければ、一緒に…まわらない?」
     「……それは、どういう」
     「どうせ、ヒマ。なんでしょ?」
     それを言われてしまえば、その真意がどうであろうと断るのははばかられた。それに彼女の言う通り、たしかに自分はヒマだ。所属している家庭科部に少し顔を出しつつ、アリオトさんとまわる文化祭は楽しかった。日も暮れ始め来場者も帰路につく頃、彼女は人気の少ない廊下で突然立ち止まった。
     「今日はありがとう、すごく楽しかった」
     「こちらこそ」
     「……ひとつ聞きたいんだけど」
     「なに」
     振り向いた彼女はキュッと唇を結んでいた。彼女の緊張がこちらまで伝わってくる。次の言葉を待っている時間が短いのか長いのか、よく分からなかった。
     「好きな人、いる?」
     これは……きっと、そういうことなんだろうな。
     「……気になる人は…いる」
     嘘はついていない。でも相手が話したこともない人だっていうんだから、少し後ろめたかった。
     「…そっか。ありがとう、それだけ聞きたかったの!その、今日はほんとにありがとう。楽しかった」
     そう言ってニコッと笑うと彼女は走って行ってしまった。その時、僕は初めてコーヒーを飲みたいと思った。
     二日間あった文化祭も無事終わり、いよいよ後夜祭だ、と皆のテンションも高まってきた時。装飾を解体しかけの教室に、クラスメイトの一人が「ビッグニュース!」と叫びながら転がり込んできた。
     「二年の先輩が後夜祭でスピカ先輩に告白するらしい!!」
     よく知らない、というか興味を持ったばかりのスピカ先輩のことなのにドキッとする。というかようやく件のスピカ先輩をこの目で見れるのか。その時、その姿を見てみたい好奇心と、自分の失礼さを咎める思いが心の中で戦っていた。
     「なあ聞いたか?後夜祭で公開告白だってよ」
     横からポラリスが壁のテープを剥がしながら面白そうに言う。
     「フラれたらかわいそ」
     「それはそれでいっそ清々しいんじゃね?大勢の前でフラれたら諦めがつく的な。ま、どうせスピカ先輩は高嶺の花だしよ、向こうも玉砕覚悟なんだろ」
     「そんなことより、お前は手を動かせよ」
     よくやるもんだ。誰か知らないが、とりあえず健闘を祈っておこう。
     夜が更けるにつれ、元気になっていく生徒達。後夜祭が開かれる体育館は既に熱気で溢れていた。軽音部やダンス部、有志の発表が行われる中、ついに時は来た。一人の学生が壇上に上がる。かなり緊張しているのか、最早手と足が一緒に出てしまっているその姿はどこか可愛らしい。
     『今の意気込みをどうぞ!』
     司会が学生にマイクを差し出す。
     『あっ!あ、当たって砕けるかこごで行きましゅ!!』
     盛大に噛んでいる。
     『この日の事はお相手の方にお話されてるんですよね?』
     『はい、後夜祭の時に体育館に来て欲しいと言いました!』
     その言葉が終わると同時に、後方の体育館の扉が開いた。全校生徒の視線が一斉に舞台から扉へと百八十度方向転換する。
     そこにはスラッとした銀髪の美人が立っていた。初めてはっきりと見たその姿に一瞬心臓が止まった。夜に映える銀髪は天の川みたいに幻想的で、透き通る水色の瞳は晴れ渡る青空を連想させる。まるで天空を擬人化したように美しい人だった。
     『スピカ先輩!どうぞこちらへ!!』
     司会が興奮気味に手招きする。彼女の歩く姿は百合の花を連想させた。全員の視線が彼女に釘付けになるが、本人は全く動じることなく扉から舞台に向けて歩き出す。彼女の行く先を、まるでモーゼの十戒の海の様に、生徒たちが自然と道を開ける。先程までライブ会場のように盛り上がっていた体育館とは思えないほど静かだった。彼女以外の時間が止まったのではないかと疑うほどに誰も喋らない。舞台に上がる足音が響く。二年生の前で立ち止まると彼女は一呼吸置いて口を開いた。
     「来たよ」
     スポットライトに照らされた彼女の優しい声が、微かに体育館に響く。彼女の表情はここからはよく見えないが、二年生の顔がさらに赤味を増したのが分かった。
     「あ……」
     勇気を振り絞って、彼が口を開く。なぜだろう。こっちまで緊張してきた。自然と拳に力が入る。彼がスゥ…っと大きく息を吸い込む。
     「好きです!付き合ってくださぁい!!」
     マイクを通すよりも大きな声は体育館の外にまで響いたに違いない。勢いよくお辞儀した彼は、手をピンと前に差し出す。その威勢に少しだけ驚いたのか、スピカ先輩の華奢な身体が小刻みに動いた。僕もポラリスもクラスメイトも生徒も、後ろに立っている先生も、いまこの瞬間を固唾を呑んで見守る。少しの沈黙がとても長く感じられた。
     「顔を…上げてください…」
     二年生は恐る恐る、ゆっくりと顔を上げる。行き場のない右手は中空に浮いたままになっていた。
     「ごめんなさい」
     そうあっさり言うとスピカ先輩は頭を下げた。
     「うあああああぁぁぁ……!」
     二年生が膝から崩れ落ちると同時に、前列の方から友人であろう学生達がやんややんやと壇上に躍り出る。舞台の下で見守っていた生徒達もざわめき始め、彼を慰める声があちこちから飛び出す。涙やら鼻水やらで濡れた顔を拭くともう一度、たった今自分をふった彼女に向き直った。
     「ひどづ!ぎいでもいいですか!!」
     やけくそ感が半端ないなと僕は舞台上の青春を外野から眺めていた。さっきの告白劇で火照っていた体は徐々に熱を引き、急に頭が冷静になる。
     「好きな人はいますか!!」
     その純粋な叫びに再び体育館が静寂に包まれる。今度はスピカ先輩もその静寂に呑み込まれたようで、黙ってしまう。ここからじゃやっぱり顔が見えない。この沈黙はなんだ。答えたくないのか?僕は彼女の表情をよく見ようと額に手を翳して目を細めた。
     「あ」
     見えた。
     悲しそうな表情。でもそれはほんの一瞬だった。
     「います。気になる人が」
     彼女は、すぐに自分のペースを取り戻すとそう答えた。
     「直接話したことはないけど………字が優しくて…………多分コーヒーをいれるのが上手な人…いつかコーヒーをいれて欲しい人」
     「くぅ〜〜お前ら!聞いたか!!誰か知らねぇがコーヒーのいれかた教えてくれよぉ!」
     司会からマイクを奪って泣き喚く彼に生徒達が笑う。が、僕はそれどころでは無かった。
     『貴方にコーヒーをいれていただきたいのです』
     僕の脳裏をその言葉がよぎる。いや……偶然だろう…………。まさかな。
     「……なぁ…………シリウス……」
     ポラリスが隣で何か言うが、僕は何も聞かなかった。聞きたくなかった。
     なぜだろう。
     なぜか。
     
     失恋した気分だった。
    ♢
     この日を境に手紙が下駄箱に入ることは二度と無かった。相手から来ることも、もちろんこちらから手紙を送ることもなかった。一度だけポラリスが「最近ラブレター見ないな」と言ったが、それっきり僕らの間でその話題が上がることは無かった。
     そして後夜祭以降、コーヒーのいれ方を学ぶ生徒が増えたのは言うまでも無かった。
     初夏から少しの間だけ体験した非日常的な出来事がまるで夢だったかのように、一年の残りはあっという間に過ぎていった。
     まだ寒さの残る三月。お世話になった先輩達を追い出す、もとい、見送るために僕らは卒業式に出席した。長ったらしい校長先生の話を聞くことなく、僕は卒業生の席を眺める。視線が無意識にあの銀髪を追いかけていたが、席の位置が悪いのか見つけられなかった。そもそも彼女がどこのクラスかも分からないという事に今初めて気がついた。卒業式恒例の蛍の光のピアノの伴奏を聞いて、そう言えば「ピアノが嫌いな私より」なんて手紙に書いてあった事を思い出す。なんだか未練がましいなと、女々しい自分に呆れた。
     式後、僕は家庭科部の先輩を見送りに、生徒と保護者でごった返す校舎前をうろつく。
     「あ!シリウス!」
     僕より先に先輩達が駆け寄ってきた。
     「背が高いからすぐ分かった。ほらみんなで写真撮ろ!」
     手をグッと引っ張られると数人集まり始めてる部員の元へと連行された。ひとしきり喋ったあと、先輩達はクラスメイトの元へと行ってしまった。少し悲しい気持ちを抱えつつも、僕は周囲を見回す。
     最後に。
     せめて一言。
     神様を信じるわけじゃないけど、願いが届いたのか、ちょうど校舎へと入っていく影を見つけた。見覚えのあるあの銀髪は彼女しかいない。僕は駆け足で後を追った。
     校舎内は人が少なく、外の卒業生や保護者の声が遠くに聞こえるせいでまるで異世界に来たみたいだった。三年の教室がある階は誰もおらず、全部覗いても教室には人っ子一人いなかった。少しの気味悪さと寂しさを覚え、やっぱり会えないのかと肩を落とし自分の教室にカバンを取りに行こうとした時だった。
     微かにピアノの音が聴こえる。
     「音楽室だ」
     言うのが先か、僕はすぐに走り出した。
     優しい音色が、暖かい木漏れ日のように音楽室から漏れてくる。ずっと聞いていたい。心の奥を包み込むような旋律。僕はその音をもっと感じたくて、ドアにそっと手を触れた。流暢に紡がれるピアノの音は徐々に盛り上がるが、うるさくなく、スっと心へ入り込んでくる。そして一つの物語がハッピーエンドを迎えるように、最後はまた静かに、最も優しい音色で終わりを告げた。
     「……スピカ先輩」
     こちらからドアを開けてはいけないような気がして、僕はドア越しに声をかける。返事がない代わりに音楽室のドアがカラと音を立てて開いた。
     「君は…………」
     目の前の美しい人は驚いた表情を見せたものの、すぐに僕を中へ招き入れた。
     「どうしてここに…?えっと…………」
     「シリウスです。シリウス・オリエンタ」
     「そう……私はスピカ・ファウラー。で、どうしてここにやって来たの?」
     誰もいない音楽室の中、僕はピアノの椅子に座るスピカ先輩の隣に立って話す。
     「最後にお会いしたくて」
     「最後、か…………」
     「…ピアノ、お上手なんですね」
     白い鍵盤の上に乗る白く細い指が、さっきまであの優しい音を奏でていたんだ。
     「昔、ピアニストになりたかったの」
     そう言えば母親がピアニストだとポラリスが言っていた気がする。きっとその影響なんだろう。
     「でも諦めた。芸術は才能の世界。凡人が努力しても、天才が努力すれば凡人は引き離される。今じゃ諦めた事、後悔してる」
     ポツポツと話す彼女の瞳は昔を懐かしんでいるようだった。
     「まだチャンスはあるんじゃないですか?」
     「かもね。でもプロにはならない。こうやって趣味で弾いてる方が楽しいから。後悔してるのは少しだけだよ」
     そう言って笑う彼女は切なかった。
     「結局文理選択はどうしたの?」
     「理系にしました。食とか栄養学を学んでみたいなと思って」
     「いいね」
     あはは、とスピカ先輩が笑えば、僕の心臓がキュッと苦しくなる。なぜか、その笑顔をもっと見ていたいと思った。
     「先輩」
     「ん?」
     「この後僕の家に来ませんか?」
     ぎゅっと拳を握る。
     そう言えばこの感じ、数ヶ月前にも体育館で味わったな。
     「……コーヒーを飲んで行きませんか?」
     大げさかもしれないが、僕にとっては一世一代の告白だった。
     「是非」
     この時の先輩の微笑みはきっと一生忘れない。
    ♢
     「ねえ、これ」
     「スピカ、あまり触らないで。せっかく片付けたんだから」
     喫茶店の定休日に何も予定がなかったので、僕は部屋を片付けていた。隣人のスピカも手伝うと言ってやって来たは良いものの、ほとんどベッドの上でゴロゴロ本を読んでいたり、僕の卒業アルバムを眺めていたりで何一つ手伝ってくれやしない。まあ彼女に何が必要で何が要らないかなんて分かるとは思えないから、妥当な行動だが…。そんな暇な彼女が、机の上に取り敢えず出して積み重ねておいた物の中に、とある物を見つけた。それは差出人の分からない手紙。
     「懐かしいものが出てきたね」
     彼女にしては珍しくしみじみと呟く。
     「知ってるの?」
     その言葉で僕の意図を汲み取ったらしい。
     「さあ」
     そう言う彼女の笑顔はいつか見た微笑みと全く一緒だった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works