小学生の病弱吾郎くんと蓮くんが出会う話╴side吾郎╴雨宮蓮と名乗った彼は、この家の近所にあるらしい小学校に通っている。もう学校に通っていた時間より家で過ごしている時間の方が長くなってしまっているから学年の概念というものを忘れていたけど、彼は一つ下だから三年生にあたるらしい。普通に通っていれば僕は今頃四年生だったはずだから。
『僕と話してみたいから』。そんな理由で傷だらけになってまで来てくれて、そしてまた来てくれると約束してくれた。
次の日も、その次の日も。蓮は黒いランドセルを背負ったまま、器用に木を登って僕のもとに来てくれた。
吾郎は本読むの好きなのか?
うーん。好きっていうか、本を読むくらいしかやることが無いだけだよ
じゃああんまり好きじゃない?
読むのは嫌いじゃないからどちらかと言えば好きではあるのかも
ふーん。じゃあ今度、俺も図書室から本借りてきてやる。読める本の種類が方が楽しいだろ?
いいの?大変じゃない?
大丈夫だ。面白そうなの沢山借りてくる
…ありがとう。嬉しい
蓮はとても優しい子だ。
僕の知らない外の世界で彼が何を見てどういう日々を過ごしてるのかを教えてほしいと言えば蓮は色んな楽しい話をしてくれた。彼自身のこと、愉快な友達のこと、学校でのこと、家族とのこと。
蓮が見ている世界の話は聞いていてとても楽しかったし、それを話す蓮の楽しそうな顔を見るのも好きだった。あんなに退屈で窮屈で暗いだけだった毎日が、楽しくて明るくて好きな時間だと思えるようになった。蓮がまた来てくれる明日に早くならないかなと思えるようなるくらいには。
それで今日出された算数の宿題がちょっと難しくて。明日当てられる日なんだ。分からないままだと皆に笑われる
算数?どういう問題?
これ
珍しく困り果てた様子の蓮から問題が書かれたプリントを受け取る。内容は掛け算。この前の授業で家庭教師の先生からは『今はもう六年生で習う所をやっている』と教えてもらったから、この問題はかなり前に習ったところだった。
分かるか?
うん。あのね蓮。この問題は、この数字を───
算数は仕組みさえ分かれば簡単だ。
いつも自分が解いてるやり方をそのまま蓮に教えてみると、ようやく理解したらしく蓮はパァ!と目を輝かせた。
おお…あんなに分からなかったのに吾郎の言う通りで考えたら簡単になった
算数は一回考え方が分かっちゃえばあとは簡単だから
今のやり方、先生が言ってたやつより分かりやすかった
え…そ、そう…?
うん。吾郎って頭良いんだ。凄いな!
…っ…!
ニコッと満面の笑顔を向けてくる蓮に、心臓が大きく鳴って、ドクドクとうるさくなる。
蓮と居るとき。蓮が今みたいに笑いかけてくるとき。褒めてくれるとき。こうして鼓動が早くなって、顔が、身体が熱くなる。
(…なんでいつも…どうして…?)
いつも起こる発作だと思う。けど、いつもはすぐ終わるそれがずっと続く。なのに、全然苦しくない。
(けど…)
彼が分からないことを僕が教えてあげて、蓮がこうして喜んでくれるなら。それはそれで胸が満たされる。
詰め込まれるように勉強させられていた憂鬱だった毎日も、無駄ではなかったのかもしれないと思うと嬉しかった。
〇 〇
春の終わり。
お母さんに蓮が窓から部屋に忍び込んでいることがバレてしまった。
お母さんは最初こそビックリしていたけれど、蓮の『木に登って飛び込むように部屋に入り込む』という無茶苦茶な侵入ルートに対してだけ軽く叱ってから、明日からは玄関から入って来ていいと言ってくれた。
今までは蓮と僕の二人だけの秘密の時間だったのが無くなってしまう。そこに少しの寂しさは覚えるけれど、それで蓮が木から落ちて大怪我してしまうのは嫌だったから。安全に来てくれるようになるのはいいことだと思う。これからもっと会いやすくなる。蓮もそう言っていた。
じゃあ、吾郎。ばいばい
うん。またね、蓮
玄関を通って帰って行く蓮をお母さんと一緒に見送る。
元気に走り去っていく蓮の後ろ姿はあっという間に見えなくなった。それを見届けてから『戻ろうか』と笑って手を差し出してくるお母さんにこくんと頷いて、その手を握る。
…吾郎が最近楽しそうな顔してる理由、やっと分かった。彼が来てたからなのね
え…そんな顔してた?
出てたよ。あの子と居ると楽しい?
うん
フフッ、そっか。良かったね
お母さんはアハハと笑う。
記憶にあるお母さんの顔はいつも申し訳なさそうで泣き出しそうな顔ばかりだったから、今のこの嬉しそうな笑顔は貴重だった。せっかく笑ってくれたお母さんの顔が曇るのは見たくない。きっと蓮と居ると必ず起こる動悸のことを言えばまたあの笑顔がなくなってしまう。
(お母さんには、話せない)
もう少ししたら病院に行く日だから、その時に先生に相談してみよう。
心臓は今もまだドキドキしている。蓮を見送るために階段から降りた程度しか身体を動かしてないのにここまで脈が上がるのは間違いなく異常だ。
(…僕、死んじゃうのかな)
それは嫌だった。
今までは死んでもいいと思ってたのに、今は蓮と会えなくなる『死』がとても怖かった。
そうしてやって来た二ヶ月に一度の検査の日。二ヶ月前はまだ蓮に会う前のことだったから、蓮と会うようになってから初めての通院だ。
一緒に来てくれたお母さんを待合室に待たせて主治医の先生──武見先生と検査室に行って、触診のために二人で椅子に座って向かい合う。
前の往診では特に異常はなかったけど、あれから痛むところとか変なところあった?
武見先生は少しぶっきらぼうな時もあるけど、優しくて頼りになる女の先生。一番最初に病院に来た時からずっと僕の事を診てくれる。
間違いなく蓮と居る時に起こる動悸はきっと先生の言う『変なところ』に当てはまるはず。お母さんには結局言えなかった代わりに、先生には言わないと。こくりと頷くと、先生が少しだけ怖い顔をした。
…それは胸が痛くなるってこと?
痛くない、けど。ずっとドキドキする
動悸か…。胸の音、聞かせてくれる?
武見先生が首からかけていた聴診器を耳に差し込んでから丸い部分を向けてくる。服を捲りあげると、それが胸に当たる。一瞬冷たかったけれど、すぐに慣れた。
先生は『うーん…』と声を漏らしながら、何度もペタペタと色んな所を聴診器に当て続ける。
…特に変な音はしないんだけど…。心電図見たら分かるかな
部屋の奥のベッドの上に誘導されて、仰向けになった僕の上半身に先生は近くに置かれた機械に巻かれていたコードの先端にある吸盤のようなものを貼り付けていく。
原理は分からないけれど、これで心臓の動きを機械で測るのだと前に教えてもらった。病院での検査の日は毎回これをやっている。
それでも原因が分かる異常がないのか、先生は困った様子で機械のモニターを見つめていた。
…うーん…こっちも普通だね。どういう時になるとかって分かる?
最近できた…友達が、家に来てくれるとき
……ふーん、友達……。……え?は?友達…?
先生の問いかけにこくんと頷く。
目を丸くしてキョトンとしている先生は初めて見る顔をしている。
ちょっと待って。あのさ、吾郎くん。その言い方……まさかそのお友達と話してる時にドキドキしてるとか言わないよね?
頷く。
その子が、例えば……吾郎くんの隣に座ったり、手がぶつかったりしただけでドキッとするとか
うん
話しかけられたり、笑いかけたりすると、顔が真っ赤になるとか
うん
ずっとその子のこと考えてるとか、その子の顔が頭から離れないとか…
………先生、なんでそんなに分かるの……?
先生の例え話は全て綺麗に当てはまっていた。まるでここ最近の僕を監視カメラか何かで見ていたかのように正確に。
病院の先生ってやっぱり凄いなぁ、なんて改めて尊敬しながら見つめていると、先生は一気に疲れたように溜息をついた。
…そういうドキドキね…
額に手を当てながら先生はまたフゥ…と息を吐いた。
もしかして原因が分かったということなのだろうか。
…先生、僕ってもうすぐ死んじゃうの?
え?違う違う。そうじゃないよ
でも…何もしてないのにドキドキするのあんまり良くないって先生が前に言ってたから…。理由、分かったんだよね?
うーん…分かったっちゃ分かったけど…こういうのって他人が口出ししていいのかな…
先生は再び困ったように首を捻っている。
もしかしてお母さんにすぐに言わないといけないような悪い状態ということなのかもしれない。これじゃあお母さんがまた悲しい顔をしてしまう。お母さんの悲しそうな顔を思い浮かべると、目が潤んだ。
…やっぱり僕…良くないの…?
だから、そういうのじゃなくて…あー…まあ君に限って言えば自分の胸に聞けとか言ってる場合じゃないか…
…?
先生の独り言の意味はよく分からない。
聞き返そうとする前に、先生はそっと頭を撫でてきた。お母さんとは違う手つきで、けれどお母さんとは違った優しさがある撫で方だった。
あのね、吾郎くん。君のそのドキドキ、君の心臓が少し弱いのとは全然関係ないよ
…ほんと…?
うん。ほんと。お友達のこと、今思い出してみ?
…………
目を閉じて、言われた通りに蓮のことを思い出す。
記憶の中の蓮はいつだって笑ってる。蓮が元気に笑いかけてくる姿を見ると自然と僕も笑っていた。
あの笑顔が輝いてて、僕の名前を呼んでくれるあの声が嬉しくて、好きで、それで───
あはは、ほんとだ。一気に上がった
目を開けると先生が笑いながらモニターを見つめていた。
気づけば心臓はいつもみたいにバクバクしている。きっとそれが機械越しで伝わっているんだ。
身体に付けられた吸盤を外されると、すぐに『起きていいよ』と言われる。起き上がってベッドの上に座ると先生は笑みを浮かべたまま向かい合った。
吾郎くん、きっとそのお友達に恋してるんでしょ。だからずっとその子の前だとドキドキするんだよ
こい?
そ。要は、君がそのお友達のこと大好きで大好きでしょうがないってこと
先生の声が頭の中で響き渡る。
恋。恋とは恋愛を意味している。本で読んだから、言葉としては知っている。
僕が、蓮を…?
蓮を。蓮のことが好き。僕は。確かに蓮のことは好きだけど。
好きの上が大好きで、大になるならそれはただの大好きじゃなくて、恋だって言うんなら、それは。
…っ!
頭の中で何かが爆発したのかと思ったくらいにボンっ!と音を立てて顔が一気に熱くなった。
それを見た先生は『あはは!』と声を上げて笑う。
その反応、ベタ惚れと見た。あーあ、これはもう重症だね
で、でも、蓮、男の子で…
なに?もしかして初恋なの?…初恋が男の子かあ。拗らせたねえ
僕、そういうの、分かんないけど…女の子じゃ、ないのに…
男の子が男の子を好きになる人、日本でも結構多いらしいよ?君みたいな境遇の子なら同性の方が光って見えたりするのかもしれないしね
それは、その…そう…かもしれない、けど…
ま、何はともあれそういうわけだから。今の君、恋の病以外は異常なし。なんなら前来た時より全然生き生きしてるよ。その調子で頑張って、人並みに暮らせる元気な身体を作っていこう。その子といつかデートなんかにも行けるようにね
言われながら、頭をポンポンと軽く叩かれる。
~~っ
お母さんに発熱を疑われるほど、その日の顔の熱さはなかなか抜けなかった。
〇 〇
僕は蓮に恋をしている。
それを自分の中で消化できないまま迎えた八月。夏休み中の蓮が一晩だけ家に泊まりに来ることが決まった。
その日はお父さんの仕事の関係でお母さんも一緒に外泊するから家に居なくて、お手伝いさんだけしか残らない日だったから、お母さんが僕に気を遣って提案してくれた。
「…あ」
蓮と沢山話してから一緒にお風呂に入って、ご飯も食べて、あっという間に夜になった。電気が消された自室の中で月の光で明るくなった窓をベッドの上から見上げていると、星が一つ空の中で流れるのが見えた。
この屋敷が街の外れの街灯も少ない立地に建てられているおかげか、夜になると都心のわりに星がよく見える。運がいいと流れ星も見える。しばらく待ったのに、結局一度も流れずに諦めたもの。もう少し粘ってれば蓮と二人で見れたのに。
「蓮?」
流れ星を見る前に睡魔に負けてしまった蓮はすーすーと寝息を立ててぐっすりと寝ている。呼びかけても返事はなく、息が聞こえるだけ。
よっぽどこのベッドがお気に入りなのか、蓮はいつもこのベッドに寝転がると決まってそのまま寝落ちしてしまう。そういうとき、いつも僕は蓮のクネクネしたフワフワの髪の毛をいじって時間を潰している。きっといくらでも寝れると言っていた通り、今日は朝になるまでグッスリ寝てるのだろう。
かくいう僕の方は、自分で『眠れないかもしれない』と言った通り全く眠気が来ないでいる。蓮がすぐ隣に居る。朝までずっと居てくれる。それが嬉しくて、けれど少しだけ緊張して。脳が完全に覚醒していた。
なら、眠れないなら眠れないなりに今しかできないことをしようと思った。
ベッドからゆっくりと身体を起こして、そのまま隣で寝る蓮の身体の上に体重をかけないよう跨って無防備に眠る顔を見下ろした。
蓮と星を見上げていた時から、なんならその前から、心臓はずっとどくんどくんと大きな音を鳴らしたまま動悸が収まらないでいる。
蓮のことを考えるたびに心臓がうるさくなって、身体が熱くなる。いつも蓮のことを考えている。蓮の笑顔が一際輝いて見えて眩しくて。蓮と過ごす時間が何よりも生き甲斐だった。
(そっか…これが…恋、なんだ…)
胸に手を当てると叩くような鼓動が手の中で伝わってくる。自分の鼓動が聞こえる時はいつも苦しくて痛い時だけだった。けど、今のこれは違う。僕の蓮への気持ちに合わせてのものだと言うなら、不安なんて何もない。
学校どころか何処にも行けない僕にとっては蓮だけが世界の全て。蓮だけが、真っ暗闇の中に居る僕を明るく照らしてくれる。
そういう蓮が、僕は好き。
……………
でもきっと、蓮は違う。
蓮は学校にも行けるし、外の色んな場所に行ける。その上で、蓮はあえて僕の世界に来てくれる。
けど、蓮が僕の知らない場所で僕の知らない誰かと仲良くすることもある。僕は蓮のことが好きだけど、蓮が僕のことを好きだとは限らない。知らないところで、蓮が顔も知らない女の子に恋をすることだってある。もしかしたら、もう蓮は誰かに恋しているのかもしれない。
当たり前だ。だってそれが男の子としては当然の感情なんだから。そうなった時、僕なんかじゃその子には絶対に勝てない。
だからこれは、その顔も知らない女の子に対する僕にできる唯一の抵抗。
「………」
蓮の寝顔に自分の顔をゆっくりと寄せるたびに、顔が、身体が熱い。心臓はどんどん速度を上げて、胸の中で暴れている。破裂するんじゃないか、とか、こんなに鼓動が上がって発作が起きてしまうかもしれないとか、色んな不安が頭を過ったけど。でも苦しくなくて、耳の中で心音がうるさいだけ。それが心地よくて、止められなくて。
そのまま僅かに開いた蓮の唇に自分の唇を重ねた。読んでいた小説で恋愛シーンに入るとよく描写されていた、いわゆるキスというやつ。
「(…蓮が)」
蓮が、これからも僕のところに来てくれますように。
蓮とこれからも沢山お話しできますように。
蓮と毎日会えるようになりますように。
いつか、蓮と一緒に学校に通えるようになれますように。
蓮とずっと、一緒になれますように。
流れ星を見かけるたびに、僕は星にそう伝えるようにしている。本人には恥ずかしくてとても話せるものではない。
ただ、もし全部の願いが叶うことがあれば、話してもいいかもしれない。そんな日は、来ないかもしれないけれど。
「(なら、せめて───)」
僕以外の人のことを好きになるとしても。決してこちらに振り向いてくれないとしても。
僕の所に来てくれる時だけは、蓮が僕だけの蓮でいてくれますように。