病弱吾郎くんと蓮くんが出会う話②あ、雨宮くんが、好きです。わ、私と……付き合ってください……!
あの日から四年が経った、中学二年生の春。
放課後になるなり呼び止められて、連れ込まれた校舎裏で一人の女子にそう告げられた。
一年からの同じクラスメイトで、クラス替えがあった二年になってもまた同じクラスメイトになった。挨拶されれば返す、落し物を拾い拾われれば礼を言う、そんな程度でしか会話なんかしたことない。ただそれだけの、女子のクラスメイト。
……俺を?
そ、そう…
彼女にとっても、俺はその程度の男のクラスメイトでしかないはずだった。だって、この子と特別仲がいいわけでも、話したわけでもない。俺はただ竜司や祐介と喋って、普通に授業を受けて、勉強をしていただけの奴だ。目立っているわけではない。
なんで?
なんでって……雨宮くん……カッコイイし……頭良いし……優しいから……
返事に困ってしまい、つい伸びた前髪を弄ってしまう。
なんとなく、褒められたという気持ちにはなれなかった。自分の顔が整ってると思ったことはないし、良い成績を維持してるのは義務のようなものだ。優しいかどうかは分からない。まあ、人を傷つけるような人間にはなりたくはないけれど。
ずっと、貴方のことばっかり考えてる…そのたびに心臓がドキドキしてる…それだけ貴方のことが好きなの……!
そう必死に話す彼女の顔は、とても真っ赤だった。
彼女は普通に可愛い子だと思う。制服を着崩してるわけでも、スカートを露骨に折り曲げてるわけでも、授業中に無駄話するわけでも、歳に合わない化粧をしてるわけでもない。大人しくて、真面目で、清楚な子。
……けれど、やっぱり俺にとってはそれだけの子だった。
だって、綺麗で可愛いと思った奴なんて今も昔もたった一人しか居なかったから。
今……返事を聞かせて欲しいの……お願い……
彼女は不安に揺れた目で、真っ直ぐこちらを見つめてくる。
きっと、彼女の気持ちは本物なのだろう。本当に、彼女は俺が好きなんだ。
………………
ふと、あの頃のことを思い出した。
あの頃の俺は、ずっと吾郎の事ばかり考えていた。どうすればアイツが喜んでくれるのか、何をすればアイツが笑ってくれるのかを考えるのが楽しくて。吾郎に会えない学校の時間がとても長く感じて。いざ放課後になって本人を前にすれば身体が熱くなって、あの笑顔を見る度に心臓が高鳴っていた。
柔らかい茶色い髪も、綺麗な赤い瞳も。太陽のように笑う顔も、真っ赤な顔で怒る顔も。
普段あんなに大人びて賢いくせに変なところで子供っぽいところも。俺の話をいつも楽しそうに聞いてくれて、俺の知らない難しいことまでなんでも知ってるところも。そのくせゲームは少し苦手だったところも。
勉強を見てくれて、先生よりも分かりやすい解説で教えてくれた。テストでいい点が取れたと報告すれば、アイツもまた自分の事のように嬉しそうに笑ってくれた。
…吾郎のそういう所が、あの頃からずっと、ずっと。好きだった。
(……ああ、そうか)
だからきっと、俺は吾郎の事が『好き』なんだ。
好きにも種類がある。今自覚したのはもっと上の、それこそ彼女が俺に抱いている気持ちと同じ感情。
俺は『それ』を吾郎に抱いている。男とか女とか、性別なんて関係ない。
……ごめん。俺、好きな人がいるから
滑稽な話だと思う。
そんなこと今になって気づいたところで、どうにもならないのに。
○ ○
それから更に二年が経った冬。
父親の転勤の都合で、十六年間を過ごし吾郎と出会ったこの街から離れることが決まった。
折角死に物狂いで勉強して受かった高校を一年足らずで辞める事になるのは少しだけ損した気分になったけれど、まぁ仕方ないと思う。
寂しくなるな。心に穴が空いた気分だ
俺ら、離れてたって親友だかんな!な、レンレン!
竜司が肩に手を回して、身体を寄せてくる。今日はお別れ会として竜司の家で祐介と三人で集まった。皮肉にも六年前に吾郎と一緒に外を歩いた、あの日と同じ日にちに。
寂しがってくれるのは嬉しいけれど、あまりにも今生の別れとでも言うように振る舞う二人には苦笑いしか出ない。
大袈裟だな。新幹線で一時間くらいの場所なんだからゴールデンウィークとか夏休みにはこっち来るよ
ホントだかんな!?あっちの奴と遊ぶのに忙しいから無理、とか言ったら泣くからな!
言質は取ったぞ
二人してめんどくさい彼女みたいなこと言わないでくれ
竜司も祐介も俺も、中学までは一緒だったけれど高校からは別々だ。竜司は陸上の、祐介は美術の特待生としてそれぞれの夢を叶えるための道を選んだ。俺もまた、進学校を選んだ。
二人のように明確な夢も才能もないけれど、吾郎が教えてくれた知識を伸ばし続けた。吾郎と過ごしたあの楽しかったの日々を忘れない為に。
つかよ。今更だけどお前、眼鏡なんか掛けてたっけ?
ああ、それは俺も気になっていた。去年までは裸眼だったろう
だよな。高校上がって視力落ちた?
ああ……
二人の視線が自分の顔に集まる。
言われている通り、俺は今、黒縁のメガネをかけている。買ったのは高校入学に合わせてで、視力が落ちているわけではない。ただの伊達だ。
……なんか、あんまり女子に話しかけられたくなくて
お前それ、俺を含めた全ての非モテ男子に喧嘩売ってるって分かってる?
ごめん。嫌味じゃないんだ。でも、本当にちょっと、静かになりたい
中学二年生の春に告白されて以降も女生徒からラブレターや告白をされることが多々あった。あの日の彼女が言っていたように、どうやら俺は本当に顔がそれなりに整ったモテる部類の男だったらしい。
だけど、どんなに可愛い女子が来たところで吾郎以上に惹かれる存在は居ない。全ての告白を同じ理由で丁寧に断って来たけれど中学の卒業間近になる頃には鬱陶しさと面倒臭さが勝ってしまい、投げやりな返事をするだけになっていた。
それならもう最初から注目されない方が良い。元々積極的に話す方ではない。メガネを掛ければ癖毛も合わさって野暮ったい地味な男子生徒の雨宮蓮が出来上がる。おかげで今年一年、女子からの関心が向かない平和で穏やかな一年を過ごせた。眼鏡一つでここまで変わるというのも、なんだか考えものだけれど。結局女なんてそういうものなんだろうなと深くは考えなかった。
……蓮。それは、お前が仲違いした友の事と関係があるのか?
え…?
祐介が、真っすぐとこちらを見つめながらいきなりそう言ってきた。
彼の発言が突拍子もないのは今に始まったことではないけれど、今回は今まで以上に突然のことで誰のを指しているのか全く分からない。
何、お前。誰かと喧嘩してたのかよ?珍しいな
いや…ごめん祐介。誰の話をしてる?
ん?居たのではないのか?小学生四年生の頃によく会っていた、俺や竜司も知らないお前の友人が
っ!
随分楽しそうにしていたのに、丁度今と同じくらいの時期に目に見えて落ち込み始めていたから喧嘩でもしてしまったのだろうと思っていたのだが
それはどう考えても吾郎のことを指していた。
紹介したいとはずっと思っていたものの吾郎の体調を気遣って結局二人には吾郎の存在すら教えていなかった。別に隠していたわけではないけれど、ここまで筒抜けだったとは思わなくてなんとなく気まずい気持ちになる。
……バレてたのか
俺の審美眼は伊達ではないぞ。ことお前達に対しては特にな
あ~、そいや言われてみればお前あの頃やけに付き合い悪かったもんなぁ。んだよ、ダチ居たなら俺らにも紹介しろよな
…身体、弱い奴だったから。…色々あったのは事実だけど、喧嘩したわけじゃない。眼鏡のこととは関係ないよ
何もかもが嘘だ。
確かに喧嘩したわけではないけれど、ある意味喧嘩の方が優しいくらい酷い関係に落ち着いてしまった。
きっとアイツは俺を恨んでる。死ぬ寸前まで追い詰めて、約束一つ守れなかった俺のことを。
そうだったか。それでは竜司のような声も態度も大きい奴とは相性が悪かろう。英断だ
どういう意味だよ!俺だって空気くらい読めるわ!!
まあ、理由はどうあれ静かになりたいという気持ちは分かるぞ蓮。俺も新たな着想が閃いた直後に限ってその手の話題で話しかけられた時が多々あったが本当に困ったものだった
…祐介も結構モテてたよな。どうやって断ってた?
今は絵に集中したいと、しっかり全ての女子達に伝えた
うん、祐介らしい。そう言われたら引き下がるしかないもんな
フッ、そう褒めるな。流石の俺も頬を掻く
だーー!モテ男達の自慢なんか聞きたくねぇっつの!!
あはは
そんないつまでも変わらない他愛ない話で盛り上がる内に、解散の時間となった。記録的大寒波だとかなんとかで、都心だというのに珍しく外は真っ白な雪景色だ。祐介は竜司の家に泊まるとかで、二人に見送られながら家を後にした。ザクザクと雪を踏みながら、来た道からは外れた道を歩く。
……寄り道がてらやって来たのは吾郎の家が『あった』場所だった。この街に居るのもあと数日のみ。最後に見納めとして、あの桜の木を見に行こうと思って。
足取りは軽い。だって街の外れに大きく佇んでいたあの屋敷は今となってはもう跡形もない。三年前に取り壊され、桜の木を一本だけ残した公園となったからだ。住む場所が無いのなら、そこに住んでいた人間達が残っているわけがない。あの日から吾郎には会ってないのだから、引っ越し先なんて知る由もない。
三年前にそれを知った時に思い知らされた。何度この場所を訪れたところで、吾郎がにはもう会えないのだと。
…?
雪が降り続ける景色の中、その公園の桜の木の前には先客がいた。
長い間そこにいたのか雪が乗った大きい傘で隠れてしまっていて、腰から下の身体しか見えないけれど。背がそれなりに高い細身の男のようだ。ずっと桜の木の前に佇んでいたその男は、静かにその場から歩き去って行く。
…傘の隙間から一瞬だけ見えたのは首に巻かれたマドラスチェックのマフラーだった。
………………
どんどんと遠ざかっていくその後ろ姿を黙って見送る。
『あの』マフラーは近場のデパートのマフラー売り場にあった安物だ。同じ柄の在庫のストックだって何枚かあった。
同じマフラーを買って巻いて使ってる奴なんて腐るほどいる。
……まさか、な
この期に及んで諦めの悪い自分が嫌になる。もう居るわけないのに。忘れようと思ったこともあったけれど、結局忘れられなかった。未練がましいなと我ながら笑ってしまう。
あの桜の木がピンク色の花を咲かせた頃。俺はこの街から居なくなる。
思い出だけを、この胸に残して。
〇 〇
引っ越し先は都会にあったような喧騒が一切ない静かで穏やかな地域だった。
もちろん電車に乗れば大きな駅がある都市もある。田舎と呼ぶには都会寄りだが、都会に比べれば田舎。そういう場所だった。
転校先である学校は、自宅から行ける範囲内で一番偏差値が高かった進学校。それでも去年まで通っていた学校の方が進学校としてのランクは高かった。そのうえ学校では学年主席を貫いていて、面接でそれを話すなり校長はその場で俺を転入生として迎え入れる態勢に入ってしまった。筆記試験もまだなのにそれでいいのか?とは思ったが、まあ校長がそう言うなら良かったのだろう。
いやあかの〇〇高校の生徒が御父君の仕事の都合とはいえ我が校に転入してくれるとは、私としても鼻が高くてね!歓迎するよ、雨宮君!
担任の川上です。環境が変わってしばらく大変だろうけど、頑張って。困ったら何でも言ってね
はぁ、どうも
土曜日の昼下がり。
始業式は週明けからだが、事前説明や教材や制服の受け取り等で一足早く新しい学校の登校日を迎えた。
校長室では栗饅頭のような頭をしたダルマ体型の校長と、川上と名乗った担任となる女性教師が待ち構えており、言われていた通り色々と説明された。クラスは2年D組だとか、紹介の時間とかがあるから明日は少しだけ早めに来るようにとか、本当に色々。
それと、明日になってどこに何があるか分からないとかだと困るだろうから今日のうちに校舎の案内をしようと思っててね
…よろしくお願いします
ああ、いや。案内するのは私でも校長でもなくて、うちの生徒会長なんだけど…
そう言って言葉を濁す川上の表情はどうも浮かない様子だ。校長も露骨に顔を逸らしており、先程までの上機嫌はどこに行ったのか。
今のうちに言っておくけど…。今から来る彼、かなり気難しい子だから。あんまり怒らせるようなことしないようにね
は?
なんだその忠告は。
生徒会長なのに、なんでそんな腫物を触るかのような態度なんだ。先生なんだから大きく出ればいいのに。
などと色々と考えていると、後ろから扉をトントンと叩く音がした。
『遅れてすみません。明智です』
澄んだ男の声だった。
今日は学校も休校で、この学校に居るのは今この場に居る三人のみのはずだ。ならば、消去法で考えれば今しがた話題に上がった生徒会長とやらか。
あ、ああ!明智君!待っていたよ、入りたまえ!
『失礼します』
抑揚のない返事の後、ガラリと扉が開けられる。ドア閉める音の後、背後から近付いて来る足音を聞きながら噂の生徒会長の顔を見てやろうと、振り向いた。
え………
その生徒が俺の隣を横ぎる瞬間が、スローモーションのようにゆっくりに見えた。
歩くたびに揺れる長い栗色の髪の毛に、端正な横顔と赤茶色の綺麗な瞳。俺と同じか少しだけ大きい背丈のその男子生徒は、吾郎が成長したらこのような姿になるのだろうなという、かつて想像した通りの姿をしていた。
紹介するよ。彼は、明智吾郎君。我が校の生徒会長をしている、三年生の生徒だ
明智吾郎です。よろしく
え…ぁ…よ、よろ、しく
スッと目の前の男から左を差し出されてようやく我に返り、朦朧とした気分の中で辛うじて握手交わす。
間違いなく、目の前の男は吾郎だと思う。こんなに見た目がそっくりで、名前も同じ吾郎なのだから、見た目も名前も同じ赤の他人ということはないはずだ。苗字はなぜか明智なんて知らないものに変わっているけれど。
…だけど、本当にコイツは『あの』吾郎なのだろうか。
俺の知っている吾郎は、いつも温和で、よく笑いよく話す、人並みに感情豊かな奴だった。でも、目の前に居る吾郎からはそんな気配が微塵もない。仏頂面で、無口。笑顔とは程遠い、常に据わった眼差し。あの頃の吾郎が穏やかな母親寄りだとするならば、この吾郎は冷徹な父親寄りと言っても過言ではない。そういう、冷たく鋭い雰囲気を全身から醸し出していた。
そちらの用事はもう終わったんですよね?
あ、ああ、うん。今しがた終わった所だよ
なら、校舎の案内を始めても?
大丈夫だ。お願いするよ、明智君
……分かりました
不思議な光景だった。
教師と生徒という明らかな上下の関係がはっきりしている大人と子供のやり取りのはずなのに。なぜか生徒側の方が上に立って、教師が下に居るかのような、そんな関係性がこの短いやり取りだけで分かる。
なんで校長が生徒相手にそんなに遜ってるんだ、とは思うけれどそれだけ吾郎の態度に圧があるのだ。長いものには巻かれる、ごまをすり続けるタイプの校長なのだろうか。
じゃあ雨宮君。明智君も。一通りの案内が終わり次第、二人とも帰って大丈夫だから。また来週ね
あ…はい、ありがとうございました
行くよ、付いてきて
あはは…と苦笑いを浮かべたまま手を振る川上にぺこりと挨拶をする。
そんな先生方に目もくれず横目で『早く来い』と促してくる吾郎を追いかけて、小走りで校長室を出る。
きっと扉を閉めた瞬間に、あの二人は疲れたように深いため息でもついているに違いない。『気難しい』『あんまり怒らせるな』という言葉の意味をようやく理解した。
知っての通り、ここは二階。だけど三階から順に案内する。階段はこっち
は…はい…
それから吾郎は淡々と、校舎の案内をしてくれた。
必要以上のことは何も話さない。移動中はずっと無言だった。
あ、あの
なに
……いえ、何も…
そう。じゃあ次に行くよ
話しかけても、ずっとこんな感じだ。
態度も口調も全てがあの頃の吾郎とは違う。だけと見た目はそのまんまの姿。まるで本人の姿をしただけの別人を前にしている気分になる。
…いや…そうじゃないのかもしれない…
そもそも、吾郎が俺のことを覚えているとは限らないのだ。俺がこうして未練がましく覚えているだけで、吾郎にとっては一刻も忘れたい出来事だったはずだし。
もし吾郎が俺を恨んでいるのならば、今のこの状況なんて最悪だ。冷たい投げやりな態度になっても仕方ない。
…だけど
それでも。俺は。嫌われていると思うと怖いけど。
吾郎が今ここに居るという事実が。会えたのが───やっぱり嬉しかった。
だって、あれだけ学校に行きたいと言っていた吾郎が、学校に登校できるようになっている。しかも生徒会長だなんて凄い人になっているんだ。きっとそれが許されるようになった程度には身体も元気になったのだ。もしかしたら医者が見つかって、心臓の手術が無事に成功したのかもしれない。
俺より身長が少し低かった吾郎は、六年の年月を経て背をぐんと伸ばし、黙って前を歩くその背中は大きくて立派になった。
それが、烏滸がましいけれど、自分のことのように嬉しいと思った。
だから、それで充分だと思った。
例え吾郎が覚えていなくても、覚えている上で知らないふりをしているのだとしても。今日を最後に、一緒関わることがないのだとしても。最後に見る姿が、元気な姿であるならば。
…………おめでとう。良かったな
小さな声で、囁くように言った。聞こえてないなら、それでいい。
──────
無言で前を歩いていた吾郎の足が止まった。誰も居ない校舎の中で、唯一の音だった足音が止んだ今、世界は無音になる。
ああ、聞こえてしまったのか。まあ別にいい。それならそれで、独り言を呟く変な奴だと思われるだけだろうから。
…ッ!
すると、吾郎はいきなりこちらに振り向いてどすどすとこちらに近付くと、グイっと俺の手を引いて再び歩き出した。
えっ!?ちょ…!!…あ、明智…先輩!?
呼びかけても返事はない。吾郎は手を離さず、ずんずんと早足で歩き続ける。転ばないようにするのが精一杯だった。
そうして引きずられるように連れて来られたのは生徒会室と書かれたプレートが取り付けられた部屋の前だ。ガラリと扉を開けるなり、背中をドン!と押されて部屋の中に押し込まれる。
机とホワイトボードが置かれ、ファイルが仕舞われた本棚に囲まれた絵に描いたような生徒会室。バタンと扉を閉めた吾郎は後ろに回した手で鍵を閉める。
…………一つだけ、聞きたいことがある
え……
始めて、吾郎の方から話しかけられた。
俯いて扉に寄りかかるままで、どんな表情でいるかは分からない。
君は、僕を恨んでる?
──────
その問いかけが全てだった。
間違いなく、吾郎は覚えている。俺のことも、あの一年のことも、全て。
『お前も覚えているのか』などという、テンプレのようなやり取りはもう必要ない。
……どうして、そう思うんだ
今の言葉で吾郎の方も俺が覚えていると確信したのだろう。
僅かに息を飲む声が聞こえた。
…………。君と僕とでは住む世界が違う。あの部屋の中が自分の世界の全てだった僕と違って、君には色んな、広い世界がある。僕はそんな君をずっと引き止めて、自分の世界に閉じ込めて、ワガママに巻き込んで、そして傷つけた
違う。
俺は最初から好きでお前に会いに行ってた。巻き込まれたなんて思ったことない。
傷つけたのは俺の方だ。
病院で目が覚めた時、『君はもう来ない』って聞かされた。けど、そんなの認めたくなくて…ずっとあの部屋から君の姿を探してた。でも、どれだけ待っても君は来なかった。…きっと見限られたんだと思った。少し走っただけで倒れるような貧弱な奴なんかと関わるより、一緒に駆け回れる元気な友達の方が楽しいに決まってるから
それも違う。
見限ったわけじゃない。会わなかったのは合わせる顔が無かっただけ。
一緒に居るのは、お前と過ごすのは、ずっと楽しかった。
君はきっと、僕を恨んでる。もう会うこともない。なら、いっそ忘れてしまった方が楽だと思った。君も僕のことなんか忘れて、元いた世界で、元気に過ごしてるだろうと思って
そんなわけない。
忘れた瞬間なんて一度もなかった。
……だから…忘れようとして……。……忘れようとした、のに……っ…
声は、震えていた。
俯いたまま、肩が小刻みに揺れている。
……どうしても…忘れられなかった……君の顔が、頭から…離れなかった……
俯いて見えない顔からはポタポタと涙が落ちていた。
忘れようとすればするだけ、記憶が鮮明になって……君に忘れられてたらと思うと…苦しくて……
俺だってこの六年間、同じ気持ちだった。
ずっと生きた心地がしなかった。
君を傷つけた僕なんかが君を求めちゃいけないっていうのは分かってる。…けど……それでも………君にまた、会いたかった……それだけ君が…好きだった
……っ…!
僕にはもう、君しか居ない……他の何よりも…世界で誰よりも…蓮が、好きだった……六年前のあの日からずっと……ずっと…っ…!
──気づいた時には、足を踏み出していた。
飛びつくように吾郎の前まで行って、俯いた顔に両手を添えた。涙に濡れた頬を挟むように触れて、グイッと持ち上げる。
れ───
それ以上の言葉を遮るように、自分の口でその唇を塞いだ。
初めてのキス。柔らかくて暖かい唇を、すぐに離した。見開いた潤んだ瞳と見つめ合う。
……俺だって、吾郎が好きだ。俺にとっての一番は今までもこれからも、お前しか居ない。あの時からずっと、吾郎のことが好きだった
………蓮……
ぎゅうっとその身体を抱きしめた。
大きいけれど、少しだけ細身の。もう、触れることはないと諦めていた温かい身体。
堪えきれずに涙が溢れる。それを隠すように、抱きしめる力を強めた。
俺も、本当は…ずっと…お前に会いたかった…。会って、謝って…それで……それで…っ…!
…………うん
吾郎の手が背中に回って、そっと抱き寄せられる。
……やっと、会えたね……蓮……
涙まじりのその声は穏やかだった。先程までの冷たいものじゃない。声変わりこそしてしまったけれど、六年前と変わらない優しい、いつもの吾郎の声だ。
……ああ。やっと会えた…
それからしばらく俺達は互いの抱きしめ続けた。
もう離れないよう、離さないように。互いの六年分の想いを、確かめ合うように。