病弱吾郎くんと蓮くんが出会う話それはまだ僕が学校に行けていた頃の、今となっては遠い記憶。
入学して二回目の春を迎えて、担任の先生が変わった。その人は新しく来た先生で、ちょっとだけ強引で怒ると怖い先生だった。
ねえお母さん。…なんで僕、皆みたいに走っちゃダメなの?
貴方は人より少し心臓が弱いの。だからあんまり身体を動かしてはダメなのよ
しんぞうってなに?
その頃の僕はまだ自分の身体のことをあんまり分かってなかった。たまに息苦しくなって胸が痛くなるのは物心ついた時からで、病院にもずっと行ってる。でも、それが何故なのかはよく分からないまま。自分の身体が人より少し違うのだということは知っていつつも、『身体を動かしちゃダメ』と今のようにしつこく言われてもピンと来てはいなかった。
ここのことよ
お母さんは少しだけ寂しそうに微笑みながら、いつも頭を撫でてくれる大きな手を僕の胸に手を当てる。ここは毎日毎日どくどくと音がするところだった。
ここが少しでも痛くなったらすぐに言うの。分かった?
うん
その時は何も考えずに頷いたけれど、どういう意味なのかとか、その言いつけを破るとどうなるのかとか、そういうことは分からないままだった。
■
その年の初めての体育の授業の日。
新しい先生は僕が授業に出ようとしても何も言わなかった。去年までの先生はクラスの皆に体育着に着替えるように指示をしたその二言目に『君は自習だ』って毎回欠かさず言ってきたのに。
(僕、出てもいいのかな)
一応聞くだけ聞いてみようと思ったところで、僕より先にクラスメイトの女の子が先生に授業を見学したいと話しかけていた。その子は風邪気味なのか朝からマスクをしていた。だから体育も見学しようと思ったんだろう。
けど先生は朝からずっと不機嫌で、その女の子にも怒鳴って体調が悪いのはお前のせいだろう、体力を作れ、見学なんか認めないと言い放った。その顔と大きな声が怖くてクラスの皆は怯えていたし、女の子も泣きながら整列の中に戻って行った。あれではきっと僕も同じように怒られてしまう。それは嫌だった。あの先生は怒ると怖い人だから。
だから、先生に何も言えずにそのまま体育の授業を受けてしまった。
それがきっと、間違いなく、良くなかった。
授業の内容は短距離走だった。五十メートルを全速力で走って、その時間を図るというもの。クラスメイトが次々と駆け抜けていく様を見届けながら、遂に自分の番になった。
思えばあんなに長い距離を走るのは今日が初めてかもしれない。家では走ろうものならお母さんにすぐに止められて、学校の登下校も車が迎えに来てくれる。走る機会なんて今まで無かったから。
一緒に並んで走ることになった去年もクラスが一緒だった子は『出て大丈夫なのか』と心配してくれたけれど、僕自身大丈夫なのか大丈夫じゃないかは分からなかったから、ひとまず『大丈夫だと思う』と返した。先生の合図で、僕は走り出す。慣れない動作で転びそうだったけれど、持てる全ての速度で走った。
『なんだ、軽そうな見た目のわりに随分鈍いな』
なんて独り言を先生が言っていたような言ってなかったような。そんな気がした。まともには聞こえなかった。
五十メートルという距離は普段全く身体を動かさない僕にとっては永遠に続くかのような長さだった。そんな距離を全速力で走ったからか、呼吸がまともにできなかった。何回息を吸っても呼吸が楽にならなくて、胸の音がうるさい。
『獅童くん、大丈夫?』
ゴールの位置から少しだけ離れた所にいると風邪気味の女の子が背中を擦りながら声をかけてくれた。この子も去年も同じクラスで、ずっと体育の授業を見学していた僕のことを知っている。
自分だって風邪気味なんだから走るのは大変だったはずなのに彼女は僕の心配をしてくれた。なら『大丈夫』と答えてあげないと。そう思って女の子の顔を見ようとしたところで胸の中のそれが不自然に大きく音を鳴らして、咄嗟に胸を押さえた。
『獅童くん!?』
女の子の声に返事ができない。耳の中でうるさい胸の音がずっと変で、胸の中にあるそれを手でギュッと握り潰されたような痛みが走る。息が吸えなくて苦しくなる。少し動けば直るかもしれないと思って身体を動かそうとして、そのまま校庭の砂利の上に倒れた。駆け寄ってきた色んな人に見下ろされながら、遠ざかる意識の中で理解する。
……ああ、だからお母さんはしつこいくらい身体を動かすなと言っていたんだ。
僕の身体は他の皆より弱いから。言いつけを破ると『こう』なるから。
「…! 吾郎…!」
次に目を開けると、目の前に居たのは目を真っ赤にさせたお母さんだった。
さっきまで外に居たのに今は知らない部屋の中のベッドの上で横になっている。胸も痛くないし、息も苦しくない。けど身体中は少しも動かせなくて、口には丸い容器のようなものがくっ付いてて、手首には何かが刺さって伸びていた。横からはずっとピ、ピと高い音がする。それは元通りになった自分の胸の中の音と同じタイミングで鳴っていた。
「吾郎…今は苦しくない?」
なんだか起きた直後だと言うのにとても疲れていた。喋る体力もなく、お母さんの問いかけに黙って頷いた。それ見て、お母さんは笑いながら泣いていた。
『申し訳ありません!申し訳ありませんでした!!』
部屋の向こうからは大きな声が聞こえる。あの声は新しい先生だ。学校では怖いだけだった先生の声が酷く怯えているように聞こえる。
扉が少し開いていて、その小さな隙間からはお父さんの横顔が見えた。ここからでも分かる。お父さんは凄く怒っている。
『前任からそのような引き継ぎは無かったもので…!』
『そんなことはない。前任の教員からは貴様に引き継ぎしたとこちらに連絡があったからな』
『っ!そ、それは…。わ、私としても新任で、生徒への対応に慣れておらず…』
『見苦しい言い訳はやめるのだな。貴様の身勝手な傲慢と怠惰で私の息子が死にかけた事実は変わらん。この件は教育委員会の方に知らせておく。処分の日を楽しみにすることだ』
お父さんがとても怒っていて、お父さんの言葉に先生があの日のクラスメイト達のように怯えている。話の内容は分からないけれど。先生の声が泣いているように感じた。
僕のせいかもしれない。だけど、それを言おうとしても口が動かなくて、とにかく眠かった。
吾郎は気にしなくていいのよ
頷くと、頭を撫でられた。
お母さんはいつも優しく頭を撫でてくれる。それがずっと好きだった。瞼がとても重い。撫でられるのが気持ちよくて、眠気が一気にやって来る。
眠いなら今はゆっくりおやすみ。ずっとここに居るからね
最後に頷いて、目を閉じる。
扉の外から聞こえる声が段々遠くなって、すぐに聞こえなくなった。
■
「吾郎。お前は今後、学校に行かなくていい。外に出ることを一切禁する」
「お前には将来、私と同じ土俵に立たせる。知識を詰めこんでおけ」
「どうせお前はろくに身体も動かせんのだ。家庭教師を雇う方がお前の身体にも合っていよう。勉学を収めるだけならば家でもできる」
「───分かったな?」
半月の入院生活の後、家に帰るなりお父さんからはそう伝えられた。それが、全ての始まりであり、終わりの始まり。
お父さんは、息子である僕の心配はしていない。自分のために僕を生かしてるだけ。
本当は学校に行きたかった。たとえ皆とは違くても友達と楽しく話せる時間は楽しかったから。でもお母さんも俯いてるだけで何も言ってくれない。僕の気持ちなんてお父さんが聞いてくれるわけもない。お父さんは、物心ついた時からずっとこういう人だったから。
……はい
だから、どれだけ嫌でも、お父さんの命令には逆らえなかった。
■
お父さんが選んだ家庭教師の先生に学校の授業よりずっと早いペースで色んなことを沢山勉強させられて。
週に一度の往診とは別に二ヶ月に一度は病院に行って機械を使った本格的な検査をする。
元々寒暖差があると熱が出て寝込みがちだった。それに加えていつもの胸の痛みで息が詰まる時もあって。
家の外に出るタイミングなんて車に乗って病院に行く時のみで、それ以外はずっとベッドの上で安静にしていろと言われるだけ。
そういう日々がずっと続いた。
お母さんが買ってきてくれる本を読んでる間や、勉強や診察の為に先生が来てくれる時間は好きだった。こんな毎日で唯一誰かと話せる時間で、没頭すれば今という『嫌』な瞬間を一時的にでも忘れられるから。でもそれだけ。好きだけど楽しいわけじゃない。
勉強して、退屈しのぎに本を読んで、熱が出れば寝込んで、胸の痛みに耐えるだけの、痛くて苦しくて、辛くて、つまらない。窮屈な毎日。
耐えきれず弱音が溢れ出て、『こんな生活もう嫌だ』とお母さんに泣きついた事もあった。お母さんは謝りながら抱きしめてくれたけど、それだけ。僕をそんな毎日から助けてくれることはなかった。だって、あの人もお父さんには逆らえないから。
そんな生活が始まって、あっという間に三回目の春を迎えた。
庭に埋められた桜の木は春の暖かい空気に合わせてピンク色と花を咲かせている。窓辺に立って、二階の高さから見える外の景色を眺めた。すぐ隣にある桜の花びらも、この目に映る外の景色も。全てが色褪せたセピア色に見える。今の気持ちがそういう風に世界を見せていた。
遠くから聞こえる近所に住む子供の声がそんな気持ちを重くさせる。顔も知らない彼らは元気に外を駆け回れるのに、僕はこの家からは出られない。
吾郎。病み上がりなんだから、あんまり風に当たると身体に障るよ。寝てないと
……うん
後ろから控えめに声をかけてくるお母さんに中身のない返事をする。あの人の言う通り、つい昨日まで熱があったから確かにまだ体調は本調子じゃない。咳だってまだ収まらないし。
だけど別にそれで熱がぶり返しても良かった。そのまま風邪を拗らせたっていい。なんならここまま窓から落ちてしまえば──そんなことすら考えてしまう。それだけ今の自分に生きている必要性というものを感じなかったから。
(心臓が悪いなら、いっそこのまま止まってしまえばいいのに)
どくどくと胸の中で鼓動するそれが、今はとても鬱陶しく感じた。
■
その日は家庭教師の人も往診の先生も来ない、一番退屈な日だった。外は晴れていても、春らしい暖かい風が吹き込んでも、こちらの心は常にどんよりと曇ったまま。咳はまだ止まらないけど、体調自体はそんなに悪くない。けど病み上がりだからとベッドで寝ていなさいとお母さんに言われた。
けど、ずっと寝てるのは身体が痛くなるからヘッドボードに寄りかかって、座った状態で読書をしようと思った。
しばらく読みふけっていると、一際強い風が吹いた。ざあざあと木が揺れる音が窓の外から聞こえてくるけれど、今日はその音が少しだけ変だった。
大きな鳥でも来たのかな。なんて、軽い気持ちで本に落としていた視線を窓の外に向けると──
え……
知らない男の子が木の枝を片手で掴んで、ぶら下がっていた。
黒い癖毛の、同い年くらいの男の子とハッキリと目が合う。どうしてそこに居るのか、とか、君は誰だとか、そんなことより彼が今そうしていることが何を意味するのか一瞬で理解して血の気が一気に引いた。
君、何してるの!?大丈夫!?
慌ててベッドから飛び出して窓辺に駆け寄った。
このままでは彼があの手を離したら落ちてしまう。庭は全面芝生ではあるけれど、この高さから落ちて無傷で済むわけじゃない。
この家を囲う柵は『迷った』が通用するような高さじゃない。わざわざ人の家だと理解した上で忍び込んで、あんな危険なことしている。何を考えてるんだあの子は。
とにかく早く助けてあげないといけない。そうしないと彼が落ちてしまう。でもどうしたら。
ど、どうしよう…ここから手を伸ばしても届かないし……お、大人の人、呼んでくるからっ!もう少し頑張って!
とにかくお母さんを呼んでこよう。走るとまた発作が起きてしまうかもしれないけど、家の中を走る程度なら多少息苦しくなるだけのはず。早くお母さんに知らせて、助けてあげなきゃ。
「待て、大丈夫だからっ!誰も呼ぶな!」
しかし、慌てたようにそう返してきたのは彼だった。
「で、でも……!」
何を言ってるんだ。大丈夫なわけないのに。
だというのに、彼はまた首を横に振った。
「本当に大丈夫だ。ちょっと、そっち行くから、離れてろ」
「えっ?」
すると、彼は手慣れた様子で下げていた片手を上げて両手で枝を掴み、そのまま掴んでいた枝によじ登った。
幹に手をかけて、立ち上がって安心したようにフゥと息を吐く。すごい。あんな状態から、ここまで完璧に持ち直すなんて。僕だったら、すぐに手を離して落ちていた。
見とれていると、彼は自分がよじ登った枝とその先にあるこちらを何度も見比べるように上下に視線を動かした。次に、口を釣りあげて笑いかけてくる。
今行く
そう言って彼は片足を後ろに、もう片方を前に置いて少しだけ姿勢を下げた。間違いなく、助走の体勢だ。
(行く?行くって、ここに来るってこと……?)
まさか枝の上を走って、ここまで飛び込んでくる気じゃ───
そんなまさか、と思う。だけど、彼のあの悪戯めいた笑顔は、そういうことをするぞという顔をしていた。
だ……ダメだよ!危ないって!!
平気だっ!
そして、彼は思った通り枝の上を駆け出した。
いくら人が乗っても折れないような少し太めの枝だからって、重さが加われば簡単に折れる。その上を走るだなんて無謀すぎる。だというのに彼は迷いもなく駆け抜けて、その勢いのまま大きく飛び跳ねた。
……!
虹のように宙をきりながら、こちらに降りてくる。
そして窓辺の框に両手足をついて、彼は走り幅跳びの選手よろしく綺麗に着地した。
やっとここまで来れた。ゴールだ
どくどくとうるさかった心臓が更に大きく揺れた。いつも起こる不整脈。だけど不思議と苦しくも痛くもない。
春の日差しと舞い散る桜の花びらを背にしながら微笑む彼の満足気なその笑顔は、
……っ
今までセピア色だった世界が一瞬で色を取り戻すほどに。
まるで王子様のようで、正義のヒーローのような。太陽みたいな眩しさだったから。
╶ side吾郎╶
(続きは製本版で!多分!!)