小学生の病弱吾郎くんと蓮くんが出会う話①この街には小学校の登校路から外れた道を行くと、低めのフェンスに囲まれたかなり大きい家がある。アニメなんかでよく見るお屋敷のそれ。道路も公園も、なんなら住宅も少ないその区域に静かにひっそりとそれは佇んでいた。
フェンスの内側は芝生が生えた庭があって大きな桜の木が一本生えている。花見し放題だななんて思いながらボーッと眺めていたある日、飛び交う桜の花びらに混じって木の陰に隠れていた屋敷の二階の窓から外を覗く奴が居ることに気づいた。
チョコレートのような、牛乳をたっぷり入れたココアのような、そんな茶色の髪を風で揺らしながら。夕方近いとはいえまだ太陽が昇っている時間帯にパジャマの上からカーディガンを羽織るという格好で、そいつはずっと外を眺めていた。髪は長いし顔も女の子みたいで、下から見上げるだけじゃ性別は分からない。年齢は多分同い年くらいだと思う。
とにかくそいつは見かける度に飽きもせず外を眺めていた。その遠くを見つめる瞳がどこか羨ましそうで、つまらなさそうで、寂しそうに見えた。家の玄関まで回って表札を見てみてもなんだか難しい漢字が書かれていて苗字が分からない。
「(話してみたい)」
見つけたのはたまたまだったけれど、見かけて真っ先に思ったのがそれだった。名前はなんなのか、どうしてずっと部屋に居て、外を眺めるのか。
その全てが、アイツを初めて見た時から気がかりだった。
「……よし」
そうと決めた時の俺──雨宮蓮はやるまでやるタイプの男である。
今日は時間も遅いから門限が過ぎてしまう。ひとまずその日は屋敷を後にした。
〇 〇
日を改めて屋敷に行くと二階の窓は開いているものの、いつものアイツは窓辺には居なかった。玄関から行くのが正しいルートだけど、あいにく俺とアイツは知り合いではない。ちょっと泥棒みたいだけど、あの桜の木を使って、直接窓の近くまで行くしかない。
ブロック塀に埋め込まれて立っているフェンスは、塀を足場にすれば簡単に越えられる。フェンスの上に両足を乗せて庭の中に飛び込む。桜の花びらが落ちた柔らかい芝生の上に着地して改めて見ると、小さいものなら遊具の一つや二つは置けそうなくらい広い庭だった。管理された花壇には沢山の花が咲いていて、家庭菜園もやっているらしく盛り上がった土から小さい芽が出ている。花見どころか隠れんぼや追いかけっこも不自由なくできそうだ。
「あいつ、この庭で遊ばないのかな」
庭の中から、頭上にある二階の窓を見上げる。風で揺れるカーテンが見えるだけであいつはやっぱり窓辺には居なかった。
桜の木の枝は、あいつの部屋の窓の近くまで伸びている。あそこまで登れれば、部屋の窓の前まで行けるはずだ。運動神経なら自信があるし、同級生である坂本竜司ともよく木登りしていた。きっと行ける。
「よしっ」
気合を入れて、太い木の幹に爪と足を立てて登っていく。
脆い木の皮が抉れては足や爪を滑らせて何度か落ちてしまったけれど、何度も落ちるうちにその抉れた箇所が足場となって身体中が擦り傷だらけになった辺りでようやく大きく枝分かれしている箇所まで登ることができた。ここまでくれば足場も増えて、ジャングルジムのように登りやすくなる。大きな枝から枝に、横へ上へと渡っていき、やがて目指した窓の傍までやってきた。
そうして柔らかい枝を手で退かし、ようやく桜の花びらで遮られていた窓の内側に居る部屋の主の姿を見つける。
「────」
沢山の本棚に囲まれた整頓された部屋の中。大きなベッドの上で身体を起こして、そいつは静かに手に持っている本に視線を下ろしていた。
いつもと変わらずパジャマの上にカーディガンを羽織り、茶色の長い髪を風で揺らしながら、ただただ本を読んでいる。その光景は額縁に入れて飾られても違和感がないくらい、『絵』になっていた。
肌が白くて細身で小柄のそいつは、男の子なのか女の子なのかやっぱり見ただけでは分からない。どちらにしろキラキラしたオーラの中に僅かな儚さを持ち合わせた美人な奴だった。多分学校では相当モテているのだろう。
───だって現に。
ここに一人、目の当たりにして見とれている男が居るのだから。
しばらくその横顔を眺めていると、一際強い風が吹いた。
ザアザアと木が揺れて、視界いっぱいに舞い散る桜の花びらが入らないように目を閉じて、片手を離して目元を覆った。そのせいで一気にバランスを崩し、足場として乗っていた枝から足を踏み外してしまった。
「あっ……!!」
咄嗟に手を伸ばして枝を掴む。なんとか間に合って、ぶら下がる形で落下を免れた。全体重が乗った枝はグワングワンと揺れて、再び木が音を鳴らす。しかもわりと大きい声が出てしまった。
風が止んだのに木が不自然に揺れる音に気づいたのか、窓の中のそいつがようやく本から顔を上げてこちらに向いた。
宝石のように大きな赤茶色の瞳と、バッチリと目が合う。そしてやがてその目は大きく見開かれて、そいつは慌ててベッドから腰を上げて窓辺に駆け寄った。
「君っ、何してるの!?大丈夫!?」
どう考えてもこの状況で思うことではないが、ようやく声が聞けたなんて呑気なことを考えてしまった。
女の子にしては声は少し低めだし、ああこいつ、男だったのか、とも。
「ど、どうしよう…ここから手を伸ばしても届かないし……お、大人の人、呼んでくるからっ!もう少し頑張って!」
酷く慌てた様子でいる彼は窓辺から離れようとしている。
しかし助けを呼ばれたらここまでの時間が全て無駄になってしまう。それはだめだ。
「待て、大丈夫だからっ!誰も呼ぶな!」
「で、でも……」
「本当に大丈夫だ。ちょっと、そっち行くから、離れてろ」
「えっ?」
学校では雲梯を下からよじ登ることもよくあった。掴む棒が少し太いだけで要領は変わらないはず。
枝を両手で掴んで、身体を持ち上げる。這い上がるように枝の上に両腕を乗せて、足をかける。そこから徐々に身体を捻って、枝に抱きつくように登り直した。そのまま木の幹に手をかけながらゆっくりと再び枝の上に立ち上がり、完全に持ち直した。
良かった。正直生きた心地がしなかったから。振り返って窓の方を見ると、ぽかんとした顔でこちらを見る彼が居た。
そんな彼にニッと笑いかけて、助走の体勢に入る。
「今行く」
そして枝の上を一気に小走りして、窓辺に向かって飛び立った。
枝の先と部屋までの距離は三メートル前後。宙を描いた両足は花瓶や小物がいくつか乗った広めの框に無事に着地した。
ようやく目と鼻の先にいる彼に目を向ける。外から吹く風に髪を揺らしながら驚いたようにこちらを見上げる彼の目は驚きに満ちていたけれど、少しだけその目は輝いているように見えた。
「やっとここまで来れた。ゴールだ」
「……っ」
笑いかけながらそう言えば、息を飲んだ彼の顔が少しだけ赤くなる。
しかしそれは一瞬のことで、すぐにハッとしたように我に返った。
「って君、傷だらけ!」
「…え?……ああ、まあ。結構落ちたりしたから」
「早く消毒しなきゃだけど……でも、どうしよう。救急箱の場所なんて僕…」
オロオロとしながら口元に手を添えて考え始める彼を眺めていると、扉の方からトントンと叩く音が聞こえた。
『吾郎?なんだか声がしたけど、大丈夫?』
大人の女の人の声がする。
『ごろう』と呼ばれた彼は、その声を聞いて慌ててこちらに振り向いて手を掴んだ。
「降りて、隠れて!早く!」
「えっ、あ、わっ!!」
引きずり落とす勢いで窓辺から下ろされて、ベッドの下に押し込まれる。
トトトと小走りしているのだろう足音の後、遠くで扉が開く重めの音が聞こえた。
『な、なんでもない。ちょっと窓から鳥が入りそうになってたから慌てちゃって』
『本当に?』
『本当だって。その時にちょっと指切っちゃったんだ。救急箱と……あと、飲み物もらっていい?』
『あら大変。すぐ持ってくるね』
『いつもごめんなさい』
『いいのよ。私にはこれくらいしかできないもの。待ってて』
『うん、ありがとう。お母さん』
どうやら声の主は彼の母親らしい。
間もなく再びやってきた母親と彼の、救急箱と飲み物を受け取るやり取りの後、扉が閉まる音が聞こえる。
ジッと薄暗いベッドの下で待機しているとシーツがめくられて一気に明るくなった。光を背にして彼が柔らかく笑いかけてくる。
「お待たせ。ごめんね、引きずり込んじゃって」
「…いきなり来たの、俺だから」
「とにかく傷の消毒しよう。ほら、座って」
四つん這いでベッドの下から出て、促されるままベッドに座る。
トトロで見たネコバスなんかもこんな感じだったのかな、なんて思う程に身体が沈んだ。フカフカでふわふわ。家にあるベッドなんかよりよっぽど寝心地が良さそうなクッションのようなベッドだ。こんな良い布団が現実に存在するのか。
そんな感激に浸る間もなく隣に座って、彼は消毒液で浸したティッシュを膝に当てる。
「痛っ……!」
ピキっとした痛みの後、冷たい消毒液に触れた傷がジンジンと痛みだす。
空かさず彼はどんどんと膝や腕、頬に消毒液が染み込んだティッシュを押し付けてくる。痛がってるこちらの様子など見向きもしない。
「大人しくして。絆創膏ズレちゃうから」
そしてティッシュを当てた箇所に絆創膏を次々と貼っていく。一通り絆創膏を貼り終えた彼は、ようやくこちらに顔を向けて『できたよ』と満足そうに笑った。
……そういえば、『ごろう』って呼ばれてたな、コイツ。
「名前、ごろうって言うのか?」
「え?うん、そうだよ。獅童吾郎」
「しどう?」
「お父さん、国会議員なんだ。テレビでもよく出てる人。獅童正義って名前なんだけど、知ってる?」
「知ってる」
「その人の息子が僕。だから獅童吾郎」
彼──吾郎の言う通り、その名前はテレビのニュースでよく聞く。
国会議員ならばお金は沢山貰ってる。だからこそのこの絵に書いたような屋敷。その息子である彼は要するにお坊ちゃんということだ。このベッドがふかふかなのも親が金持ちだからなのだ。
「ふぅん。男らしい名前だな。カッコイイ」
「……ありがとう」
素直に褒めたつもりだったのだが吾郎はあんまり嬉しくないようだ。
曇った顔で下を向いた。
「お父さんもきっとそう思って、僕に吾郎って名前に見合う男になってほしくて名付けたんだと思う。……けど実際の僕は、その通りになれそうにない」
言いながら、吾郎は胸の辺りに手を当ててギュッとパジャマを掴む。
俺より背が少しだけ小さい吾郎は、吾郎って名前に似合わず女の子みたいな顔だとは思うが、どうもそんな簡単な話ではないように感じる。そもそもなんでこんな昼間からパジャマ姿なのだろう。聞くべきか迷っていると、吾郎が顔を上げる。先程までの曇った顔が嘘のように好奇心に溢れた明るい笑顔だ。
「ねえ、君は?なんて名前なの?」
「えっと、蓮。雨宮蓮」
「蓮…?へぇ、良い名前だね。蓮の名前の方こそカッコイイ」
「そ、そうか?」
「そうだよ。蓮(はす)ってね、極楽浄土に咲く花って言われてて、清らかで美しいさまを表す意味が込められてるんだ」
「ごくら…なに?」
「雨宮の『雨』だって、一般的な雨とは別に、恵みとか恩恵が降り注ぐことの例えにも使われるんだよ。その二つの漢字を持ってるなんて素敵だと思う」
ちょっと吾郎の話は難しすぎてよく分からないけれど、笑ってるし褒められているのは分かる。
自分の名前をここまで褒められたことは始めてで、両親がそんなことまで考えて蓮と名付けたかは分からない。たけど、なんだか嬉しくなって頬が少しだけ熱くなった。
「それにしても、どうして蓮はこんなに怪我をしてまでここまで来たの?もしかして泥棒?」
「そんなわけない。なんだ、泥棒って」
「よく来るんだよ。まあ庭に入るだけならともかく、家の中に土足で入った瞬間に防犯センサーが鳴り響いて駆けつけた警備の人に取り押さえられて皆パトカーに押し込まれていくんだけど」
「それって、百発百中?」
「そう、全員。お父さん抜かりないから。あえて塀を低めにして、簡単に入り込める家だって油断させた上で容赦なく捕まえるんだって」
テレビでよく見る獅童正義は坊主頭で黄色いサングラスをかけた、パッと見はヤクザのような見た目通りの厳つい人だったけれど、どうやら中身も見た目に合った怖い人のようだ。そんな話を笑顔で話す吾郎も吾郎だと思う。
土足ということは今日の俺も下手したら防犯センサーが作動する条件を満たしていたのではないかと思うと背筋が凍った。しかしそれはそれとして、ここまでボロボロになってまで会いに来た奴に泥棒扱いされるのもなんだかムッとくる。実際そうかもしれないけど。
どのみち初対面のくせに失礼なやつだ。
「拗ねないでよ。そう思われても仕方ないことしたのは君なんだよ?不法侵入って言葉、知ってる?」
「難しい言葉使ってバカにするな」
「だったら、どうして来たの?」
「お前と話したかっただけだ。悪いか」
「………僕と?」
逆ギレ気味に言うと、目を丸くされた。
黙って頷くと、上目遣いで首をかしげられる。
「どうして?」
「お前、ずっと窓から外の景色見てただろ。その顔がなんだかつまんなそうで、どうしてなんだろうってずっと気になってて。ただ話してみたいなって思った。それだけ」
「……………。そう、なんだ…」
ぎこちない返事の後に、両手を胸に当てながら俯いて黙り込んだ。
その顔は、下を向いて垂れ下がった前髪のせいでよく見えない。
「…吾郎?」
覗き込むように下から様子を伺うと、吾郎はゆっくり顔をあげた。
「…嬉しい。僕にそう言ってくれる子、初めてだから」
頬を真っ赤に染めて、嬉しそうに微笑んでいる。いつも見ていたあの寂しそうな顔をしていた奴と同一人物とは思えないほどに。
その顔が、今まで見てきた誰よりも可愛くて、キラキラ輝いていて、眩しい。男相手なのに胸がどきどきする。無意識に、そのリンゴのような頬に手を伸ばしていた。
もう少しで指が届きそうになったとき、吾郎は突然口元を押さえて咳き込み始めた。
「けほっ……げほっごほっ……!」
煙とかそういうちょっと苦しい時に出る咳じゃない。体調不良の人が出す、聞いてるだけでつらそうな咳だ。
「だ、大丈夫か?」
背中を丸めてずっとゲホゲホと咳き込む吾郎の背中を慌てて摩る。
それはすぐに収まったらしく、肩で息をしながら顔をあげた。
「…ごめん、ね。ちょっと…風邪がまだ治ってないんだ。でももう、大丈夫だよ 」
「………」
髪を避けて自分と吾郎の額に手を当てる。温かくはあるけれど、平熱だ。熱はない。
でも体調はあんまりよくないのだろう。まだ夕方にもなってない時間帯なのにパジャマ姿である理由がようやく分かった。元々吾郎はベッドの上でいつでも身体を倒せるよう本を読んで静養していたのに、それを俺が来たことで無理やり身体を動かしてしまったのだ。
「ごめん、俺のせいだ」
「謝らないでよ。それより折角来てくれた蓮が僕が移した風邪で寝込むのは嫌だから、今日のところは帰った方がいいかもしれない」
「俺、今まで風邪引いたことない。そこは気にするな」
「本当に?…蓮は強いね。羨ましい」
そう言って、吾郎は寂しそうに笑った。
その顔を見て、このまま終わりにするのは嫌だと思った。放っておけない。放っておきたくない。もっと、吾郎のことを知りたい。
「明日もまた来る。ダメか?」
「………来てくれるの?」
「もちろん。約束する」
小指を立てた手を差し出す。
吾郎は俺の顔と差し出した指を交互に見て、戸惑いながらも同じように小指を出した。空かさず吾郎の小指と絡めて、自分の小指を吾郎の小指の上に乗せる。
「約束の指きりだ」
「………うん」
それを見下ろす吾郎は嬉しそうに口元を緩めていている。こっちまで嬉しく感じてしまうほどに。
「じゃあ、吾郎。また明日」
「うん。蓮が来るの、ずっと待ってる」
どうもこの家には今、母親の他に家政婦が何人か居るらしい。玄関からこっそり出る方が安全だと吾郎は言うが、勝手に家に侵入してる時点で見つかる方が厄介だ。窓から再び桜の木の枝に飛び乗って、落ちないように庭に着地する。入って来た時と同じようにフェンスから飛び降りて、いつも見ていた位置から二階の窓を見上げた。
窓辺に立つ吾郎はずっと俺が下りる姿を見守っていたらしく、目が合うと笑って手を振った。
『ばいばい』
口の動きがそう言っている。
こちらも同じように『また明日』と返して、手を振りながら家の前をあとにした。姿が見えなくなる最後の時まで吾郎は窓辺に立ってこちらを見続けていた。
○ ○
それから放課後や休みの日で時間がある時は吾郎の家に行くようになった。
家の下まで来ると吾郎は毎回窓辺に立ってこちらを待つように下を見下ろして、俺の存在に気づくと嬉しそうに笑って手を振る。これまで寂しそうに外を眺めているだけだった吾郎が、俺を待ってくれるようになっている。それがなんだか嬉しく感じた。
そんなこんなで暖かい春が終わり、暑い夏が始まろうとしている。
汗ばむジメジメした空気の中、いつものように庭から木を使って吾郎の部屋の窓から侵入する。吾郎と会うのはもう両手足の指ではもう全然足りないくらいの回数になる。そこまで行けば初日の苦労が嘘のように木登りには慣れた。
「前から思ってたけど君、猿みたいだよね」
「はあ?最初に言うことがそれか?」
「だって迷いがない動きであっという間に登ってくるから。なんか面白くて」
アハハと控えめに笑いながら、開口一番そんなことを言い出す吾郎は相変わらず失礼なやつである。けれど、何度も会って話すうちに吾郎が失礼なだけじゃないやつだということもよく知っている。
「今日も宿題出たの?」
「出た。しかも苦手な算数だ」
「へえ、見せてよ」
「ん、これ」
ランドセルから取り出した算数の問題集を取り出して、宿題としてやってくるように言われて印をつけたページを開いた状態で吾郎に渡す。
「ああ、そっか。四年生だと今は小数点の掛け算割り算やってるんだね」
「割り算がちょっと苦手なんだ。なのに小数点とか言われても困る」
「この段階の小数点ならあってないようなものだよ。この問題の場合なら───」
吾郎は、頭がとても良い。
初めて見た問題であっても難なく答えを出して、俺に解説できるまで完璧に理解していた。聞けば年齢は一つ上の小学五年生らしい。四年である俺が習っているところは既に知っていて当たり前なのかもしれないけれど、それを抜きにしたって吾郎は物知りだ。辞書のように俺の知らない知識を沢山教えてくれる。
「…あ、ほんとだ。そういうことか」
「うん、じゃあそのまま次の問題やってみようか。考え方は全部同じだよ」
そんな吾郎の教え方は、正直先生よりも分かりやすい。言われた通りのやり方で問題を解いて、隣に座る吾郎に見せる。
どうやら暗算でできるらしく俺の解答を見て、隣に座る吾郎はニコリと笑った。
「うん、正解。流石飲み込み早いね、蓮」
「そんなことない、吾郎の教えが良いんだ。ありがとう、続きは家でやる」
「いいの?終わるまで待ってるのに」
「いいんだ。宿題は家でもできるけど、吾郎と一緒に居るのは今しかないから」
「…………そっか」
吾郎はまた嬉しそうに笑う。
この、頬を赤くして向けられる笑顔が好きだった。
「ねえ、じゃあこの前の坂本くんと喜多川くんの話の続きしてよ」
「ああ、アレか。あれは竜司が祐介に──」
吾郎と会う度に俺は色んな話を吾郎に聞かせる。それは吾郎が君の話が聞きたいなんて言ってお願いしてくるからだ。
学校や家のこと友達のこと、そんなに楽しくないエピソードなんかも話した。吾郎はそんな俺の話を飽きもせず、絵本を読み聞かされている小さい子供のように目を輝かせながら楽しそうに聞いてくれた。
「あはは、君の友達って話を聞くだけでも面白いね。毎日楽しそうだ」
「なら今度皆で遊ぼう。吾郎のこと竜司と祐介に紹介したいんだ」
きっと吾郎も交ぜた四人で遊べばもっと楽しくなるはずだ。純粋にそう思った。
だけど吾郎は寂しそうに笑いながら、首を横に振った。
「その誘いは嬉しいけど…僕には無理だよ」
「なんでだ。竜司は確かに喧嘩っ早いけど吾郎とだって仲良くなれる。祐介もたまによく分からないこと言うけど良い奴だぞ」
「そうじゃなくて…。僕、外出れないから」
「外…?」
俯く吾郎は、出会ってから変わらずパジャマにカーディガン姿だ。俺は学校が終わればすぐに吾郎の家に行くようにしているけれど、そのたびに吾郎はパジャマを着ている。年齢が一つ上だという吾郎が授業を終えて帰宅し、パジャマに着替える時間が充分にあるほど早く授業が終わることなんて有り得ない。外に出かけている様子も見られないし、もしかしたらまだ風邪が治ってないのかもしれない。
「…風邪、まだ治ってないのか?」
「ううん、風邪の方はもう本当に大丈夫だよ」
と思ったのに、あっさりと否定される。
初日以来、咳き込む様子はなかったから治ったのならそれでいいと言われれば良いのだが──ならばなぜ彼は、毎日パジャマ姿でベッドの上から離れない生活を送っているのだろう。
そんな考えが顔に出ていたらしく吾郎は苦笑しながら、胸に手を当てた。
「心臓がちょっと良くないんだ。だから外に出るなって言われてるの」
心臓とは身体に血液を行き渡らせるために生きてる間ずっと動き続ける、生き物にとって一番大事なものだと保健体育の授業で習った。胸の中でずっとどくどくと動いてるものが、それなのだと。それが動かなくなった時が死ぬ時なのだと。
なら、そこが悪いということは、吾郎は──
「…あんまり、長生きできないのか?」
不安で声が震えた。せっかく出会えて、仲良くなれたのに。
だけど吾郎はすぐに首を横に振った。
「安心して。そういうのじゃないから」
「本当か?」
「うん。…ただ、そうだね。…手、出してくれる?」
言われた通りに右手を出すと、吾郎は手首を両手で持った。
そして親指を少しだけ強く押してくる。
「………」
痛くはないけれど、何故かそうする吾郎の表情は穏やかで安心したように微笑んでいる。
「…心臓ってドクドクって、規則正しく動いてるでしょう?」
「うん」
「僕のはね、たまに規則正しく動いてくれないんだ。ひどくなると息が出来なくなって、苦しくなっちゃうの。そのせいなのか風邪も引きやすくてさ。だから家からなかなか出れなくて、代わりにずっと窓から外を見てたんだ。君の言う通り、毎日がつまらなくて」
あはは…と、吾郎は苦笑した。
「でも…学校は…」
「…在籍はしてるよ。でも、前に倒れたことがあって…それからはもう家庭教師の人に教わるのがメインになってる。お父さんが学校側と話をつけて、行かなくていいことになってて。ずっと行かせてもらえないよ」
「…吾郎」
「だから君みたいな元気な子が羨ましい。心臓も普通で、学校に行って勉強できて、友達と笑い合える、そんな毎日が過ごせる君が」
手首をそっと離されて、吾郎はそのまま俯いた。
下手なことは言えない空気だ。それをしたら、全て吾郎の否定になってしまう。だけど、何も言わない訳にはいかないとも思う。そうしないと、吾郎はずっと一人取り残されてしまう。俺はこいつを一人にしたくない。絶対にしない。
「吾郎」
「なに…って、わっ!?」
吾郎に抱きつく形で二人でフカフカふわふわなベッドに倒れ込んだ。空かさず吾郎の胸の上に頭を乗せて耳を当てる。
温かい体温と一緒にどく、どく、と動く吾郎の心臓の音が聞こえる。俺のと同じリズムで動いてる。生きてる。
「れ、蓮…?何して、」
「吾郎の心臓だって、ちゃんと正しく動いてる」
「え…」
「吾郎は元気だ。学校には行けてないかもしれないけど勉強ならちゃんとできてる。それに俺は、お前の友達としてここに居る。吾郎だって俺と同じだ。何も違わない。だから、大丈夫だ」
「───っ」
頭上から、声にならない声が聞こえる。
やがて耳から聞こえてくる心臓の音がだんだん早くなっていき、どくんどくんどくんと鼓動が強くなってきた。身体も熱を持ち始めている気がする。
「大変だ吾郎っ、すごい早くなってるっ!熱も出てる!しっかりしろ!」
これはマズイやつなんじゃないのか。慌てて身体を起こした。
苦しそうな顔をしているという最悪の想像をしながら自分の下敷きになって倒れ込む吾郎の顔を見る。
「…ぇ……あ……」
しかし、予想に反して吾郎は茹でたタコのように赤くなった顔で口をパクパクとさせているだけだった。ぱちぱちと瞬きしながら呆然としていると吾郎は真っ赤な顔のままムッと口をへの字にして、
「~~っ、それは君がいきなり変なことするからっ!」
「おわっ!?」
と、怒鳴りながら馬乗りになる俺の身体を押し飛ばした。
病弱発言してたくせにどこから出たのか分からない馬鹿力で押され、バランスを崩してそのままベッドから転がり落ちる。ドン!という大きな音は頭から思いきり床に落ちた音だ。痛みに悶えながら頭を抱えた。せっかく励ましてあげたのにこの仕打ちはあんまりだ。
「蓮のバカ!絶対に謝らないから!!」
「ええ…」
下から見上げる吾郎の顔は相変わらず真っ赤なままだが、かなり怒った顔をしている。しばらく睨まれるとぷいっとそっぽを向かれた。嬉しそうに笑って礼を言う時もあれば、こうして逆ギレされる時もあって差が激しい。普段あんなに大人びてるのに変なところで子供みたいなやつだ。だけど、色んな顔を見せてくれる吾郎を見るのは楽しい。また一つ吾郎のことが分かった気がして嬉しくなれるから。
『吾郎!!』
…と思ったのも束の間、部屋の向こうから大きな声が聞こえてきた。その声の正体をすぐに察したのか吾郎の一気に表情が強ばる。だけど、それと扉がバタンと開いたのは同時だった。
「吾郎っ!大きな音したけど、大丈夫!?」
扉の向こうから血相を変えて現れたのは、大人の女の人だった。吾郎の髪の色と同じ、茶色いココア色をした長髪の綺麗な女の人。だけど、その声だけは聞き覚えがあった。
初めてこの部屋に忍び込んだ時に聞いた、吾郎の母親の声だ。
「…って、え…?」
そんな彼女の目と自分の視線がバッチリ合ってしまう。
それは、秘密裏に部屋に忍び込む俺と誰にも知らせずこっそり招き入れてくれる吾郎の二人だけの秘密の時間の終わりを告げる瞬間だった。
○ ○
結論から言うと、吾郎の母親はとても優しい人だった。
そりゃあ…息子の部屋から大きな物音が聞こえて、息子は身体が弱い子だから色々と最悪な想像を覚悟しながら駆け込んだら、その息子と勝手に忍び込んだ身知らぬ子供が一緒に居た、だなんて状況は混乱したと思う。
しばらく放心していたけれど吾郎がちゃんと説明して、俺もごめんなさいと謝って。結果、彼女は全てを許してくれた。
母親に忍び込んでいたことが知られてしまった以上、俺と吾郎の二人だけしか知らない秘密の時間は終わってしまった。だけど、俺と吾郎の関係は変わらない。変わった点があるとすれば、それは───
「いらっしゃい、雨宮くん。今日も来てくれてありがとうね」
「おじゃまします」
今までは侵入する形で吾郎に会いに行っていたけれど、今は本来そうであるべき正しいルート──玄関から吾郎に会いに行けるようになった事だった。
ある程度の予想はしていたけれど迎え入れられた吾郎の家は玄関からして広かった。旅行で泊まるホテルのように豪華な家具が綺麗に置かれていて、学校の教室のような広さと体育館のような天井の高さのリビングが待ち構えている。一番上まで見ようとすると身体が反り返って後ろに倒れそうなほどに。
「吾郎の部屋はこっちよ」
笑顔で案内してくれる吾郎の母親は、見れば見るほど吾郎にそっくりだった。吾郎が大きくなったら、この人のように美人な大人になるのかな。なんて思ってしまう程に。アイツは男だけど、きっと母親似なのだ。
カーペットが敷かれた階段を登り、扉がいくつかある広い廊下に辿り着く。その廊下の突き当たりにある扉が少しだけ開いており、その間から吾郎が顔を覗かせて待っていた。
「蓮っ!迷わなかった?すぐ見つかった?玄関口」
「うん、大丈夫。最初に来たとき、なんて名前の人が住んでるんだろうって玄関は見たから」
「そうなんだ。なら良かった」
ニコッと笑う吾郎の顔はいつにも増して嬉しそうだ。もう隠れて会う必要が無くなったから喜んでるのかもしれない。そんな眩しいくらいの晴れた笑顔を見てるとこっちも嬉しくなる。
「後で飲み物とお菓子持っていくね。吾郎はあんまり無理しないように」
「大丈夫だよ。蓮が居るから」
「ふふ、それなら安心ね」
そうやって笑い合う二人は本当に絵に書いたようなそっくり親子で、微笑ましい光景だ。
それからは吾郎の部屋でいつものように俺の話を吾郎に沢山聞かせたり、吾郎がいつも読んでいる本の話を聞かせてもらったりと、そういう時間がほぼ毎日続く。
玄関から家に入れるようになったおかげで、俺も『ランドセル以外の持ち物を吾郎の部屋に持ち込む』ということができるようになった。例えば、家にある本は読み飽きたと言い出す吾郎のために図書室で借りてきた本と元々持っていた漫画やゲームを貸してやるなど、色々。
そうやってお互いにできることが増やせるようになると余計に話に夢中になって、あっという間に時間が経つ。ふと気づいた頃にはいつも門限の時間だ。
「…蓮と居ると本当に時間がすぐ過ぎるんだ。だから蓮が帰った後は凄い時間が遅く感じるよ」
帰り際になると、吾郎は決まって寂しそうな顔をする。
帰ってほしくないけれど、引き止めるわけにもいかない。そういう諦めも含まれた顔だ。気持ちは分かる。だって、俺ももっと吾郎と一緒に居たいから。
そんなシュンとしている子供二人の空気を察したのか、吾郎のお母さんは『じゃあ』と声をかけてきた。
「雨宮くん、今度から夏休みでしょう?」
「え。は、はい」
「八月の頭くらいにね、私も夫も次の日の朝まで家を空けないといけない日があるの。もちろん大人には何人か残ってもらうつもりだけど、それだけだとちょっと吾郎が心配でね」
それは普通に心配な話だと思う。大人が残るとはいえ吾郎みたいな身体が弱い子供を家に残すなんていうのは。
だけど、そう話す彼女の顔はずっと笑っていた。
「だから、きっと雨宮くんがそばに居てくれたら私も安心できるなぁって思ってね」
「っ!お母さん、それって…!」
「ふふ、でも正義さんには内緒だからね。田中さんに残ってもらう予定だから、体調面でもそれ以外でも、何か感じたらすぐ田中さんに知らせること。いい?」
「うん!」
一足先に話を理解したらしい吾郎とお母さんはニコニコと笑い合っている。俺だけが置いてけぼりで、ぽかんと立ち尽くしている。
それに気づいた吾郎は笑顔で振り向いて、両手を握って来た。
「あのね蓮。要するに、今度泊まりにおいでよってことだよ」
「え……泊まり?ここにか?」
「そう!」
「っ!」
吾郎の家にお泊まり。
それは門限なんか気にしないで夜まで、なんならその次の朝までずっと、吾郎と一緒に過ごせるということだ。
自分でもぱぁあ!という効果音が出たのが分かるくらいワクワクが止まらなかった。
「僕は蓮に来てほしい。蓮は?お泊まりしたい?」
「したい!」
「じゃあ決まりだね」
二人で笑い合う。
夏休みは田舎の婆ちゃんちに行ったり、竜司達と遊んだり。色々と楽しみなことはあるけれど、吾郎の家に泊まれる日がなによりも楽しみになった。
吾郎と一緒に暮らせてたらもっと楽しいのに、という叶わない願いが叶ったような気がしたから。
○ ○
そうして夏休みが始まり、外泊の日はあっという間にやってきた。
吾郎のお母さんとお父さんは、もう朝から家を出たらしい。母親に持たされた菓子折りと共にいつものように吾郎の家のインターホンを押すとエプロン姿の知らないおばさんが迎えてくれた。この人が今日の夜、家に残ってくれる大人の一人、田中さんなのだろう。
吾郎は相変わらずパジャマ姿だったけれど、本人は元気そうだし正直格好なんてどうでもいい。今日は夕方になっても夜になっても、家に帰らないで吾郎と一緒に居ることができる。それだけで頭がいっぱいだった。
「うわ広!!」
例によって時間はすぐに過ぎて気づいた頃には夕方になった。田中さんには夕飯の前にと入浴を勧められた。
吾郎に案内されながらやってきた脱衣所で服を脱ぎ、扉を開けた先に待ち構えていたのは豪華で広い浴槽。ここまで来るともう温泉である。家族旅行で行ったホテルの温泉もこんな感じだったし。
つまり、これが自宅にあるということは毎日貸切温泉なのだ。羨ましい限りである。
「そんなに広いかな?毎日見てる光景だから慣れちゃったよ」
「俺ん家の風呂なんかもっと狭いぞ。この家のトイレ部屋くらいしかない」
「それ本当に狭いね。そんなに狭いと入浴どころじゃなくない?」
「庶民は皆そういう狭い風呂入ってるんだよ。分かったか、この金持ち坊ちゃん!」
「はうっ!」
お湯に両手を浸して、水鉄砲で吾郎の顔面にお湯を飛ばしてやる。
目に水が入ったらしく目元を手でゴシゴシと拭ったあと、
「……やったね蓮。お返しだよ!」
「わぶっ!」
バシャアと両手でお湯を持ち上げて盛大に掛け返される。
こっちは顔だけしか濡らさなかったのに、頭から水を被ってびしょ濡れだ。
「ずるいぞお前!お返しの仕返しだ!」
「わぁっ!」
同じように両手で水を頭から被せて、お互いにドロー。
二人して濡れ鼠になった姿を見て、二人で笑い合った。
「うわ……美味しそう……」
風呂が終わって次に始まるのは夕食だ。
椅子に座る俺の目の前に次々と置かれていくのはこれまた豪華で美味しそうなメニューだった。半熟の目玉焼きが乗ったハンバーグと、野菜がたっぷり入ったポトフ、丸い形をした白米、タルタルソースがたっぷりかかったエビフライ、プチトマト、その他メニューが一枚の皿の中に全て収まっていてお子様ランチを思い出す。流石に白米に旗は立ってないけれど。
「蓮のも美味しそうだね」
テーブルを挟んで向かい側に座る吾郎の前にも同じように料理が乗ったプレートがある。しかしどうやら俺のとは少しだけ献立が違うらしく、吾郎は物珍しそうに俺の方のハンバーグを覗き込んでいた。
こちらのハンバーグはデミグラスソースソースがたっぷりかかった見慣れた牛肉のハンバーグ。吾郎のハンバーグは色が薄いし目玉焼きの代わりにつぶつぶしたソースがかかっている。その他の盛り合わせもなんというか、全体的にカロリーが低そうなヘルシー路線の組み合わせだ。
「吾郎のそれ、ハンバーグなのか?なんでメニュー違うんだ?」
「これは和風の豆腐ハンバーグ。油多いの食べると気持ち悪くなっちゃって、僕のご飯はいつもこんな感じだから」
こんなに美味しそうな肉を使ったハンバーグを、吾郎は食べれない。吾郎にとってはそれが日常で、『気にする』という概念すらもないのかもしれない。けど、俺はなんとなく仲間外れにしているみたいで嫌だった。吾郎だって、俺と同じでいわゆる『育ち盛りの男の子』ってやつなのに。たとえ油が苦手だとしても、その『油』を全部取り除くのはなんだか違う気がする。
「食べちゃダメってわけじゃないんだろ」
「え?うん、まあ…ちょっとだけなら大丈夫だと思うけど……」
「ならちょっと交換こしよう。ハンバーグもエビフライもあげるから」
「…いいの?こっちの、味薄いよ?」
「全然大丈夫だ。ほら、食べたいところ取っていいから」
「……うん!ありがとう!」
自分のプレートを吾郎の方に押し出すと、吾郎は笑って頷いた。
そうして一口分だけ交換したハンバーグはどちらも美味しかった。豆腐でハンバーグが作れるなんて知らなかったから後でレシピを聞いて母親に作ってもらおうと決意したくらいには。けれどやっぱり肉のハンバーグの方が味が濃くて、食べ応えもあって美味しい。そして吾郎も同じように交換したハンバーグを美味しそうに食べていた。お肉のハンバーグも美味しいんだね、と口にしながら。
その顔と、言葉を聞けただけで充分だと思った。それを見るために交換したのだから。だから、そんな嬉しそうな吾郎の顔を見ながら食べる残りのハンバーグは更に美味しく感じた。
「蓮、こっち」
夕飯が終わると、あとはもう食後の時間を過ごして寝るだけだ。
勿論寝るのは吾郎の部屋だ。布団を用意してもらおうとしたけれど、一緒のベッドのでいいよねという話になった。トイレから戻ると、全開になった窓辺に立つ吾郎が笑って手招きしていた。あそこはいつも吾郎が外を見ていた定位置だ。
吾郎の隣に立つと、『見て』と空を指差しながら見上げる。
「わぁ……」
追いかけるように視線を上に向けると、そこにはまん丸の満月と星が沢山散りばめられた綺麗な夜空があった。
「綺麗だよね」
「うん、凄いな。家のベランダから見る夜空なんて星全然見えないのに」
「蓮の家ってマンション?」
「そう、団地だ」
「多分だからだよ。この辺り、周りに何もなくて街灯が少ないから。明かりが少なければ少ないほど星が見えやすくなるんだ」
「なるほど」
「運がいいとたまに流れ星とか見えるんだよ。だからそういう時はお願いごとしてるの」
「へぇ、何お願いしてるんだ?」
「……秘密。蓮にだけは聞かせられない」
「なんだそれ」
余程恥ずかしい願いごとでもしてるのか、笑って誤魔化すその頬は赤かった。
夏真っ盛りの八月だというのに、暑さを感じない涼しい風が入り込んでくる。そんな風を浴びながら二人で夜空を見上げ続けた。
「…………」
星を見るふりをして隣に居る吾郎の横顔をこっそり見る。
月の光に照らされたその横顔はやっぱり相変わらず綺麗で、絵になっていた。
「やっぱりふかふかだ……いいな。こんなベッドで毎日寝れるの。いくらでも寝れそうだ」
「僕はもう寝飽きちゃったよ。変えてくれないかなぁ」
「なんて贅沢な悩みなんだ…」
そうして就寝時間を迎えた。電気を消して、二人で一緒のベッドに入る。
客室から持ってきた枕を並べて、お互いに見つめ合う形で横向きに身体を倒した。
「でも、僕は今日眠れないかも。蓮がすぐそば居るのが嬉しいけど、緊張する。ずっとドキドキしてるよ」
「また聴いてやろうか?」
「…ダメ。今度こそ爆発しちゃうから」
「あはは」
なんて余裕をぶっこいているが、こちらも人のことは言えない状態だった。
目の前に吾郎の顔がある。夕方までしか会えなかった吾郎と、こんな時間まで一緒にいれる。一緒に風呂に入って一緒にご飯を食べて一緒のベッドで寝れる。嬉しさなのか、緊張なのか、身体は熱くて心臓はずっとバクバクしてる。布団の心地良さが勝つか、興奮が勝つか。どちらになるかは今の段階では全く分からない。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、吾郎はずっとこちらを眺めるように見つめている。
「…あのね蓮」
「ん?」
「僕、蓮と出会えてから、毎日が楽しいよ。ずっと君のこと考えてる」
「…俺だって同じだ」
俺もずっと吾郎のこと考えてる。吾郎の笑顔を思い出す度に、身体が熱くなって心臓がうるさくなる。
けれど、それは不快なうるささではない。
「…ねえ蓮、これからも僕のところに来てくれる?」
吾郎の手が伸びてきて、頬に触れた。小さくて細い、けれど温かくて柔らかい手のひらの感触。
その手のひらを包むように、自分の手を吾郎の手のひらの上に乗せた。
「もちろん、ずっと行くよ。俺も、吾郎に会いたいから」
「…………嬉しい」
吾郎はまた、嬉しそうに頬を染めながら微笑んだ。
○ ○
様々な思い出と共に、夏休みは瞬く間に終わってしまった。
季節はすぐに秋の訪れを感じさせる、半袖半ズボンでは肌寒くなる気温になってきた。つい最近まで緑色だった木の葉は水気を失った茶色となり、そこら中に落ちている。そんな枯葉達を横目で見ながら、いつものように吾郎の元へ行く。
玄関のインターホンを押すといつものように吾郎のお母さんが応答して、出迎えてくれる。毎回笑って『いらっしゃい』と言ってくれる彼女だが、今日はあんまり元気がなかった。
「今日も来てくれてありがとうね雨宮くん。……でもごめんなさいね。あの子…また風邪がぶり返しちゃってて……」
「え……!?」
大きな声が出てしまい、咄嗟に両手で口を押さえた。
思い出すのは初めて会った春の日に苦しそうに咳き込む吾郎の姿だった。あの時も風邪だと言っていたし、あの日から半年間吾郎はずっと外に出ていないしパジャマ姿だった。体調を崩しているからと会えない日もあったし、体調を気遣って門限よりずっと早くの時間に帰って来た日も何度かあった。心臓が悪いという爆弾を抱えながら、ここまで短期間で何度も寝込む日もあると言われるとやはり心配だ。
「そんなに心配しなくていいの。純粋に季節の変わり目の寒暖差とか気圧に弱いだけだから。深刻な顔しなくても大丈夫よ」
「……そう、ですか」
それでも心配だし不安が残る。
でも、一番怖いのは本人のはずだ。俺が吾郎にとってそういう存在になれているかは分からないけれど、吾郎のそばに居てやれることでその不安が安らぐなら、そうしてやりたい。
「あの、吾郎のお見舞い…してもいいですか?」
「…ありがとう。あの子も喜ぶわ。貴方みたいな子があの子の友達で、本当に良かった」
お母さんは柔らかく微笑んだ。
この人の笑顔は綺麗すぎて、直視すると少し照れてしまう。吾郎の笑顔とそっくりなのもあるからだけど。
「雨宮くんだけは、吾郎の味方でいてあげてね」
「え?」
「私は……あの子の味方にはなれないから」
「……?」
どういう意味だろう。お母さんだって、充分吾郎のために色々してくれているだろうに。しかしそれを聞き返す前に、お母さんは何も言わずいつものように家にあげてくれた。
もうお母さんの案内はなくても吾郎の部屋の位置はとっくのとうに覚えている。階段をあがって、廊下の突き当たり。あんまり音を立てないようにゆっくりと扉を開けると、『ゲホゲホ』と吾郎の咳き込む声が出迎えた。
「……吾郎?」
吾郎は咳き込みながら真っ赤な顔のまま浅い呼吸を口から漏らしている。熱が高くて寝苦しいのかずっとその表情は苦しそうで、呼吸の合間には呻く声が混じる。
熱で火照った頬を触ると、やはりかなり熱い。春先で出会った時も、この高熱が引いた直後くらいだったのかもしれない。
「…ん…………ぉか……さん……?」
目を閉じていただけで起きてはいたのか、瞼がゆっくりと開いた。
熱で潤んだ瞳がこちらを向いて、目の前に居るのが母親ではなく俺だと気づいた吾郎は目を丸くする。
「蓮……?きて、くれた、の……? 」
「ん。大丈夫か」
「……うん………ごめん、ね……また熱出てちゃってて………」
「分かってる。無理して喋らなくていいから。熱つらいだろ」
「だけど……蓮がせっかく来てくれたのに……僕……」
「いいから。大丈夫だから」
「……蓮……」
吾郎は布団の中から出した手を伸ばしてくる。それを両手で包むように握った。
汗ばんでいて、かなり熱い。
「……蓮の手、つめたくて、きもちいい」
平熱の体温が心地良いらしく、吾郎は弱々しく笑った。
俺の体温が冷たく感じるとか相当熱高いんじゃないか、とか色々と言いたいことはあるが、あんまり不安にさせてはいけない。だから何も言わずに笑って頷いた。
吾郎はそんな俺の顔をずっと見つめて、何か言いたげな顔をしている。声に出そうと口を開いて、すぐに口を閉じる。それを繰り返していた。
「……吾郎?なにか飲みたい?」
もしかしたら喉でも乾いてるのかもしれないと尋ねてみる。
ベッドのそばに置かれたテーブルには体温計や水が入ったペットボトルとグラス、タオルと熱冷ましのシートの箱が置かれている。吾郎のお母さんが看病に使ったものだろう。しかし吾郎は首を横に振った。
違うならば、何を言いたいのだろうか。
「……蓮……あのね…」
「うん?」
首を傾げていると、ようやく言い出す気になったのか吾郎は真っ直ぐこちらを見ながら口を開いた。
「僕……蓮と……外に行きたい……」
「え……外に…?」
聞き返すと、黙ってこくんと頷く。
「今度は……蓮の部屋でお泊まりしたり……蓮と……色んな場所に行きたい……君と……一緒に街……歩きたい…」
「…吾郎」
「もう……蓮にしかこんなこと……話せない……ダメ……?」
すがるような眼差しで見つめられている。元々潤んでいた大きな瞳を今にも泣き出しそうなほど揺らしながら。
今まで吾郎は外に対して窓から外を毎日眺めるくらいには憧れはあれ、けれど『無理だから』と後ろ向きだった。そんな吾郎が、外に出たいとハッキリと口にした。
俺は吾郎のためなら、自分ができることならなんでもしてやりたい。外に出たいと言うならば連れ出してやったっていい。それで吾郎が喜んでくれるのなら。
両手で包んだ熱い手をぎゅっと握って、笑いかけてやる。
「いいよ。吾郎が元気になったら、一緒に外に行こう。色んなところ連れてってやる。俺の家、ここと比べたら遥かに狭いけど、母さんも父さんもきっと吾郎を歓迎してくれる。泊まりだって許してくれるよ」
「…ほんと…?」
「ああ。だから早く元気になれ。ずっと待ってるから。……な?」
「……………うん」
吾郎は薄く笑って頷いた。
俺が握った手を弱い力で握り返しながら。
「れん……そこに、いてね……」
頷きながら汗で湿った頭を撫でてやると、吾郎は安心したようにゆっくりと目を閉じた。それからすぐに口から漏れる息遣いが、すーすーという寝息に変わる。呼吸は相変わらず浅いけれど、苦しそうな顔は穏やかになっていた。
「…………」
完全に寝入ったその寝顔を見ながら、吾郎が元気になって二人で外に出かける──そんな日の光景を想像した。
手を繋ぎながら、色んなところを歩き回る。吾郎に行かせると迷ってしまうだろうから、俺がコイツの手を引っ張ってやるのだ。竜司と祐介も呼んで四人で沢山話をして、最後には俺の家に吾郎を連れてって。身体が小さい今ならあの狭い風呂も二人で入れる。それで母さんの夕飯を食べて、二人で俺の部屋で寝る。部屋のベッドも狭いけど風呂と同じだ。今の俺達の身体なら二人で寝れる。
それらを想像するだけで楽しいのだから、実行したら想像以上に楽しいだろう。きっと吾郎も同じ想像をしながら、胸を躍らせて俺が来るのを待っていたに違いない。
「……おやすみ、吾郎」
最後に握った吾郎の手を持ち上げて、その手の甲にキスをする。
早く吾郎が元気になりますように。そう願いを込めながら。
○ ○
十二月。季節は完全に冬に移った。
吐いた息は白くなり、吹く風は厚手のコートやマフラーを巻いてもなお冷たい。そんな寒い日だろうが関係なく今日も吾郎の家まで駆け抜けた。
インターホンを押して、いつものようにスピーカーからお母さんの声を聞く。開けられた門をくぐり、大きな玄関ドアの前に立つとガチャリと内側からドアが開いた。いつもはお母さんが笑顔で開けて出迎えてくれるはずだったが、今日は違った。
「蓮っ!待ってたよ!」
「吾郎!?」
ドアを開けたのは吾郎だった。
吾郎は基本的に部屋から出ることはない。これまで調子が良い時などは帰り際の見送りには玄関まで来てくれることはあったけれど、基本的には部屋で待ち構えているばかりで玄関までやって来て出迎えることはなかった。
それが今日は目の前に吾郎が居て出迎えている。それだけでも驚きだが、驚くポイントは他にもあった。
「その格好……」
今日の吾郎の格好は、パジャマ姿ではなかった。
ボタン付きの白いシャツの上に柄付きのベストと長ズボンという、しっかりと着込んだ格好だ。こんな服を着ている吾郎は初めて見る。いや、吾郎らしくて似合ってる格好だけれど。
「たまにはちゃんとした服着てる姿を君に見せたくて。ほら、寒いから中入ろ」
何度も視線を上下させながらガン見する俺に、吾郎は笑ってそう返した。
俺の手を取って、玄関側に引っ張り込む。靴からスリッパに履き替えて、吾郎に手を引かれるままリビングに向かった。
「ていうのは嘘」
「え?」
「病院から帰って来たばっかりなんだ。だから着替えてないだけ」
「そう、なのか」
「うん。今日が検査の日だったんだ。色んな検査したから時間かかっちゃって」
病院で検査だなんて書くとなんだか身構えてしまう。
ドラマの見すぎかもしれないけれど、病院の検査の結果、実は──というのはよくあるのだろうし。吾郎の場合は心臓をメインに検査したのだと思う。下手をすると命に関わる場合もあるのだから精密な検査をしたに違いない。
「結果、どうだったんだ?」
繋がれた手を握る力が自然と強くなる。
立ち止まって振り向く吾郎は驚いた様子だったけれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「安心して。良好って言われたよ」
「…りょうこ……?」
「『良かった』ってこと。だから大丈夫。僕は元気だよ」
「…っ! そっか…良かったな!」
「うんっ」
向かい合って両手を握り、笑い合う。
パジャマ姿じゃないというのもあって、吾郎がようやく普通に普通の元気な年上の男の子のように見えた。病気なんて無縁の、少し大人びた、俺の友達。
「先生にもね、蓮のことよく話すんだ。病は気からって言うじゃない?だから、蓮のおかげで元気になったんだねって言ってもらえたんだ」
「俺は何もしてない。全部吾郎が頑張って毎日生きてるおかげだろ」
「そんなことない。全部蓮のおかげだよ。だって、蓮のおかげで生きてるのが楽しいから」
そう言いきる吾郎の笑顔は、相変わらず晴れやかで眩しかった。
そうしてリビングでフワフワのソファーに座りながら吾郎と俺、そしてお母さんと三人で色々な話で盛り上がった。俺の話を二人が笑って聞いてくれて、お母さんが吾郎の昔話をしては顔を真っ赤にさせた吾郎が止めようとして、俺が笑う。そんな、和気あいあいとした幸せな時間。
しかし、そんな温かい空気は、やたら大きく聞こえた『ガチャン』という玄関扉の鍵が開く音が聞こえた瞬間にピタリと終わった。
鍵が開いた瞬間に、ついさっきまで笑顔だった吾郎とお母さんの顔が一気に強ばったからだ。お母さんは跳ねるように立ち上がって小走りでリビングから出ていき、吾郎は表情を曇らせて俯いた。
『おかえりなさい。今日は帰られないと聞いていましたけど……』
『荷物を取りに来ただけだ。すぐに用意をしろ』
『わ、分かりました…』
扉の向こうから、そんな冷たい会話が聞こえる。
聞き覚えのある男の声と、お母さんのどこか緊張したような声。ドスドスという足音の後、その扉が開いた。隣に座る吾郎の息を飲む声がした。
「あ……」
扉を開けて入ってきたのは、テレビで見慣れた獅童正義議員本人だった。
テレビで見るより大きくて、威圧感が凄まじい。部屋に入っただけだというのに、息が苦しくて、空気が重く、冷たくなった。
これまで春から今日までの半年間、吾郎の家には何度も来たけれど父親である彼とこの家で会うのは初めてだった。真っ先にそのサングラス越しの視線と目が合って、身体が石のように固くなった。
「誰だ貴様は」
吾郎の友達として、父である彼に挨拶をしないといけない。だけど声を出そうとして、でも声が出なくて、言葉が詰まってしまった。
「ぼ、僕の友達。遊びに来てくれるんだ。……ね?蓮。そうだよね?」
「あ…、う、うん。あ…雨宮、蓮、です。いつも、お邪魔、してます」
吾郎が咄嗟に背中に手を回して助け舟を出してくれて、ようやく声が出た。だけど、それでも声は酷く震えていた。
しかし既に俺への興味を無くした獅童議員は、こちらの挨拶の返事もせずその冷たい眼差しをすぐに吾郎に向けた。
「吾郎、お前はなぜここに居る。検査は終わったのだろう。大人しく部屋で寝ていろ」
「で、でも……武見先生はずっと寝てなくても大丈夫だって言ってた……」
「安静にしている前提の話だろう、それは。いいから部屋に戻れ。身体に障る」
「………………。僕だって…たまには友達と…ベッドの上じゃない場所で話したいよ…」
今の言葉は、吾郎の精一杯の願いだったはずだ。だからこそ、玄関から出迎えてくれたあの瞬間からずっと吾郎は楽しそうに、嬉しそうに笑っていた。
だというのに、それを父である彼は聞き入れず、『ハァ……』と露骨に大きな溜息をついた。
「言わねば分からんか?私はそのような何処の馬の骨とも知らん貧乏臭いガキと話すほどの無駄な時間があるのならば書斎にある本の一冊でも読んでおけと言ったのだ」
「っ!蓮のこと悪く言わないで!」
「外に出ないお前がまともに他所の人間と接する機会などいつあった?どうせそのガキが勝手に忍び込んだのだろう。そのようなまともな教養もないドブネズミが友などと、二度と口にするな」
「……っ…。お父さんの言うことでも、それだけは聞けない。蓮のこと何も知らないくせに、大切な友達の悪口を言うのは許せない」
「…吾郎、貴様…」
吾郎は真っ直ぐと父を睨みつけた。普段は温和な吾郎からは考えられないほどの明らかな敵意を実の父親に向けている。しばらく空気が凍った親子の睨み合いが続くと、吾郎は俺の手を取って立ち上がった。
「……蓮。まだ寝ないし、着替えないけど。ここに居るよりよっぽどマシだから、僕の部屋に行こう」
「え…でも」
「いいから!」
グイッと強い力で引っ張られて、引きずられる勢いで手を引かれたままリビングを後にする。去り際に獅童議員の横目と視線が合う。一瞥しただけ呼吸を忘れてしまうくらいの鋭い視線に耐えられなくて、すぐに逸らしてしまった。
逃げるように早足で階段を上がり、吾郎の部屋に二人で入る。扉を閉めた途端に吾郎は今にも泣き出しそうな顔で俯いた。
「……ごめんね、蓮。嫌な思いさせて」
「別に……いいよ。勝手に侵入したのは事実だし…お前からだって似たようなこと言われたし」
「そうだけど……でも、それでも酷いよ。あそこまで言わなくたって」
言いながらムスッとした様子で口をへの字にしている吾郎は未だに怒りが収まらないらしい。前に励ましてやった時もかなり怒ってたけど、あの時とは違う。本当に怒りを顕にしている顔だ。
お母さんもなんだか縮こまっていた様子だったし家族仲はあんまり良くないのかもしれない。俺のために怒ってくれるのは嬉しいけれど、ただでさえ悪めの空気を俺のせいで更に悪化させたくはなかった。
「あの人なりにお前のこと心配してるんだろ。言い方はちょっとアレだけどさ」
「…………多分、そんな単純な話じゃないよ」
「…? それ、どういう意味だ?」
「あの人、今……僕の心臓の手術をしてくれる医者を探してる。成功すれば根治は無理でも人並みに動いても良いようにはなるらしくて」
「そうなのか!?」
咄嗟に吾郎の両肩を掴んだ。
それは夢のような話だった。だって、その手術が成功すればきっと吾郎は外に出ることも、学校に行くこともできるはずだから。
吾郎は驚いたように目を丸くしていたが苦笑して、その後すぐに俯いた。
「でも、きっと……手術したら蓮とは会えなくなると思う」
「…え…な、なんで…」
「僕が元気になったら、お父さんは本格的に僕を世襲させるために動くと思うから。今以上に自由じゃなくなるよ」
「せ…しゅう……?」
「あの人の息子として、あの人の名前を借りて、僕も議員になるってこと。元々そういうつもりで僕に色々言ってくるんだ。今は身体のこともあるから、本を読めだの勉強しろだので済んでるけどね」
スケールが違いすぎて空いた口が塞がらなかった。
吾郎が国会議員?あの吾郎が、大人になったらニュースでよく見るおじさん達の話し合いの場に参加するってことか。
「それ、凄いって言うべきなのか?」
「凄いか凄くないかと言われれば凄い部類に入るとは思うけど……柄じゃないよ。僕には絶対向いてない」
「まあ…… 確かに。想像はしにくいけど…」
「それにお父さんの政治家としての考え方、あんまり好きじゃないんだ。春日部統志郎さんとか吉田虎之助さんみたいな、しっかり国民の目線で考えてくれる優しい人達の方が僕は好感が持てるかな。こんなこと言ったら、思いっきり叱られそうだけどね」
言いながら、吾郎はアハハ……と苦々しく笑う。
「そんなの嫌なら嫌ってハッキリ言えばいいんだ。やってられるかハゲ!!くらい言い返してやればいい」
「え……」
目を丸くした吾郎がこっちを向いた。
キョトンとした顔でジッと見つめられる。何かおかしなことを言っただろうか?
「ハゲ……?お父さんが?」
「うん。だってツルッツルのハゲ頭だろ。あれ風強い日とか寒くないのかな」
「…………………………」
「吾郎?」
「…………ふっ。……ふふ……ははっ………あははは!」
ずっと黙り込んでいた吾郎は突然吹き出して、そのまま大笑いし始める。
ますますよく分からない。頭の上にはてなマークが沢山浮かんでるのが自分でも分かる。
「俺、そんなおかしなこと言ったか?」
「あはは!言ったよ……!お父さんのことハゲってストレートに言う人……ふふ……初めて見た……ふ……ははっ!あははは!」
よほどツボに入ったのか、お腹を抱えて蹲ってしまった。
半年間ずっと吾郎を見てきたけれど、ここまで爆笑している吾郎は初めて見た。そんなに?どう聞いても父親の悪口なのにそんなに面白かったのか?俺は今、正直軽く引いている。
それからしばらく笑い続けてようやく笑いが収まったのか、吾郎は『はぁー……』と深呼吸しながら目尻に溜まった涙を指で拭った。
「……ごめん、ありがとう。こんなに笑ったの久しぶりだよ。やっぱり蓮は面白いね」
「いや……まあ……うん……ありがとう……」
こんなことで褒められても嬉しくない。どんな顔で返事すればいいんだよ、こういう場合。
「なあ。お父さんのこと、そんなに苦手か?」
「………………。苦手って言うか……」
話題を変えるべく聞いてみると苦笑しながら目を逸らされた。まあアレを前にして苦じゃないって言う方が凄いのだが。
しかし色々と『苦手』と断定できるような思い当たる節があり、相当な鬱憤も溜まっているのか、吾郎は再びムスッとした不機嫌そうな顔になる。
「…あの人、何かあるとすぐお母さんに怒鳴りつけて酷い時は叩いたりしてる。僕のことだって、自分の後継ぎとしか見てない。捨てられてないだけマシかもしれないけど、家族として見られてないのもどうかなって思う時はある。それだけだよ」
「…そうなのか」
俺の両親も、そりゃあたまに喧嘩するときもあるけど、すぐに仲直りする程度のものだ。吾郎の家のように冷めきった関係ではいないから。親の仲が悪いなんて、想像しただけで憂鬱になる。仲が悪いの次元すら超えているなんて考えたくもない。
「お父さんはずっとああだし、お母さんも家政婦さん達も皆、お父さんの言いなり。だから誰も僕の味方してくれないんだ」
「でも、それはお前の身体を心配してるからだろ」
「それは分かってる。でも僕だって、学校に行きたい。好きな時に好きな場所に行けるようになりたい。閉じ込められて、勉強だけはさせられて、お父さんの言いなりになるだけの人形にはなりたくない。籠の中でしか生きられない小鳥になんかにはなりたくないよ」
「…吾郎」
「だから、蓮。お願い。僕を外に連れてって」
両手を掴まれて真っ直ぐ見つめられる。
吾郎の赤茶色の瞳の中に、自分の顔が映っているのが見えた。
「一回だけでいいんだ。君と一日、一緒に外を歩ければ、それでいい。そうすれば、もう満足だから」
その眼差しは真剣だったけれど、それと同時に不安で揺れていた。
ここで吾郎の願いを断れば、吾郎には完全に味方が居なくなってしまう。
「(…あ…そうか……)」
だからあの時、吾郎のお母さんは言ったんだ。『俺だけは吾郎の味方でいてあげてほしい』って。
あの人は、あの父親の命令に逆らえないから。吾郎の側に立ってあげられない。
「………一回なんて言わずとも、何度だって連れ出してやる」
もちろん言われなくたって俺はいつでも吾郎の味方だ。あの父親がどれだけ怖くても負けられない。俺だけが吾郎を守れるのなら、俺は世界の全てから吾郎を守ってみせる。
「だから行こう、吾郎。色んな場所に、二人で」
「……うん」
安心したように微笑んだ吾郎はゆっくり頷く。
「ありがとう、蓮」
そして、そっと抱きしめられた。背中に回された腕は弱い力ながらも強く俺の身体を抱き寄せる。もうそこにしか縋るものがないかのように。
だから俺も、吾郎の細い身体を抱きしめ返した。もうお前を一人になんかさせないと、この身体で伝えるために。
○ ○
決行日はそれから間もなく。
獅童議員は朝から居らず夜まで帰らない、家政婦さんが休みでお母さんだけが家に居る日。吾郎が家にないものを要求してお母さんを出掛けさせる。その間に外に出ようという、そういう計画を吾郎から聞かされた。
吾郎曰く、『俺が来ない、体調が悪くてベッドに寝込んでいる日』を演じるらしい。お母さんは、余程のことが無ければ吾郎の部屋に入るときは必ずノックをして、勝手に入っては来ない。それこそ、大人しく寝ているはずの吾郎の部屋から声や大きな物音でもしない限り。だから、返事をしなければ寝ていると判断して引き返すのだそうだ。それを利用して、時間を稼ぐ。そして帰宅時は気分が良くなったからとベッドから抜け出してあの広い庭で少し散歩をしていた風を装って、自然に家に入る。多少は怒られるだろうが些細な説教で済む。
そんな、吾郎が長年家に居て、大人達の動きをしっかり観察して把握していたからこその計画。それは頭の良い吾郎が考えた案だけあって俺が口出しする必要がないくらい完璧なプランだった。
そんな俺は吾郎の家の外で待機してその時を待っている。しばらくするとお母さんが小走りで家を出ていく姿が見えた。計画通り。これで吾郎の家には今、吾郎以外誰も居ない。
それから間もなく、冬服を着込んだ吾郎が玄関から出てきた。鍵を閉めて、こちらにやって来る吾郎に駆け寄る。
「待たせてごめんね、寒くなかった?」
「大丈夫。吾郎こそ寒くないか?」
「うん、平気」
「でもまた風邪引いたら大変だから、これやる」
持っていた袋から取り出したマフラーを吾郎の首の周りにグルグルと巻いてやる。
グレーの中に赤と黄色と緑のラインが入ったマドラスチェックの、大人用の長いマフラー。今の吾郎には流石に長すぎたらしく、巻いたマフラーで鼻まで隠れてしまった。
「あったかいだろ」
「…うん。でもこれ、どうしたの?新品だよね?」
「ちょっと早いクリスマスプレゼント。誕生日、何も渡せなかったから」
吾郎の誕生日が六月二日だということを知ったのは当日をとっくのとうに過ぎたタイミングだった。だからプレゼントを渡そうにも渡せなくて、もう少し早く聞いておけば良かったと後悔したのを覚えている。
だから家で風呂やトイレ掃除、夕飯の手伝い、肩たたきとなんでもやって母からも父からもそれぞれ小遣いを稼いだ。だけどそれでも小学生の手伝い程度で稼いだ小遣いなんて底が知れてるから、二千円くらいの安いマフラーしか買えなかった。でも、柄には自信がある。デパートで見て真っ先に吾郎に似合うと思って買ったのが、今吾郎の首に巻かれたマフラーだから。
「似合ってる。吾郎に合うと思ってその柄にしたんだ。まあ、安いやつだけど」
「…ううん。安物とかそういうの関係ないよ。凄いあったかいし、嬉しい。……絶対大人になるまで大切に使うよ。ありがとう、蓮」
マフラーを顔に埋める吾郎は嬉しそうに笑っている。そんな姿が可愛く見えてしまい、なんだか照れくさい。ポリポリと頬を掻いて、誤魔化すように吾郎の手を取った。
「早く行こう。時間なんてあっという間に過ぎるぞ」
「うん、そうだね」
頷いて、最後に吾郎は振り返って自分の家を見上げた。長らくずっとあの家の中に居た吾郎にとっては、この景色は色々と思うことがあるのかもしれない。
しかしすぐに向き直って『行こう』と促したので、二人でその場を後にした。
「どこに行きたい?」
「じゃあ、蓮がいつも行ってる学校を見てみたい」
「学校?今日は休みだから開いてないぞ」
「いいんだ。見たいだけだから」
「……まあ、吾郎がそこまで言うなら」
吾郎の家は通学路から外れた道を行った先にある。だから逆を言えばその外れた道まで戻ってしまえば通学路に入って、学校なんて目と鼻の先だ。
三十分も経たないうちに二人で毎日通う学校の前までやって来た。当たり前だけど校門は閉まっている。
「…あれが、蓮がいつも行ってる学校なんだね」
門を挟んで校庭の更に先にある校舎を吾郎はジッと見つめている。
その横顔は「ようやく見れた」という顔つきだ。
「吾郎も同じ学校じゃなかったのか?」
「ううん、私立のもう少し広いところ。行ってた頃は車で送迎されてたから徒歩でなんか絶対行けないよ」
そういえば吾郎は金持ち坊ちゃんだったなとふと思い出す。
しりつとか、そういうのはよく分からないけれど。吾郎の頭の良さを考えると俺なんかがそこに行ったら授業の内容なんて一秒も付いていけないんだろうなとは思う。
「僕も蓮と同じ学校が良かったな。…まあ…同じでもその学校に行けなきゃ意味無いんだけど…」
「学校が同じだって授業中は一緒にいれない。なら学校がない時間で会う方がいい。それだったら学校なんて関係ないだろ」
「…そうだね」
「ほら。気を取り直して次の場所行こう。次はどこに行きたい?」
「どうしても行きたかったのは、蓮の学校で終わり。僕、外出る時って大体車だったからこの辺って何があるか知らなくて」
「じゃあ俺が知ってるところ色々案内する。それでいいか?」
「うん」
こくんと頷く吾郎の手を引いて、学校から移動する。
それからいつも竜司達と遊んでいる公園や、図書館、商店街などに連れて行ってやると吾郎は分かりやすく目を輝かせていた。
俺にとっては見慣れた光景だけど吾郎にとっては初めて見る光景なのだろうし、なんだか見ているこっちの方が楽しくなってくる。
特に家では本を読んでばかりの吾郎にとっては図書館なんて食べ放題のレストランに来たような気分になったに違いない。そのまま図書館で本を読むだけの時間を過ごすのもアリだったかもしれないけれど、今は吾郎に外の世界をもっと見せてやりたかったし、吾郎もそう思っていたようで図書館の中に居る時間は短かった。
「蓮は毎日こういう景色を見てるんだね」
「ああ。でもまあ、図書館はあんまり来ないけど」
「うん、そんな気はしてた。君が漫画以外の本を読むってイメージつかないし」
サラッと悪口を言われたけれど、怒る気にはならなかった。
それだけ吾郎の顔がずっと楽しそうに笑っているから、なんかもう、『まあいいや』となってしまって。
「ねえ、蓮。行きたかった場所、やっぱりもう一つあった」
「どこだ?」
「蓮の家。君が毎日暮らしてる君の部屋が見たい」
「俺の部屋?」
「…ごめんね、遠回りになっちゃったかな」
吾郎は申し訳なさそうに眉を下げる。
確かに今居る場所から自宅に向かうとなると少しだけ時間がかかりそうだ。だけどまあ時間はまだあるし、俺の家から吾郎の家までの距離も遠いわけじゃないし、とりあえず今日は軽く見るだけ程度に留めておけば遅い時間にはならないだろう。いつかは吾郎だって俺の家に泊まりに来るのだ。俺としても見てせおきたい。
「確かにここからだとちょっと遠いけど大丈夫だ。じゃあ行くか、俺の家」
「うん!」
吾郎の手をぎゅっと握ると、吾郎も笑顔で握り返してくる。
人通りの多い道で離れ離れにならないように、しっかりと握りながら自宅の方まで道を引き返そうとして
「…吾郎君?君、吾郎君だよね?」
男の人に話しかけられた。しっかりとスーツ姿を着込んだ知らない大人。
彼の目は真っ直ぐ吾郎に向いていて、吾郎もその人のことは知っているらしく顔を見上げながら顔を強ばらせていた。
「…杉本……さん……」
「やっぱり吾郎君だ。どうしてこんな所に居るんだ?身体は良いのかい?」
「あの、それは、その……」
どうやらお互いにそれなりに顔見知りらしい。杉本と呼ばれた大人の問いかけに吾郎は困ったように口ごもっている。
「ちょっと待ってね。今先生に確認してみるから」
「……っ!」
杉本の口から出た『先生』という言葉に吾郎が分かりやすく息を飲んだ。そんな吾郎に目もくれず、杉本はポケットから取り出したスマートフォンで迷いない動作で誰かに電話をし始める。
「もしもし、杉本です。お忙しいところ申し訳ありません先生。…実は今ご子息と街中で会いまして…え?ああ、はい。そうです、吾郎君が今…目の前に…」
杉本は目でこちらの様子を伺いながら電話の向こうの誰かに吾郎の事を教えている。今までの言葉から察するに吾郎の身体のことを知っていて、それなりに面識がある人というのは分かるが、俺にはそれだけしか分からない。一体どうしたものかと立ち尽くしていると、吾郎が腕をグイッと引っ張った。
「……蓮、逃げよう」
「え?」
静かに言いきる吾郎の顔に先程までの楽しそうな様子は消えていた。青ざめた顔のまま、真剣な眼差しでこちらを真っ直ぐ見ている。
「いいのか?お前の知り合いなんだろ」
「……知り合いだから逃げるんだよ。あの人、お父さんの部下なんだ。今お父さんに連絡してる」
「……!」
「…今回の計画はお父さんが家に居ないのが前提なんだ。お父さんに知られたら即刻連れ戻されて、君にまで迷惑がかかる」
「なら……あの人に知られたら……」
「……………」
その先の言葉の内容は、言わずとも吾郎の表情が物語っていた。杉本は電話の向こうに怒鳴られているらしく、スピーカー越しから怒鳴り声が聞こえる。
「……正直、こうなった以上お父さんに知られた事実は変わらない。後で色々言われるのもどうやっても変えられない。なら、今連れ戻されるくらいなら、一秒でも長く君と一緒に居たい」
「………吾郎」
「お願い……蓮……」
ぎゅっと握られている手の力が強くなる。
俺を見つめる吾郎の顔は、いつか外に連れ出してほしいと言ってきたあの時の顔と全く同じだ。不安に揺れる、大きな赤い瞳。
だったら、俺に出来ることは一つしかない。俺はいつだって、吾郎の味方だから。
「…走るぞ。いけるな」
「…………。うん」
吾郎より強い力で手を握り返して、尋ねる。
俺の問いかけに吾郎は一瞬だけ目を見開かせたけれど、すぐにこくんと頷いてくれた。
ならば、立ち止まっている時間はない。杉山が一瞬だけこちらから目を逸らしたその隙に、吾郎の手を引きながらその場から駆け出した。
「あっ……!待ちなさいっ!吾郎君!!」
後ろから杉山の声が聞こえるが、一切振り向かず走った。しばらく走ったところで横断歩道の信号が赤になり足止めを食らってしまう。竜司とよくかけっこをしているから走り慣れてるおかげで多少の深呼吸で息は落ち着いたが、吾郎は膝に手を置いてぜーぜーと酷く息を切らしている。
「吾郎、大丈夫か!」
「……、…うん……だいじょ…ぶ……」
口ではそう返しているが、引きつった笑顔はだいぶつらそうだ。ずっとベッドの上の住人だったようなやつがいきなり全力疾走なんて、そんなのつらいに決まってる。
本当に大丈夫なのか、そう聞こうとしたところで遠くから杉山の声が聞こえた。信号のせいで追いつかれた。
『……郎君!……まれ!!それ……るのは……だ!!』
杉山の声はよく聞き取れない。しかしその顔は異常に焦ったように見える。きっと獅童議員に吾郎を捕まえろとあの強い態度で言われたのだろう。
「……蓮っ…!」
そんな杉山を遮るように吾郎が声を上げたのと、信号が青に変わるのは同時だった。
「っ!」
とにかく走り続けた。
走れば走るたび、腕を引かれて後ろを走っている吾郎の表情が苦しげになっていく。最初の方こそ息を切らしながらもちゃんと返事をしていたが、今はもう問いかけても首を縦に振るだけで精一杯という様子だった。
こちらも流石に体力が限界に近い。そろそろどこかで止まって休もうと、立ち止まって辺りを見渡す。少し先を行ったところに車が何台か停まっている駐車場が見えた。あの陰に隠れて、杉山が通り過ぎるのを待とう。
「…吾郎。もうちょっと、頑張れ」
「………っ…」
小走りで駐車場に入り、停められている車の後ろに入る。
吾郎は立ち止まるなり崩れるように地面に座り込んだ。相当走って来たのだから、キツいに決まってる。少し休ませてやろう。
車の影から来た道を覗き込むと、間もなく追いかけてきた杉山がやって来る。彼も相当長く追いかけて来ているから、相当息が上がっていた。辺りをキョロキョロと見渡して俺達を探している。しかしこちらに気づくことなく、杉山はそのまま走り去って行った。
「……良かった……アイツ、どっか行った…っ…。逃げきれたな…」
肩で息をしながら吾郎に声をかける。座り込み、胸に手を当てながら蹲る吾郎から返ってきたのは、ハ、ハ、という荒い呼吸の声だけ。
「……吾郎?」
少し、その呼吸が変だなと思った。いくらなんでも、息が上がりすぎだ。もう走ってないのだから少しずつでも呼吸は楽になるはずなのに、吾郎の呼吸はどんどんと悪化していく。
「……吾郎?大丈夫──」
肩に手を置いて軽く揺さぶる。
本当に軽く揺さぶっただけなのに、その身体はそのまま地面に倒れ込んだ。
「吾郎!?おい!」
呼びかけても返事はない。
「…う…っ……ぐ…」
返ってくるのは僅かに漏れた何かがつっかえたような。そんな声だけだった。
両手で胸を押さえながら身体が丸まっていく。そのマフラーの隙間から見えた顔は尋常ではないほど苦しみに歪めていた。まるで息ができていないかのように。
「…ぁ……っ…………ぅ……」
……違う。
本当に、まともに息が出来ていないのだ。息を必死に取り込んでばかりで、吐けてない。胸も押さえてるということは心臓が痛いのかもしれない。
「吾郎!吾郎っ!!」
何度呼びかけても苦しそうな顔と声しか帰ってこない。
どうしよう、どうしよう。息もできなくて、心臓もおかしくなったらそんなの。このままじゃ、吾郎が。
「………れ…………っ……」
不意に吾郎が苦しげな顔のまま、ゆっくりと目を開けた。
痛みと苦しみで涙で潤んだ瞳がこちらを見て、俺の名前を呼ぶ。しかしすぐにその目は閉じられて、胸を押さえていた両手が力を失って地面に落ちる。
……全身の血の気が引いて、喉がヒュっと鳴った。
「吾郎!吾郎!!目を開けろ!吾郎!!吾郎ッ!!」
何度も何度も揺さぶって、大声で名前を呼び続けた。
けれど吾郎は返事をしない。今にも消え入りそうな僅かな息を漏らすだけ。視界が歪んで、ポタポタと涙が落ちる。それでもずっと吾郎の名前を呼び続けた。
「吾郎…!吾郎ぉ……!!」
それからすぐに、俺の声を聞きつけて戻って来たのであろう杉山が駆けつけてきた。すぐに事態を把握したその人は、持っていたスマートフォンを使って何処かに連絡する。電話が終わるなり杉山はずっと吾郎の胸を両手でどんどんと押していた。しばらくそれが続いた頃に遠くからサイレンの音が聞こえ始めて、それからのことはもう、あんまり覚えてない。
ふと気づいた頃には大きな病院の、長いソファーに座っていた。
吾郎は病院の人に連れられてあっという間に見失った。歩き回って探す訳にもいかず、かと言って吾郎を置いて帰りたくもなくてここに座ったんだと、後からじんわりと思い出した。
「……雨宮くん、良かった。ここに居たのね」
声をかけられて顔を上げれば、そこには吾郎のお母さんが居た。飛びつくように立ち上がり、彼女の服の袖を引っ張った。
「吾郎……吾郎は!?」
「落ち着いて。大丈夫、吾郎はもう落ち着いたから」
両肩にそっと手を添えられて、優しく告げられる。そんなお母さんの微笑みに安堵のあまり再び涙が溢れた。俯いて涙を手の甲で拭い続ける頭をそっと撫でられる。
「あの……ごろうに…っ……あえますか……」
鼻水を啜り、鼻声になりながら尋ねる。
お母さんはゆっくり頷いて『行きましょうか』と言ってくれた。
お母さんに手を引かれながら、病院の中を歩き続ける。
やがて一つの扉の前にやってきて、お母さんの足が止まった。この扉の向こうに吾郎が居るのだ。
お母さんが扉を横にスライドさせて開ける。開かれた扉の先で、ベッドの上に寝かされた吾郎よりも先に、その手前に居る獅童議員の後ろ姿が目に入った。
「……やはり。一緒に居た子供というのは貴様だったか、小僧」
ゆっくりと振り返る獅童と、向かい合う。
前に家で対面した時よりも鋭い視線で見下ろされ、呼吸を忘れた。
「あ、の…吾郎、は…」
「………」
問いかけに獅童は答えず、視線だけを背後の吾郎に向けた。その視線を追って、獅童の後ろに置かれたベッドの上に居る吾郎を見た。
白いベッドの上に寝かされた吾郎は、病院のドラマなどでよく見る呼吸器を口元に装着され、静かに眠っている。腕からは吊るされた点滴と繋ぐ管が伸びていて、傍らに置かれた機械が延々とピ、ピ、と音を鳴らしている。たぶん、心臓の動きに合わせて動いてるやつだ。
その顔は先程まで苦痛に歪めていたのが嘘のように穏やかになっていて、呼吸器が曇るタイミングに合わせて胸がゆるやかに上下に揺れていた。
苦しそうじゃない。息もできている。心臓もおかしくない。お母さんの言う通り、落ち着いている。ホッと胸を撫で下ろした。一度は最悪の想像をしてしまったけれど吾郎は無事だった。
本当に良か──
「まさか。『良かった』、などと調子の良いことを口にするつもりじゃないだろうな?」
冷たい声が上から降ってくる。
恐る恐る見上げると、獅童はずっとこちらを見下ろしている。その目には怒りと敵意、殺意まで含まれている気がした。
「貴様、分かっているのか?なぜ吾郎がこうなったのかを」
「え……」
「何故吾郎を毎日自室から出れない生活を送っていると思う?身体を動かせば動かすだけ心臓に負担がかかる。そうなれば発作が起きて呼吸困難に陥るのだ。……今回のようにな」
「……っ!」
『今回のように』という言葉が重くのしかかった。
頭によぎったのは先程の呼吸ができずに苦しんでいた吾郎の姿だった。
「以前も似たようなことがあった。愚か者が授業の一環だからとこいつを無理やり走らせてな。それからはもう登校させることを許していない。その方が負担が少ないからな。知識を伸ばすだけなら家でも出来る。ガキ同士のくだらん馴れ合いなど不要だ」
確かに言っていた。
学校で倒れたことがある。それからはもう行っていないと。
「今の吾郎にとって『走る』という行動は他の何よりも自殺行為に等しいことだ。それを貴様は随分と長い時間を無理やり走らせていたらしいな」
「……うっ…!」
突然胸ぐらを掴まれた。
小学生程度の小さな身体は、大人の腕力によってあっさり持ち上がる。
「正義さん!」
お母さんの静止の声など聞こえていないかのように獅童は顔を寄せて睨みつけてきた。視界いっぱいに映る鋭い目が全身に突き刺さる。
「よく聞け小僧。お前が吾郎を誑かし、外に連れ出した。その結果がこれだ。杉本の発見が少しでも遅れていたら吾郎はあのまま死んでいた。分かるか?貴様が吾郎を死の淵まで追いやったのだ」
「……ッ!」
「まったく、そんなことも知らずに今まで過ごしていたとは『大切な友達』が聞いて呆れる。だから縁を切れと言ったのだ。こうやって懐いた友達とやらに殺されかけているのだからな」
「正義さん、そんな言い方はあんまりです……!!彼は、吾郎のためを想ってくれたんですよ!?」
「黙れ!!」
俺を離そうと駆け寄ったお母さんを、獅童は腕を振るって突き飛ばした。短い悲鳴と共にお母さんが壁にぶつかって、崩れ落ちる。
「お前もお前だ!家に居ながらどうしてこうなった!!子供一人まともに監視できないくせに偉そうに口答えするな、使えん女が!!」
「……っ、うっ……ぅぅ……!」
お母さんは両手で顔を覆い、肩を震わせた。
掴まれた胸ぐらを離され、ドスンとゴミのように床に落とされる。
「小僧。貴様に友を殺しかけたという自覚を持つ知能があるのならば、今日を最後に金輪際息子には関わるな。別れの挨拶をする時間くらいはくれてやる。それを終えたらすぐに帰れ。分かったな」
もうお前なんかには用はない、と言うように獅童はそのまま病室を出ていった。残ったのは吾郎の心臓に合わせて鳴る機械の音と、お母さんの嗚咽の声だけ。
「……………」
ゆっくりと立ち上がって、吾郎のそばまで行く。
安からに眠る吾郎は目覚める気配がない。きっと症状を抑える薬とかを色々打たれて、少なくとも今日起きることはないのだろう。
手を伸ばし触れようとして、伸びる手が止まった。
「(俺にはもう、触れない……)」
触れるわけがない。
獅童の言う通り、俺は吾郎を殺しかけたのだから。
『僕、外出れないから』
『心臓がちょっと良くないんだ。だから外に出るなって言われてるの』
『僕のはね、規則正しく動いてくれないんだ。ひどくなると息が出来なくなって、苦しくなっちゃうの』
そう話す吾郎は、寂しそうで、だけど『仕方ない』と諦めていたようだった。
当たり前だ。外に出たら走ることもある。そうなったら、走った分だけ鼓動は速度を上げて、負担がかかる。だから、『息ができなくなって、苦しくなる』んだ。
そんなの言われなきゃ分からない、なんてのは言い訳だ。ちゃんと考えれば分かりきった事だったのだから。
少し走っただけであんなに辛そうにしていたのは純粋に体力がないだけの話じゃなかった。『大丈夫』と息を切らしながら引きつった笑顔で返していた吾郎は、本当は走る時点で大丈夫なんかじゃなかったんだ。
「……吾郎」
外に出ようと言ったのも、走って逃げようと言ってきたのも全部吾郎だ。だけど、それを止めてやるのが俺の役目だったんじゃないのか。
吾郎の友達として、唯一の味方として、吾郎にしてやれることは身体を大切にしてやる事で。離れないよう手を引いてやるんじゃなくて、背負ってでも安静にしていなければならない脆い身体を守ってやるべきだったんじゃないのか。
俺がしたことは味方のフリをして結果的に吾郎を死んでしまう直前まで追い詰めてしまった。
「……っ…………」
そんな奴が、どの面下げてまだ吾郎の味方を、友達を名乗れるのか。
「……おれ……おまえに……っ……ごめん………ごめん…っ…」
涙は止まらなかった。
腕で拭っても拭っても止まらなくて、喉がひくつき始める。
「う……ぅ……っ……」
吾郎の全てが好きだった。
柔らかい茶色い髪も、綺麗な赤い瞳も。
太陽のように笑う顔も、真っ赤な顔で怒る顔も。
普段あんなに大人びて賢いくせに変なところで子供っぽいところも。俺の話をいつも楽しそうに聞いてくれて、俺の知らない難しいことまでなんでも知ってるところも。
勉強を見てくれて、先生よりも分かりやすい解説で教えてくれた。テストでいい点が取れたと報告すれば、アイツもまた自分の事のように嬉しそうに笑ってくれた。
春に出会ってから今日まで、本当に楽しい一年間だった。
だけど、それは俺の手で壊してしまった。
もう吾郎には会えない。会っちゃいけない。会うことなんか、もう許されない。
「……っ…吾郎…」
呼んでも返事はない。
涙で歪んだ視界は吾郎の顔をしっかり見させてくれない。
だけど、お別れを言わなくちゃいけない。たとえ本人の耳に届かなくても。
「……ばいばい」
きっと、吾郎はまた部屋の中に閉じ込められる生活に戻ってしまうだろう。そうしたらまたコイツはつまらなそうに窓辺に立つ毎日を過ごすに違いない。
俺はお前を救ってやることはできなかった。味方になることはできなかった。
「雨宮くんっ……!」
お母さんの声も聞こえなかったふりをして、その場から逃げるように駆け出した。
病院は家から近い場所にあるところだったから、一人で帰れる。
「……っ…!」
止まらない涙を拭うことはとうに諦めて。
涙で歪んだ視界のまま、走って走って、走り続けて。
家に帰って、自室の薄っぺらいベッドに倒れ込んで。
「うああああ……っ……!」
声を上げて泣き続けた。
本当に泣きたいのは吾郎のはずなのに。図々しく。惨めに。
○ ○
冬が過ぎ、春になった。
一年前の今日、俺は初めて窓辺に立つ吾郎の姿を学校の帰り道で見上げた。
吾郎に別れを告げてから一度も吾郎には会ってない。家にも行ってなかった。だけど今日だけは、勝手に足が吾郎の家に向かってしまった。
もちろん本人に会うつもりはない。遠目で、あの屋敷を見るくらいで済ませるつもりではあった。
吾郎の家の桜の木は、またピンク色の花を咲かせていた。
見つからないよう隠れながら、その景色を見上げる。
「……!」
その桜の花びらの陰に隠れていた吾郎の部屋の窓が、その窓辺に立つ吾郎の姿が見えてしまった。パジャマにカーディガンを羽織るという見慣れた姿だ。
ひとまず無事に退院できたんだな、という安堵があった。あれから意識を取り戻した吾郎が両親からどんなことを聞かされたのかは知る由もないけれど、退院できて、窓辺に立てるほどの元気はあるようで良かったと思った。
初めて見た日と変わらない寂しそうな。それでいて少し必死な顔。そんな顔のまま吾郎は顔を左右に動かしながら外を見渡し続けていた。
……まるで、『放課後であるこの時間帯に来るかもしれない誰か』を探すように。
その『誰か』が誰なのかを考える事はしなかった。考えてはいけないことだから。
やがて待ち人は来ないのだと諦めたのか、吾郎は泣き出しそうな顔のままバタンと窓を閉めて、姿を消した。ベッドの上に戻ったのだろう。
「……………………」
もう、正真正銘来るのは最後にしようと思った。きっと、それが吾郎のためになるはずだ。俺なんかのことは忘れて、健やかに生きていて欲しい。
罪悪感で押し潰されそうな気持ちを誤魔化すように、その場から立ち去った。