馳せる 旅の武芸者として生計を立てていくには己に課せられた天命や環境は申し分無い。
世を陰ながら支え続けてきた集団の党首を期待され、己の護衛となる者どもと同じように訓練を積んできた。
故郷と運命を奪われた今、元里長であった白鸞は辺境の地を拠り所にして、ただ静かに世の流れを見据えていた。
野宿も交えて各地の宿を転々とする。
汚れた衣服を脱いで平服に着替え、帯や装飾品を一つ一つ机の上に置いていった。
一日を終えてしまうにはまだ早い夕間暮れではあったが、討伐戦にて乱を鎮圧させた後の帰還だった為、今日はもう休んでしまいたかった。
自分を慕う少数民族の扱いは容易ではない。白鸞なりに気を遣う。里から出てしまえば、里親なんてただの一人に過ぎない。ましてや、滅んだ里の出自となればだ。
一連の動作を終え、椅子に腰を掛けた後に机に突っ伏す。怠さと疲弊、眠気が一丸となって上から下へ押し寄せてきた。
目を閉じて大きく息を吸う。もうこのまま、牀に行かずとも眠ってしまえそうだ。
今いるこの宿屋は何度か利用したことがある。顔馴染みを贔屓にする店主らしく、部屋の中に鎮静効果のある香が焚かれている。
気分が段々と平坦になっていく。心の棘が、奥底で渦巻く悔恨が、息をする度に丸くなっていくような気がして、白鸞は何となく香炉を見ようと顔を上げた。
透かし彫りの施された骨董品のようで、隙間からゆっくりと白い煙が立ち上がる。
入室時よりも暗くなっているからか、机に置かれた装飾品の一つである佩玉が、うっすらと輝いているさまが目に付いた。瑞兆の対玉である。
天下にてこの秘宝を所持しているのは己と紫鸞だけ。白鸞が何者であるのか、何者だったのかを知る人間は紫鸞だけになってしまったのだ。
太平の要であった証とも言える対玉の片割れが、穏やかに清い光を放っている。
白鸞は優しくそれを手の中に収めて、目の前で翳して見せる。
紫鸞。
あのとき、私はこの佩玉に導かれて里へ向かった。
……記憶を失ったお前が、あの場所にいてくれたこと、嬉しかったぞ。
紫鸞への怒りや葛藤は、こんなにも自分は彼を想って生き延びてきたのに、肝心の紫鸞は顔も声も名前も過去も全て置いて、新しい仲間に囲まれて生きていたからこそなのかもしれない。
漢室への怒りも全て、呆気なく放棄して、燃え尽きた里のことすらも忘れて片翼を置き去りにした、彼への制裁として憤りを絶えず彼にぶつけた。
その度に紫鸞が見せる、今にも泣き出しそうな苦しい表情を見る度に溜飲が下がるのが痛いほどよく分かったのだ。
のうのうと生きている奴に最も相応しい苦しみや痛みなのだと。
懐古と拒絶の相反する感情が自分を同じように苦しめる。
それでいいと思っていた。寄る辺すら守れない我々には罰すら科せられないのだから。
最後の微かな希望だった、たった一人の生き残りである紫鸞に裏切られたとずっと思い込んでいた。
その裏切り者の紫鸞が、光輝く対玉の一つを手に大木の下で立ち尽くしていた。
咲き誇る花が風に吹かれ、優しく紫鸞を包んで揺れて散っていく。
濡れたような黒髪がさらさらと靡く。全てを見透かす透明な眼差しが私を捉え、色のない表情を僅かに染めて、唇を緩めて我が名前を呼ぶ。
香は既に燃え尽きたようだ。
白鸞は立ち上がり、改めて牀に身体を横たえた。