Will you marry me?室内に響き渡るシャッター音と眩いフラッシュ。ちらりと視線だけで隣りを見遣れば、ぴんと伸びた背中が真っ直ぐに前を向いていた。漏れそうになった溜息を咄嗟に飲み込む。
いったいどういうことですか!と最初に声を張り上げたのはどこの記者だっただろうか。これまで何度か見た顔だなと思いつつ、ざわざわと声を上げ始めた有象無象を和泉はどこか他人事のように眺めた。
「ですから、先程お話ししたとおりですき。私、陸奥吉行と和泉兼定は、結婚いたしました」
――いったいどうしてこうなった?
それを一番問いたいのは、間違いなく和泉自身に他ならない。
Will you marry me?
時を遡ること数週間前。和泉はとある料亭の立派な門構えを憎々しげに見上げた。タクシーに乗っている最中からぽつりと空から降ってきた雨粒はその勢いを増して今では本降りの雨となっている。まるで和泉の心情を表しているかのようだ。
とはいえ、いつまでも佇んでいるわけにはいかない。和泉は今をときめく人気俳優。誰かに気付かれでもすれば、面倒なことになるのは請け合いだ。
重々しく一歩を踏み出し、門を潜る。石畳のアプローチの先で薄灯りの漏れる引き戸を開ければ既に和泉の来訪に気付いていたらしい女将が三つ指を付いて頭を下げていた。
「和泉様、ご無沙汰しております。長曽祢様は既にお待ちでいらっしゃいます」
「……そうかい」
こんなにも重苦しい気持ちで馴染みの店の女将の挨拶を受けよう日が来ようとは。険しい表情をした和泉に気付いても女将は何も言わない。
無言で女将の後に続き廊下を進む。灯りのついた座敷の手前で、ここで良い、と案内を断ると女将は一礼してしずしずと去って行った。
いつもの店。いつもの座敷。いつもの相手。きっと出される料理もいつもどおり美味だろう。ただ和泉の心の内だけがいつもとは異なる。
「長曽祢さん、オレだ」
「ああ、入ってくれ」
声を掛ければすぐに中から聴き慣れた太い声が応える。ふう、と小さく息を吐き出して片手でがらりと障子を開け放つ。
「夜遅くにすまなかったな、兼」
「……そっちの人は?」
「紹介するからお前も座れ」
すっかり長曽祢と二人きりだと思い込んでいた座敷の中にはもう一人、男がいた。
姿勢正しく座る男は琥珀色の目を真っ直ぐに和泉へ向けてくる。その視線の強さに思わず足が止まりそうになり、ぐっと奥歯を噛み締めて重々しく座敷の中へ足を踏み入れた。
和泉が座布団に胡座で腰を下ろすと長曽祢が「兼」と名を呼んだ。渋々足を折り曲げて正座で座り直す。長曽祢は相変わらず大雑把なように見えて礼儀に煩い。
「で?その人は?アンタも政治家だろ」
「政治に興味のないお前でも知っているとはさすがの知名度だな。兼定、こちらは維新党の陸奥吉行くんだ。陸奥、こいつの紹介は……」
「えいえい。わしがおんしに会わせて欲しいち頼んだ御仁やき、もちろん知っちゅう。和泉さん、お初にお目に掛かります。陸奥吉行、言います。よろしゅうお願いします」
強い訛りで話す男のことは、和泉も知っていた。陸奥吉行。維新党の政治家でついこの間の衆議院選に初当選した若手のホープ。老若男女から人気があり、特にこれまで難しいとされていた若い層からの支持率は他議員の追随を許さないほどだとか。たしか、28歳独身O型、趣味はスポーツ全般、だったか。情報番組がこれでもかと特集を組むせいで余計な情報まですっかり覚えてしまっていた。
「あー……ご丁寧に、どうも。ご存知のようですが俳優の和泉兼定です。よろしく」
「兼、もう少し愛想をだな」
「どうしてオレがこんなところで愛想振り向かなくちゃいけねえんだよ。それより長曽祢さん、何でこの人がいんのかさっさと説明してくれねえか」
眉間に皺を寄せて長曽祢を睨み付けると長曽祢が苦笑を浮かべて陸奥に向かって首を横に振る。それを受けた陸奥はまるで全てわかっているとでも言いたげに深く頷いた。
無言で通じ合う二人を前に和泉の眉間の皺がさらに深くなる。自分だけ除け者にされているようで気分が悪い。用事があるのなら出し惜しみせずとっとと話せば良いだろうに。
ただでさえ今日の和泉の気分は最悪なのだ。本当なら長曽祢の誘いも断ろうかと思っていた。それでもここまで赴いたのは、長曽祢と食事をすれば少しは気分が紛れるかと思ったからだ。
そもそも、長曽祢も政治家であるとはいえ、陸奥とは所属している党が違う。長曽祢は与党、陸奥が所属しているのは野党だ。和泉に政治の詳しいことはわからないが、そんな二人がこそこそとしているのが決して大っぴらにできないことくらいはわかる。
「おい、だんまりかよ」
「和泉さん、わしから説明さしてもろうてもえいですろうか」
「アンタが?」
口を開こうとした長曽祢を片手で遮り、陸奥が口を開く。画面越しに見る陸奥はいつも人当たりの良さそうな笑みを浮かべていた。けれど今日この場にいる陸奥の表情は何か決意を秘めたような真面目なものだ。自然と和泉の背が伸びる。
「……別に、良いけどよう」
「恩に着るぜよ」
――少し大袈裟すぎやしないか。
そうは思えど、長曽祢も神妙に頷いているせいでこの雰囲気を茶化すこともできない。
いったい陸奥は何を伝えるためにわざわざ長曽祢を使って和泉を呼び出したのか。ファンだからという軽い理由でないことは、その態度を見れば明白だ。でも他に理由など思いつかない。
「和泉さん」
「ん?」
「わしと、結婚してほしい」
「……は?」
ずいぶんと低い声が出た。部屋の空気が一気に冷える。だがそれも仕方ない。今日の和泉にとってその二文字は地雷にも等しかった。一日に、一度ならず二度もその単語が己に向けられるなんて――。
「わしと結婚してくれませんろうか」
二度あることは何とやら。
三度目のそれを耳にした和泉はドンッと拳を思いっきり机に叩きつけた。さすがの陸奥も今度は口を噤んだ。長曽祢の視線が慌てたように二人の間を行ったり来たりしている。
「……陸奥さん。オレぁ、アンタとは初対面なんだがな?」
「ええ、そうですき」
「なら!何でいきなりそんな話になりやがる!?長曽祢さんッ!アンタ分かってコイツ連れて来たのかよ!?」
「か、兼定!落ち着け!」
片膝立ちになった和泉の肩を長曽祢がどうどうと押さえつける。その手を払い除けようとしても、長曽祢もかなり本気で力を込めているようでびくともしない。
チッと鋭く舌を打ってどかりと座布団の上に逆戻りする。その間も陸奥は微動だにせず背筋を伸ばした正座のままジッと和泉を見つめていた。
「兼定、これにはそれなりの理由があるんだ。どうか聞いてくれ」
「オレに結婚しろと迫る理由だってぇ?ハッ!上等じゃねえか。納得できる理由があるんだったら聞かせてみろよ!」
「おんしの事務所のスポンサーが娘をおんしの嫁にと強引に話を通そうとしちゅうらしいのう」
「どうしてそれを知ってやがる?」
静かに口を開いた陸奥の言葉に、和泉の眉間の皺が深くなる。その話は和泉と事務所の社長しか知らぬ話のはずだ。つまり、陸奥の言っていることは真実だ。そもそも和泉が今日、最初に「結婚」という単語を聞いたのはそのスポンサーからだった。
陸奥の言うとおり簡単には断ることのできない相手で、付き合っている相手もいないのなら乗っておいて損はない話だと和泉もわかっている。結婚が嫌なわけではない。いつかはと漠然と考えていた。そして、どうせするのなら相手は自分で決めたい。
「大物なスポンサーやき下手に断れば業界内で面倒なことになるちゆうて、おんしのとこの社長さんはおんしに結婚を薦めちゅうとか。おんしも断る理由がのうて困っちゅうがやろ?」
「……だったら何だ」
「おんしがわしと結婚するがやったらその話、わしが無かったことにしちゃるぜよ」
「おい、陸奥!」
長曽祢が陸奥を嗜めるように声を張る。この流れは長曽祢も予想外だったようだ。陸奥が何を企んでいるのかは知らないが、和泉の怒りはわずかに和らぐ。陸奥の声が少しもぶれることなく、ただただ静かだったからかもしれない。
「アンタ、オレに惚れてんのか?」
「まっはっは、残念ながら惚れちゃあせんのう」
「そうかい。だったらますますわかんねえな。どうしてアンタはオレとの結婚を望んでんだよ?」
「大義のためじゃ」
――大義。
政治家らしい言い回しに己の前にいる男が何者であるかを思い出す。正面を力強く見据える陸奥も、陸奥の言葉に深く頷く長曽祢も、若くして人の前に立ち人々を導こうとする相当な物好きたちだ。和泉は深く息を吐いて肩から力を抜いた。
丁度その時、タイミングを見計らっていたかのように障子が開き、女将が数人の仲居と共に顔を出す。次々と机の上に並べられていく料理に部屋の空気がわずかに緩む。
「それではごゆっくりお過ごしください」
あらかじめいっぺんに並べてくれと頼んでいたのだろう。本来は順々に運ばれてくるはずの食事が机の上に所狭しと並んでいる。
とりあえずどうだ、と長曽祢が徳利を持ち上げるものだから和泉も渋々猪口を差し出す。一息で飲み干した酒が胃の腑をカッと焼いた。
「で?その大義つうのは?」
「今、与野党の垣根を越え、国が一体となって推進したいもんがある。その第一歩をわしとおんしで踏み出さんかえ?」
「アンタと結婚することがその第一歩になるって?……まさかそれって」
「なかなかえい勘しちゅうのう。そうじゃ、年が明けたら同性同士の結婚が正式に認められるぜよ。来月にも発表があるはずじゃ。間違いなく反発も大きいはずじゃ。けんどアイコンとなるような二人が真っ先に結婚すれば世論は賛成に傾くはずぜよ。その二人ちゆうのがわしとおんしち筋書きぜよ」
これまでにもパートナーシップ制度など同性同士を夫婦と同等に扱う制度はあった。しかしそれらはあくまで各自治体における制度で、国としてそれを認めるとなれば世間は大きく揺れるだろう。未だ様々な考え方が存在するデリケートな問題だ。
和泉も恋愛対象は男も女もいける部類であるからまったく無関係ではない。可能性が増えるのは喜ばしいことだ。しかし、だからと言って陸奥の提案に頷くかは話が別だ。
「そらぁ良いことだと思うぜ?でも何でオレだよ?」
「スポンサーの娘と結婚したいがか?」
「……したくはねえけどよう」
「ほいたら、えい話やち思うけんど?籍は入れるが、期間限定じゃ。報酬も出すき。わしは、老若男女問わず人気のある、おんしのネームバリューが欲しいがじゃ」
ぶつけられた明け透けな理由に驚く。政治家らしく、オブラートに包みまくったぼんやりとした理由をでっち上げてくるかと思った。
へえ、と和泉が口端を上げると、それまで黙っていた長曽祢が重々しく口を開く。
「兼定、本当に嫌ならば断ってくれて良い。お前が傷付くのであればこの提案は無かったことにする。でも、少しでも利害が一致するのであれば契約だと思って考えてみてくれないか。この法案を施行するにあたり、おれたちは失敗するわけにはいかないんだ」
「長曽祢さん……」
膝の上で拳を握り深々と頭を下げる長曽祢の普段は見ることない旋毛を見下ろす。
和泉は長曽祢に頭を下げられるのに弱いのだ。知っていてやっているのなら抵抗の余地もあるが、長曽祢の場合、打算ではないと断言できるからタチが悪い。
「オレのネームバリューが欲しいつうのはなかなか悪くねえ理由だ。でも、オレの相手がアンタなのは何でだ?長曽祢さんじゃダメなのかよ」
「おんし、長曽祢と結婚したいがか?そっちの方がえいがやったらそれでもえいちや。籍はほんまに入れてもらうけんどのう」
「……籍入れんのは嫌だな」
「おれも遠慮したい」
長曽祢とは長い付き合いだ。そんな中で長曽祢に恋愛感情を抱いたことは一度としてない。そう考えると、腐れ縁の長曽祢と籍を入れるくらいならば、出会ったばかりの陸奥と籍を入れる方が気楽なように思えた。何かあった時にきっぱり縁の切れる相手の方が都合が良い。ちらりと陸奥の顔を見ればおそらく陸奥も同じ考えであろうことがうかがえた。
なかなかどうして狡猾な男だ。メディアに見せている顔はこの男のほんの一部に過ぎないのだろう。少しだけ、陸奥吉行という男に興味が湧く。
大義ために自ら身体を張り、悪びれもせず和泉に取り引きを持ち掛ける男――まったく、面白いではないか。
「本当にスポンサーとの話はケリを付けてくれんだろうな?うちの社長はかなりノリノリで断ろうっつう気はほぼゼロだぜ?それにあのスポンサーにはオレが売れてねえ頃から世話になってる。多少お節介が玉に瑕だがあの人と揉めたいわけじゃねえ」
「わかっちゅう、わかっちゅう。一切角を立てずに丸く納めてみせるぜよ。娘さんの方にもイケメンとの縁談を提案しとくき」
いけしゃあしゃあと言い放つ陸奥に可笑しくなってくる。くつくつと笑いを噛み殺して肩を震わせる和泉に長曽祢が心配そうに手を伸ばしてきた。その大きな手を掴むと、長曽祢の目が丸々と見開かれる。その横で陸奥は真剣な表情を一切崩していない。
陸奥を見ると、和泉の腹の底から得体の知れぬ何かが湧き上がってくるような気がした。
「良いぜ、乗ってやるよ。アンタと結婚してやろうじゃねえか!」