振るったばかりの短剣を鞘へ収めた男は、息ひとつ乱すことなく、気配を探る。
死の訪いを待つ者は、ひとまずいない。
再びしばしの暇ができたことを察するや否や、彼は深く呼吸をし、いくらか緊張をほぐす動きを見せるが、肉体を休めながらも頭を動かし続けてしまうのは、もはやこの死の化身――タナトスの癖のようなものだった。
冥王陛下を降すことができたのならば、そろそろ地上に出て、女王陛下が長らく暮らしていたという場所に向かっている頃合いだろう。
あるいは、もう庭に辿り着いて、収穫に向けた手入れを始めているかもしれない。
幸い、今はまだ冥界へは戻っていないようだ――と続いたところで、彼はハッとして自らの思考を止める。
最近、気付けばあいつのことを考えてしまっている。そのことに気付く度に、自嘲の念が湧き上がらないわけではない。
それでも彼は、束の間ではあるが、様子を見に行こうと思い立った。
今は冥界に女王としておわします、実りの女神の加護を受けた常緑の庭園。その地に広がる豊かな草の上に、タナトスは横たわる人影を見た。
明るい地上でもなお目を引く、赤く熱を帯びる足。艶やかに跳ねた黒髪を飾る、火の粉を舞わせる冠。
そんな特徴を、親しい者が持つのであれば尚更、忘れはしないだろう。
そして、彼がまさに、間もなく死に追いつかれる運命にあることも、その体現たる神は決して見逃さない。
「ザグレウス――」
分かりきっていても呼び掛けずにいられないのは、それが彼にとって、どうしようもなく心惹かれる存在であるからこそ。
だが、近寄ってその全貌を視界に入れた瞬間、続くはずだった言葉はあえなく霧散し、形を成すことはなかった。
六片を成して連なる白。細かに散りばめられた紫。薄紫からまばらに覗く赤。極彩色。
可憐で瑞々しい小さな命が、いくつも、いくつも、その全身を包んで飾り立てていた。
それらが何と呼ばれる植物なのか。それぞれにどんな違いがあるのか。ごく一部を除いて、鋭い金の瞳を見開いた神には分からなかった。
ただ、これほど種類の異なる花々が一つの肉体に密集している光景を、面妖だと感じたことは確かだった。
それこそ、視線と吐息を奪われてしまうほどに。
定命の者にとっては数拍の後、タナトスはようやく自らの本分を思い出したかのように、花々に埋もれた存在へと近寄り、その状態を確認しようと試みる。
乾いた血を薄く粧った口元がわすがに開き、すぐに閉ざされたのが、色彩の隙間から見えた。
辛うじてまだ生きてはいるようだが、胸や腹から呼吸の動きは感じられない。鼻を擦りそうなほどに手を近づけてようやく、弱々しい空気の流れが分かる程度だ。
冥さと眩さを併せ持つ双眸も、今は瞼に重く覆われており、呼びかけるまでもなく、意識がすでに失われたも同然であることは明らかだった。
続けて胴体のほうに注目したところで、常日頃からあまり緩むことのない彼の眉間が、いっそう険しくなる。
ヘリオスの馬車がもたらす光を享受しようと、天に向かって懸命に背を伸ばすそれらの根は、いずれも赤黒い裂傷や刺傷に食い込んでいた。
此度の任務はよほどの辛勝だったのか。あるいは、地上に出てからこれほどの傷を負ったのか。知る由がなくとも、確かめずにはいられなかったのだろう。
闇を爪に灯す艶やかな指が、群生するそれらを掻き分けるほどに、混じり合い、形容し難いものとなった芳しさが漂う。
慣れない生の匂いの只中に、タナトスはいくつか覚えのある香りを嗅ぎ取った。傷病に伏す者への快癒の祈り。嘆きの中においてもその先の安寧を願う弔い。
焚かれた香に空気が揺すられるかのごとく、掻き乱されるような心地はごまかしようもなく、形の良い唇には自然と力が篭もる。
しかし、それと同時に、心中の撹拌からは確信にも似た思いが生じてもいた。
ああ、そうか。これこそが生命なのだ。
終わりの時を迎えれば、人間の魂は冥界へと向かい、他の生命は穏やかに消えていく。
残された肉の器は土へと還るか、他の生命を育む糧となる。
そして、入れ替わるようにして新たな息吹が胎動し、運命を全うする。人間も、小さき命も、全て等しく。
生くるものたちの循環。ここにあるのは、その縮図だ。
「地上でのおまえは、どんなに小さな花よりも早く、朽ちていく運命にあるのだな」
皮肉と憐憫、それらを上回る慈愛を静かに響かせた言葉が、誰に聞かれることもなく消えていく。
「そして、おまえの死が、地上の他の生を育むことも…それこそ今のように、あるのだろう」
それが、一時的なものであるにせよ。続くはずの言葉は、あえて呑み込まれた。
宿主とする肉体が、冥界と地上をつなぐ河の流れに呑み込まれていけば、結局はこの全てが萎び、枯れていくだろうことは想像に容易い。
しかし、だからこそ。青銅に例えられる心は、その持ち主へと言い聞かせる。
だからこそ、今この場で、この生ける神のためだけに、剣を抜くわけにはいかない。
この場で終わりを迎えるのが、己の職務で携わることはない、声無き小さな命だとしても。
間接的であるとはいえ、命ある神の死と引き換えにした、わずかながらの延命だとしても。
――たとえ、その糧となった命が、冥界の王子にして愛しき伴侶のものであろうとも!
己の私情によって、定められた死期を違えてしまうことなど、あってはならないのだ。