さよならの後先 「―なぁ、タナトス。俺たちここで《さよなら》しないか?」
待ち合わせていたわけではない。けれどふたりのこれからについて一度きちんと話さなければならないと考えた死の化身は、冥界王子の私室で気まぐれな友神の帰りを待っていた。
部屋に戻り佇む影に気付いた王子は一瞬顔を輝かせたものの、すぐハッとした風に頬を強張らせる。不安げな表情といつになく緊張した声で、けれど地下で育まれた宝石めいた双眸は真っ直ぐ死神の姿を捉えていた。ひどく神妙な面持ちで薄く開かれた唇にタナトスは自然注意を向ける。
正面切ってザグレウスから告げられた先の言葉はあまりに衝撃的で、ハデスの館内で大抵床に降りている死神の足裏が少し宙に浮いたくらいだ。そんな動揺を悟られぬようタナトスは金の目を伏せ一呼吸おいてから口を開く。
「……わかった。おまえが考え導き出した結論ならば、俺に異論はない」
本来ならそこで切り上げるはずだった。けれど、どうしても鋼の理性では抑えきれぬ衝動が、潜在的な懇願が口をついて漏れ出てしまう。
「―だが、どうかこれからもおまえの《仕事》を手伝うことを許してほしい。たまに、で構わない」
これは死の化身の心からの願いだ。
「《友》として、おまえの力になりたい」
ザグ王子は赤と緑の瞳を曇らせそっと視線を足元に落とすと小さく呟いた。
「それは、……困る」
まったく予想していなかった王子からの返答に死神は今度こそ絶句する。突然の情報過多に混乱した頭でそれでも必死に思考を巡らせた。自身の言動に誤解があったのなら解かねばならない。なによりザグ王子とのこの関りだけは失いたくなかった。
「なぜだ……?俺はけしておまえの力を侮っているわけではない。俺は、おまえの役に立ちたいだけだ。それ以上なにも望みはしない。ただ、おまえの―…………、」
切実な訴えを声に出しながらタナトスはそんな己の言い分に胸中で妙に冷静に懐疑的な問答をする。
(おまえの役に立ちたい。―そうだ、本心だ)
(それ以上なにも望みはしない。―……なんだ、それは?)
(俺はただおまえの―……、)
そうしてこのひどい焦燥の原因が自身の内側にあることにようやく思い至った死神は、堅く目を閉じると唇を噛み締めた。
(おまえのためではなく、俺がただ傍にいたかっただけなのか…………?)
ザグ王子と絆を深め、温かな血が通う感覚を知った心臓も以前の冷たい鉄屑に戻ってしまったかのようだ。
「……わかった」
死の化身の低い声は微かに掠れ奇妙なほど無感情だった。
「そうか、」
少し緊張を解いた冥界王子が安心した風に微笑む。その顔に眩しそうに、そして泣き出しそうに目を細めたタナトスもまた緩く笑みを返す。
「邪魔をして悪かった。……どうか達者で、ザグレウス」
「―え?おい、待ってくれ、タナトス!本題はこれから―……!」
慌てるザグ王子の声が届く前に闇の羽ばたきを残し死の化身の姿は忽然と消え去った。
◇
ついにもっとも恐れていた事態が起きてしまったと光の速さで飛びながら死神はぼんやり考える。喧嘩をしてもすぐ仲直りできた子供時代はもう遠い。一度離れかけたものが少しずつ近付いて、そして触れ合えたと油断した隙にどうしようもなくすれ違ってしまった。後はこのまま互いに背を向け遠ざかっていくしかないのだろうか……
タナトスの中で、いつかこうなるかもしれないという懸念は絶えずあったのだ。
一言の別れも告げず家出した王子に腹を立てたり、突然ネクタルを貰い困惑したり、贈られたアンブロシアに浮かれもした。そのどれもが死神にとっては初めて覚える感情で、そして同時にこれまでの二神の関係を根底から覆すものに思えて仕方なかった。
(もう、未知の感情に意味を見出す必要も、脅かされることもない。俺はただ、己に課せられた仕事をこなすだけだ。これまでそうしてきたように……)
凪いでいる状態と空虚なのとは似て非なる心象風景だ。けれど女神デメテルの息吹に凍えた大地のように静まり返った心に、これは《安堵》だと言い聞かせたタナトスはこれからのことだけを考える。永遠に終わることのない自身の仕事について。慰めも安らぎも必要ない。ただ尽きぬ《仕事》があることが今の死神にとってなによりの《救い》だった。
◇
「タナトス……?」
「ザグ……レウス、元気そうだ」
最後に言葉を交わしたあの日から、気がつけばそれなりの年月が経過していた。
あれから死の化身が館に立ち寄ることも道中で仕事中の冥界王子に行き会うこともなく、そんな多忙を極める死神を気遣ってかザグ王子の方も己の職務に忠実なタナトスを召喚するような真似はしなかったからだ。
珍しいニュクスからの呼び出しに館の中庭を訪れていた死の化身は、王子との予期せぬ邂逅にかろうじて平静を保ち挨拶する。
久々に目の当たりにした友神の姿を冥界王子はひどく驚いた顔で見つめていた。
黒いフードに隠れた顔は表情が窺えず、全身から発される気配も霞がかったようで、若々しい青年のような精悍さと年老いた賢人の荘厳さが一つの肉体に同居している。
しばらくぶりに会った王子が、死の化身が以前贈った蝶の賜物やネズミの盟友を今でも身に着けている気配にタナトスの冷え切った心臓が忘れて久しい温もりを懐かしみ軋んだ。
「よかった、最近ずっと逢えなかったから心配してたんだ。あんまり逢えないから、ニュクスに頼んで呼んでもらったくらいでさ……。―大丈夫か?ひどく疲れた顔をしているぞ……?」
変わらぬ気安さで自然に手を伸ばしてくるザグ王子の動きに弾かれたように死神が身を翻す。黒衣の端が生き物めいて逃げていく。まるで触れられることを恐れる風なタナトスの反応に冥界王子は思わず声を荒らげる。
「タナトス!やっぱりおまえ、なにか思い違いをしてないか!?」
なおも距離を取ろうと下がる死の化身の腕を捕まえたザグレウスは、この機会を逃してはもう後がないとばかり必死に追い縋った。
「聞いてくれ、タナトス!あの時俺は、《友としての俺たち》にさよならしないと、《伴侶であるおまえ》には出逢えない気がしたんだ!」
逃げを打った姿勢のまま横を向いたフードから覗く銀の前髪がザグ王子の声にかすかに震える。
「おまえは真面目で自制心も頑強だし、このままじゃいつまで経っても友神の延長線で……、でもそれじゃ、俺は不満だった」
「おまえとちゃんと伴侶になりたいから、区切りとして今までの俺たちに《さよなら》したかったんだ。これまで築いてきた友情を否定してるわけじゃない」
ゆっくりと冥界王子を見返した死の化身はフードの奥の目を瞬かせると中庭のひんやりした草地に静かに浮いていた爪先を下ろす。
「前は、おまえがいてくれるだけでよかった。―けど、今はもう傍にいてくれることが当たり前になってしまって……、そして、それだけじゃ俺が嫌なんだ」
王子は一つ息を吐くと心底参った風に呟く。
「こうしてしばらく逢えない間、気が付けばいつもおまえのことばかり考えていて……、やっぱりそうなんだって思い知らされたっていうか…………、」
向き合い目線を合わせた色違いの双眸は真剣な光を帯びていた。その場しのぎの取り繕いや嘘偽りのない、ザグレウスの瞳の奥に自身と同じ感情が揺れていることに気付いたタナトスは息を呑み見つめ返す。
「俺の我儘で、おまえの心を乱したことは悪かったと思ってる。―ごめんな?でもあれは、タンが話しの途中で突然居なくなったりするから……!」
長らく逢えなかった不安からつい相手を責める風な物言いになった王子は、そんな自身に気付くと慌てて詫びる。
「じゃ、ないよな……。最初から俺の言葉が足りなかったんだ!傷付けてすまなかった、タナトス……」
互いの間に生じていた誤解がようやくとかれた二神ではあったが、場に漂う気まずさを払拭するにはいま少しの歩み寄りが必要だった。
タナトスの腕を捕まえたままザグ王子はあと少しの距離を詰めるため勇気を奮い立たせ慎重に話しを紡ぐ。
「……おまえに逢えない間、このもやもやした感情の正体を知りたくて片っ端から本を読んだりしてたんだけど、その中にこんな話があったんだ。地上の、塩鉱の話…………、」
唐突に飛んだ話題に、けれど死の化身は一つも聞き漏らすまいと王子の声に耳を傾ける。
「十分に塩が溶け飽和した水溜まりに木の枝を浸しておくと、枝の表面に塩の結晶が生成されるんだけど、枝を浸す前からそこにはもう塩の結晶になる素が溶けてる。目に見えなくとも存在してるんだ。それが、枝を媒介として初めて可視化される。塩になる素が無ければ、いくつ枝を入れたところで当然だけど結晶は結ばれない」
空いている方の手でとりとめなくジェスチャーをしていた王子は内容を整理するように頭を掻くと、歯痒そうに小首を傾げた。
「ええと、何が言いたいかというと、―つまり、誰かのことを好きだと自覚する前に、すでにその相手のことを十分好きになってる、ってことで……、」
「好きだと思う感情の発露以前に、もう心の中に好きに足る積み重ねが存在するんだってさ。逆に言えば、その積み重ねがなければ何が起ころうと相手を好きにはならないんだろう」
離れることを恐れる風に強く捕まえていた手を離し、そのまま肌をなぞるように伸ばされたザグ王子の指先が死神の指に触れる。じっと佇む黒衣の影は、今度は逃げなかった。触れた個所からじわりと伝わる温かさにタナトスは金色の瞳を瞬かせる。煙ったように無機質的だった黄金の瞳がにわかに熱に溶かされ緩んだ蜂蜜色の艶めきを取り戻す。目から染み込むような甘さに、ふと切なさが込み上げたザグ王子は意を決し問いかける。
「俺とおまえの中にそれぞれある感情が……、まったく同じものだとは言わないけどさ、それでもきっと《よく似た結晶》だと思うんだけど。―…どうかな?」
タナトスは自身の指先に触れる王子の手に視線を落とし、仮面めいて整った唇を躊躇いがちに開いた。
「おまえがこうして何気なく触れてくるたび、たしかに俺の心はざわついて何か曖昧な輪郭が像を結ぶことがあった。ただ、俺にはそれが一体何を意味する感情なのか……、見当も付かないままだった。そしてこのまま永遠にわからずともいいとさえ思っていた。もう随分と長い間…………、」
「今は、わかるのか?」
「おそらくは。おまえが俺に抱くという感情に非常に親いものなのだろう。……おまえの言う《別れ》を再度受け入れられる程度には理解できている」
死の化身の告白を受け、噛み締めるように頷いた王子は相手の漆黒の爪の表面をそっと撫でる。
「そうか、……良かった。―あ、それなら今度はちゃんと最後まで聞いてくれよ?」
真っ直ぐ見つめる金の瞳を見返したザグ王子は姿勢を正すと真摯に告げた。
「―さよなら、《友》よ」
タナトスの頬が緊張にぴくりと震え、軽く触れていた王子の指先に灰色の指を心細げに絡める。
「そして、これから永遠によろしく。我が愛しの《伴侶》!」
ザグレウスは縋るように繋がれた指先をしっかりと握り返しそれに答えた。どちらからともなく一歩近付いて最後の距離を詰め、軽く額を合わせる。肩から力が抜け無意識に張っていた気が緩んで自然と笑みが零れた。
もやもやと定かでなかった胸中の初めて名称のついた感情に、長い断絶の反動も手伝ってか愛しさの結晶作用が働くようで胸の内に《好き》の塊が際限なく結ばれ積み重なっていく。
「……大変だ、胸の中がこの気持ちの《結晶》で溢れてしまうかもしれない。壊れる前にあげてもいいか?」
「おまえがくれると言うのなら、遠慮なく受け取ろう。俺の《結晶》と交換でいいならば」
「それは是非とも欲しいな……!」
少しだけ気恥ずかしそうに、けれどそれ以上に嬉しそうな笑い声が溢れ、もう二度とすれ違わないよう互いの身体を胸に宿る想いごと強く抱き締める。
薄暗い冥府の中庭で不器用に遠回りしたふたりの不滅の誓いが、いま密やかに交わされた。
〈了〉