宮城、カラオケ行こ!朝に吐くと、昼飯を食えて試合中は持ったとして帰り道にエネルギー切れで急にヘトヘトになる事がたまにある。
「うわ、…」
轟く雷鳴と土砂降りにに追い立てられるように体育館近くの渡り廊下に駆け込む。居残り練習後、鍵を返却して帰ろうとした途端に土砂降りが始まったのだ。夜のスコール。近くで鳴る雷越しに、遠雷が空を割るのが見えた。
渡り廊下は古い蛍光灯で照らされ、オレはその弱い灯りの下、建物の上り口にヘトヘトでしゃがみ込んでいた。遠征帰りのバスでは眠れもせず、移動中にやるはずだった英単語帳は1日中開くこともなかった。
母ちゃんは書類の提出が間に合った旨を顧問づてに電話で連絡を寄越してくれた。帰ったらまず母ちゃんに謝りたい。そんで、心臓が言うことをきくまで無性に走りたい。でもこの雨じゃ無理だな…走るのも、今帰るのも…
エネルギー切れ以外の体調は戻っていた。だが今朝の過度に緊張した気持ちは身体より遥かに疲れ切っていて、雨宿りの間くらいはと英単語帳を開いてみるも全く頭に入ってこず、結局頬杖をつき、空に走る稲妻をただ見つめていた。
傘をさして帰る奴、雷に身をすくめる奴、カバンを雨除けにし走っていく奴、鈍色の嵐の中を皆一様に校門の方向へ走って行く。雷鳴と光の間隔は狭まり、雨は更に激しさを増している。
稲光りのたび遠くで白いTシャツが明滅しているのが見えた。その運動部らしい白シャツは稲妻と一緒にこちらに走って来て「よぉ」と発しながら渡り廊下の屋根の下に滑り込んだ。三井さんだった。
「…ッス ランニングですか」
「おー。こんな降るたぁ思わなかったわ」
「ですね…今日練習終わんの早くないですか?」
「いや今日大学練習無くてよ…」
まだ誰か残ってりゃ傘借りようと思って来たんだけどな…そうこぼした三井さんは、はた、とオレに視線を止めて何かを言ったが、トタン屋根を叩く雨音と雷鳴で聞き取れなかった。
「すいません、聞こえなかった」
「…いや 何でもねえ。」
オレから視線を逸らし、三井さんは何のてらいもなくびしょ濡れのTシャツを脱いで絞り始めた。
練習試合用の支度でタオルの予備は入れていたが、今朝母ちゃんがバッグに更に数枚入れていた。それを三井さんに渡し、英単語の本はしまった。
「今日なんかあったか?」
「…別になんもないですよ」
三井さんと最初に目を合わせてからあと、オレは雨樋から迸る雨水をぼんやり見ていた。ふとそれに気付いて再び三井さんの方を見ると、絞ったTシャツを着直して髪を雑に拭いたところだった。合った視線を合わせたまま、三井さんは首にタオルをかける。多分、返答が聞こえていないのだ。
「練習試合かなり良い調子でした 今日は流川のディープスリーがかなりイカしてた」
「あいつがスリーまで入れまくるようになっちまったらオレ立つ背ねえな…」
「言えてる」
声を張って軽口を返すと三井さんは目線を落とし、いじけたように長ジャージのズボンの裾を絞った。ずぶ濡れで胡座をかいて座ったところだけコンクリートの色が変わっている。
そこから言葉を交わさないまま時間が過ぎていき、オレは止む気配の無い雨にやり場の無い怒りを膨らませていた。早く帰ってやりたい事があるのに、これじゃ一体いつ帰れるんだ?苛立ちを殺すのに三角座りの膝に額を押し当て耐えていると、三井さんの声が沈黙を破った。
「英語やってたろ 邪魔しちまったか」
「や…そんなことないです」
「暇さえありゃ勉強してんのかよ」
「やってますよ 朝6時起き、夜は12時まで」
「そりゃ…すげーな」
「やってもやってもなんです 早く雨弱くなんねぇかな、家でベンキョー進めたいのに」
「待ってりゃ案外すぐ止むかもしれねえぜ」
「… そうかも…ですね…」
三井さんが胡座の右膝に頬杖をつくのを見、オレは三角座りの膝に組んだ腕の中で顔を伏せ、その内側でため息をつく。直後、物凄い音がして頭上の蛍光灯と周辺の明かりの全てが消えた。そのあまりの音量にオレと三井さんは2人して肩を跳ねさせていた。
全身に響く雷鳴に思わず跳ねたのは肩だけではなかった。顔を上げた自分の額に厭な汗が乗り始める。心臓が今朝の動悸の感触を思い出しかけていた。オレは雨には濡れていない。胸から腹に伝うのは雨じゃなくて汗だ。深く息をしようとするが、多湿な空気は吸っても吐いても息苦しい。
ふと三井さんの方を見る。ひっきりなしの雷光の中で三井さんもオレを見ていた。そして物凄い音の合間で、三井さんはオレに言った。
「宮城、カラオケ行かねーか」
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宮城は最近痩せた。
元々無駄の無い身体つきな上、最近は更に顔まわりのエッジもはっきりしている。彫りも深い方だが、瞼の上から眼球の陰影までがはっきり見て取れるようになっていた。
引き締まっていると言えばそうで、鍛え抜かれた脚やプレーのカミソリのような切れ味を見るに相当走り込んでいるに違いなかった。
ウィンターカップを経て3年がいなくなった湘北は、それこそしばらくはチームでのプレーに部全体が苦心していたが、春になり新一年が入部してくる頃には新生チームのプレーが荒っぽくも確立し馴染んできていた。
主将になってからの宮城が、啓発本やスポーツ心理学の本を読んでいるのを卒業前しばしば見かけていた。大学の授業でその類の内容を取り扱ったから分かったのだが、どうやら宮城はそういう本に書いてある事を素直に実践しているらしい。例えば練習中、部員にハッパはかけても自分の感情で怒鳴る事はない。感情と指導の区別を徹底して自分に課しているのがヒシヒシと感じられた。完全復帰した桜木と流川の小競り合いに関しては関係なく怒鳴ったりしているが、あの二人はまあ…そうするしかないだろう。新入りの一年には指導もする。攻め気が無い、どうにかしてボールに触ろうという気概が無い、気を抜いている奴がコート上のどこにいても必ず宮城の檄が飛んだ。コイツは何しろ視野が広い。そして何と言っても文武両道の赤木の後釜であることを気負っていて、気を張っているのが伝わってくる。厳しい主将だとは思うが、ただ闇雲に剛なばかりでなく宮城には独特な柔らかさもあり、それがチームに良い緊張感を生み出していると思う。
湘北にはそこそこ顔を出していた。卒業前後で大学の練習が無い日はほぼ毎回ボールを触りに行っていたが、大学入学後は流石に忙しく、ここ半年はランニングがてら体育館をちょっと覗きに行く程度で、あとは自分のバスケと、大学での勉強とバイトに精を出していた。体育館を覗くごとに、宮城は信じられないほどの気力と集中力に満ちて研ぎ澄まされて続けていた。
練習後に声をかけて近況を聞いたりもした。いつも、どーっすかね?ぼちぼちですかね、ビミョーっす。などとパッとしない返答の割に宮城自身の動きもチームプレーも凄まじさがあった。中間テストで英語の点数が30点近く伸びたことを安田づてに聞いた。英語教師は宮城の本気度にいたく感心して、テストの結果や普段の受け答えから躓きやすそうな部分をプリントにまとめ、専用の薄い冊子を作ってきてくれたらしい。学習で困った事があればなんでも言いなさい、ELTやネイティブの友人がいるから会話の練習もさせてあげられるよと提案までしてきたそうだ。その後宮城自身からもその話が出た。英語教師に紹介されたネイティブはラテン系アメリカ人の爺さんで、日本語も堪能なその爺さんは宮城のことを大層気に入ってよく飯も食わせてくれるそうだ。大変陽気で、どんな些細な話題でも面白おかしくしてしまえるので最早英語以前に一緒にいるのが楽しく、良い気分転換になるのだと言っていた。
1週間前、久々の完全オフだったオレは数ヶ月ぶりに湘北の練習を観に行くことにした。あわよくばボールにも触りたいと思いながら、いつもの如く体育館を覗いてふと宮城の姿を見た時、引っかかるものがあった。一見チームも宮城も良い状態にあるように見える。ワンオンを強請りに来た奴らが捌けると、宮城はポーカーフェイスかつ無言でおれの横に並んで立ち、前を向いたまま「大学ってそんな暇なんすか」と軽口を叩いてきた。暇じゃねぇわと舌打ちをすると、じゃあ三井さんが暇なだけなんだ…とオレを見てニヤニヤした後、スクイズを取りに駆けていってしまった。部長特権でオレがワンオン最初ね!とこちらを指しながら。
近くで見て分かったが、少し見ない間に宮城は痩せていた。駆けていく背中のTシャツの布の余り方も大きくなっていた。
オレのただの直感だが、コイツ自分で気付いてないだけでかなり参ってるんじゃないか?痩せ方が、精神的な摩耗が身体にそのまま表れているもののように思えた。
「奨学金の応募用にビデオを撮るので手伝ってくれませんか?」
卒業前、去年の秋ごろだ。改まって何だと思ったら、奨学金でアメリカに留学しながらバスケをやれるかもしれないのだと宮城は言った。一次選考材料としてプレーのビデオを送る必要があり、シュートフォームのチェックと撮影を頼みたい。部の闘争心の強い奴らを今は刺激したくないから、助力を求められそうなのは卒業していく3年で、よく体育館に顔を出すオレなのだと少し憔悴した様子で言う。三井さんに撮って欲しいのだとも。
コイツが、アメリカに───
オレにだって闘争心ぐらいあるぜ 分かって言ってんのか?と問うと、宮城は打てば響くように、挑むようにニヤリと笑い、オレの目を見て真っ直ぐ「分かってるに決まってるじゃないですか。」と言ったのだ。
卒業していく自分にまでハッパをかけてくるとは思っていなかったが、見事に焚き付けられたオレはその後、大学にスポーツ推薦で合格を決めて早々に大学チームの練習に混ざるようになり、次の試合からのスタメン起用が先日決まったところだ。
彩子だけは宮城のアメリカ留学応募を知っていた。マネージャー視点で撮ったビデオには鬼気迫る、それでいて余裕すらあるように見える、宮城の視野の広いプレーや電光石火のドリブルが完璧に収められていた。
その後にオレが撮った練習風景の映像を収め(三井さん椅子座って撮ってくれません?!撮る位置高すぎるんすよ!カッコよく撮ってよね!などと注文が多かった)完成した応募用のビデオを渡した時、宮城は礼を述べながら今まで見た事がない顔をしていた。アメリカでバスケをやれるかもしれない途方も無い喜びと、どれだけの献身をしても足りない、という大きな生傷に耐えるような表情だった。
今日は夜中まで曇りだと思っていたらこの嵐だ。ランニングでたまたま湘北の近くを走るルートをとっていたから、誰か残ってたら傘でも借りるかと体育館近くの屋根の下に駆け込んだ。そこに宮城がいた。三角座りの膝を抱えて片手に英単語帳を閉じて持ち、1週間前に見た時より更に何か削いで落としたような印象を受けた。受け答えの声に力が無い。何かあったらしい。夜なんだから疲れて元気くらいなくなるかもしれないが、少なくてもオレの知っている状態ではなかった。
コイツは今、自分のバスケ、湘北というチーム、勉強、海外を想定した準備、私生活、全てを上手く回して必ずアメリカ行きを勝ち取らなきゃならない状況にあるのだ。オレはここまであらゆるプレッシャーを一度に背負って主将をやった事はない。
それを今の宮城にそう言ったら決壊するに違いなく、指摘しないために考えるのを止めていたが コイツ、完全にオーバーワークだろ───
宮城 コイツは赤木でも木暮でもなく、先んじてオレに留学の意思を告げていた。
普通に考えればこんな大事なことは世話になった赤木と木暮に先に話すのが筋だろう。宮城はその辺の筋は通す奴だ。つまりコイツはあえてそうしたのだ。
オレにバスケでアメリカに来いってことではない。日本の大学でやるバスケがオレには合っていて、今の自分がアメリカに耐え得るプレーヤーでない事も自分で一番よく分かって納得している。宮城も同じくらいそれを分かっていた。アメリカ行きのチャンスを自慢してひけらかすような性格のやつでも無い。
宮城の真意は分からないが、あれがオレの背中を押したことは確かだった。推薦が取れる中で一番実業団とのパイプが強いクラブを擁する大学に、オレは今通っている。
本人にも、誰にも言わないし言葉に出したことすらないが、オレは宮城に借りがある。オレの自暴自棄に全く何の関係もない宮城を巻き込んだのに、コイツはその後、あの時のことは何も言わずオレにパスをくれた。一緒にバスケをしてくれた。オレは思いっきりバスケがしたかった。今も同じだ。お前もそうだろ?
だから疲れてるのにこんな所にいつまでもいるんじゃねぇ。何かあったならさっさと目の前のオレに吐き出しちまえば良い。耐えたって明日の練習に響くだけだろうが。
今日一物凄い音がして辺り全ての電気が消える。オレも宮城も肩を跳ねさせ空を見上げた。雨がトタンを叩くやかましい音、また近くに雷が落ちる音がする。
雷光で途切れながら見える宮城の表情は、まるで陸で溺れているようだった。その表情のまま、宮城がふとこちらを見る。
オレはジャージのポケットに入れて来たものの感触を手で確かめ、デカい声で言った。
「宮城、カラオケ行かねーか」