うさぎと例え話 何度目かの成功した晩酌の誘い。ほんの少し顔を赤くしたファウストは、目の前の男をじっと見つめる。
「知っているか? 賢者の世界では、厄災にうさぎが住んでいるらしい」
「そうなの?」
「例え話だと聞いた」
賢者、異世界からの来訪者。この世界とは環境が全く違う場所から来た彼の話は、不思議で、興味をそそるものが多い。
手首をほんの少しひねれば、赤ワインがゆらりと波打つ。そんな手慣れた動作を見ながら、二人はいつの間にか外を見ていた。
月は、暗い夜に光を灯す。明るい部屋では、随分と存在感は薄れるものの、それでも窓を覆う青白にはいつだって気が向くものだ。
月は、魔法使いの命を奪い、世界を混沌に陥れた。そのくせ、今ものうのうと大きな空で輝いている。
「月では、うさぎが餅つきをしているらしい」
「お米を潰す行事だっけ? 賢者様の世界では、動物が人と同じ道具を使うのかな?」
「それは、流石に例え話だと思うが……」
賢者の話は、いつだって知らないことばかりだ。同じぐらい、彼はこの世界のことを知らないのだろう。
苦労していると思う。フィガロも、ファウストも、そんな彼を気にかけているつもりだ。
「賢者様の世界って面白いよね。ちょっと行ってみたいかも」
冗談のつもりで言えば、ファウストは目を大きく見開いた。しかし、すぐにじとりとした冷めた表情でフィガロを見つめてくる。
「前例がない」
「例え話だよ、真面目だなぁ。ほら、ファウストだって行ってみたいでしょ。えーと、猫カフェだっけ?」
ピクッと分かりやすく反応をするファウストに、フィガロはクククと笑う。しかし、眉間に皺がぎゅっと寄ったのが見えたので、やんわりと笑っておいた。別に怒らせたいわけではない。
「あなたは?」
「俺?」
「そうだ。何がしたいんだ?」
ファウストの問いかけに、フィガロはすぐに答えるつもりだった。世間話のように、ゆらりと船を漕ぐように。
しかし、言葉が出てこなかった。
「……なんだろう?」
「は?」
「うーん、あんまり思いつかなくて」
怪訝な目でファウストから見つめられ、フィガロは困ったように笑う。その表情を見て察したのだろう。
頼りなさげに笑う態度から、これが彼の本心であることは明白だった。
「何か、ないのか?」
話はまだ続くらしい。
ああ、そう。そんな態度で済まされると思っていた。
「うーん、お酒とか?」
「僕も興味がある。賢者の世界にも、たくさんのお酒があるらしいしな」
無理やり出した答えに、ファウストは一旦は満足したらしい。ご機嫌にもう一杯を口にする彼を見て、フィガロはほっと息を吐く。
「何が飲みたい?」
「え?」
だから、再び質問がくるとは思っていなかった。
「なんだ、適当だったのか」
「いや、そうじゃないけど」
「そうか」
適当なのはきみの反応じゃないか。そんな風に言いたくなるほど、ファウストはあっさりと引き下がる。
フィガロはよく分からなくなっていた。いつもと調子が違って、どこかむず痒い。
ファウストは、再びグラスを口に運ぶ。顔が赤い。どうやら、彼はちゃんと酔っ払っているらしい。
そう気付いて、少しだけ安堵した。
「あはたは、何を望むのか、気になったんだ」
普段よりも随分とのんびりしたスピードで、ファウストは話を続ける。
「あなたは、役目が多すぎる」
「役目?」
「そうだ」
まるで拗ねるような、悲しむような。そんな不思議な表情に、フィガロは目を丸くする。
「自由になったとき、何を望むのか気になった」
「自由?」
自由。まず、自由とはなんだろうか。
北の国でも、南の国に行ってからも、そしてこの魔法舎に来てからも。フィガロはそこそこに自由に暮らしているつもりだった。
ぼんやりとした頭を回転させていく。どうやら、フィガロ自身もそこそこに酔っているらしい。
「ああ、なるほど」
役目、とファウストは言った。その意味を、フィガロはやっと理解した。
確かに、フィガロはいつだって役目があった。神様、師匠、医者、南の国の保護者、エトセトラ。割とたくさんの肩書きを持っていたらしい。
「難しいね」
「なんだ、また隠し事か?」
「いいや、独り言だよ」
「そうか」
ぼんやりとしたファウストを見ながら、フィガロはやんわりと微笑む。
彼が酔っ払っていて良かった。いつもの真摯な目で見つめられたら、うっかり墓穴を掘るような発言をしてしまいそうだ。
誰かの幸せが、己の幸せではないらしい。
最近気付いたばかりだ。だから、一人だとよく分からなくなる。
「じゃあ、きみと一緒にお酒を飲むことにしようかな」
「今しているだろう、適当だな」
穴だらけの答えに、棘がブスブスと突き刺される。
「うーん、そうだけど……」
壊れかけの世界、壊れかけの命。あと何度こんな機会があるのやら。
憂いを帯びたフィガロに、ファウストの顔が曇る。何かを察したのかもしれない。
空気を変えるべく、フィガロはにこりと笑った。
「ほら、例え話だって。そういえば、賢者様がうさぎの歌を歌っていたよ?」
「うさぎの歌?」
フィガロは足を組み替え、目を瞑り、軽く口ずさむ。
うさぎ うさぎ
なに見てはねる
十五夜お月さま
見てはねる
「全然、楽しそうじゃないな」
暗い曲調をバッサリと評価したファウストに、フィガロはニコニコと笑う。
「あはは、そこかあ」
ああ、面白い。本当に面白い。フィガロは机の上のグラスをゆっくりと手に取る。
「やっぱり、きみって面白いよね」
「は? 僕の悪口か?」
「いやいや、違うって」
一難去ってまた一難。二人の夜はまだ始まったばかり。
「楽しいなって思ってたんだよ」
「うん?」
「いや、なんでもない」
心からの言葉は、ぼんやりしたファウストには聞こえていなかったらしい。
フィガロは、あははと笑った。