不理解の理解 どうして彼はいつもこういうことをするのだろうか。一人残されたベッドの上でつくづくそう思う。
その日、ファウストの部屋の前でフィガロは扉を叩くべきが悩んでいた。
念入りな結界はいつものこと。けれど中から妙な魔力を感じた。
呪い屋でもしているのだろうか。口実のために部屋からこっそり酒を持ってきたが、もしかしたら忙しいかもしれない。
静かに閉ざされた部屋からは中の様子を伺うことはできない。茶色の重い扉が高い壁のように感じ、フィガロは静かにため息を吐く。
こんなことなら先に予定を聞いておくべきだった。仕事をしていたら扉を開けるのは申し訳ないし、邪魔をするつもりはない。
ただ、一杯どうかと誘うつもりだった。どんなことでもいい。少しずつ一緒に、もう一度お互いの関係性をゆっくりと築き上げたい。そのための行動のつもりだったのに。
けれど、フィガロは扉を叩いてみることにした。返事がなければ戻ればいい。忙しければまた誘えばいい。わざわざ三階まで上がってきたのだ。だから、少しだけ顔を見たいと思った。
トントンと軽やかな音が響く。フィガロの心配とは裏腹に、部屋の扉はすぐに開かれた。
どこか焦ったようなファウストと、妙な香り。フィガロが形の良い眉を少し歪ませると、目の前の彼は慌てて部屋の扉を閉める。
「すみません……」
「仕事中かい?」
「いえ、授業で使うものを……」
「……授業?」
鼻をくすぐる甘い香りには覚えがある。フィガロにはそれが人体にどのような効果をもたらすのかをちゃんと理解していた。
だからこそ疑問に思ったのだ。ファウストの言葉を反芻したのはそれが理由である。
「入っても?」
フィガロの言葉にファウストは頷き、胸元から白いハンカチを取り出す。
「必要でしょうか」
「気持ちだけ貰っておくよ」
その言葉の後、フィガロは自らの呪文を唱える。魔法とは便利なものだ。たった一言と魔力で嗅覚が効かなくなるのだから。見方を変えれば恐ろしいとも言えるかもしれないけれど。
ファウストは鼻先をヒクヒクとさせたあと、パチパチと瞬きをする。なるほど、鼻が馬鹿になる程あの空間にいたらしい。
「これは……」
「吸いすぎると良くないよ。ちゃんとできているか確かめることも大切だろうけど」
「すみません、ありがとうございます……」
ファウストは深々と頭を下げる。
「別にいいのに」
これぐらいフィガロには難しいことではない。けれど、それでも感謝されるのは気分の良いことだった。
開かれた部屋は相変わらず暗い。そんな室内の真ん中には見覚えのない簡易的な机が一つ。その上にはもくもくと煙が上がる小さめの壺が置かれていた。
壺の隣には調合した材料である薬草や粉末が綺麗に並べられている。珍しかったり、希少な原料がやけに多い。どこからか入手した古びた本も一緒に置かれており、どうやら今は最後の混ぜ合わせる工程の最中であることが分かった。
「買わなかったの?」
フィガロからの問いにファウストは首を傾げる。
「いや、媚薬なんてどこにでも売っているからさ」
「……それは、そうですけど」
自らの欲求を満たすための便利な代物は世の中にたくさん溢れている。快楽や娯楽で溢れる西の国に行かずとも、一番近くの中央の国の市場でも似たようなものは仕入れることができるだろう。
けれど、ファウストは自らの手で、面倒な調合をしながら作っている。おそらく一から作り方を調べたのだろう。任務や授業もあって大変なはずなのに。
大っぴらに作れないのは分かる。けれど、薬草の匂いは部屋の中に染み付くと面倒なのだ。いくら魔法で清めるとはいえ、そんな手間のかかることをなぜするのだろうか。
フィガロからの問いかけにファウストは静かに首を振る。
「……効果のない媚薬を作ろうと思って」
「効果のない媚薬?」
そんなもの聞いたことがない。作る意味も分からない。言葉遊びのような発言に疑問を覚えるフィガロへ、ファウストは静かに頷いた。
「教えているときに、もし、何かあったら大変ですので。しかし、限りなく本物に近いものがあった方が分かりやすいかと」
「なるほどね。通りで材料が違う訳だ」
だからこそ、壺に入れられていた原料に見覚えがなかったのだろう。媚薬ならもっと適した薬草があるのに、ファウストの小さな机にはそれがなかったのだ。てっきり全て使い切ってしまったのかと思ったが、もともと使っていなかったらしい。
「きみ、真面目だね……」
「やはり、おかしいでしょうか」
フィガロはにこやかに笑い首を振る。
否定はしない。ファウストの真面目さは美点である。けれど、今回ばかりは裏目に出てしまったようだった。
「まあ、あの調合では失敗するよ」
「え?」
その瞬間、壺からボン!と音が鳴った。白い煙は一気に黒くなり、チリのようなものを降らせながら部屋中に散っていく。加えて混ぜていたトロミのある液体は黒い煤に早変わりしていた。
「結構難しいんだよ。効果を出す方法は古来から研究されてきたけど、その逆はなかなかね」
「そう、でしたか……」
おそらく何度目かの調合だったのだろう。後ろを見ればいくつか新しい壺が部屋の隅に積まれている。どうやら成功するまで行うつもりらしい。
「次は調合を変えてみます」
「待って待って。それならさ、売り物の媚薬からそういう成分だけ取り除けばいいじゃないか。ね?」
「……確かに」
なるほど、まさかこの思考に辿りついていなかったとは。顎に手を当て考え込むファウストにフィガロは苦笑いするしかない。
「やり方は分かる?」
「いえ……。フィガロ様はご存知でしょうか」
「俺も分からないけど、興奮させる効果のある成分だけを無効化すればいいってことだよね」
「多分……」
文献を調べてもろくに情報は出てこないだろう。第一、媚薬といえど強い効果のあるものでなければ早々大変なことにはならない。ちょっと身体が熱くなるぐらいだ。
正直、過保護で心配性だとは思う。けれどフィガロはできる限り彼の希望に寄り添いたかった。
「一日、時間をちょうだい。調べてくるよ」
「そんな、いいのですか?」
「もちろん。きみはこの部屋の片付けをした方がいい。晩酌は今度ね」
ファウストは喜びと申し訳なさが入り混じった顔をしながら頭を下げた。いいよいいよの言う自分に良い気持ちになる。
フィガロは彼が魔法で部屋をほどほどに綺麗にしてから嗅覚の魔法を解いた。瞬間、残っていた甘い匂いが鼻に突き刺さってくる。
「……うわ」
ああ、ほどほどに嫌な気分になった。
次の日、フィガロは約束通り媚薬の効果を抜いた媚薬を持ってきた。
「はい、どうぞ。確認してみて」
渡された二つの瓶に、ファウストは不思議そうな顔をする。
「確認、ですか?」
「そう、きみが飲むんだ。今」
「今!?」
その瞬間、ファウストの顔が一気に強張った。心の中で同情しつつ、けれどこればかりは確かめてもらうしかない。
「どっちからにする? ちゃんと匂いも味も再現したよ」
「これは、どちらも効能が抜けているものですよね?」
「もちろん」
フィガロはにこやかに笑った。
ファウストは基本フィガロを信用している。けれど、この男がときどきろくでもないことをすることももちろん知っているのだ。
もし、実は中身が本物だったとしたら。まさかそんなことをするはずはない。けれどそう思えば思うほどフィガロの笑顔が嘘くさく見えてきてしまうのだ。
「その、一人で……」
「今飲んで」
ダメだ逃げられない。失礼にならない程度の嫌な顔をしたけれど、フィガロは小瓶を指先でつつくだけだ。
ああ、ちゃんと飲み干さなければ。もう腹を括るしかない。
「じゃあ、右から……」
きゅぽと開けた小瓶の液体からは甘い匂いがした。一気にあおれば喉がヒリヒリと熱くなる。味は苦くてまずい、あとはドロドロとしていた。
「今のは古来から伝わる製法で作られた媚薬の効果を抜いた媚薬もどきだね。匂いとか味とか舌触りとかこだわってみたんだけど、どう?」
「わ、分かりません……」
「まあ、そうだよね。じゃあ、少し休んでからもう一本を飲もうか」
フィガロは楽しげに笑いながらファウストへ本を渡す。薬品に関する専門書で授業にも使えそうな一冊。フィガロの気配りにこのときばかりは心から感謝した。
「ほら、これでも読んでいて。きっと役に立つよ」
「ありがとうございます……!」
「俺は見ているからさ。何かあったら頼ってよ」
「は、はい……」
絶対に頼りたくない。頼れる訳がない。そんなことを思いながら本を一ページめくる。ふと顔を上げたらフィガロと目が合い、恥ずかしくなって顔を背けた。
「そんなに怯えなくてもいいのに」
「怯えてなどおりません」
「うんうん、その調子だよ」
簡単にあしらわれたことに悲しみと苛つきを覚える。けれどファウストはおとなしく本を読み進めることにした。
ここで反論したって無駄なのだ。ご機嫌なフィガロの口の強さはファウストは身を持ってしっていた。ご機嫌でなくても敵うはずがないのだ。
なかなかに興味深いものの、授業で使うには少しだけ難易度が高い。けれどファウストが知りたいことを学ぶのにはピッタリの本である。
古来より媚薬はさまざまな手法で用いられてきた。色恋や興奮状態により人の正常な思考を破壊させるため、多くの権力者がそれらを使い、そして使われてきたのだ。具体的な出来事と利用方法がコラムようなページに事細かに記されており、飛ばすべきだと思いつつもファウストはじっくり読んでしまう。
欲求とは制御できないものであり、また果てしないものだろう。あられな姿で息絶える挿絵の男性に、ファウストはなんともいえない気持ちになった。
「さ、調子はどう?」
ぐっと顔を近づけられ、フィガロはファウストのひたいに手を当てる。彼が近づくだけでファウストは緊張して身体が強張ってしまう。部屋中にある鏡は彼が俯き耳を赤らめる姿をありありと映し出していた。
「もしかして効いてる?」
「い、いえ。多分……」
もしかしてもうやめになるかもしれない。そんな期待を込めてフィガロを見上げてみるけれど、彼はもう片方の瓶を持ち上げ蓋を開けるところだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、ございます……」
ああ、なんと良い笑顔なのだろう。フィガロは明らかに楽しんでいる。どこか諦めながらファウストは素直にピンク色の液体を飲み干していく。
「……あれ」
先ほどとは全く違う。なぜだろう、ものすごく飲みやすい。
口の中は最初に飲んだ媚薬もどきでバカになっているけれど、甘ったるい匂いも、喉を焼けつくような刺激もない。多少味がついていたかもしれないが、サラサラとした飲み心地はまるで水のようだった。
「こっちが最新の媚薬、の媚薬の効果だけを抜いたものだよ。どう?」
「癖がなくて、その、飲みやすいです」
「そういう風に作られているんだよ。気をつけてね」
「はい!」
まあ、媚薬に関わることなど呪い屋の仕事のときぐらいだろう。この製法をフィガロに聞いて、調合して、これを持っていけば良い。無事に終わったことに安堵して、ファウストは再び本を読もうとしたときだった。
「……ぁ」
瞼が妙に重たい。文字も、顔を上げたらフィガロも二重に見えてくる。
何かが、おかしい。
「あーあ」
背筋を伸ばして座っていることができない。身体の力が抜けていき、平衡感覚がどんどん失われていく。机に倒れ込みながら、ファウストは魔力切れで箒から墜落したときのことを思い出した。
「なん、で……」
「最近の薬はね、色々混ざっているんだよ。媚薬の効果だけじゃない。頭がふわふわするものとか、眠くなるものとか、痺れるものとかね。ちゃんと警戒しないと」
つまり盛られたのだろう。嫌な答え合わせにファウストは一気に絶望した。
加えて寝不足からだろうか。口に含んだものを、胃の中に入っているのもを全部吐き出してしまいそうなほどに気持ち悪い。
どんどんと目が開けていられなくなってくる。もはや口から垂れる体液を袖で拭き取る元気もない。全ての力が抜けていく。
一体どうすれば。いつもの自分じゃなくなるような感覚がひたすらに怖い。助けて欲しい、助けてくれ、お願い、お願いだから。
朦朧とする意識の中、気付けばひたいに冷たい手が乗せられていた。大きくてゴツゴツしていて骨ばった手のひらには覚えがある。
ああ、きっともう大丈夫だ。
そのままゆっくりとまぶたを閉じられてしまえば、ファウストはすっかり深い眠りに落ちていった。
男性の体格をしているけれど、フィガロからすれば骨と皮のよう。相変わらず軽い。見知った感触ではあるが、時々倒れてしまいそうで不安になる。
「全く……世間知らずなんだから」
昔からそうだ。勇ましくて、強くて。けれど、時折見せる儚さに不届きものたちが盛り上がっていた。
ファウストもきっと気づいている。けれど、彼は何も言わなかった。そういうものだからと全てを許し、けれど嫌悪を露わにした顔をフィガロは忘れない。そういう奴らから、きっとファウストを火炙りに追い込んでいったのだろう。容易く想像がつく。
「裏切り者はね、許してはいけないんだよ」
たとえ無実だったとしても、裏切り者になると報いを受けるものなのだ。ファウストはその辛さを知っているから優しいのかもしれない。
フィガロは魔法の力を借りてファウストを持ち上げ、そっとベッドに寝かせて白いシーツをかける。解毒剤はすぐに飲ませたけれど、今も苦しげな顔のままだ。
悪いことをしてしまった。けれど彼が体調が万全であればこんなにも効くことはなかったのだ。
真面目なファウストが一晩フィガロが頑張る間に満足な睡眠など取っているはずがない。ちゃんと分かっていればもう少し効果を下げることができたのに。今更一人で反省をした。
これからはフィガロを警戒して、ずっと晩酌をしてくれないかもしれない。
けれど、それでもいい。自分が死んで、ファウストがあと千年以上生きていくときの知識を授けられたなら、それでもいいのだ。
「ファウスト……」
きみが大切なんだ。けれど、どうやったら伝えられるのか分からない。言葉だけでは薄っぺらくて、行動に移すとやりすぎてしまう。
力を持ちすぎてしまった不器用な大人の子供。そんな彼に手を握られたファウストは、自身の厄災の傷が部屋に徐々に浮かび上がってくる。
夢の中のファウストは笑っていた。その隣にいるフィガロも同じように笑っていて、ワイングラスを片手に仲良く談笑している。
ああ、そういえば。この後酒でもと誘えばよかった。彼ももしかして期待してくれていたかもしれないのに。
「ファウスト……」
ひたいの汗を軽くぬぐってやりながら、フィガロは静かにため息を吐く。おやすみの代わりにふわふわの髪の毛を撫でれば、彼は軽くみじろぎをした。
部屋を出れば紺色の空に見事な丸い月が浮かんでいる。青白いそれはフィガロを笑い、そして今日も人々を優しく照らし続けていた。