750円 もう会わないといって三日。平日の喧嘩で、金曜日の夜に冷静になったあの人から連絡が来た。
仕事の日は連絡してこなかったのはきっと面倒だからだろう。嫌な人だ。けれどいいよと許したのは自分、ああ、彼の良心に縋っている気がする。
洒落た格好をした人や家族連れと共にホームに並び、寒空の下電車を待つ。冬の日差しが暖かくて眩しい。
今日あの人と会うのが昼からなのは、彼が疲れて寝ているから。前まではあった最寄駅までの迎えは、最近はすっかり無くなった。
閑静な住宅街を一人で歩くと、少しだけ道のりが長く感じることに最近気付いた。たまには迎えに来てくれたらいいのに。言いたくても子供みたいで言えずにいる。
五分おきにくる乗り換え列車。運良く一人分の空いた席に座ることができた。お揃いの服を着た仲睦まじいカップルが目の前の吊り革を持つ。純粋に楽しそうだなと思った。
就活が終わって、最後の学生生活になって。今、最後の自由な時間を謳歌していると思う。
だから、一緒に過ごそうと自分から声をかけることが多くなった。けれど時折断られることが増えてきて、ようやくあの人が一人の時間が必要なタイプなのだと気付いた。
人と一緒にいて回復する人、消耗する人。あの人は消耗する人だった。それならばと連絡を控えれば、彼は面倒な言いがかりをつけてくる。もう、どうしようもない。
心が広い年上だと思っていたけれど、年齢など関係なかった。多分、育ちや気質、周りの人々で個の情緒は育っていくのだろう。そんなことを考えて、そういえばあの人の知り合いに会ったことがないことに気付いた。
太く強く編まれているけれど、お互いを繋ぐのは一本の糸。切るときは一瞬なのだろう。少しだけ寂しくなる。
つい後ろ向きなことばかり考えてしまうのは、きっと暇だからだ。
人間関係には損得がつきものである。そんなものはないと言い切れる人は相手の本心に気付いていないだけ。昔、失敗したからこそ分かる。
自分といても何のメリットもない。喧嘩のときにうっかり口を滑らせたとき、あの人はひどく傷ついた顔をした。そうだねとぶっきらぼうに言われて、今度は自分が傷ついた。
寒くなってきた去年の話。日曜日の昼に家を飛び出して、金曜日の夜にごめんねと連絡がきた。
ああ、懐かしい。土曜日の真夜中に許さないと送ったら、あの人は一時間後にタクシーで一人暮らしのボロアパートのインターホンを押しにきたのだ。
恐怖と安堵と、あとは申し訳なさ。外に出ていけないような部屋着のまま扉を開ければ、彼は端正な顔の口の端を少しだけ上げて笑った。久しぶりに家にあげれば、彼は無遠慮に部屋中を見て静かに息を吐く。
「浮気じゃなくてよかった」
そんな器用なことできる訳がないのに、分かっているはずなのに。静かに涙を流せば誤魔化すように腕を広げてきたので、思いっきり頬を叩いた。仲直りのたびに思い出す嫌な記憶だ。
過去の自分にアドバイスを送るなら、幻想はほどほどに、だろう。外面の良さがその人の全てではない。正直者が周りに多かったせいか、昔の自分はどこか盲目的になっていた。
今から行きます。送ったメッセージに既読はついていない。通知だけ見て、返信がないだけ。もうすぐ着きますと送ろうと思ったけれど、何だか催促しているみたいなので諦めた。
前の彼はもっと連絡や返信がマメだった気がする。なるほど、今はきっと面倒に思われているのだろう。少しだけ寂しい。
最近、彼の顔色を伺ってばかりだ。当たり前ではあるが、考えれば考えるほど何だかしんどくなってきた。
もう諦めた方がいいだろうか。こんなに良くしてもらっているのに。分かっているのに。
惰性で会って、共に過ごして。この日々に意味はあるのだろうか。無駄を嫌い効率を重視する彼の思考が乗り移ったみたいだ。一緒にいる時間が長いと、考え方が似てしまうのかもしれない。
昔の方が良かったのだろうか。ただ、何も知らずに、夢を見ていたあの日々は確かに楽しかった。それでも、過去に戻りたいとは思わない。きっと、それが答えだ。
それでも、久しぶりに逃げたくなった。
少し遅れると連絡を入れて、一つ前の駅で降りる。意味もなくホームに降り立ち、ベンチにぼんやりと座り込む。
電車が過ぎ去ったホームには青空が広がっており、細く薄い雲がゆっくりと動いていく。
スマホを見れば、既読がついて返信が来ていた。都合が良い人だ、こういう時だけ既読が早い。どうかしたかと聞かれたけれど、特に何かあった訳ではない。何でもないと送ったあと、何かいい感じに誤魔化しておけばよかったと思った。
電車が来て、人がほどほどに降りて、電車が去っていく。
ここに座っていても意味がない。
二本ほどぼんやりと見送って、ファウストはゆっくりと立ち上がる。いっそ家に帰ってしまおうか。前美味しそうだと言っていたお菓子を持ってきたけれど。まあ、一人で食べればいいか。少しだけ悲しくなった。
縁が消えるのはあっという間。知っている、分かっている。
アナウンスが流れ、反対側の車線に電車が到着した。乗ってしまおうか。そんな甘い囁きに流されそうになる。
きっと、今だけは楽になれるだろう。けれど、その先は?
伏せていたスマホの画面には、たくさんの通知が並んでいる。こちらを気遣う優しい言葉は次第に短くなっていき、スクロールするほど通話の履歴が並ぶ。
ファウストはいつまで経っても彼のことを理解できない。
弱音を吐いて成長するならいくらでも出てくるよ。そんな嫌味を言うくせに、自らは疲れたよとファウストに言う。矛盾の人だ、こればかりは甘えているだけかもしれない。
いつも分かろうとして分からなくて、そんなループを幾度と繰り返している。
スマホの画面が切り替わり、電話がもう一度かかってきた。出ようか悩んで、けれど良心に負けて通話ボタンを押す。
「もしもし」
『どこにいるの?』
「駅、です」
久しぶりに話したせいか少しだけ緊張する。それに、咎められているような気がしてつい敬語になってしまった。
どこの駅にいるの。一つ前。あそこ、何もないのに。そんな何気ないやりとりすら懐かしい。
しばらくして、電話口から笑い声が聞こえてきた。何かおかしいことを言っただろうか。彼はたまに何気ないときに笑う。
『駅前にカフェにさ、限定の猫のカフェラテがあるんだって』
「へえ」
わざと素っ気ない返事をすれば、彼は拗ねたような声を出す。
『いじめないでよ。ああ、迎えに行こうか?』
「いや、大丈夫。次の列車に乗る」
『そう』
結局、自分だけ意地を張って何だか馬鹿らしくなってしまった。
毎度彼の手のひらで転がされている。逃げることも、正直言って逃げるつもりもない。ゆらゆらと気持ちが揺れることはあるけれど、少し話せば解決する程度だ。もう、すっかり絆されているのだろう。
閑静な駅にアナウンスが流れる。遠くから真っ直ぐにこちらへ向かってくる電車が見えた。
「次のに乗る、一旦切るから」
『うん、気をつけて』
あと一駅ぐらい特に気をつけることなどないのだけれど。冷静に思いつつファウストは電車に乗り込む。
ああ、またうまく丸め込まれた気がする。全てをなあなあにされたし、食べ物で釣られたみたい。一度落ち着いていた文句が着々と募っていく。
それでも彼がホームまできてくれて、ファウストへ軽く手を上げ優しく微笑んでくれて。それだけでもう何だって良くなるのだ。
ああ、もはや手遅れだ。どうしようもない。ファウストは静かにため息を吐いた。