雨の話 雨の日に傘をさすようになったのはいつからだろうか。きっと、本当の意味で魔法使いになる前と、東の魔法使いになってからだと思う。
「いい教材が見つかってよかったね」
「……ああ、感謝するよ」
陽気な店主に挨拶をして、店の扉に手をかける。すりガラスにはピッと水の線の跡。どうやら雨が降り出したらしい。
傘は持ってきていない。けれど、僕らは魔法使いだ。
「早めに帰ったほうが良さそうだね」
顔を向ければ、フィガロの手には緑と青の傘が握られていた。緑色の方を渡され礼を言えば、彼はニコニコと笑う。
「なんだ?」
「いや、素直だなって」
一体何のことだろうか。首を傾げるファウストの横で、フィガロは青色の傘を広げた。
雨の日は人の数が少なくなる。皆濡れるのを嫌ったり、どこか気持ちが億劫になっているのだろう。
ファウストは傘をさしながら、洋服や本が濡れないよう弱い魔法をかける。
前を歩くフィガロも同じだ。揺れる白衣には本来あるはずの水滴によるまだら模様は見当たらない。のんびり、規則正しく歩く彼に合わせて。袖が左右にフラフラと動いていた。
ときおりちらりと後ろを見て、フィガロはにこやかに笑う。
それは心配か庇護か、それとも特に理由はないのか。よく分からない。
「あーあ、せっかく寄り道して帰ろうと思ったのに」
眉を下げながら笑うフィガロにファウストは首をかしげる。けれど彼が傘を見つめながらのため息を見て、ようやく理解した。
ああ、雨だから。
「人間みたいだな」
「あはは、なにそれ?」
笑いながらフィガロはファウストの隣に並ぶ。答えの続きを求めるように、彼はじっと紫の瞳を見つめた。
「北の国の魔法使いは傘を使わないから」
「使わないというか、使えないからね。あそこは」
髪の毛は強風で肌に叩きつけられ、涙を流せばたちまち凍っていく。荒れ狂う天候で手を伸ばした先すら見えないこともある。いつだってまるで戦場のように、自然に命の危険を感じていた。
「たまたま思い出しただけだ」
四百年前。青ざめた顔で必死に身を守る魔法を己にかけて。そんな様子を箒の上からじっと見つめられていた。
それに気づいたのは、外で自然と魔法をかけられるようになってから。
ふと目線を上げて、目が合って。その瞬間、笑いながら修行が始まったことはよく覚えている。
じゃあ、フィガロは?
別に覚えていなくてもいいけれど。それでも、自分だけ想い続けるのはどこか癪なのだ。
「うーん、どうして?」
「……さあな」
一瞬、心を読まれたかと思った。
くるりと傘を回せば雨粒が弾ける。静かに空気に溶けるもの。隣の彼にかかりそうになり、じゅわりと魔法で消えていくもの。
自分もあの人にとって、そういう存在だったのだろうか。
「じゃあ、気が向いたら教えてよ」
思わせぶりに片目を閉じるフィガロに、ファウストは分かりやすく顔をしかめる。こういう物言いは好まない。知っているくせにやめてくれない。性格が悪い。
「断る」
「どうして?」
「嫌だから」
「わぁ……」
その後に続く言葉は、きっと呆れなのだろう。どこか聞きたくなくて、フィガロを置いて歩みを進めていく。
待ってよという言葉。バシャンと水たまりを踏みながら、ファウストの隣に伸びる長い足。
きっと甘えなのだろう。ちぐはぐな行動と想い。自覚した瞬間、心が重くなる。
ああ、本当に、このままでいいのだろうか。