スキマ 左手で保存した文を読み返す前に、一息つこうとした。立ち上がって背を伸ばす。凝り固まった肩をぐるぐる回す。ふーっと息をはいて、乾燥している目を瞬かせた。
深夜過ぎの事務所は、日中のやかましさが嘘のようにしんとしている。コーヒーでもいれようかと、ロナルドが歩き出したとき。
ふと。事務所の出入り口に目がいった。廊下の電気は消えており、ガラスの向こうから非常灯のほの明るさがみえた。ドアの下の隙間から、落ちた影が闇を差し込んでいる。なんだか。あまりいい気はしなかった。
――昔、吸血鬼退治に行った兄貴を待っていたとき。兄貴から「ゲームをしよう」とメールがきた。内容はこうだ。
『俺が決めた言葉の数だけノックをする。兄貴が答えて、正解だったら開ける。ヒントは三回だけ』
兄貴が答えられなかったら、俺の好きな夕飯をテイクアウトしてくれるらしい。ヒマリは寝ているし、俺が兄貴に勝てば好きな食べ物を買ってこさせることができる。二つ返事でゲームをはじめた。
……トントン。
しばらくすると、玄関からノックの音が聞こえた。俺は考えてた単語の数だけノックを返す。
トントントントン。
「ただいま」と。兄貴の声がする。それは正解じゃない。
俺はまた、同じ数だけノックした。
トントントントン。
「ロナルド」と。兄貴が名前を呼ぶ。それは正解じゃない。
トントントントン。
……トントン。
お互い無言でノックを返し続ける。そろそろ、ヒントが必要かもしれない。
俺は「ふたつあるぜ!!」と教えた。
……トントン。
兄貴は答えなかった。ヒントが足りないのかもしれない。
俺は二つ目のヒントで「やわらかいぜ!!」と教えた。
「ロナルド」
俺は思わず、笑いそうになった。口元を手で隠す。指の隙間から声がもれた。
――ドンドンッ!!
突然、ドアを強く叩かれた。俺は笑いを飲み込んで声を上げる。
「おわっ、びっくりしたー!! 兄貴、降参か??」
「……ロ、ナルド」
「じゃ、最後のヒント……女性、だぜ!!」
トントン。
「……ただい、ま」
「違うぜ!」
トントン。
「ロ、なルど、」
「兄貴の負けだぜ!!」
トントン。
「ろナ、るど、ぉ……」
「ダメだ!」
トントン。
「タダ、イまア……!」
「開けないぜ!」
トントン。
トントン。
トントン。
トントン。
トントン。
トントン。
トントン。
トントン。
トントン。
トントン。
トントン。
トントン。
トント――
ッガン!!ガン!!ガン!!ガン!!!!
「ああああーー!! うっせぇーなぁあああ!!!!」
あまりのうるささに俺はドアを殴ってた。形が湾曲し、歪んだ下の隙間から落ちた影が闇を差し込んでいる。
何かが光っていると思えば、白眼の大きい見知らぬ目が睨んでいた。
ぞっと気味悪さが駆け登る感覚のままに、俺はつま先でソレを蹴飛ばした。
ガツン!!!!
言葉できないような、耳が痛くなるほどの叫び声が聞こえる。
そして声がかき消えたあとの静けさに、俺はすっきりとした気分を感じた。
かかってきた電話から「大丈夫か?!」と兄貴の焦った声が聞こえてくる。俺は「ああ!こんなの楽勝だぜ兄貴!!」と返事した。
――いれたてのコーヒーをすする。
ロナルドは昔のことを思い出し、ドアの隙間をしゃがみ込んで眺めていた。青々とした瞳を丸くし、じっと隙間をみつめる。
……トントン。
控えめなノックが聞こえた。こんな夜中に訪ねてくる人はいないはずだ。
ロナルドはコーヒーをひとくち飲んでノックを返した。
トントントントン。
……トントン。
「ただいま」
「違うな」
トントン。
「ただいま」
「だから違うって」
トントン。
「……た、だいマ、」
またひとくち、コーヒーを含んだロナルドは瞬きする。うつむいて隙間をみつめる瞳は、こうこうと輝いているようで、
「――ロナルド君、それ、愉しい?」
振り返ると、隣の部屋からゲームを片手にした彼が呆れたように見下ろしていた。
「……全然」
ふらりと。立ち上がったロナルドは、いたずらが見つかった子どものように口を曲げる。
「休憩してただけだし」
彼が「原稿、終わった?」と聞けば、ロナルドは「あと最終チェックするだけだ」と答える。ノックの音はとうに聞こえず、ロナルドも興味を失ったように机へ戻っていった。
「なら、さっさと終わらせたら?」
「うっせーなぁ、分かってる」
ロナルドは煩わしそうに返事をしながらマグを机に置き、作業に手をつけ始める。
それを見届けた彼は、ソファーに座りながらドアを一瞥する。そして、中断していたゲームを再開させながら呟きをこぼした。
「……隙間テープでも貼っておくか」