イントロダクション 湿気を含んだ夜の空気に触れ、着ているシャツが萎びてゆくのを感じた。
暑さのあまり脱いだジャケットもじっとり腕に絡みつき、心なしか重い。
「師匠、雨が降りそうですね」
「なんだモブ、帰りたくなったのか?」
モブと呼ばれた詰襟の少年が、重たい前髪の下から霊幻を見つめる。口を噤んだまま、じっと見上げるその丸い黒目には、わずかに呆れの色が浮かんでた。
「依頼人と連絡が取れなくなって、様子を見に行ってやろうと急いで向かってるんだから、雨くらい我慢しろよ」
「いえ、道が危険になるかも知れないと思って」
山中に家があるという依頼人宅へ向かうため、ふたりは暗がりの山道を登っていた。
自動車が通れる限界まで道を走らせ、途中で徒歩に切り替えた。ふたりそれぞれ持った懐中電灯で、モブが足元を照らし、霊幻は手元にある地図を照らしている。道があっていれば、あと数分で着く頃だろうと霊幻は考えていた。
「まあ俺がすぐに霊を溶かせば早く帰れるさ」
なにか言いたげなモブに、大丈夫だと軽く言葉を投げながら霊幻は先に進んだ。
「気をつけてくださいよ」
後ろから心配そうな弟子の声がする。同時に、足を滑らす音も聞こえた。
むしろアイツの方がすっ転びそうだと、霊幻は地図を畳んで振り返った。
「おい、なにやってんだよモブ」
照らすと、微妙な開脚で足を震わすモブがよく見えた。
ちょうどぬかるんだ地面を踏んで足を取られたようだ。顔をこわばらせ、黒目を大きく見開いたまま固まっている。まるで高いところに登って、降りられなくなった猫みたいだ。ここは地上なのに……スケートでもしたら、四つん這いで歩くことしかできないだろうな。今度誘ってみるか。
「お前、部活やってんのに体硬いままじゃん」
「…………、」
明後日なことを考えながら感想を述べてみると、霊幻の耳に一瞬なにか目盛りの上がる音が聞こえた。向こうは一言も発していない。ケイタイか、気のせいか。
とにかく、足場が悪くてモブひとりではどうすることもできないらしい。
「ほら、手」
そんな産まれたての子鹿に霊幻は手差し伸べた。
伸ばされた手にぎゅっとしがみついてくる弟子を引き上げてやると、勢いがよすぎたのか、霊幻の元へ飛び込んでくる。
「おま、っ!」
胸板で受け止める形となり、顔面をぶつけて呻くモブを見て、ふたりとも無様に倒れず済んだと霊幻はホッとした。
「……うぅ、」
鼻を押さえて痛みに唸るようすを横目に霊幻が「行くぞモブ」と弟子の肩を叩いた。
「あ、懐中電灯……」
慌てたように辺りを見渡すモブに、そう言えば灯りがひとつ減ったことに霊幻も気がついた。
地面を照らしていけば、光源が泥に刺さった姿で発見された。
拾い上げ、払えばまだ使えることが分かると、霊幻は持っていたハンカチで泥を拭ってモブに渡した。
「次は落とすなよ」
「はい、すみません……」
そうこうしているうちに、空気がますます湿っぽくなってきている。すんと鼻をすすれば、ああこれは本当に雨が降りそうだなと、なんの能力もない霊幻でも分かった。
先を急ごうと、汚れたハンカチを平然とポケットに突っ込み、申し訳なさそうにする弟子の手を掴んだ。
「雨に降られたら、銭湯でも寄って帰るか」
声をかけると、小さく頷く黒い頭が視界に入る。
そうしてふたりは手を繋ぎ、先の暗い夜の山道をふたたび歩き始めた。
(イントロダクション)