タイトル未定定時上がりの会社。毎度の如く通勤通学の人間でごった返す満員電車に揺られ、立ちながら眠るように目を閉じる。
男の名は村上柊真。会社勤めの20代後半の至って普通な一般男性だ。
仕事に追われる日々は休むということを知らず、朝から晩まで食うために必死で業務をこなし、金を稼ぐ。
先日からの残業の疲れが体に溜まり、いくら寝ても回復しない。
柊真はまだ若い癖に、と深くため息をついた。
家は7階建てのマンション。柊真は4階に住んでいる。エレベーターのボタンを押し、やっとも思いで玄関のドアを開ける。
モタモタと靴を脱ぎ、ネクタイを緩めてリビングにあるソファにドサッと倒れ込む。
「あぁ……」
堪えていた苦しみを吐き出すように息を漏らした。
オールバックにしていた前髪をぐしゃぐしゃと崩し、かけていたメガネを床に落とす。
このまま寝てしまおうかと目を閉じた時、
「ぎゃあああああ」
隣の部屋から壁越しにでもはっきりと聞こえる絶叫が響き渡った。
柊真は大きく目を見開き、勢いよくソファから立ち上がる。
そして玄関に置いてあったサンダルを履き、玄関を飛び出して隣のインターホンを鳴らす。
ガチャリとドアを開け、出てきたのは柊真より身長の低い男。黒髪で目が隠れてしまうほど前髪が長く、肩で息をして額からは汗がダラダラと流れている。
表札には天野と書かれていた。
天野は柊真に気づいてビクリと肩を震わせる。
「だ、誰ですか。」
「あんたの隣の部屋のモンだ。」
柊真はため息混じりの低い声で話しかける。
「うるさいから静かにしてくれ。」
「いや、それは……その」
天野は戸惑いを隠せない様子で言葉に詰まる。
「あ、あれですよ。俺配信者なもので、ホラーゲーム実況してて……仕事ですからね
まあ、だけどアンタに迷惑がかかったなら謝ります、ごめんなさい。
あぁ、でもあれはまじで怖かったんだって……」
「ハァ……」
柊真は深く息を吐いて無言でドアを閉めた。
翌日、柊真はいつものように目覚ましのアラームで目を覚ました。
眠い目を擦りながら、洗面台へ向かい、顔を洗う。相変わらず目の下のクマは取れずに自分の疲れきった顔を見るとため息が出てしまう。
部屋着のままキッチンに向かい、食パンの袋を開けて1枚をトースターに入れる。
待っている間、柊真はタバコの蓋を開け、その中から1本取りだして、ライターで火をつける。
朝のストレスをチャラにするようにヤニを吸うがそう上手くはいかないものだ。
まだ火のつくタバコを灰皿に押し付け、焼き上がったトーストを口に突っ込む。
手早くスーツに着替え、部屋着を洗濯機に放り込む。
スマホを見ると今日は木曜。ゴミの回収日だった。
「フゥ……」
深く息を吐き、部屋にあるゴミをまとめて指定の袋に詰めた。
片手に鞄、片手にゴミ袋で革靴を履くには少し時間がかかってしまったが、出勤に使うバスの時間までまだ余裕があった。
柊真がドアを開けると、同じように隣のドアが開いた。
隣人のいるマンションに住む人間なら一度は経験する気まずい瞬間なのだろうが、それが昨夜揉めた人間となると尚更だ。
柊真は天野の方へ一瞬目をやったがすぐに目を伏せる。天野もこちらを少し見たようだがすぐに目を逸らした。
無言でエレベーターのボタンを押し、一階へ向かう。エレベーターには2人だけ。まだ別の人間がいた方がマシだ。
「あの……」
先に口を開いたのは天野だった。
「なんです」
「昨日は……すいません、うるさくしちゃったみたいで……」
柊真は小さく息を吐いた。
「別に……あんなのいつもの事でしょ。昨日は……俺も疲れてたんですよ。こちらこそすいません。
配信者でしたっけあれが仕事なら仕方ないんじゃないですか」
「待って、それ俺が絶叫するのが仕事だと思われてません」
「だってそうじゃないですか。」
「違いますよ」
天野は怒った様子でもなく冗談交じりに返す。
柊真もそれにつられて口元に笑みを零す。
2人は屋外に出て、ゴミ捨て場に向かう。
「しかし、早起きですね。いつもこの時間に」
「早いっつーか、大体の社会人はこの時間に出勤するでしょ。」
「マジですか俺はできそうにないな……2時就寝11時起床の毎日。今日だってゴミ出したらまた寝るつもりですから。」
天野は独り言のように呟く。
「ハハハッ、不健康すぎる生活リズム。」
ゴミを出し、柊真はいつものように通勤のためにバスに乗る。
いつものように満員だが、その時にふと天野との会話を思い出した。
(俺が笑ったのなんて……いつぶりだったかな……)