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    mhyk_arigato

    パッションと性欲の捌け口

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    mhyk_arigato

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    クロエからもらったブローチをなくしてしまったオーエン。巡って繋がって、返ってくるお話。

    因果の糸で仕立てた衣装「助けてくれてありがとう!」


     ◇   ◇   ◇


     ない。
     オーエンがそう気づいたのは、抜け落ちた記憶を挟んで意識を取り戻してすぐのことだった。

     果実を煮詰めたような濃い赤の宝石をメインに、周りには氷樹に生きる北の国の鉱石を小さく整えたものが散りばめられている。銀色の土台は蔦を伸ばす植物を模しており、繊細さと華やかさの両方を兼ね備える。それは、王族への貢物や最古の魔法使いが抱える秘密の魔道具さえ凌駕する美しさを誇る、世界に二つとないブローチだった。
     数日前にクロエがオーエンに贈ったそれを、オーエンはまだ身につけたことがなかった。ずっとポケットに忍ばせ、時折、周囲に誰もいないことを確認してはまるで盗み見るようにして、その輝きを眺めただけだ。まだ服の上で持ち主を飾ったことのない、生まれたばかりのそれは、その喜びを知る前にオーエンの手を離れてしまった。

     憎たらしいほど晴れた空が、北の国では触れられない熱を地面に芽吹かせる。思考を妨げる暑さを魔法で押し流して、オーエンは記憶を辿る。
     朝の時点で、まだブローチは確実にオーエンの元にあった。魔法使いにとって、自身の体の一部はもちろん、所有しているものを奪われることには大きなリスクがある。長く身につけた腕時計を媒介に呪われた魔法使いや、ネックレスに魂を封じ込められた魔女の話はオーエンも知っていた。
     つまり、オーエンがオーエンである以上、彼が『自分のもの』と認識したものを落とすはずがないのだ。落とすとするならば、オーエンの記憶が不自然に途切れている間。<大いなる厄災>につけられた傷によって、オーエンがオーエンでなくなる時しか考えられなかった。

    「何か探しものか?」

     無意識に赤の宝石を求めて目をさまよわせながら、魔法舎の中庭を歩いていると、太陽の明るさを思わせる腹立たしい声が聞こえてきて、オーエンは眉間に深く皺を刻んだ。

    「……一応訊いてあげる。どうしてそう思うの?」
    「どうしてって。普段探しものしかしてないような男だぞ。俺は」

     自身の右目を指差して男、カインは笑った。この男もまた、<大いなる厄災>の奇妙な傷の影響を受けた魔法使いのひとりだ。彼の傷は触れるまで相手の姿を認識できないというものらしく、よく仲間とハイタッチを交わしている姿が見られる。常に声や気配を頼りに姿を探す彼にとっては、失せ物は日常茶飯事ということだろう。オーエンの何気ない仕草から、自分との共通項を見つけて声をかけたのだという。

    「そうだね、探してる。……うっかり目玉を落としてしまったかもしれないんだ」
    「目玉? おまえの両目、ちゃんとあるぞ。片方は俺の目だけど」
    「たとえば、おまえの部下の目玉」

     見せたくないものや、触れられたくないものを、誰しもが持っている。オーエンにとっては<大いなる厄災>につけられた傷も、ブローチをなくしてしまった事実も、全て隠しておきたい。そんなオーエンの心に土足で踏み込もうとする愚かな騎士の顔を怒りで歪めてやりたくて、オーエンは紋章の乗った舌で悪戯を紡ぐ。おまえの左側にはめ込まれた屈辱を忘れるなよ、と。誰がそれをしたのか忘れるなと、言い聞かせるように。心臓をぎゅっと、握りつぶしてやるような気持ちで。

    「ああ、正確には元部下かな。おまえは騎士団長を首になっているから。まあそれも、魔法使いだってことをわざわざ隠して手に入れた儚い地位だったけど。さあ、どうする? おまえはそれでも、僕の探しものを手伝ってくれる?」

     彼にとっては思い出したくもないであろう過去をこれ見よがしに見せびらかしながら、すぐにでもカインがここから遠ざかることを目的として言葉を畳み掛けていく。

    「でもそれは、たとえばの話なんだろ?」
    「僕の言葉を信じるか信じないかは自由だけど、今この瞬間にも激痛に苦しむ仲間がいるかもしれないんだよ? 彼らは騎士様の名を呼んでいるかもしれない。助けを求めているかもしれない。そんな彼らを、騎士様は放っておくの?」
    「……」

     オーエンはあるかどうかも分からない、けれど真実を錯覚させる言葉を紡ぐことを得意としていた。オーエンの言葉を聞いた者は、あとは勝手に妄執に取り憑かれておかしくなるだけだ。

    「全員のところに行ってくる」

     そう言い出したカインは、正しくオーエンの言葉に騙されているはずだった。しかし、その強すぎる輝きを宿した瞳の中に、オーエンの期待するものはない。

    「は? 全員って誰」
    「俺の仲間たち全員の顔を、今すぐ見に行ってくる」
    「何人いるか知らないけど、まさか今から一人ひとり会いにいくつもり? どこで誰が何をしているかなんて、いちいち把握しているわけでもないだろうに」

     踵を返したカインの歩みからは迷いが感じられない。止まらないカインの背にぶつけられた声は、幼子が母親に玩具をねだって店の前でわがままを言う時のそれと同じだと、オーエンは気づけない。

    「触れなければ見えもしないのに? 今から駆けずり回ったところで、どれだけの時間がかかると思ってるの?」
    「今日中は難しいかもしれない。悪いが明日は中央の魔法使いで任務に行かなきゃいけないんだ。俺の代わりに行ってきてくれるか?」
    「行くわけないだろ。そもそも、勝手に勘違いした挙げ句自分の仕事を押し付けようとするなよ」
    「勘違いって言ったな」

     急に立ち止まって振り返ったカインと危うく衝突しそうになり、大げさに身を引く。彼は黄色の瞳を細めて勝ち誇ったように笑う。しまった、と思うことすら腹立たしく、オーエンは舌を打った。
     騎士団にいた頃の仲間と魔法舎での仲間を天秤にかけて、迷う様子すら見せずに前者を選ぼうとした時点で気づくべきだった。彼ならば無謀も承知でどちらも成し遂げようと動くだろう。カインはオーエンの話す仮定を排除し、真実のみを受け取って会話を続けていた。その上で、彼らしくない言動を混じえながらオーエンにボロを出させようとしていたのだ。
     しかしそれも、一応半信半疑ではあったらしい。泡を食ったオーエンの表情を見て、引き締められていたカインの表情がへなへなと崩れていく。

    「びっくりさせるなよ。本当に、焦った。正直、やりかねないと思っちまった」
    「その顔、傑作」
    「俺、怒ってるからな。覚えとけよ」
    「はは。僕から目玉を取り返してから言ってみなよ」

     それまでの冷静な顔はどこへやら、冷や汗をかいて情けなくしゃがみ込み、あまつさえ似合わない恨み言まで口にした騎士の姿を見ても、溜飲が下がるわけもない。何とかいつもどおり返してみせた言葉も、空々しく響いた。
     これ以上ペースを乱されたくなかったオーエンは、カインを放って探しものの続きをすることにした。

    「こんな意地悪を言うぐらいだ。なくしもの、よっぽど大切なものなんだな」

     俺は大切なものは皆に知ってほしいし、見てほしいけどな。頭の沸いたことを平然と言ってのけるカインの勘違いを正そうと振り返った頃には、カインも背を向けて歩き出していた。


     ◇   ◇   ◇


     オーエンは、クロエを中央の市場でよく見かけていた。

     オーエンのマナエリアは市場だ。特定の市場である必要はなく、単に人が多く集まり、商いをする場所であればいい。人の感情から魔力を得て魔法を操るオーエンにとって、より人の多い場所がマナエリアとなるのは自明の理であった。魔力か、誰かの不幸か、諍いを無意識に求めて市場に身を踊らせると、衣装の材料を買いに来ていたクロエを見かけることがあった。

     交流の要でもある中央の国の市場は大きく、品揃えも豊富だ。常日頃、インスピレーションやこの世に二つとない品を求めているらしいクロエは、かなりの頻度で市場に繰り出しているようだった。

     ある日、クロエは長い時間、宝石店の前で悩んでいた。あまりにも店の前から動かないので、オーエンは姿を消しながらクロエの後ろに忍び寄ると、彼の視線の先を追った。いちごジャムを詰め込んだような、濃い赤の宝石がキラリと光る。確かに、彼にとっては購入を即決できるような値段ではなかった。
     意を決したように「これください!」と口にしたクロエの声は雑踏で埋め尽くされた市場を冴え冴えと通り抜け、近くにいたオーエンは思わず耳を塞いだ。
     あれだけ悩んで、クロエにとってはそれなりの大金をはたいて買ったその赤の宝石は、きっと彼の為の装飾品となるのだろう。いつも他人に奉仕するようにして服を作り続ける彼にとっての、自分へのご褒美。オーエンはそう信じて疑わなかった。人混みの中でも目を引く、クロエの赤い髪と揃いの色で、彼は自身を彩ろうとした。

     だから数日後、その宝石をあしらったブローチを手にしたクロエがオーエンの部屋の扉を叩いた時、オーエンは珍しく喉から嫌味を取り出せなかった。「最初に見た時から、この宝石はオーエン以外にありえないって思ったんだ!」そう、満面の笑みを浮かべてブローチを差し出した彼に、オーエンが言えたことなど馬鹿らしくなるような、嫌味にすらならない言葉だった。もう、なんと言ったのかも覚えていない。

     その日の夜、オーエンは一晩中ブローチを眺めていた。月の光に透かしてみて、角度を変えるとキラリと輝くそれを飽きもせずに、ずっと。心の歯車が一部狂ってしまったかのような、不思議な感覚。それはたとえば、カインがまっすぐ自分を見つめてくる時と同じ。たとえば、ミスラと一緒に彼の故郷の景色を眺めている時と同じ。たとえば、自分を信じようと必死にあがく賢者の姿を見た時と同じ。

     クロエからこうして何かをもらうのははじめてではない。クロエはよく、形に残るものをオーエンに贈った。オーエンの部屋のクローゼットは、今やクロエからもらったたくさんの衣装で肥え太っている。いつの日かのワルプルギスの夜では、クロエはオーエンの為に狼の形をしたチェスピースを贈った。

     クロエの笑顔や、少し怯えたような表情、得意げな表情、慮るような表情。その全てが鬱陶しいぐらいに脳みそを掻き回していく。

     まだ、渡されてほんの数日。ブローチにはオーエンの魔力も馴染んではいない。むしろ作り手であるクロエの魔力の残滓から辿った方がまだ見つかる可能性もあるが、クロエの魔力は現段階でそこまで強いものではない。オーエンは毎秒舌打ちをしながら人混みをかき分けていく。
     記憶を失っている間、それでも性質が根本から変わらないのなら、厄災の傷に侵されたオーエンも市場に繰り出している可能性が高い。人混みの足元、路地裏、噴水の水の中、広場のベンチの下、川のほとり、猫の集会所。様々な場所で探索の魔法を展開し、時には自身の手足と目を使ってブローチを探したが、やはりそれはどこにもなかった。

     オーエンは立ち尽くした。気づけば、ブローチをなくしたことに気づいてから半日が経っていた。
     夕日に長く引き伸ばされた影が、黒く道に伸びている。日が暮れていくのと同時に、街の活気も波のように引いていき、市場の店も閉まり始めていた。遠ざかる人の気配の音を聞きながら、心臓が冷たくなっていく。

     このまま見つからなかったら、どうしよう。

     オーエンの中の、脆い誰かが呟いた声が木霊する。心臓が締め付けられるように痛くなって、言い知れぬ不安感が押し寄せてくる。馬鹿馬鹿しいと一蹴しても振り払えない。それが他ならぬ自分の心から生まれた感情だったからだ。
     そんな弱い誰かの声をむりやり押しつぶして、魔法舎へ戻る為に夕暮れの空を飛ぶ。中庭に降り立つと、忌々しいことに今しがた鍛錬を終えて森から帰ってきたカインと鉢合わせた。

    「まだ、見つからないのか?」
    「騎士様には関係ないでしょ」

     平気な顔をして隣を歩くカインが鬱陶しく、姿を消してしまおうとした時、カインはぽつりと空を見上げながらオーエンに声をかけた。

    「なあ。おまえが昼間に俺に言った意地悪だけど」

     唐突にそう切り出され、オーエンにはなんのことか分からなかった。ブローチのことばかり考えていた脳みそから昼間の記憶を辿り、一拍遅れて目玉のくだりだということに思い至る。

    「俺はあの時もしかしたら、おまえの言葉に騙されて剣を向けていたかもしれない」
    「へえ。お優しい騎士様。そんなに腹が立っていたのに、僕に剣を向けなかったんだ」
    「……おまえにとっては何でもないことだったんだろう。きっと助けたつもりもなかったのかもしれない」

     唐突に、話が見えなくなる。オーエンは眉根を潜めた。

    「俺はオーエンに会う前に、騎士団にいた頃の仲間と会ってる。久しぶりに飯でもどうかって話になってな。生粋の猫好きで、今日も猫の話になったんだが」
    「どうでもいいんだけど」
    「今日、川で溺れかけてる猫を見つけて、そいつはすぐに助けようとしたらしい。でも、そいつより先に猫を助けた奴がいた」

     細められた目には、誇らしささえ宿っていた気がする。一体何を、そんなにも得意に思うことがあるだろう。

    「オーエン、おまえだったって。そいつは教えてくれたよ」

     カインのかつての仲間であれば、カインが騎士団長の地位を剥奪されるきっかけも知っているだろう。もしかしたら、その場にいたのかもしれない。身体的特徴から、彼は猫を助けた男がオーエンだと分かったらしい。

    「その話を聞いた後だったからかな。なんだかおまえの意地悪がちゃんと入ってこなくてな。怒りきれなかった」
    「……猫を助けたのは、僕じゃない。僕に、その記憶はない」

     欠落した記憶の在り処が分かった。どうやら奇妙な傷が発動している間、オーエンはどこぞの川で死にかけた猫を助けていたらしい。それを誰かに見られていただけではなく、カインに伝えられ、侮られていた。全てを噛みちぎって壊し尽くしたい衝動がありながら、まるでオーエン自身がトランクに詰められるようにして、うまく苛立ちを表に出せない。

    「きっと、今のおまえでも助けたさ。おまえたちは結局、同じオーエンなんだろう?」
    「馬鹿馬鹿しい。妄想も大概にしなよ。……北の魔法使いが、そんなことすると思うの? そんな、まるで騎士様みたいなこと……」

     胸の中の化石が蠢いた気配がする。それは失われたはずの、遠い昔の記憶。暗い、場所。
     輪郭の掴めない感情の残滓を追いかけたことで、オーエンの武器のひとつでもあった言葉は鈍くなる。その間に、カインはオーエンに背を向けていた。きっと、なくしものはすぐに見つかる。そんな言葉を残して。

     魔法舎の自室に戻ろうとした時、廊下をうろうろと歩き回っているクロエの姿を見つけた。
     ざわめく心は既に鎮めた。クロエに会ったところで、素知らぬ顔を通せる自信があった。言わなければいい。口にしなければ、ブローチをなくしたことなど分かりはしない。今日だけでは見つけられなかったが、あと数日も探せば出てくるだろう。そうだ、先程カインから聞いた猫の話が本当なら、川の周辺で落とした可能性が高い。たとえ川の先の海にまでブローチが流されてしまっていても、オーエンの魔法をもってすればきっと探し出せる。広大な砂漠から一粒の金を見つけることができるのが、魔法使いだ。見つけたら何食わぬ顔で胸元に飾っていればいい。ありがとう、これ本当に素敵だね、とでも言っておけばクロエは簡単に騙される。
     彼の横を素通りしようとするが、クロエの声で足は縫い留められる。

    「ブローチ」
    「……」
    「この間の。気に入らなかった?」

     その瞬間、オーエンの胸に溢れ出たのは破壊衝動だ。トランクに押し込められていた、苛立ち。相手の心も、意図せず生ぬるくなったこの関係も、クロエの思いも気遣いも、自分自身の心でさえも、どうなっても構わないという衝動。

    「うん。気に入らなかった。だから捨てたよ」

     一度吐き出した言葉は止まらない。もう引き返せない。

    「きみが一生懸命、金と時間と、心を費やして作ったものはこの世界のどこかでゴミになったよ」
    「……」
    「あれ、高かったんじゃない? そんなものをわざわざなけなしのお金で買って、僕に贈ってどうしたかったの? 恩を売ったつもり? 北の魔法使いがそんなことでほだされるとでも思ったの? 残念! ……ねえ、きみが頑張った時間ってなんだったんだろうね? もしかして僕があんなものを後生大事に取っておくとでも思ったの?」

     泣くだろうと、と思った。泣いてくれれば、オーエンは冷静になれる。いつもの自分を取り戻せる。だから泣いてほしかった。怒ってほしかった。けれど、どれだけの言葉の刃で突き刺したところで、クロエの紫色の瞳は凪いだままで、それが、昼間のカインを連想させた。オーエンがどんな言葉を投げかけたところで揺るがない、信じるものが胸に灯っているとでも言いたげな、芯のある瞳だ。
     瞳と同じ、静かな声でクロエは淡々と語る。

    「オーエンの言葉は、真っ向から受け止めようとすると泣きそうになる。何も考えられなくなって、俺が間違ってたのかなって、下を向きそうになる。カインの言葉がなかったら俺は今頃、オーエンの目を見ていられなかったかもしれない」
    「は? なんでそこで騎士様の名前が出てくるわけ」
    「でも俺は、そんな風に何かを隠すように散りばめられた悪意よりも、もっと純粋で傲慢な悪意を向けられてきた。だから、同じ悪意でもオーエンのそれは、あの人たちのものとは種類が違うって分かる。そんな風に縋るように向けてくる悪意を、俺は振り払えない」
    「縋る……? 馬鹿にするのも大概に……」

     額に青筋を浮かべ、魔道具のトランクを引き寄せかけたオーエンは、動きを止めた。クロエの手には赤く光る宝石がある。オーエンがずっと求めて、結局見つからなかった、なくしたと思っていたブローチだ。
     オーエンは動揺をひた隠しにして、心底軽蔑した表情でクロエを見下した。

    「なに? 自分で贈りつけたものが今さら惜しくなったの? でもそれは今まで僕のものだったんだからそれを盗ろうなんて……」
    「魔法舎の、俺の部屋の前に落ちてたんだ」

     オーエンの言葉を遮って、クロエは瞼を伏せた。泣きぼくろのある目元は依然穏やかなまま、ただ綺麗なだけの宝石をひとつの芸術にまで進化させた仕立て屋の指が、ブローチをなぞった。

    「最初は色々考えちゃったよ。落としちゃったのかなとか、やっぱり気に入らなかったのかなとか。こんなもの押し付けても、オーエンにとっては迷惑でしかなかったのかなとか」
    「おまえごときが、勝手に僕の心を推し量るなよ」
    「悩んで悩んで、お昼ご飯もうまく喉が通らなくて、ネロには心配されちゃった」
    「誰もおまえのことなんて聞いてないけど」
    「そのうち昔のこととか、悲しかったこととかを思い出しちゃって」
    「話聞けよ」
    「だって実際、俺が贈ったものが迷惑でしかなかったことがあったから。破られて、捨てられちゃったことがあったから。どんなに祝福を込めても、何も知らない人からしたらそれは呪いだった」
    「……」

     どこまでも冷静だったクロエの瞳が、感情に揺らめく。過去の切なさを振り切って、紫色の宝石の上に浮かんでいたのは、悲しさや苦しみや、絶望ではない。あれだけの悪意に刺されながら、クロエは嬉しそうだった。

    「俺ね、オーエンが一生懸命このブローチを探してくれたって、知ってるよ」
    「はあ? でたらめ言ってると殺すよ」

     そんな脅しも、今のクロエには通用しなかった。大切にしていた秘密の箱を開けるみたいに、クロエは微笑む。

    「カインだよ。カインに聞いたんだ。オーエンが何かを必死に探してたって。きっとそれのことだろうって。色々考えちゃって落ち込んでいた俺に、カインは教えてくれた」
    「……」
    「あ、あと。このことをオーエンに伝える時は『仕返し! これで恨みっこなしだぞ!』って一緒に伝えておいてくれって言われてるんだけど、なんのことか分かる?」
    「………………」

     今日一日でどれだけ怒りの沸点を通り過ぎたことだろう。オーエンは事情を説明することすら面倒になって、それをわざわざオーエンに伝えたクロエが次に何を言い出すのかを黙って待っていた。
     クロエはオーエンの怒りなどつゆ知らず、都合の良い勘違いに勘違いを塗り重ねながら続けた。

    「大切に、思ってくれてたんだね」
    「思ってなんかない。……本当に大切に思ってたら、落としたりなんかしない」

     クロエは答えなかった。代わりに、再度手元のブローチに視線を落とすと、静かに語りだす。

    「ねえオーエン。何かをデザインして作るってすごく楽しくて大変で、不思議なんだ。その時はこれ以上ない最高のものができたって思うのに、しばらく経ってみるとあそこはこうすればよかったな、っていうのがいくらでも出てくるんだ。きっと、芸術に終わりなんてない。……オーエンに渡したブローチも、そう。だから、少しだけ手を加えてもいい?」

     沈黙を貫いたオーエンの態度を言葉無き許可と取ったのか、もしくはオーエンが渋ったとしても彼の思う芸術を優先させる気だったのかは分からない。不思議の力がクロエの方を振り返り、ふわふわと寄り集まる。手のひらの中で、彼の心に反応して淡く光が生まれた。

    「今日、きっとこの為に、ブローチはオーエンのポケットから逃げ出して、俺のところに戻ってきたんだよ」

     祈りを知らなかったオーエンに、祈り方を教えてくれた魔法使いは、あの時と同じ確信に満ちた声で言う。
     まだ若い、未発達の魔法が、世界を唸らせる芸術の導を奏でた。

    「《スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク》」

     光が収まる頃、変わらずクロエの手の中にあるブローチが、胸を張るようにして輝いた。

    「ね、さっきより素敵になったでしょう?」
    「……どこが変わったのか分からないんだけど」
    「ええ! ほら、ここ! ここの葉っぱの模様が細かくなってるでしょ?」

     クロエはブローチを指差して、デザインで悩んだところや、こだわりなどをひとつひとつ早口でまくし立てていく。適当に返事をしながらブローチを眺めていると、期待に揺れた瞳が、こちらを見ていることに気づいた。

    「受け取ってくれる?」

     オーエンは彼の手からひょいとブローチをつまみ上げると、少しの時間、それを光にかざして細部を眺めた。ブローチをもらった日の夜のように、時間さえ許せばそのまま眺めてしまいそうになる自分を叱りつけて、魔法を施す。どんなものも壊せる、北の魔法使いの呪文を使って、あの日の祈りに似た優しさで。

    「《クーレ・メミニ》」

     クロエでは、見ただけではそれがなんの魔法かは分からない。いくら人の手に渡ったからといって、自分の作品に怪しい魔法がかけられれば、その魔法について知りたいと思うこともあるだろう。オーエンはあくまで彼の西の魔法使いとしての矜持に敬意を払うつもりで、魔法の意味を語る。

    「もしこれが勝手になくなっても、僕のところに戻ってくるように」
    「オーエン……!」
    「勘違いするなよ。また落として、これ以上ゴテゴテに装飾されるのが嫌だからだよ」
    「大切にしてくれてありがとう!」
    「だから! 聞けよ!」

     窓から差し込む光はすっかり夜を帯び、ネロの作る夕食の匂いが漂い始めていた。匂いに釣られるようにして歩き出したクロエは、満足そうにニコニコとしている。まだまだ文句の言い足りないオーエンは必然的に彼に着いていく形になった。

     しばらく歩いていると、廊下で食堂とは反対方向に進むファウストを見かけた。
     ファウストは両腕に何かを抱えているようだった。腕の中の塊を時折見下ろしては、表情を緩ませている。オーエンたちの気配に気づいてすぐに厳しい表情を作り直していたが、ゴロゴロと喉を鳴らすそれを撫でる手は止まっていない。

    「あれ? ファウスト、その猫どうしたの?」
    「……迷い込んだみたいで、外に出られなくなっていたんだ」

     ファウストの腕の中で、迷子になっていたという間抜けな猫はぴんと両耳を立てるとオーエンを見た。死にかけて、こんなところにまでやってきて今度は迷子になっているようでは世話がない。
     彼はオーエンがブローチを落とした原因でもあり、今こうして手にできた功労者。にゃーん! そのひと鳴きに込められた意味を、動物の言葉を解するオーエンには分かってしまう。――落としてたよ! うるさいな。そんなの分かってるよ。

     猫は、オーエンに向かってもう一度、鳴いた。オーエンはそっと手伸ばして、猫の喉を撫でてやった。
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