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    mhyk_arigato

    パッションと性欲の捌け口

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    mhyk_arigato

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    ネロとフィガロ

    その音を呼ぶ 魔法舎におけるネロの部屋は、生活する為の場所というより、料理をする為の場所に無理やりベッドを置いたような、どこか統一感のない空間になっている。部屋に誰かを招くことを考えていなかったため、椅子は一脚しかない。正しくは、なかったと言うべきだろう。
     今や部屋の隅には数脚の椅子が置いてあり、食器の数も以前より増えた。お腹がすいたと突然扉を叩く子供たちや、今や晩酌を共にすることも多くなったファウストの為に、すぐ食べられるものを常備しておく癖までできてしまった。

     乾燥させた果物やピクルス、焼いたナッツに、試作のつもりがかなり良い出来栄えとなったパイまで、部屋にある料理をそれとなく、ひたすら、テーブルに並べる。部屋の隅に置いてあった椅子を引っ張り出し、頬杖をついてこちらを眺めている、突然の来訪者の為だ。
     男の食の好みは既に把握していたが、こういう夜に男が何を求め、何を好むのかまでは把握していない。突然ネロの部屋を訪ねた男の目的が読めないまま、重たい空気を耐え忍ぶ。

     男はまだ料理に手をつけていない。どうやらネロが席につくのを待っているようだ。それを察してしまったからには「まだ終わらないの?」と言われる前にネロも椅子に腰かけるしかなかった。
     オズやミスラのように分かりやすく威圧感を放つわけではないが、隠しきれない北の香りはネロに否が応でも緊張をもたらす。緊張しているそぶりを見せないように隠しても、この男には見透かされるだろうと思うとさらに居心地が悪くなるのだ。

     それでも男、フィガロとは同じ賢者の魔法使いとして召喚されたいわば仲間と呼ぶべき関係にある。あくまで対等な立場として、努めて力を抜いて「こんな遅くにどうしたんだよ?」と軽く尋ねてみる。

    「実は、シャイロックにバーを追い出されてしまってね」
    「あんたが大声で騒いでるところは想像できねえな。どんな怒らせ方したんだよ」
    「美人の怒った顔って迫力があるよねえ」

     フィガロが軽くグラスを揺らすと、精霊が反応した。北の魔法使いが魔法を使う仕草に緊張してしまうのは、ネロもまた北の生まれだからだろう。ネロは他人を心から信用し信頼することができないし、他人にそれを求めない。本能にも近いそれに抗ってこの身に正面から受けることができた魔法は、たった一人の魔法使いから放たれた魔法だけだ。
     逸れかけた思考の軌道を直す。敵意のない魔法であることは分かっていたので、肩から力を抜いて魔法の気配を辿った。
     重苦しくも感じられた部屋の雰囲気の上を、バイオリンの旋律が流れていく。ピアノと、それから、遠い誰かの歌声。

    「音の魔法か?」
    「空気の振動を記憶して、音楽を再現したんだ」

     それは、どんな怒らせ方をしたのか、というネロの問いに対する答えのようだった。
     聞き覚えのある曲だ。二百年ほど前に流行ったものだっただろうか。街を歩けばどこからかその旋律が聞こえてくるぐらい、当時人間も魔法使いも、誰でも知っていた曲だった。

    「西の音楽家たちが人生の全てを投げ打って辿り着いた先に編み出された音楽を、俺一人で再現した。もちろん、曲を再現するにあたって小さな音は多少省略した部分もあるけど、それだってほんの少しのものさ。ほとんど元の曲を再現したつもりだよ。どう? 結構すごいことだと思うんだけど」
    「まあ、すげえけど……」
    「そう、そんな顔をされた。おかしいよね。生の演奏に劣るというのなら、シャイロックはバーから蓄音機を撤去するべきだよ」

     音楽がなり止んだ。途端に、シンと、静寂が耳を突き刺して痛い。フィガロはやはり、出された料理には手をつけないまま、試すようにネロを覗き込んだ。榛色の瞳孔に困惑した表情のネロが映っている。

    「だからきみのところに来た。料理に魔法を使わない、きみのところに」
    「あー……」

     なんとなくフィガロがここに来た理由を察することはできたものの、フィガロの相手が自分には荷が重いことには変わりない。

    「俺の作ったこの音の魔法と、蓄音機で奏でられる音楽、音楽家が奏でる生の演奏と、何が違うんだろう。俺の音の、何がシャイロックを怒らせたんだと思う?」
    「……手間がかかってない、とか」
    「手間? 音の魔法を生み出すのに相当の神経を使ったし、この一曲を再現するのにそれなりに時間と魔力を要した。こんな魔法が使えるのは賢者の魔法使いの中でも俺ぐらいのものじゃない?」
    「うーん、そういうところじゃないか」
    「そういうところ?」

     言葉選びを間違えてはならないが、適当なことを言ってフィガロの機嫌を損ねるのも避けたい。ネロは視線をあちこちに彷徨わせ、それが深刻な響きを孕みすぎないように細心の注意を払いながら、なんとか言葉を繋げていく。

    「あんたの音楽の再現の仕方は、音を軽んじてるようにシャイロックには見えたんだろ」
    「面白いね。軽んじてる、か」
    「これが聴きたかったんだろって、これを聴ければみんな喜ぶんだろうって、傲慢に施されてる感じ」
    「そんなことまで分かるの?」
    「さあ。少なくともシャイロックはそう感じたんじゃねえかって話」

     フィガロの表情や態度に変わりはない。ネロの言葉が特別フィガロを満足させたわけでも、不快にさせたわけでもないようだった。ネロは気づかれないようにそっと一息つくが、フィガロはやけに確信めいた口調で、「でも世界はいつかそうなるよ」、と言う。

    「ひとつの動作だけで世界の音楽家の奏でた音楽が聴けるようになる。手紙よりももっと早くて確実な情報の伝達手段ができるだろう。馬車よりももっと早く移動するものが現れ、いずれ魔法なしで誰もが空を駆けるようになる。――ほんの少し温めただけで、まるで一流シェフが作ったような料理が食べられるようにだってなるだろう。そういう世界の入り口が、もう見えている。科学の発展はめざましいからね」
    「双子お得意の予言か?」
    「いいや、予測さ」

     フィガロは酒の注がれたグラスの縁を指でなぞりながら、ただ疑問を投げかけるにしては、嘆きとも不満とも取れる色の混じった声で続けた。

    「どうしてだろうね。心で魔法を使うのに。心があるから魔法が可能になるはずなのに。心で使った魔法の成果に満足できないなんて。地道に何にも頼らずに、ただ手で行うことが最も美しいとされるなら、魔法も科学も、どちらも同じじゃないか」
    「そういう話は俺じゃなくてムルとした方がいいんじゃないか。シャイロックに謝るついでにムルの居場所を聞いてくることをオススメするよ」
    「体良く厄介払いしようとしないでくれよ。釣れないな」
    「厄介って自覚はあるのか」

     ――世界はいつかそうなる。ほんの少し温めただけで、まるで一流シェフが作ったような料理が食べられるようになる。
     そんな未来が訪れれば、多くの人々はその手段を選ぶようになるかもしれない。味が同じなら、手間暇をかけた料理よりもそちらを選ぶかもしれない。ネロの料理が、必要ではなくなる時が来るかもしれない。ネロが、必要ではなくなる時が来るかもしれない。

     フィガロは暗に、ネロにこう言っているのだ。他人事だと思うなよ、と。

    「この間パンケーキを作ってたら、いつの間にかオズに見られててさ」

     フィガロが、興味深そうに片眉を上げた。

    「パンケーキがうまく膨らまないだのなんだの、言ってた気がする。魔王がパンケーキを焼くなんてぞっとしねえけど」
    「オズがねえ」
    「その時も怖かったし、後から思い出してもやっぱ怖かったなって思ったけど、不思議と悪い気はしなかったよ。魔法で全部できるような男でも、魔法を使わない道を選んだんだ。あいつにパンケーキをねだる、子供たちの為に」
    「精霊に祝福された魔法使いでありながら、魔法の手を離すなんてね」
    「そんな寂しいことを言うつもりはねえさ。ただ、魔法を使うのに適している時と、そうじゃない時がある。俺にとってそれが料理をする時で、西の音楽家たちにとっては音楽を奏でる時だった。……ルチルだって、魔法を使わずに絵を描くだろ?」
    「……」

     そっと、影を落とす。瞼の裏にネロはいつだって北の風景を思い描けた。どれだけ自分の居場所ではないと感じた場所でも、あの場所は確かにネロの生まれ育った国だった。
     吹雪の夜だった。手足がかじかんで、魔力もろくに残っていなくて、気を抜けばそのまま石になってしまいそうなほど疲労していた。実際、ついさっきまで後ろを歩いていた仲間が、石になって音もなく雪に沈んだ。
     自分の身を守ることで精一杯で、いつだって恐れと敗北を噛み締めながら生きてきた。そんな人生が一人の魔法使いと出会うことで鮮やかすぎるぐらいの変化を遂げて、生きる為の略奪が夢のある略奪に変わった。あの日もきっと、どこかの宝を狙っていたんだろう。
     あれはどこかの洞窟だ。命を刈り取る吹雪が視界を埋め尽くす中、ほうほうの体で逃げ込んだ。野菜くずを煮込んだだけのスープを、満面の笑みで「うまい!」と言ってくれた、焚き火に照らされた彼らの顔を覚えている。立ち上る湯気と、傷の残った赤い鼻先と。遠い昔、料理はネロにとって他人の輪郭をぼやけさせる為の膜ではなくて、繋がる為のものだったのかもしれない。あの瞬間、ネロの心に降り積もった雪よりも温かく柔らかい感情の名は、きっと世界の誰にも分かりやしない。

    「不思議の力だって借りたくねえんだよ。俺たちはきっと」

     緩やかに、フィガロは目を見開いた。ネロのその言葉にはフィガロの疑問を解決するだけの力があったらしい。静かに伏せられた目からは相変わらず感情が読み取れなかったが、フィガロの口から畳み掛けるような、逃げることを許さない質問がそれ以上出てくることはなかった。次に零された言葉には、羨みとこの話題の終わりが見えた。

    「いいなあ。俺もそうやって、魔法すら投げ打って夢中になれることがあればよかったのに」
    「……あんただって、似たようなもんだろ」

     仕返しのつもりだった。フィガロはネロの言葉の意図が読めなかったようで、目を細めた。
     その瞳の冷たさに言葉を飲み込まなかったのは、もしかしたらネロもシャイロックと同じように少しだけ、面白くないと思っていたからかもしれない。フィガロの予測する、いつか来るかもしれない世界が。まるで凡人が使う科学のように、原理への追求を捨て、本質への理解に及ばないまま、理解の努力さえなく、何の代償もなく、手間もかからない方法で、料理が消費されていく未来が。

    「あんたなら、いくらでも魔法で対象の思考や記憶をいじれた。魔法で心を結ぶことができたはずだ。けど、それをしなかった。回り道をして、魔法でどうとでもなることに時間と手間と、心をかける。その結果に、それなりのもんが返ってくると思うから、あんたもまどろっこしい真似をするんだろ」
    「……」
    「ほら、聞こえる」

     フィガロ先生―、と。
     ネロの視線を追ってフィガロが振り返る。ネロの部屋の、扉のすぐ向こう、フィガロを探す少年の声が響いた。部屋にフィガロの姿がないことを訝しんで、もしや隠れて酒を飲んでいるのではないかと、まっすぐな少年はここまでフィガロを探しに来ているのだ。フィガロが手間暇をかけて、守り育ててきた、小さな魔法使い。

     フィガロは降参したように両手を上げて席を立ち、「邪魔したね」と一言だけ残して部屋を出て行った。結局フィガロは料理にも酒にも手をつけなかった。
     グラスに残った酒を啜って、ネロはテーブルに並べるだけ並べたつまみの処理に、ファウストを呼ぼうかと考えるのだった。
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