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    mhyk_arigato

    パッションと性欲の捌け口

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    mhyk_arigato

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    賭けをするオズとフィガロの話

    貝の喰む1

     雪のない風がオズの頬を撫でていく。南の乾いた空気を含んだ毛先が青く踊る。
     そよぐ背の低い草木に鮮やかさはないが、代わりに丸く大地を切り取って広がる湖の青を際立たせている。湖の周りに群がるように街が広がり、目的地である診療所は湖に面した場所に建っていた。
     主の帰りを待つことも多いその建物は、しかし庭の草木は丁寧に整えられ、白い壁には雨だれのひとつもない。それは主が不在でもその場所を瑞々しく保てるように魔法がかけられている証だ。誰もが気後れすることなく入ることができるように、計算された親しみやすさを感じる建物の入り口近く、そんな計算を度外視した小さな花壇があった。何も咲いていない花壇でも、掠れた文字の書かれたプレートの彩りを診療所の主が取り去らなかった理由が、今のオズにはなんとなく分かる気がした。
     扉に鍵はかかっていなかった。中に入れば、嗅ぎ慣れた薬品の香りがした。この建物の主が南の国の開拓を始め、わざとらしく白衣を羽織るようになってから纏い始めた匂いだ。
     光を多く取り入れる造りになった室内で、無数の小さな埃が反射する。壁に貼り付けられた絵や折り紙をなんともなしに眺めてから周囲に探索の魔法をかけた。

     ない。

     決して広くはない室内を探し終えるまで、数秒とかからなかった。目当てのものが見つからなかったことに対して落胆はない。元より、簡単に見つかるものだとは思っていなかった。オズは踵を返し、主のいない診療所を後にした。




    「俺、もうじき死ぬみたいなんだ」

     フィガロは、ほんのりと酔いに染まった頬のまま、なんでもないことのように言う。

     幻術に閉ざされているはずのオズの城中を、勝手知ったる我が家と同じように歩き回る男は、いつの間にかソファで寛いで酒を飲んでいた。オズもそれに付き合う形で、古い酒をあおりながら変わらず暖炉の火を眺めていた。さえずりのように聞き流していたフィガロの言葉に時折返事とも呼べない相槌を返して、ただ時の流れに身を任せていた。そんなオズの耳に届いたフィガロの言葉はそれこそ雷か何かのように、オズを内から焼いた。

     言葉の意味を理解するのにどれぐらいの時間を要したのか、オズにも分からない。気づけば北の空を珍しく彩っていた青空は暗雲に飲み込まれ、暴風が横殴りの雪を連れてきていた。ひっきりなしに空が光り、轟音を撒き散らす。フィガロは少し驚いたような顔で窓の外を見つめてから、哀れみの瞳をオズに向けた。

    「ほんの少し叱られただけで雲を呼ぶぐらいだ。この嵐が、おまえにとってはほんの小さな感情の起伏でしかないことは知っているさ」

     フィガロはグラスの底に残っていた数滴のワインを、喉を反らして飲み干した。次の酒を注ぐことはなく、空のグラスを手慰みで揺らし続ける。

    「気づいてるかな、とも思ったんだけどな。やっぱりおまえは、こういうところは鈍いね」

     濁流のように押し寄せる感情の中には、フィガロを責める気持ちも混じっていた。齟齬なく感情を言葉にすることができないオズよりも、よほどオズのことを分かっているという顔で、フィガロは言葉もなくオズの感情をいなす。気がつかなかったのはおまえだろうと、声もなく言われているような気がした。
     何も言えないでいるオズをよそに、曇った窓に指を滑らせて外を見つめるフィガロは呑気なものだ。少なくともフィガロはオズの行き場のない感情におさまりがつくまで待つつもりのようだった。大方、この吹雪をそのままにはできないと思ったのかもしれない。

     時間の許すままに言葉を先延ばしにしてきたこれまでとは違い、オズの背は焦燥に押されていた。言葉にせずとも察してくれるフィガロだが、きっとオズの喉奥に絡まっている思いは、言葉にしなければ拾い上げてはくれないだろう。

    「ルチルや、ミチルはどうする」

     ようやく口にできた言葉はやはり掠れていて、返すフィガロの声に関心は乗らない。

    「どうするって、何が?」
    「……おまえが死ねば、あの子たちはどうなる」
    「どうもしないさ。そりゃあ、悲しんで泣いてはくれるだろうけど、それだけさ。それ以上を、俺だって望まない。……だからさ、南の国を出ようと思う」
    「なぜ、そうなる」
    「見せたくないんだ。俺の石になった姿なんて、あの子たちに」

     南の兄弟に別れを告げる気はないと、フィガロは続ける。
     不安そうな青い瞳。小さくなっていくその姿を最後まで見送ることもしなかった。目を背け、今と同じように世界はオズの感情に引きずられて泣き続け、凍りついた。今も、心に跡が残っている。

    「後悔していた」
    「何を」
    「何も告げずに、アーサーを城に帰したことだ」
    「……」
    「別れの挨拶も言えずに、おまえを失ったことに気づいたあの子たちがどんな思いをするのか、想像できないおまえではないだろう」

     フィガロはオズの言葉に気分を害したように片眉を上げ、冷笑を乗せる。別れが何かも知らなかったオズを見下す笑みだった。その笑みは牽制で、拒絶で、線引きだった。しかし、オズもここで引き下がることはできなかった。
     オズにとってのフィガロが何者であるか、明確に定義はできないけれど、間近に迫った死に心が揺れ動いていることは事実だからだ。

     長すぎる無言の攻防は、オズに引く気がないことを十分に示したようだった。フィガロは長いため息の後、一瞬で掴みどころのない笑顔に切り替えた。両腕を広げ、天を仰ぐ。袖を通していない白衣の裾が翻る。フィガロはどこか芝居がかった口調で話し出した。

    「魂の在り方は非常に柔軟だ」
    「……」
    「染まり、穢れ、変質し、たやすく砕け、隠すことができる」
    「何の話だ」
    「――俺の魂は欠けている」

     フィガロは右手をちょうど心臓の上に当て、鼓動を確かめるように握りしめた。

    「ほんの少しだけだけどね。俺でさえ、ずっと気づかなかった。いつ無くしてしまったのか、分からない。気づいたのはほんの五十年ほど前さ。結局、今の今までそれは見つかっていない」

     おまえにはそれを見つけてきてほしい、とフィガロは挑発的に口の端を上げながら言う。

    「賭けをしよう、オズ」
    「賭け……?」
    「たとえ世界最強と恐れられたその力をもってしても、おまえは俺の魂のかけらにはたどり着けないだろう。俺は勝算のない賭けはしない。この賭けには俺が必ず勝つ。それでも、おまえは見つけられる方に賭けられるか」
    「……この賭けに、おまえは何を差し出す」
    「おまえが勝ったらおまえの言う通りにする。俺が勝ったら、これ以上俺の死に関わるな」

     死に関わるな。言葉にされてオズは初めて自身の行動の意味を知る。オズは、フィガロの死に関与しようとしている。大切だったはずのものを捨て、ひとりで石になろうとするフィガロを止めたいのだと、焦燥から生まれた願望を理解した。
     オズが無言で頷くことで、賭けが成立した。フィガロは既に勝ち誇った顔で、再度心臓の場所を明らかにするように、手の甲を反らして指先だけで胸元を撫でた。

    「オズ。おまえに俺の魂が見つけられるか」

     窓の外と同じ色をした灰色の中で、鮮やかな榛色がきらめいた。試すように、それはオズの赤い瞳を射抜いている。

    「おまえは俺を、見つけられるか」


    2


     フィガロとの賭けにおいて、オズに与えられた時間は三日。<大いなる厄災>に負わされた奇妙な傷の影響で夜はほとんど魔法が使えないことを考えれば、時間などないに等しかった。

     フィガロの魂のかけらを探す行為は、そのままフィガロの人生の足跡をたどる行為に他ならない。魂を欠くほどの出来事が起こった場所、心を残したかった場所、心を預けたかった場所や、心を捨てざるを得なかった場所を探さなくてはならない。

     しかし、世界を知ろうともしてこなかったオズにとって、フィガロの足跡を追う行為は決して容易ではなかった。現に三日という決して長くはない期限を突きつけられた直後だというのに、オズは動き出すことができないでいた。

     フィガロの足跡は、この世界のどこにでも存在した。そして、どこにも存在しなかった。
     彼は時に大陸全土を支配していた傲慢の大国に、時に人間による魔法使いの売買が行われていた下賤な街に、時に魔法使いを神と崇めた辺境の哀れな村に、時に地上で最後の生き残りとなった優しい古代生物の隣に在った。時に大魔法使いとして、時に凡人として、時に神として、時に獣や女の姿となり、ありとあらゆる形で世界に干渉した。城に閉じこもり孤独の中で息をし続けたオズとは対照的に、フィガロの孤独はどこまでも他者の中にあったのだろう。
     どこにでも在れたフィガロだからこそ、自身の足跡を消すことにも抜かりはなかった。魔法使いの間では周知の事実でも、人間の歴史にフィガロの記録はほとんど残っていない。オズとフィガロで歩んだ世界征服の道のりは、今や後世には魔王オズの暴虐として語り継がれ、そこにフィガロの名はない。
     だから、南の国で生きた証を消すことも彼にとっては息をするより容易いだろう。南の兄弟に、何も告げずにひとりで石になる未来を、選ぶ気でいる。

     そんな未来を変える為に、オズは賭けに乗った。どうしてこうも必死になるのか、オズには分からない。フィガロの死の未来を聞いて乱れた心すら整えられないまま、時間に追い立てられてオズが最初に選んだ場所は、フィガロの診療所だった。現在のフィガロに、一番近い場所。
     けれどそこに、当然ながら魂のかけらはなかった。

     フィガロの診療所から始まり、かつて彼が開拓を手助けした雲の街や病の沼、隠された地下の遺跡、人魚の棲む湖、埋め立てられた酸の沼、南の国の王家の墓、それらをまわり終わる頃には、ほぼ南の国全土に足を伸ばしていた。

    「魂の欠片、ですか」

     乏しい表情と抑揚に欠ける声で、男は繰り返した。
     レイタ山脈の麓で羊の群れと、それを率いるレノックスを見かけて無意識に箒を下ろしていた。大した前置きもなく欠けてしまったフィガロの魂を探していると言えば、レノックスは驚きに軽く目を見開いたものの、じっと考えてくれているようだった。

     広い草原ではのびのびと本来の体躯を伸ばした羊の一匹がオズに近づいてくる。見覚えのある垂れた目に、魔法舎に連れてこられていたうちの一匹であることに思い至る。確か、ミスラに丸焼きにされそうになっていたところを助けたことがあった。隣にいたアーサーが慌てていたからだ。
     羊がオズの服の裾を食べている。「こら」とレノックスが短く叱りつけて羊をオズから離そうとする。

    「オズ様に甘えているみたいです」
    「甘えているのか」

     頭を撫でてやると、羊が心なしか嬉しそうに「メエ」と鳴く。

    「正直、俺には皆目見当がつきません。フィガロ様ほどの魔法使いが魂を盗まれた可能性は低いでしょうし、無意識に落としてしまったんでしょうか」
    「無意識に? 落とす?」

     思わず聞き返したオズに、レノックスは眼鏡の奥の瞳に思慮深さを潜ませて続ける。

    「心が欠けるほどの衝撃をもたらす何かが起こったとして、それがフィガロ様にとって重要であればあるほど、フィガロ様の魂は欠けなかったような気がするんです。そういう時、あの人はいくらでも理性的になれる、自分の感情を切り離せるひとのような気がして。歴史に残るような出来事の中ではなく、もっと何気ない、意識すらしていないところで零れ落ちてしまったのではないでしょうか」

     彼にしては饒舌に語り終えた後に、己の発言を振り返って自信なさげに目を逸らした。

    「すみません、ただの勘のようなものです」
    「いや、助かった」

     猫の手も借りたい、という賢者の世界のことわざを思い出す。今のオズに、フィガロの魂のかけらの手がかりはないに等しい。フィガロと同じ南の魔法使いである彼の意見は貴重なものだった。
     一秒も惜しかったオズは、そこで話を切り上げてレノックスに背を向ける。

    「俺が頼むのもおかしな話ですが」

     そこで一度言葉を区切ったレノックスは、遠い神ではなく、隣の仲間を案じる時の顔で、オズに願いを託すのだった。

    「どうか、見つけてあげてください」

     願いを背に、色褪せた青の山脈から離れ、深緑の谷へと足を踏み入れる。

    「それで、どうして僕がそれを持っていると思ったんだ。」

     心底不快だと言わんばかりに眉を寄せ、ファウストは突き放すように背を向けた。
     色濃く精霊の気配が充満する東の国の中でも、さらに鬱蒼とした深みの中にある迷いの谷の中に、ぽっかりと切り取られたように澄み切った空間がある。太陽の光がやわらかく降り注ぎ、小川のせせらぎや、猫の形をした精霊ののんびりとした鳴き声が響く穏やかな場所。次にオズが向かったのは嵐の谷に住むファウストの元だった。
     結界によって外界から隠されていた空間に、無遠慮に踏み込んだオズを客人として迎え入れてくれたファウストだったが、用事がフィガロに関することだと知るや否や、その眦を釣り上げた。

    「まさか、僕がフィガロの魂を盗んだとでも? そんなことができるなら、とっくにあの男を呪っているよ」
    「おまえが魂を盗んだとは思っていない。ただ、知らぬ間に魂を預けられている可能性を考えただけだ」
    「預ける? フィガロが僕に? あなたでも冗談を言うことがあるんだな」

     わざとらしく嘲笑を浮かべたファウストが、他にも何か言っていたが、それはオズの耳をすり抜けていく。オズはファウストを通して、過去を見ていたからだ。

     ファウストのことを、オズは当時名前だけ知っていた。
     弟子をとったと、わざわざオズの城に報告に来たフィガロは、散々飲み散らかした割に長居することはなかった。寂しがっていたら可愛そうだから、とこちらの言葉を聞きもせずに城を去っていった。その目は中央の国への帰路ではなく、一筋の希望を見ていた。後にも先にも、あんなに浮かれたフィガロを見たことがない。
     アーサーの生まれる国を作った英雄。フィガロにとっての、最初で最後の弟子、ファウスト。

    「あいつにとって、おまえは特別だった」
    「……馬鹿馬鹿しい」

     オズが本気で言っているとファウストには分かったのだろう。憎まれ口に、もう先程までの勢いはなかった。

    「残念ながら、心当たりは一切ない。他をあたってくれ」
    「そうか」

     特に食い下がることもなく出て行こうとするオズの背中に、罰が悪そうに帽子のつばを押さえながらファウストが投げかけた。

    「マナエリアには、もう行ったのか」
    「マナエリア?」
    「……これは、勘のようなものだが」
    「レノックスも似たようなことを言っていた」
    「レノが? レノはなんて……、いや、いい」

     ファウストは、嫌悪や憎悪とは異なる、郷愁にも似た色を宿して続けた。

    「あいつが心を置いておける場所は、北だと思うよ。今、南の魔法使いとして選ばれたというのなら、なおさら」

     紫の瞳に宿るのは、覚悟によく似た、中央の色。出身と召喚された国が異なるのは、ファウストも、レノックスも、オズも、フィガロも同じだ。
     フィガロにとっての最初で最後の弟子は、フィガロでさえ扱いきれない概念を言葉に混ぜ込んで、断言した。

    「あの人は北の国のことを、きっと愛していた」


    3


     それ以上は何も話す気がないとばかりに口を噤んでしまったファウストに礼を言い、オズはその場を後にした。緊張に身を竦ませていた東の精霊たちから力が抜けて、ふわふわと森に帰っていくのが感じられた。

     かつて酒を飲みながら何気なく零されたフィガロの人生の一端を思い出しながら、その道筋たどっていく。中央の国で人間の女と暮らし始めた、そう言っていたのが今から七百年ほど前だっただろうか。西の国で孤児を拾って育てたというのはそれよりも前だったのか、後だったのか、思い出せないまま、かつての言葉のどこまでが本当で、オズ自身の記憶もどれだけ正しいのか分からないまま、オズは手当り次第に大陸をまわる。
     悠久を持て余しておきながら、今この瞬間オズには時間がなかった。そしてフィガロにも、もう時間がない。

     そして結局、オズは始まりの場所に流れ着いた。オズとフィガロにとって最も馴染み深い、凍てついた大地。一面に広がる雪景色が生命を拒絶する極寒の世界。略奪の上に成り立つ生の権利に、生き物たちはしがみついている。残酷で、美しい国。

     切り立った崖の先には灰色の海が渦巻いている。今にも雪を降らせそうな鉛の空に向かって白く息を吹きかける。オズの好む細氷の景色とは異なる、北の国にありながら雪の少ない、荒れた景色だ。ファウストの言葉を頼りにたどり着いた、フィガロのマナエリア。

     フィガロのマナエリアがこの場所だと知ったのは、もう遠い昔のことだ。その当時、オズにはマナエリアがなかった。正確に言うなら、マナエリアがどこなのか分からなかった。
     マナエリアの存在も知らず、魔道具も呪文もなく、獣のような魔法を使って生き延びていた。マナエリアという言葉を説明する時に、フィガロはまだ小さかったオズの手を引いて、この場所を教えてくれたのだ。何の思い出もない場所だけど、と付け足すフィガロの横顔が脳裏に焼き付いている。この景色を見ながら、フィガロは何を思ったのだろう。
     オズが自分のマナエリアを見つけたのはそれから随分経ってからだったが、城を訪れたフィガロにマナエリアができたことを話せば「お祝いにもう一本開けようか」と笑っていた。ただ酒が飲みたかっただけだろうが、それでも、その表情が少しだけ嬉しそうに見えたのは、オズの気のせいだったのだろうか。
     過去に沈む思考を目の前の景色に戻して、もう一度灰色の海を見渡した。

     ない。

     結局、魔法使いにとってどの場所よりもその魔法使いに根ざした場所であるマナエリアにも、フィガロの魂のかけらはなかった。
     北の国でフィガロが住処としていた場所や、以前双子と共に暮らしていた屋敷の跡地、氷の森、ないと分かっていながらオズの城やその周辺の隅々にまで探索の魔法をかけたが、やはりどこにも、フィガロの魂のかけらはない。

     ない。
     ない。
     ない。

     どこにも、ない。

     ――やっぱり、永遠の愛なんてなかったんじゃないか。

     弾かれるようにして顔を上げる。
     今も耳の骨に残る、フィガロの声。慟哭の中で、静かに響いた。オズの胸に突き刺さって抜けない、痛みのない針。

     人の形を保てず砕けた弟の亡骸にすがりついて、みっともなく泣き喚いた魔法使いの姿が、雪でけぶる視界の向こうに見えた気がした。
     風が収まり、何もない雪原の姿が明瞭になる。
     ここはフィガロと共に歩んだ世界征服が終わった場所。――スノウがホワイトを殺した場所だ。

    「こんな場所にあるわけがなかろう」

     振り返れば、鏡に写したように同じ姿をした魔法使いが、手を繋いでこちらを見ていた。同じなのは姿だけで、その表情は異なっている。一方は心底楽しそうに、もう一方は作った笑顔で。今オズを諭したのは、どちらだろう。壊れているのはどちらだろう。

    「そなたがここ最近大陸のあちこちをまわっているのは知っておる」
    「フィガロからも聞いておるよ。分の悪い賭けに乗ったものじゃ」
    「……知っているのなら話が早い」

     オズは、オズの生まれる前、オズの知り得ない過去を知っている数少ない魔法使いに尋ねた。

    「フィガロの故郷?」

     声を揃えて同じ方向にわざとらしく首を傾けた双子が、一笑する。知るわけがなかろうと。魔道具の人形さえ、いつから手にしていたか分からない双子は、優しいふりをして互い以外に興味がないことを隠しもしない。

    「とのことじゃ、フィガロ」
    「教えてやったらよかろう」
    「……目ざといですね。お二人とも」

     氷の風が、雪に紛れる白衣を羽織った男を連れてくる。オズが奔走することになった原因とも呼べる男は、オズの視線を受けて苦笑した。

    「さすがに気になって様子を見に来たんだ。まさか本当に見つけられるとは思ってないけど、見つけられたら困るからな」
    「我らもしかしてお邪魔かな?」
    「退散しよっか。あとは大して若くないお二人でごゆっくり~」

     オズとフィガロが何かを言う前に、双子は姿を消してしまう。行き場をなくした不満をため息ひとつで誤魔化して、フィガロが話を戻した。

    「故郷の場所が知りたいんだって? それなら俺に直接訊いてくれればよかったのに」
    「これは勝負なのだろう。敵に情報を与えていいのか」
    「これぐらいじゃ、俺の勝ちは揺らがないさ」

     フィガロが手をかざすと、はるか上空から北の国を見下ろした幻影が現れた。小さな雪の結晶が光る道標となって、その場所を指し示す。

    「俺の故郷はこの辺りだよ。近くに大きな湖があったけど、地形が変わっていたら目印にはならないかもしれない」
    「十分だ」

     すぐに座標を合わせて飛ぼうとするオズの背に、フィガロの声が投げかけられる。どこまでも、静かな声だ。

    「きっと、そこにもないよ」
    「もう探したのか」
    「いいや、俺は故郷に戻ってすらいない。だって悲しいだろ? 雪崩に沈んだ故郷の跡地を眺めるなんて。生まれた場所を大切に思う気持ちなんて、おまえには分からないだろうけど」
    「なら、あるかもしれない」
    「きっとないんだよ」

     その言葉は諦めではない。確信だった。

    「あの場所に自分の一部を預けておけるなら、俺は一人で生き延びたりはしなかったんだから」

     生まれた場所の記憶を持たないオズは、故郷がいかに大切で、どうしてそこに心を預けておけないのか、その理由を知らない。

     雪の風に魂を染み込ませるようにして呪文を唱えれば、瞬きひとつでフィガロの指し示した場所へと移動した。
     フィガロの言う通り、そこには何もなかった。

     凍らない湖の音だけが響いている。周囲には新しく村ができた形跡もなければ、生きた者の気配どころか、滅びの余韻さえとうに消えていた。
     気まぐれに雪を掻き分けてみる。何も出てきはしない。フィガロの故郷の名残も、彼の魂のかけらも。魔法も使わずに暴いた雪の中を、赤くなった手が彷徨う。その赤は生きている証。フィガロからは、もうじきそれが失われる。雪崩の下に沈んだという故郷。死が重たく充満する。いずれフィガロも、そうなる。冷たい石の感触が舌の上に蘇る。最後に石を食べたのはいつだっただろう。吐き出した息は白く、オズは赤い瞳で何もない雪上を見つめる。吹雪が止んでからも、オズの心はずっとじくじくと痛み続けている。失われる。オズ、と、呼ぶ声が。

     何もかもが、オズを通り過ぎていく。ホワイトは死に、不完全体となった双子はもうじき共に黄泉路を往くだろう。そして、それより先にフィガロが石になる。幾度も見てきた生命の終わりが、等しく訪れるだけ。
     ただそれだけのことだ。フィガロが自身の死をどう捉え、何を思って死の間際に喚ばれた南の国を去ろうとするのか、オズには関係のない話だ。残された南の兄弟とて、元は関わりのない魔法使いだ。こんなくだらない賭けなど放り捨てて、フィガロの好きにさせればいい。

    「……」

     思い出になりきらない、フィガロとのこれまでが瞼の裏に残っている。まだ、生きている。

     諦められないのは、皮肉にも運命をねじ曲げる為に従わせた中央の精霊のせいだろうか。その熱が移ったのかもしれない。二千年の氷雪さえ溶かす、中央のまぶしい熱が、オズの胸に確かに灯っていた。
     それに、中央の精霊に愛された若い魔法使いなら、きっとこんなところで諦めたりしないだろう。

     止めていた足を再度動かし、前へと進む。一面の雪景色は、次に進むべき方向を示してはくれず、足跡も雪にさらわれていく。それでも進み続ける。

     勝算のない賭けはしないと、フィガロは言っていた。だが本当に、それだけだろうか。
     本当に見つからないとフィガロが確信しているのなら、それは公正な賭けとして成立しない。万に一つでも可能性があるから魂の欠片の話をしたのではないか。

     フィガロはきっと、無くした魂のかけらの在り処を知りたがっている。

     歩き続ける。<大いなる厄災>が銀色に輝く。歩き続ける。どこかで潮騒が響いている。歩き続ける。鋭い北の風が雪を舞い上げる。歩き続ける。遠くの空で一羽の鳥が悠然と空を泳ぐ。歩き続ける。朝焼けが細氷を照らし、目覚めた世界が雪を溶かす。月が太陽を喰らい、鮮烈な夕空はまたたく間に夜へと変わる。そうしてまた一日が死んで、生まれる。歩き続ける。真っ白な雪原を超えて、数多の記憶を浮かべながら、フィガロのいない未来への入り口を思い描いて、歩き続ける。

     ――そして、そこにたどり着いた。


    4


     期限の日、フィガロがタイムリミットを告げに来る前に、オズがフィガロを訪ねた。その日のフィガロは南の国の診療所に一人だった。おそらく、オズが来るのを待っていたのだろう。
     魔法で瞬間的に現れたオズに、扉から入ってこい、というフィガロのいつもの小言が飛んでくることはなかった。

     昼間の診療所と違い、室内は夜の光に満たされていた。あかりもつけずに月を見上げていたフィガロの頬は青白かった。
     ゆっくりと、フィガロがこちらを振り返る。彼はただ、死者でも見るかのような顔つきでオズを見ていた。

    「どれだけ言って聞かせても、夜までに帰ってこないアーサーを探す時より、苦労した」

     フィガロには分かるはずだ。フィガロだからこそ、オズが今、フィガロの一部を手にしていることが分かるはずなのだ。

    「あのやんちゃな小さな魔法使いよりよほど、手がかかるという意味だ」
    「分かってるよ」

     月は雲に隠れ、診療所は薄青の闇に落ちている。フィガロの表情も、よく見えない。痛いほどの静寂が、南の国にまるで雪を連れてくるかのようだった。

    「どこに、あったんだ」

     懺悔を思わせる響きで、重く問われる。

    「北の、海の底に」
    「海?」
    「水底の貝が抱え込んでいた。殺さず取り出すのに時間を要した」
    「……お優しいことで」

     フィガロはやはり、面白くなさそうに言う。

    「どこの海だ? 俺のマナエリアの海でないことは確実だ。マナエリア以外の海辺で暮らしていたこともあったけど、俺だってその辺りは念入りに探した。絶対に、あそこにもなかった」
    「どこの海であるかなどどうでもいい。おまえにとってあの海がどんな意味を持つ場所であったかなど、私には露ほどの興味もない。確かなのは、私の手の中におまえの魂のかけらがあるということ。私がおまえを見つけたということ」

     賭けを持ちかけた時の、余裕に満ち溢れた仮面は既に剥がれている。約束のない賭けしかできないオズたちには、本来ならこの勝負で絶対に払わなければならない代価など存在しない。それでもフィガロに負けた代償を払わせる為、改めて勝利を突きつける。

    「賭けは私の勝ちだ。フィガロ」

     長い、沈黙があった。雲間から月が顔を出し、フィガロの顔の輪郭を、顎から目元に向けて照らし出していく。癖のある前髪が隠した目元の向こう、瞳がうっすらと揺れた。

    「分かった」

     観念したように肩をすくめたフィガロは、それからいつもの軽薄な様子を装おうとして、失敗した。その声に、消すことのできない真剣さをにじませたまま、確かに応えた。

    「ちゃんとあの子たちに、ごめんねと、さよならを言うよ」

     そこまで口にして、フィガロが肩から力を抜く。ぱっと、室内のあかりが橙色に輝いた。オズもまた無意識につめていた息を吐きだすと、ようやく場の緊張が解けた。
     フィガロは近くの椅子に腰掛けると、指を持ち上げて魔法でハーブティーを淹れ始めた。疲れただろう、とオズをいたわってか、それとも自分自身に向けてか呟いて、カップをオズに差し出した。手持ち無沙汰なのか、ハーブティーを啜りながら薬品の入った瓶を並び替えている。それからドライフラワーの位置を直したり、テーブルに置いてあった犬の絵を壁に貼り付けた。

    「見つからないと思っていた。でも、世界最強のおまえなら、見つけてしまうかもしれないってことも分かってた。……わざわざこんな茶番をして、賭けに負けたからという大義名分を掲げてようやく、腹が決まった俺を、笑うか」
    「笑うものか」

     姿を消すつもりだと言いながら、壁から小さな贈り物を剥がすことさえできていなかった魔法使いに言う。

    「私にも、できなかったのだから」

     フィガロがどこまでオズの思考を読んだのかは分からない。ただ、出来の悪い生徒にするような表情で「ありがとう」とこぼした。

    「魂のかけらだけど、いらないから煮るなり焼くなり好きにしていいよ」
    「……私にも不要だ」
    「冷たいなあ。この三日死ぬ気で探し回ってくれたくせに」

     自身の一部が欠けている状態が最善とは思えなかった。いくら不便を感じるほどではない小さな欠落だとしても、そこにあるならひとつに戻るべきだろうと、オズが食い下がる間もなくフィガロは続ける。

    「おまえが持っててよ」
    「なぜ」
    「いいからいいから」

     フィガロはそっと、目を伏せた。瞼の裏に描いた景色を、オズは知らない。

    「俺でさえ見つけられなかった、魂のかけら。世界でただひとり、見つけてくれた、魔法使い」
    「何か言ったか」
    「なんでもないよ。……ねえオズ。いらないとは言ったけど、見てみたいな。俺の魂のかけら」

     本人に返すことができない魂のかけらをどう扱ったものか戸惑ったままのオズは、半ば上の空で言われた通りにかけらを取り出した。空に向けた手のひらに乗せたそれを覗き込んだフィガロが、ゆるく目を見開く。その表情に、オズもまた戸惑いから意識をフィガロに割いた。
     銀色に、きらめく。

    「月の光を映したのか」
    「月の光?」

     じくりと、痛みを思わせる声が紡ぐ。揺らいだ瞳の灰色に、海が映っている。

    「青い海に浮かぶ、銀色の道……。あの先に何もないと知っていて、それでも進んだ先、たどり着いた場所がこんなところだったなんて」

     フィガロの独り言に、どんな意味があるのかオズには分からない。まるで後悔のように、恨み言のように、諦めたように、皮肉のように言葉を繋げながら、それでも嬉しそうに、懐かしそうに言うのだ。
     そんなフィガロに注げる言葉をオズは知らない。もうじき石となる魔法使いに、言うべき言葉はきっといくらでもあったはずなのに、それでもオズは禄に言葉を知らないから。だから、思ったまま、感じたままをオズは言う。いつだってオズは、そうやって世界と繋がって、たったひとつの呪文を紡いできたのだから。

    「温かかった」
    「え……?」
    「海の底にあっても、これは温かかった」

     ――生きたものの、体温と同じ。

     フィガロは見開いていた瞳を緩やかに歪める。瞳の中央にある榛が、水面に映った時のように揺れた。フィガロはそっと手を伸ばし、欠片を握らせるようにオズの手を覆った。そのままオズの手を引き寄せて、自身の額に押し当てる。こらえるように目を閉じて、それから、馬鹿な子、と小さく言う。


    (終)





    あとがき

    この度はオズフィガオンリー開催おめでとうございます!
    私の中でオズフィガは”始まり”でもあったので、元々ブロマンス寄りで最近はもっぱら+しか書いていなかったのですが、どうしでもこのBigイベントでオズフィガを書きたい!と捏ねました…相変わらずカプ要素は薄いですが…。
    自分なりに、フィガロの親愛ストへのアンサーというか、回答を組み込めればと思って書きました。フィガロの海については、昔住んでいた海やマナエリアの海、入水海がそれぞれ別の海と解釈して書きました。色々な場所を持っている方が、とまり木を探してさまよったフィガロという性質により近づけるかな、と思っての解釈ですが、いずれかを同じ海と考えていらっしゃる方から見れば「ん?」となってしまったかもしれません…!
    最後の「馬鹿な子」は2周年イベストを読んだ後だと「愚かな子」に変えようかなとも思ったのですが、初志貫徹で突き進むことにしました。
    拙い文章でしたが、お読みくださりありがとうございました。
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