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    mhyk_arigato

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    mhyk_arigato

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    夢にまつわるオズ、スノウ、ホワイト、フィガロのお話。少しだけアーサー。■オズのホームボイスは最高

    魔法使いはまどろみに踊る第一夜 正夢


     雪の気配を纏った双子が寄り添っている。ホワイトはそれを少し離れたところから見ていた。

     彼らが影を重ねるその場所は、ある時は閉ざされた氷の城だった。時に、沈黙の雪原だった。時に、木漏れ日のように小さな光を落とす廃墟だった。時に豪奢な神殿で、時に瘴気に阻まれた森で、時に結晶が仄かに光る洞窟で、彼らはふたりごとを囁き合った。
     寄せ合った子供の頬が、やわらかく形を変える。小さな手が互いの指先を求める。クスクスと響いた笑い声。

     双子は手のひらに小さな宝石を乗せていた。否、目を凝らせば、それが宝石ではなく赤い果物であることが分かる。水分を失ったそれには、魔法がなくとも食物としての寿命を永らえ、さらには甘みと栄養をたたえる為の、生活の知恵が詰まっている。魔法と共に在った双子に生きる為の小さな工夫は必要ない。それは滅んだ雪の村で人間たちがやっていた行為の真似事だった。
     二人の紡いだ呪文がキラキラと光るシュガーとなって、赤い実を包んだ。彼らは笑い合いながら、ひとつずつ天秤にそれを乗せた。右に、左に、キィと高い音を立てて天秤が順番に傾く。皿がいっぱいになるまで、二人はそれを続けた。
     ホワイトが最後の一粒を皿に乗せると、ちょうど重さが釣り合った。そうしてようやく、二人は赤い実を食べ始める。甘い、夢の味がする。



     ホワイトたちにとって、朝、目覚めて、夜に見た夢の続きを話すのは当たり前のことだった。
     目の前で、鏡写しの瞳が瞬いた。黄金の宇宙に星の軌道を映したそれは、時折紫色にきらめいて、ホワイトだけを見つめている。瞳が愛おしそうに細められた。おはよう、と声が重なる。

    「懐かしいのう。あの頃はまだ甘いものが貴重じゃった」

     スノウが細めた目に、夢の残滓がたゆたう。それは赤色の棘のように、懐かしさでホワイトたちの心をやわらかく刺した。

    「なんという名前の実じゃったかのう。どうしても思い出せんのじゃ」

     スノウの声は寂しげだった。少し酸っぱい赤の実は、マーシアの実がこの世界に生まれるよりずっと前、とっくの昔に滅んだ木に実るものだった。もう名前も忘れてしまった。元々名前などなかったのかもしれない。全ては幻よりも、夢よりも遠い時の砂に呑まれている。だからきっと、ホワイトたちは自分たちの傍にマーシアの木を植えたのだ。それはかつてホワイトたちの腹を満たしたあの赤い実への、贖いだったのだろうか。

    「よいよい。今はマーシアの実があるではないか」

     長い時を生きていれば、人も、魔法使いも、動物も植物も、土地も、精霊さえも入れ替わる。様々な生命が新しく生まれては滅んでいった。スノウとホワイトはその中で永久の不変を獲得した、魂と肉体を分け合った双子だった。いつか彼らも時の一部となって滅びる運命にあるが、それさえも共に在れるのなら些細なことだった。

    「そうじゃな。……あの実は、うまく保存できるといいのう」

     過去の赤色を追いかけたスノウの瞳にそっと唇を寄せる。瞼にひとつキスを落として、ようやくスノウがホワイトを見た。その瞳に、幻影の赤は既にない。
     この生ぬるい幸福が何よりも代え難く、それで十分だったはずだ。けれど不変は時に腐敗を招き、ホワイトの心の一部を脆くした。――もし、二人で異なる夢が見られるのなら、夢を語り合うことだってできたのに。まっさらなスノウに、夢の話ができた。スノウのする夢の話に、驚くことも、続きをせがむことができる。

    「どんな夢を見ておったのじゃ?」

     だから、自分とは異なる夢を見る誰かにその内容を尋ねられることを、ホワイトは嬉しく思っていた。スノウとは語る必要のない夢の話も、この子が相手であれば新鮮な香りのする玩具になる。
     潮騒が耳を掠めた気がする。この小さな魔法使いからは、どこか水の気配がした。それは彼の生まれが湖の近くだったからか、彼を拾ったのが海の側だったからなのか、分からない。北の国の灰色の海を落とし込んだ瞳が、面倒そうに眇められた。

    「忘れました」
    「嘘じゃろう。フィガロちゃんは分かりやすいね」

     まだ感情を隠し切ることができない小さな横顔に、苛立ちが募っていくのが見える。無理に聞き出す必要もない。ホワイトの本当の目的は自身の夢を語ることなのだから。

    「我はね~! スノウと一緒に凍らない北の大河に、船に乗って漕ぎ出す夢じゃ! 水面が空の色を切り取って、そこに雪が吸い込まれていくんじゃ。雪も本当は空に帰りたいんじゃろうかと我がスノウに訊くと、スノウは海に帰りたかったんじゃろうと。幻想的で、日常の夢じゃった。実際こんな会話を過去にしたこともあったのかもしれん」
    「……」
    「聞いておるのか? 何か言ってくれないと我、寂しいのじゃ」
    「聞いてますよ。でもそれ、聞くの二度目なんですよ」
    「なんと。スノウか」
    「今朝、聞きました」
    「そうかそうか」

     ホワイトはじんわりと胸が温かくなるのを感じた。スノウも同じなのだ。誰かに、自分たちの見た夢を自慢したくて仕方がなかったのだ。



     悠久を生きる魔法使いにとっても、時の流れは毒にも薬にもなる。ただのひとしずくさえ、時を背負えば石を穿つように、小さな魔法使いはホワイトたちと時を共に過ごす中で僅かに変化した。彼が最終的に情を理解できるようになったかは別として、少なくともホワイトたちの問いかけに、自身の見た夢の話をしてくれる程度には、フィガロは変わった。ぽつぽつと零されるフィガロの夢の話を聞くことが、いつの間にか小さな楽しみになっていた。

     スノウと綴った人生の道にフィガロを引き入れて、次にもう一人の魔法使いを引き込んだ。いずれ世界最強の名を背負うことになるであろう、破壊の魔法使い、オズ。

     その日は騒がしい夜だった。空に輝く月が宿命に従ってこの星に降りてくる日だったからだ。それを押し返す役目を双子が背負ったのはもう、随分と前のことだ。
     迫りくる月を押し返し、ホワイトは彼らの住処で退屈しているであろう愛弟子たちの元へと帰った。月が近づいた影響で血が騒いだのか、スノウはひとりになりたがったので、ホワイトだけの帰還だ。
     愛弟子がおとなしく留守番できていたかを確認しようと、ホワイトはまず問題児のオズの部屋へと向かった。もちろん、気配は完全に絶っている。いくら近い未来ホワイトたちを凌ぐ魔法使いに成長するとは言え、まだ青い魔法使いを欺くことなど容易だ。

     引き上げていく月が夜の騒がしさも攫っていく。残された白銀の土地に取り残された城は、静寂に沈んでいた。音もなく、長い廊下を進んでいく。月が引き伸ばしたホワイトの青い影が幽霊のように揺れた。

    「どんな夢を見てたの?」

     少しだけ開いていた扉の隙間から、ひっそりと、夜の間を縫うようにして密やかなフィガロの声が聞こえた。それは甘美な秘め事と同じ香りのする音だ。
     あの日のホワイトがそうしたように、フィガロはオズの答えを待たずに自分の夢を広げた。

    「俺はね、湖の夢。湖の中にいたんだ。音を立てて凍りつく水の中に沈んでいく……、魔法をかけてないのに呼吸ができて、苦しくなかった。湖面が凍って水の中に閉じ込められるのが見えていたのに、不安なんてなかった。だって水の中があんまりにも温かかったから。大陸のずっと向こう、南の国の湖ならこんな温度なのかもしれないと思っていたよ」

     フィガロが夢の話をする間、オズは一言も話さなかった。相槌のひとつも打たずに、沈黙を返し続けている。
     オズは言葉を知らなかった。人のぬくもりもまともな食事も、安全な寝床も、何も知らない彼に無理やり人の着る服を着せてみたが、服を着た獣になるだけだった。彼は未だに言葉に魔力を乗せることも知らない。オズを拾って、名前を聞き出したのを最後に、ホワイトは彼の意味を持った言葉を聞いたことがなかった。

    「ねえ、おまえは?」

     世界さえ意のままに操る力を持った、奇跡の魔法使い。オズがどんな夢を見るのか、興味はあった。しかし彼が口を開かないであろうことは分かっていたから、ホワイトは盗み聞きをやめて彼らをからかってやろう、と足を一歩踏み出した。最初はあれだけオズの世話を嫌がっていたフィガロが、いつしかこうしてオズの部屋を訪れるようになったことか。最初はあれだけ敵意をむき出しに雷を落としていたオズが、おとなしくフィガロの話を聞いていることか。あるいはその両方か。

    「覚えていない。夢など、そんなものだろう」

     言葉など知らないと、思っていた。だから、彼が流暢に人の言葉を操ったことに、喜びよりも驚きが勝った。

    「でも、ひとつも覚えてないってことはないだろう?」
    「夢を覚えようとしたことなどない」
    「気になるんだけどな、おまえがどんな夢を見るか。今度は覚えててね。それで、俺に教えてよ」
    「くだらない」

     窓枠に腰掛けて、まだ大きさを残す月を見上げるフィガロの横顔を、オズが眺めている。フィガロの言葉を口では跳ね除けておきながら、オズがフィガロから視線を逸らさないのはまだ対話の意思があるからだろうか。フィガロはそれを正確に読み取って耳を寄せる。オズは「おまえが夢に出てきたことは、あったかもしれない」とやはり小さく伝えた。

     ――いいなあ。

     腐敗が広がる。脆く、砕ける。ホワイトは、心底ふたりが羨ましかった。異なる夢の話をする彼らが、何よりも輝いて見えた。胸底に押し込んだ憧憬が疼く。
     ホワイトは一生、スノウと異なる夢を見ることはできないだろう。それは二人でひとつであるがゆえ。孤独になれない彼らは、同じ夢を見るしかない。

    「我は孤独に……」

     ホワイトは、ほんの刹那、孤独に夢を見た。ひとりで旅をする自分に、酔いしれた。風で雪が舞い上がる白い海原をひとり歩く姿を幻視する。足跡はひとつだけ。苦しみも喜びも分かち合うことはできず、だからこそその全てがホワイトのものとなる。
     孤独になって、見て、触れて、感じて、聞く世界が変われば、違う夢が見られるかもしれない。自分の見た夢を、スノウの知らない夢を、世界を、スノウに教えてあげることができるかもしれない。

     すぐにその夢は幻となって攫われていく。それは悪夢だ。絶対に実現してはならない夢。ホワイトの嫌う可変がそこにはある。
     ホワイトがこの願望を一瞬でも抱いたということは、過去か、未来か、それか同時に、スノウも同じことを考える。同じ孤独に夢を見るだろう。そして同じ道を辿るということは、スノウもまた孤独を諦めるはずだ。ホワイトが辿り着いたように、ふたりで在る今の姿こそ完全で幸福な姿だと、孤独を諦める。

     時が経ち、ホワイトがそんな夢を見たことも忘れた頃、オズは双子の住処を出て行った。言葉を覚えても、情までは理解できなかったのかもしれない。結局馴染めずに独りでいることを選んだオズを、ホワイトたちは止めなかった。
     一瞬で気配も残さずに消えた弟子の背を見送って、同じく旅支度を始めたもう一人の弟子に、ホワイトは変わらず尋ねた。

    「今日は、どんな夢を見ておったのじゃ?」
    「……」
    「我はね~! スノウと一緒に雪の山脈から世界を眺める夢じゃ!」

     フィガロは、ゆっくりと瞬きをする。ホワイトたちよりもずっと短い時しか生きていないくせに、妙に大人びた表情で笑った。まるで出来の悪い子供の、自慢話を聞く時のような優しい表情で。

    「それ、今朝スノウ様も言ってましたよ」

     ほら、不変こそが美しい。


    第二夜 残夢


     乾いた埃っぽい空気が耳の横を通り抜けていく。流れの早い雲が、スノウを追い越して形を変える。
     まだ見ぬ土地や出会いの眠るひとりの旅路を求めて先走る心とは裏腹に、ひとつひとつの景色を心に刻みつけようと、スノウはゆっくりと空を飛んだ。噛み締めた空気からは孤独の甘い香りがした。

     スノウがひとりで旅を始めてから、もう五百年以上が経過していた。その旅路の中で、南の国に立ち寄るのは二百年ぶりだった。期間が空いてしまったのは、ここがこの数百年で愛弟子であるフィガロによって開拓された国だったからだ。どうせなら開拓途中の土地ではなく、それなりに国としての形ができあがった頃に、弟子の工作を評価してやろうという腹積もりだった。

     フィガロの気配を追ってさらに南の国の奥地へと進んでいくと、それまでとは打って変わって重たくまとわりつく湿気の多い土地へと変わっていった。南の国の中でも湿気による暑さの厳しい、しかし緑豊かな土地。それを可能にする病の沼が見えてくる。

     その土地は多少、人や弱い魔法使いが暮らしやすいように整えられてはいるものの、自然の姿をそのまま残した姿が印象的だった。沼の水が南の国にはめずらしい豊かな緑を実現しているが、雨季になれば辺り一帯が水に沈むだろう。それが分かっていて、彼らはここで生活し、フィガロもそれを黙認した。フィガロなら、もっと自分の思うがままに、土地の形を変えてしまうかと思っていたのだ。

    「あら、坊や。一人かい? どこから来たんだい? 親は?」
    「そんなに着込んでいては暑いだろう」
    「子供は体温調節が苦手だからねえ。そうだ、ちょうど子供用の服があるから、これを着なさいな」
    「せっかくじゃが、これはホワイトとお揃いの……」

     生まれた時から同じ家、同じ部屋、揃いの服に、お菓子の量まで同じにして、互いが互いから外れないように生きてきた。それを窮屈だと、スノウは思っていたのだろうか。思っていないつもりで、それでもこんな場所にひとりで来てしまったということは、スノウはホワイトとの日々を煩わしく思っていたのだろうか。
     胸元のリボンから、指が離れた。言いかけた言葉を飲み込んで、ぱっと笑顔を作り直す。

    「いや、それではお言葉に甘えてその服をもらおうかの」

     寒さを恐れずに、惜しげもなく肌を晒した服に袖を通すと、幾分か蒸し暑さがやわらいだように感じられる。親切を通り越しておせっかいな村人の輪から外れて、スノウは再び自由気ままに土地をまわり始める。
     あまりの暑さに魔法で冷気を呼び込むと、近くにいたトカゲの動きが鈍ったのが視界に入った。慌てて魔法を解き、気休めに手に取った大きな葉を日傘代わりに周辺を散策する。

     休憩がてらに腰掛けた沼のほとりで、浅瀬に足を入れると小魚が寄ってくる。ぱくぱくと動かした口の中に、自身の欲が溶け込んでいるのが目に見えた。数匹の魚が、突然欲を食べるのをやめて痙攣したかと思えば、白い腹を見せて水面に浮かび上がった。それを見た他の魚が、恐れおののくようにしてスノウから離れていく。

    「ほほほ、食いつくせるものか」

     気が遠くなるような時間の中で叶え尽くしたと思っていた願いには、続きがあった。こうしてひとりで旅に出てはじめて、スノウは抑圧されていた自身の本当の欲を理解した。数千年の平穏と不変さえ跳ね除ける、強い衝動を。
     ばしゃばしゃと足を動かして水を荒らしてやると、魚や水の生き物たちが一斉に喧騒を嫌ってどこかに身を潜める。水の中の影を見送って、自身の立てた波紋が遠くまで広がっていくのをぼんやりと眺める。気づけば、スノウの後ろにはひとりの魔法使いの気配があった。

     南の国によく馴染んではいるが、隠せない北の潮騒を纏った魔法使いが、キョトンと目を見開いてこちらを見ている。

    「ホワイト様?」
    「これ! 大事な師匠を見間違える弟子がどこにおるんじゃ。ほれ、服はいつもと違うが、スノウじゃよ」
    「……ああ、スノウ様。どうしたんです? こんなところにひとりで」
    「ひとり旅じゃ。ぶらり、気ままに」
    「そうでしたか。どうです、案内が必要ですか?」
    「生意気な。しかし、そなたの作った国じゃ。そなたに頼むのが良いじゃろうて」
    「俺が作ったんじゃありませんよ。俺はただ、少し手伝いをしただけです」

     普段は雲の街で小さな診療所を営んでいるフィガロが、わざわざ病の沼までやってきたのは、病に苦しむ人々の為だったという。用はもう終わったのか、と尋ねれば、色のない横顔が肯定を返した。白衣の裾に一枚だけ縋りついていた、極彩色の羽を払ってやる。

     最後にスノウが訪れた時よりも、人が住めるようになだらかにされた南の国からは凶悪な生物や魔獣は姿を消し、岩山は削られ、代わりに街があった。穏やかな笑い声が風に乗って仄かにスノウの耳を揺らす。
     人々の声のない場所からは色濃い自然が漂い、大きく進化した生物や植物がひしめいていた。その中に気になるものを見つけて、スノウは生い茂る緑の中に手を入れた。僅かに中身を透かすひょうたんの表面を撫でてみる。周囲の暑さに反して、表面はほんのりと冷たい。

    「これは東の国にあったガロン瓜じゃろう」
    「俺が持ち込んだんですよ。ガロン瓜の中に溜まる酒はおいしいので、すぐ飲めればいいかなと思ったんです。でも、土地の影響かな。中は綺麗な水になっちゃいました。これなら下戸のスノウ様も飲めますよ」
    「どれ」

     魔法で蔓を断ち切って、ひょうたんの中に溜まった水を喉に流し込んだ。アルコールは感じられず、研ぎ澄まされた水が体内を満たした。その時はじめて、喉が乾いていたことに気づいた。

    「冷たくて澄んでいて、癖がない水じゃ。おいしいのう」
    「それはよかった」
    「今度、ホワイトも連れて飲みに来るとしよう」
    「ホワイト様を?」

     名を呼ぶと泉のように愛が溢れた。愛に誘発されそうになる涙を飲み込んで、スノウは遠くの片割れに触れるようにして、自身の胸に手を当てた。

    「ホワイトにも見せてやりたい、教えてあげたいんじゃ。この景色を、水のおいしさを、そなたの南での、優しい顔を」

     堪らず握りしめた拳の中で、もらったばかりの服が皺を作った。心臓を掻きむしりたくなるような衝動は、これだけの強さを伴っておきながら、冷たい孤独の一部だ。平坦な毎日を送るだけでは決して味わうことのできなかったもの。ここまでの愛を感じたことが果たして悠久の中にあっただろうか。

     フィガロとの別れもそこそこに、スノウは北の国へと急いだ。ホワイトとお揃いの、いつもの服を身に纏って。
     けれど慣れ親しんだ雪景色の中に戻ってくると、心までも静まって、また別な場所を目指したくなる。そんなことを繰り返して、ひとりで旅に出てからスノウはまだ一度もホワイトの元へ帰っていなかった。

     決してホワイトのことを忘れたわけでも、煩わしく思ったわけではない。まだ見ぬ世界をホワイトに教えてやりたいと思って旅に出た気持ちは今も変わっていない。
     それでもなぜか、足がホワイトの元へ向かないのだ。今にして思えば、ホワイトはこうなることを予見していたのかもしれない。スノウよりほんの少しだけ寂しがり屋の双子の弟は、この旅が長い別離になると、スノウよりも分かっていたからこそ、スノウを引き留めようとしたのだろう。

     そして今回も、結局スノウはホワイトの元を訪れなかった。代わりにスノウが目指したのは、オズの城だ。

     オズの城は北の最果てにある。外部の干渉を嫌い、北の国の中でも最も冷たく美しい場所へ留まることをオズは選んだのだ。
     ちょうどバルコニーから、オズの姿が見えた。

     長い宵闇の髪が、僅かに雪を含んだ冷たい北風に遊ばれる。何の感情も宿さない赤い瞳は、映る景色が蠢く度に冷たい炎を象った。何者にも脅かされず、何事にも動じず、誰からの干渉も束縛も受けずに、自身は世界を支配できるだけの力を持つ魔法使いの、冷厳な気配。

     その静かな様を見て、スノウは自分が誇らしくなった。それは、スノウが今オズと同じ場所に立っていられるからだった。
     悠久の中で、小さな火種のようにくすぶった期待と憧憬に届いた。スノウは、孤独に、孤高になれた。ようやく、オズと同じ場所に立つことができた。孤独を知ったこの心なら、きっとどんな魔法だって使いこなせるだろう。世界の理さえ、壊してしまえるほどの魔法はすぐそこだ。たったひとりで紡ぐ呪文は、どんな魔法を奏でるだろう。
     凍てついた炎の瞳がこちらを見た。彼は色のない唇に、雪の名を乗せるはずだった。

    「ホワイトよ」

     胡乱げな顔をしたフィガロがちらつく。ざわりと胸を這い回った不安を無視して、スノウは努めて明るく笑顔を作って見せながら、バルコニーに降り立った。

    「オズちゃん? 我、スノウだよ。いくら我らが瓜二つだからって大事な師匠の片割れを見間違えるなんてひどーい!」
    「おまえはホワイトだ。そして、ホワイトはスノウ。おまえたちは魂を分け合った、ふたりでひとつの存在なのだろう」
    「オズ……?」

     オズの表情は変わらない。雪景色を眺めていた時のように、スノウの存在は目の前のオズの心を揺らさない。

    「だから、同じ夢を見る」

     気づけば、スノウの氷の魔法がオズを串刺しにしていた。オズは避けなかった。氷に触れた箇所から徐々に凍りついて、砕けて、やがて粒子が別の影を作り出した。狡猾な猫を思わせる瞳が、細い月を象った。

     ――死ぬまで孤独を経験しないことに疑問は持たないのか。そう問うてくれたはずの男の口元が歪んだ。瞬きひとつのうちに、世界が反転する。地面から生えたシャンデリアに器用に足を乗せて、彼は笑った。確かな実体を持って、肉の声がスノウを切りつける。

    「あなたがやりたいと憧れていたことを、あなたじゃなくて、今ホワイトがしてるんだ」

     足元が崩れる。足に、何かが絡みついている。片割れだ。置いてきたはずの片割れがこちらを見て、笑っている。ぎょろぎょろと、金色の瞳が蠢いた。憎悪に揺らぐ声で、愛の言葉を紡いだ。心からそなたを思うておる。愛想笑いを返したのはどちらだっただろう。

     空気を蹴るのと、目を開くのは同時だった。
     心臓が早鐘を打っている。喘鳴のような呼吸が耳を叩く。それが自分の喉から漏れているものだと知って、震えそうになる体に鞭打って深く呼吸を繰り返す。
     隣にぬくもりはない。ただ、縛り付けられた魂だけが、暗闇の中で黄金の螺旋を輝かせて、こちらをじっと見ていた。

     夢の続きは、話さなかった。互いに伸ばした手で頬を撫で、額を合わせた。

    「我を憐れむか。そなたを殺してもなお、ひとりで旅に出る夢を見る、我を」
    「我を憐れむか。死してもなお、ひとりで旅に出る夢を見る、我を」

     今日も双子は、同じ夢を見る。


    第三夜 夢中


    「どうして夢を見る」

     子供の胸に聴診器を当てていたフィガロが、オズを一瞥して苦虫を噛み潰したような顔をする。シッシッと蝿を払う時の仕草をしてから、オズを放ったままフィガロは診察に集中し出した。オズを見た子供の目は熱で潤んでおり、時折こほこほと咳をした。

     オズは壁に背を預け、フィガロの診察が終わるのを待った。フィガロの機嫌を損ねると何かと面倒だからだ。小言を言われるか、さらに虫の居所が悪いと双子にも告げ口をされてオズは長々と説教を受けることになる。

     オズが今回フィガロを訪れた理由は、以前アーサーが高熱を出した時と違って時間に追われるものではない。ただし長期に渡ってアーサーを苦しめるその問題は、いずれ解決しなければならないものだった。心が疲弊すれば、得られるマナ石の価値は落ちる。オズはアーサーを石にする為に拾い、今もその目的の為にフィガロの元を訪れたのだ。

     診察を終え、子供の付き添いで来ていた母親に薬を渡したフィガロはわざわざ戸口で親子を見送った。後ろ手に扉を閉め、愛想笑いを剥がした顔に分かりやすく『面倒くさい』と書きながらフィガロは尋ねる。

    「で? 何の用?」
    「どうして夢を見る」
    「それはさっき聞いた。続きは?」

     フィガロはオズがわざわざその質問をした背景を知りたいようだった。オズはしばし逡巡した後、渋々口を開いた。

    「アーサーに訊かれた。どうして夢を見るのかと」
    「へえ。それでおまえはなんて答えたの」
    「調べる、と言ったきりだ。本を何冊か読み返した。最近の本も、読んでみたが、納得のいく答えはなかった」
    「はは、最近の本だって。おまえ、今の文字、読めたの」

     茶化すフィガロの周りで、精霊が雷槌の気配を纏い始める。フィガロは肩をすくめると、降参するように両腕を上げた。立ち上がり、大きな本棚の前で本の背表紙に指を滑らせた。
     本棚には医学書を含めた様々な本が並んでいた。子供用の絵本もあり、彼の本棚の中にあった数冊の絵本は、今オズの城にある。

    「記憶の整理とか、願望とか、それなりに説はあるけど」

     引き抜いた本をぱらぱらと魔法でめくって、夢の記述があるページを広げてオズに見せる。オズの求めていた答えは、その中にはない。その程度の知識であればオズも持っていた。眉をひそめてフィガロに視線をぶつけるが、フィガロは悪びれる様子もなくわざと大きな音を立てて本を閉じた。

    「オズ。夢は神域だよ。あの双子でさえ、異なる夢を選んでは見られない。もちろん俺も、自分の夢を制御できたことなんてない。こんな質問をしてくるぐらいだ、おまえもそうなんだろう? まあ、おまえがどんな夢を見るかなんて知らないけど」
    「……」
    「おまえはいつもはっきりしないな。自分の意思を言葉にすることができず、できたとしても間違えてばかりだ。平気で真実とは異なる言葉を口にする。知っていることを知らないと言い、覚えていることを覚えていないと言い、石にするつもりもないくせに、未だに石にすると言う」
    「何が言いたい」
    「それは俺のセリフさ。夢の在り処の先、おまえが本当に聞きたいことはなんだ?」

     銀色の子供を拾った。

     アーサーという名の魔法使いは捨て子だった。中央の国の王子で、魔法使いであることを理由に母親から遠ざけられ、吹雪の夜に死にかけていた。
     石を食べ飽いていたオズでさえ目を引く、幼い体に内包された魔力を自分のものとする為に、城に連れ帰った。魔力が成熟に至るまで、多少の時間をかけるつもりでいた。

     しかしオズの生活は、その小さな子供によってとことん乱されることになった。今では、オズは必要のない食事をとり、パンケーキを焼いては焦がし、子供を生き長らえさせる為にフィガロを頼るようになった。その乱れもいつしか日常となり、アーサーと共に過ごす時間を手放し難く思うようになった頃。
     怖い夢を見るのだと言って、アーサーがオズの寝床に潜り込んでくるようになった。泣き止まないアーサーの涙を止める方法を知らなくて、少なくともひとりで部屋に帰すことではないことだけは分かって、結局一緒に眠るようになった。
     かつて世界中を震撼させ、穏やかな夢さえ許さない夜を何度も落とした世界最強の魔法使いの隣で、アーサーは腫れた目元をそのままに丸くなって眠るのだ。

    「悪夢を見ない方法?」

     フィガロはキョトンと首を傾げた。

    「祝福の魔法でもかけてあげたらいいんじゃないの」
    「……かけている。それでも、悪夢を見るらしい」
    「へえ。おまえが? 祝福の魔法を?」

     揶揄するように細められた目は一度瞼の下に隠れれば常の飄々とした風のような瞳に戻る。本を元の位置に戻しながら、フィガロは何でもないことのように続けた。

    「無駄だよ。さっきも言っただろう。おまえでさえ、夢を見るんだから。魔法使いは夢に手出しできないよ。そりゃあ、祝福の魔法がうまく効くこともあるかもしれないけど、一時しのぎさ。基本的に夢には干渉できないと思った方がいい。たとえばもっと具体的な魔法を使って、眠りの間に無理やり脳にねじこまれたそれは、もはや夢でもなんでもない」

     嵐の灰色が、北の冷たい風を引き連れてオズを見据えた。

     悪夢も知らないおまえに、あの子の闇が救えるものか。

     フィガロの胃の腑の中で、そんな言葉が反響したように見えた。否、それはオズが勝手に作り出した言葉だ。その言葉を唱えたのはフィガロではない。オズを俯瞰する、もう一人のオズだ。
     現実のフィガロは、悪夢の閉ざし方を知らないオズを決してあざ笑ったりはしなかった。ただ、凪いだ海の静けさに、ひとかけらの哀れみを乗せて、尋ねる。

    「ねえ、おまえは今、どんな夢を見てるの」

     遠い昔に、何度かされた問いだ。目覚めるとすぐに夢の内容を忘れてしまうオズは、それに答えられたことがなかった。
     双子やフィガロ、チレッタの夢の話を聞きながら、彼らを自分とは別の生き物のように見ていた。――生まれた時からずっと同じ夢を見続けてきたという双子。美しい氷の湖の夢を見るというフィガロ。大量の酒に囲まれて夢の中でも酔っていたというチレッタ。オズには何もない。目覚めて時間が経ってもなお、誰かに差し出せる夢を持っていなかった。それこそが、強さがもたらしたオズの、オズだけの孤独だった。

     オズは南の国を後にした。一瞬にして、慣れ親しんだ冷たい北の空気が肺を満たした。
     オズのいない間に外に飛び出し、大怪我を負ったことがあるアーサーに、今日は散々言い聞かせてから城を出た。アーサーはオズの言いつけを守って、おとなしく城で時間を過ごしていたらしい。オズの姿を見つけると、つまらなさそうな顔から一変してキラキラと目を輝かせた。
     駆け寄ってくるアーサーに視線を合わせて、頭を撫でてやる。夕食の支度をして、二人で同じものを食べて、風呂に入って、暖炉の前で静かな時間を過ごす。暖炉の火を眺めるオズの視界の端で、真剣な顔で本を読んでいたアーサーが次第に瞼を落とし、船を漕ぐのが合図だ。そっと火を消し、アーサーを彼の部屋まで連れていく。ほんの少し寂しそうにするアーサーの頭をもう一度撫でて、肩までしっかり布団をかけてやる。おやすみ、アーサー。おやすみなさい、おずさま。

     けれど、結局その日もアーサーはオズの部屋の扉を叩いた。<大いなる厄災>が不気味なほどに青白く光る、夜の一番深い時間だ。悪夢にうなされて目を覚まし、安堵とぬくもりを求めて広い城の中を彷徨い、まだあかりのついたこの部屋に辿り着いたのだろう。

     アーサーに悪夢の詳細を尋ねたことはない。それでも時折涙とともに零される、遠い場所にあるはずの愛を求めた言葉で、それがまさしくアーサーにとっての悪夢であることは推測できた。

     けれどできるのは推測だけだ。オズは、夢がなんたるかを、理解していないのかもしれない。それはオズに、夢を覚えようとするだけの、執着がないから。大切にとどめておく為に整理する記憶も、切望する未来もないからだ。だから意味のない夢ばかりを見て、いつも指の間をすり抜けていく。
     そんな自分に何が言えるだろう。悪夢に震える子供に、なんと言ってやれるだろう。何をしてやれるだろう。

    「知らない。私は、何も知らない」
    「オズ様?」

     中々眠りにつけないでいる、青く冴えた瞳が不思議そうにオズを見上げる。

    「おまえがなぜ母を求めるのか。おまえがなぜ父を恋しがるのか。おまえがなぜ、中央の国の方角を眺めるのか。おまえが見る悪夢にどんな意味があるのか。おまえの涙の止め方を、私は知らない。安寧の夜を与える術を、知らない」

     オズは両親を知らない。家族のぬくもりを、兄弟を、涙を。胸をかきむしるような別れも、生涯を約束できるだけの激情も、何も知らなかった。だからオズの見る夢には意味がない。だから忘れてしまう。
     アーサーは何度か瞬きをして、オズの言葉をゆっくりと噛み砕いた後に、小さな手をそろりと布団の中から出した。

    「手を……」
    「手?」
    「手を、握っていてください」

     意味は分からなかったが、言われた通りにアーサーの手を握ってやる。オズのそれより温かい、小さな手。

    「あと、おなかをポンポンしてください」
    「ぽん……? なぜ」

     疑問に思いながらもアーサーの手を離して小さな腹に手をやろうとすれば叱られる。仕方なく肘をついて頭を支えていた方の手でアーサーの手を握り、もう片方で腹をさすってやる。

    「それから……」
    「まだあるのか」
    「子守唄を歌ってほしいです」
    「……子守唄など、知らない」
    「じゃあ一緒に歌って覚えてください。いいですか、いきますよ」
    「興奮して眠れなくなるぞ。子守唄は明日聴く。今日はもう寝なさい」

     アーサーは不満そうにしていたが、一定のリズムで腹を叩いてやるとすぐに眠りに落ちた。

     けれど寝息が穏やかだったのはほんの少しの間で、すぐに悪夢の足音を聞こえてくる。じっとりと、アーサーの額に汗が浮かぶ。眠った体は正常な音を出すことを知らない。くぐもった声が、ただ苦しみの呻きを乗せて喉から漏れる。
     寝る直前の、不安を押し殺したアーサーの笑顔が浮かんで、オズはすぐに後悔した。多少夜ふかしをさせてもいい、アーサーの子守唄を聴いてやればよかった。歌ってあげれば、よかった。それだけでこの子が安らかな眠りにつけるのなら、いくらでも。

     両手で、汗ばんだ小さな手をそっと包み込む。頭のどこかに残っていた旋律。意を決してそれを引っ張り出して、小さく声に乗せてみる。空気を控えめに揺らした音に、夜の精霊がそっと寄ってきて、耳を傾けていた。

     自由を求めて世界を壊していたことがある。これは、焼かれた故郷を背に人間の子供が歌っていた歌だ。あの子供は、あの後どうなったのだろう。
     炎と灰と、悲鳴と滅びを背負っておきながら、何もオズの心を揺らさなかったあの日々の中で、なぜかずっと耳の中に残っていた音。オズが双子やフィガロから教わった言葉や、自然とオズの中に蓄積された言語とは音の響きも文法も異なるため、その歌が何を意味しているのかは分からない。ただ響きだけを真似て、口ずさむ。それは子守唄でもなんでもないのかもしれない。それでもただ、歌い続ける。

     少しずつ、子供の眉間に刻まれた苦痛が、すっと消えていく。呼吸が穏やかになって、強くオズの手を握りしめていた指から力が抜けていく。あどけない子供の丸い頬を見ているうちに、芯まで凍りついていた心の底が綻んだ。

     ――魔法で全てを終わらせることしかできなかった孤高の魔法使いが、魔法もなく、拙い歌とぎこちない手のひらだけで、子供の悪夢を振り払えたのだとしたら。

     ふと、魔法のない自分を想像する。オズの感情に、世界は惑わされない。どんなに喜ばしいことがあっても曇り空はそのままで、どんな絶望があっても空は雪を零さない。こんな風に静かな夜の中で、魔法のない時間を過ごす自分が瞼の裏に浮かぶ。アーサーと共にその日の夕食を作って、体を清めて、歯を磨いて、暖炉の前で本を読んで、こうして眠りにつく、魔法のない夜を。

     それは存外、悪くない生き方なのかもしれない。生まれた時から誰よりも強い魔法と共に生きてきた魔法使いの、それは刹那の夢にも満たない空想だった。

     月が青く輝いている。北の国の冷たい静寂の上を、小さな音が踊っていく。オズはずっと、アーサーの為に歌い続けた。


    第四夜 郷夢


     夢は神域である。それはフィガロの持論だった。

     深い森の奥へ足を踏み入れていく。フィガロの魔力に反応して、瘴気が斑に模様を描き、七色の鉱石が一層光り輝いた。息を飲むような美しさと、小さな女の子が夢見たおとぎの国のような愛らしさを兼ね備えた不思議の森。北の国の一角で毒の胞子を撒き散らすそこは、夢の森と名付けられた死者の森だ。
     フィガロの腕の中で、苦しさに喘いでいた子供の表情が徐々にやわらいでいく。いつしかその口からは笑いが漏れており、毒を吸えば吸うほど、その笑いは幸せをたっぷりと含んだものになった。

     フィガロは森の中心にそびえ立った夢の森の主を見上げた。とっくの昔に死者の想いに取り憑かれ、食い荒らされたその神木にかつての力はなく、より禍々しくなった。
     森の主に背を預けるようにしてフィガロは地面に座り込み、子供を抱え直した。不治の病に侵され、とっくの昔に限界を迎えていた小さな体は引き攣るように笑いをこぼし、幸せな夢におぼれている。
     フィガロはそっと、汗ばんだ子供の額を撫でて、前髪を整えてやった。やせ細った体を抱き締めて、哀れみと祈りを込めながら、ただ夢に願う。

     ――永い時を生きてきた。この世に散らばるありとあらゆる魔法を知り尽くし、それを操る魔力を持つフィガロでさえも、望んだ夢を見ることはできない。どれだけ他人の認識を、感情を、記憶を操作できたとしても、夢だけは操作できなかった。

     だから死にゆく子供に幸せな夢を見せてやることも、フィガロにはできない。夢の森にわざわざ死にかけの子供を連れてきたのは、その為だった。せめて最期が、この子にとって楽しく幸せなものであればいい。それはフィガロの偽善と祈りと、優しさだった。

     か細く響いていた子供の笑い声が、さらに力をなくしていく。やがて、心臓を動かしていることもできなくなって、息が途絶えて、人だったものがただの肉の塊になる。
     毒を過不足なく吸い込めるように、魔法による守護を一切受けていなかった子供の体は、北の国の寒さに食い荒らされて既に冷たくなっていた。死んでも、今更温度に変わりはない。けれど確かに魂のぬくもりがかき消えた。
     硬くなっていく体を抱き締めたまま、フィガロはそこを動かなかった。

     数秒前まで確かに紡がれていた子供の苦しそうな呼吸と、笑い声が、幻聴となってフィガロの耳を焼く。瘴気がフィガロの背に這い寄った。それは徐々に誰かの笑い声に、泣き声に、感謝に、罵倒に変わっていく。目を閉じれば、瞼の裏には夢がある。二千年の夢だ。

     ――おお、なんと可愛そうな子じゃ。どうじゃ、我らと一緒に来ぬか。フィガロ様、私たちにはあなた様が必要なのです。どうか我らをお導きください。偉大なる魔法使い様、どうか命だけはお助けください! フィガロ様、どうしてあなたは魔法使いなのでしょうか。魔法使いでさえなければ、私と同じ時を歩めたのに。よくも裏切ったな! 絶対におまえを許しはしない! 地の果てまで追い詰めてやる! あなたにこの身の全てを捧げます。フィガロ様、あなた様のおかげで今年も我が村は豊作です。俺は✕✕✕・ガルシア。おまえを石にする魔法使いの名だ。このままでは土地が疲弊し、我が国は滅びるでしょう。フィガロ様、どうか知恵をお貸しください。息子をどこにやった! 頭のおかしい魔法使いめ! あの子には何の罪もなかったのに、どうして殺したのですか。殺してきてよ。あなたなら三秒でできるでしょ。フィガロ様、どうか我が娘を妃にお迎えください。フィガロ、どうして私たちの子供のこと、愛してくれないの? 世界を壊せば、煩わしさは消えるか。この国を滅ぼして、隣国を滅ぼして、あなたたちはどこへ行くのです。下賤な魔法使いめ! 覚えていろ。我ら人間は短い命の果てに滅ぶが、その意思は永遠だ。百年、四百年、千年かかっても、おまえたちを皆殺しにする! 殺した。ホワイトは、我が。もういい。もう、何もかもが、煩わしい。世界など手に入れたところで、何になるだろう。フィガロ様、あなたがフィガロ様ですか。世界を良くする為に魔法を教えてほしいのです。裏切り者の魔法使いめ。あれは人に仇なす汚れた種族、魔法使いどもは滅びるべきだ。魔法使いなど、今やただの餌。マナ石を落とす鶏に過ぎんよ。どこにも、いないのです。どれだけ探しても、ファウスト様が。フィガロ様、見てください! この土地、開拓が進めばきっと良い街になります。そうだ、雲の街と、そう名付けましょう。どこまでも自由に空をたゆたう、あの雲のような場所になれるように。予言しよう。フィガロ、私はこの子を絶対に産むわ。フィガロ。フィガロ先生。フィガロ様、フィガロさま。ふぃがろさま。

    「――神さま」

     まるで意識が浮上するように、その声で世界がクリアになっていく。
     一面の雪景色を見渡す。銀色の北の香りが、フィガロの頬を撫でた。水の気配がする。遠い故郷の、湖の香り。

    「神さま、どうしたの? 立ったまま眠っちゃってた?」

     声のする方を見ると、小さな子供がフィガロの服の裾を引っ張り、不安そうな顔でこちらを見上げていた。

    「……そうだね。何だか、とてもとても、永い夢を見ていたような気がするよ」

     フィガロは子供に視線を合わせると、ずびずびと赤い鼻を啜っているその子に、やわらかい熱の魔法をかけてやる。しばらくすると、その子の父親が雪に足を取られながら走ってきて、頭を下げた。

    「申し訳ありません! フィガロ様、うちの子が失礼なことを言っていませんでしたか……?」
    「構わないよ。それよりもその子、風邪気味みたいだから今日は温かいものを食べさせて、早く寝せてやりなさい」
    「風邪……? 本当だ、少し顔が赤い。……フィガロ様、ありがとうございます!」

     子供を抱き上げて何度もフィガロに頭を下げた父親の背を見送ってから、フィガロは村を歩いた。村人はフィガロを見かけるとすぐに笑顔で挨拶をして、時折小さな頼みごとをした。

    「火種を分けてもらってもいいですか?」
    「うん、いいよ。この鍋でいい?」

     人を傷つけない、生命の火を鍋の中に落とし入れてやる。ぼう、と光った小さな炎が、少し傷ついてくすんだ鍋の底を照らした。

    「フィガロ様、実は息子が捻挫してしまいまして」
    「見せてごらん。……ほら、治ったよ」

     癒しの魔法が淡い緑色の光を纏って、赤くなった子供の足首を包んだ。痛みから開放された子供は、元気に雪の中へ走り出す。

     一通りの願いに応えてから、フィガロは人の気配の隙間を縫うようにして、ひとりになれる場所を探した。煩わしかったわけではない。ひとりになりたい瞬間がフィガロにはある。ただそれだけのことだった。

     村の外れの小高い丘から、村を一望できる。村の向こうに広がる湖も、フィガロが生まれた頃から変わらない、透明な生命力を漲らせていた。白銅色の空が僅かな赤みを帯びるまで、フィガロはずっとそこで景色を眺めていた。
     雪を踏む音と共に、慣れ親しんだひとりの魔法使いの気配が近づいてくる。村に住む魔法使いで、よくフィガロの世話を焼きたがる彼のことだ。もうすぐ夕飯の時間だと、フィガロを呼びに来たのかもしれない。

    「北の国の楽園と、そう呼ばれているそうです」

     彼はフィガロのやや後ろに並んで感慨深げに村を見渡した後、そうフィガロに声をかけた。

    「楽園? ここが? 確かに、生きるか死ぬか、なんて殺伐とした村や街に比べればマシだろうけど」
    「ええ。北の国にはミスラやオーエンの縄張りがあり、ブラッドリー率いる死の盗賊団もかなり広く土地を支配しています。極めつけに、北の最果てには魔王、オズがいますから」
    「ほら、あとはあの有名な双子は? 人間や弱い魔法使いを集めて街を作っているらしいじゃないか」
    「そう聞けば聞こえはいいですが、実際はすぐに村を見捨てて住処を変えているそうですよ。この間も、かつて双子が庇護していた村の生き残りが、この村に移住してきました」
    「そうだったの。まあ、北の魔法使いなんて気まぐれで残酷だから」
    「そんな彼らの支配する土地に比べて、ここはなんと優しい場所でしょうか。村の皆が幸せそうに笑っていられるのは、フィガロ様のおかげです。フィガロ様は、他の北の魔法使いたちとは違う」

     振り返ると、魔法使いは信頼の瞳でフィガロを見つめていた。にわかに心臓が騒ぎ出す。

    「北の強さを持ちながら、まるで南の国の魔法使いのように、お優しい」
    「はは。最高の褒め言葉だよ。……そんな風に褒めてもらった後に申し訳ないんだけど」
    「はい?」
    「怒らないで聞いてね」
    「もちろんです」

     フィガロは心から、本当に少しだけ申し訳なく思いながら尋ねた。

    「きみ、なんて名前だっけ」

     魔法使いは驚いた様子も、傷ついた様子も見せなかった。彼は静かに目を伏せる。長いまつげの影が、目の下の薄い皮膚を彩った。

    「いいんですよ。僕程度の魔法使いがあなたとお話できるだけでも、お恐れ多いのですから」
    「本当にごめんね。毎日見ているはずなのに、会話しているはずなのに、俺はきみを、知っているはずなのに」
    「おっしゃる通りです。あなたは僕の名前を知っているはずです」
    「そうだよね。待ってて、今思い出すから」
    「目覚めれば、きっと思い出しますよ」

     緩くウェーブのかかった髪が、北の風に攫われる。紫の瞳が、瞬いた。

    「さようなら。フィガロ様」



    「フィガロ先生!」

     夢を切り裂いて届いた音はまだ少年の幼さを残した、少しだけ怒ったような声だった。急激に意識が覚醒していく感覚が、冷たい北の残滓を振り払う。目を開けると、声から想像した通りの少年が、腰に手を当てて眉を釣り上げているのが見えた。

    「ミチル?」
    「もー! 先生ったら、またお酒を飲みすぎたんでしょう! もう朝ご飯の時間はとっくに終わっちゃいましたよ!」

     のろのろと起き上がって、顔を洗って歯磨きをする間、ミチルはせっせとフィガロのベッドからシーツを剥ぎ取って、洗濯物をするルチルの元へと行ってしまった。
     椅子の背もたれにかけてあった白衣を羽織り、聴診器を首にかければいつもの『フィガロ先生』の出来上がりだ。その時ちょうどミチルが戻ってきた。どうやら二度寝をしていないか心配になって見に来てくれたらしい。

    「いい夢を、見ていたんですか?」
    「……寝言でも、言っていたかな」
    「いえ。ただ、少しだけ、笑っていたように見えたので」

     起こすか迷ったんですけど、そう口ごもるミチルは正しいことをしたはずなのに少しだけ申し訳なさそうだった。だからフィガロは、幸せな夢だったよ、という一言を口の中で小さく呟いた後に、うんと優しく微笑んでやる。

    「起こしてくれて、ありがとう」

     食堂には、寝坊した者も朝食にありつけるように、冷めてもおいしいネロの料理が残されていた。既に夕食の仕込みを始めている料理人の背に礼を言い、ありがたく腹を満たすことにする。
     今日は訓練や任務もなく、フィガロはしばらく時間を持て余した。談話室であれば話し相手がいるかもしれないと思い立つと同時に、双子から声をかけられる。

    「お寝坊さんじゃな」
    「寝坊助め」
    「おはようございます。スノウ様。ホワイト様」
    「恥ずかしげもなくよう言うわ」
    「もう昼じゃよ」

     そう言いながら双子は後を着いてくるので、嫌そうに顔を顰めながら「なんで着いてくるんですか」と問えば途端二人して喚き出す。冷たいだと育て方を間違えただの、散々文句を言う二人を放って、フィガロは進んだ。

    「もう、訊いてくれないんですね」

     いつまで経っても飽きずにフィガロに話しかける双子の言葉を止める為だったのだろう。思わず口をついて出た言葉は、フィガロの予想通り一瞬の沈黙をもたらした。

    「何をじゃ?」
    「今日俺が、どんな夢を見ていたか」

     今度の沈黙には、笑みが混ざっていた。双子はニマニマとだらしなく口の端を緩めて、ふわふわと宙を浮きながらフィガロの前に回り込んだ。

    「なんじゃ。甘えん坊じゃの」
    「どれ、我が聞いてやろ」
    「忘れちゃいましたけどね」

     嘘ではなかった。夢など、そういうものだろう。瞬きひとつのうちに記憶から抜け落ちて、後は霧を掴むようなものだ。

    「俺もよく、オズに訊いていましたよ。興味があったんです。世界最強の魔法使いが、一体どんな夢を見るのか。結局、ちゃんと教えてもらったことはなかったですけど。もしかしたらあいつの言う通り、本当に覚えていなかったのかもな……」

     談話室におしゃべり好きの魔法使いはいないらしい。代わりに扉の向こうから感じるのは、間違いようもない弟弟子の魔力だ。噂をすればなんとやら、というのだろうか。
     音もなく扉を開けると、暖炉の前のソファでうたた寝をしているオズの姿が見えた。

    「お二人はさっき俺の寝坊を散々馬鹿にしてましたけど、こんなところで昼寝を決め込んでいるオズにはなんて言うんです?」
    「呑気なものじゃな」
    「怖い寝顔じゃ」

     確かに、オズの眉間には深い皺が三本も刻まれている。
     そういえば今日はアーサーが魔法舎に来る日だった。まだ姿を見せないが、もしかしたらすぐに会えるように、ここで待っていたのかもしれない。

     フィガロたちの気配に反応してか、オズが身じろいだ。けれど完全に覚醒する気配は見せず、なぜか、唸っている。
     フィガロたちは顔を見合わせた。世界最強の魔法使いがどんな夢を見るのだろうと、ずっと不思議に思っていた三人は、ようやく彼が見ている夢のヒントが得られるかもしれないと思ったのだ。当のオズさえも目覚めれば忘れてしまう、夢の欠片が手に入るかもしれない。そんな期待と共に、フィガロはオズが寝言のひとつでも言おうものなら一言一句聞き逃すまいとその時を待っていた。

     そして、その時は来た。


    「アーサー、靴を履きなさい!」


     押し殺したような声が、子供を叱りつけた。

     驚いて声も出なかったのはほんの数秒で、次に馬鹿らしくなって吹き出して、少しだけ羨ましくなって、むず痒い優しさのようなものが胸を満たした。随分と可愛らしい夢を見ていたなと、フィガロはちゃんと目覚めたオズをからかうことができるだろうか。

     自分の声にびくりと体を震わせたオズは、はっと目を開いて、それから覗き込むフィガロたちに気づくと、気まずそうに目を逸らした。

    「……夢を、見ていた」
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